日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

【決定版】「刑罰」の存在意義を問う③【決定版】

2006年06月26日 15時38分16秒 | 社会と教育
  前回、「負け組」犯罪者には奉仕労働をさせて揚がった利益を被害者に還元せよということを書きましたが、「奉仕労働には問題点が多い」という指摘を頂きました。(神無月様、rx様より)問題提起した人間としては、見過ごすわけに行かないので、問題点をここで明らかにしておきます。

  まず、第一にコストの問題です。

  受刑者の拘束や監獄職員の配置、さらに施設の維持コストを考えると、採算割れする危険すらあるというわけです。っとも、これについては、私企業が安全管理コストの点から忌避している業種(産廃処理や鉱山労働)であれば、採算性を高めることは可能だと考えます。

  しかし、第二の問題は重要です。

  それは、そもそも「負け組」犯罪者には、対価を得ることができるほどの労働力は期待できないのではないか、ということです。
  確かに、現実社会でそれなりの待遇を受けているなら、自己実現代わりに犯罪、などということは起きるわけがありません。正直、この点は「お手上げ」です。
 
  そこで、「負け組」でも売り物になるものはないか・・・と考えました。

  実は、あるのです。

  その一つは、「医療機関や製薬会社向けの治験」です。これは、rx様より頂きました。私の知り合いが大学時代にアルバイトで、とある薬の「実験台」になったことがありました。もちろん、高額の報酬の代わりに、副作用が出ても製薬会社は責任は免れるという条件付きです。
  あまりにも強力な副作用が出るものについては任意でやる必要がありそうですが、対象としての適格性という点では「負け組」でも全く問題はありません。
  
  私がオリジナルで考えたのは、「血液の提供」です。
  輸血用血液は、少子化や若者の献血離れにより、大幅に不足しているそうです。(●こちらを参照)
  1960年代前半までは、「売血」という仕組みがありましたが、肝炎などの伝染が懸念されるため、今では無くなっています。だからといって、任意の血液提供に頼るのももはや限界です。それに、献血を得るための待合室や献血車両などのコストもかかっています。みなさんもご存じと思いますが、献血ルームというのは結構な繁華街にあることが普通です。
  そこで、赤血球の回復サイクルを阻害しない程度(あまり抜きすぎると、赤血球不足で血が黄色くなる。実話)に、受刑者に「売血」させるのです。
  それなら、普通に売血を解禁すればいいじゃないか、という意見もありそうですが、それでは意味がありません。血液の取引をいわば刑事司法の「独占産業」とすることで、奉仕労働以上の利益を上げることができるからです。
  あとは、刑務所の入所時に血液検査をすればいいだけです。まさか、刑務所の食事と生活パターンで、感染症にかかるはずがありません。サッカーW杯のために朝まで起きている私の方がよほど危ない。(笑)

  他にも、究極の方法として「臓器の提供」なども考えましたが、一時的にしか利益を生み出すことができません。そうなると、どうやら奉仕労働(これは、技術や体力のある受刑者に限るしかない)に、売血と治験台という方法を組み合わせて、被害者保護の資金を得させるのがベストなのではないかと思います。
  
  しかし、このような方法は、単体では犯罪抑止力を発揮できません。
  
  上記の方法で被害者保護と、犯罪者への苦痛という要請を満たしたら、さらに「初等教育における犯罪教育」を導入すべきです。
  そもそも、犯罪が起こってしまうのは、「やってはいけない」という意識(規範意識という)が内面化されていないからです。
  この内面化というのは、自発的なものを除けば、二つの方法で行う他はありません。それは、「ショック療法」と「すり込み」です。教育現場では、後者を主に行うことになります。

  このブログだけでなく、ネット上のいろんなところで、日教組などの左翼団体がやっている平和・人権教育というものが紹介されています。実は、これも参考になるのです。
  彼らのやり方は、こんな感じです。まず、授業で「日本には戦争責任がある」とか「アジアの人々に謝罪しなくては行けない」とか「韓国や中国はいい人たちばかりだ」ということを、判で型を押したように何度も何度も口にします(もちろん、内容の生むや事実か否かは問題ではない)。
  これに加えて、「日本軍の蛮行」とか「日帝の過酷な植民地支配」を証明するという写真や映像を見せます(捏造や、無関係なものでもオッケー)。
  さらに、授業形式で、自分の伝えようとしていることを生徒に言わせ、あたかも生徒が自分でものごとを考えたような形式で伝達内容を理解させます(要するに、誘導尋問)。もちろん、これも一度では足りません。ここで、反対する意見を採り上げて叩きのめせば、自分の伝えたいことはより良く理解されるはずです。
  そして、自分にとって都合のいいメディアの記事(たとえば●この雑誌)をそれとなく紹介し、自分の主張が多数派であるかのような印象を抱かせます。これは、別に記事の中身でなくてもいいのです。中吊り広告や、見出しの一行メッセージで十分です。とにかく、活字にして権威を持っているような媒体なら何でも良いのです。 

  どうでしょう。こんなの洗脳じゃないか、と思った方もいるでしょう。

  あえて言いますが、教育というのはそんなものなのです。日教組が上のような方法を採っているのは、それが効果的だということを(おそらく、ソ連などの外国勢力や、その影響を受けた社会主義者などの入れ知恵によって)知っているからでしょう。

  一応述べておきますが、教育に関する日教組の行動がおかしい点は二つあります。、

  まず一つは、教育に不適切なほど彼らの思想が偏向しているという点です。
  国旗への敬意や愛国心の涵養という事柄に関しては思想良心の自由を盾にして職務の履行を拒絶する(というか、サボる)くせに、平和だの人権だのアジアとの友好だのといった自分にとって都合のいい事柄は熱心に取り組むのが日教組です。そんなことはないと言っても無駄です。私は小学5、6年生の担任であった日教組の組合員から、「選挙は社会党に入れろ」と何度も宣伝されていました。ネットで少し検索すれば、そんなネタはぞろぞろ出てきます。     
  私も何度も言っていますが、ご自分の思想を臆面もなく語りたいのなら、私塾を開いて(土日だけでもいい)、そこに来た子どもたちにだけにすればいいのです。公教育には「国民教育」という確固たる性質があり、公務員である公立学校教員はそれに奉仕するのが仕事なのです。職務怠慢はやめてほしいものです。
  
  もう一つの彼らのおかしさは、上のような教育が現実の問題を解決する上で何の役にも立っていないという点です。
  平和運動のおかげで、世界のどこかの武力紛争が解決したでしょうか。それどころか、日本人全体が事なかれの発想に陥り、米軍に防衛を丸投げしてしまう原因になっているではありませんか。日本人が「何もしないのが平和」などと言っているからこそ、沖縄の基地が減らないとも言えます。
  また、人権教育が成果を上げているというなら、どうして「いじめ」が起こるのでしょうか。●日教組出身の参議院議員など、「いじめや不登校が起こるのは、情報化や社会の階層化のせいだ」と自身のホームページで言っています。自分たちの「人権は何よりも大切」というメッセージが、何の効果もないことを自分で認めているわけです。
  外国(なぜか朝鮮や中国ばかり)との友好など、●この中学校のように、敵国のプロパガンダに用いられているのが実情です。
  はっきり言ってしまえば、日教組のやっている教育など、社会主義者の親や日本を転覆させたいと思う外国人以外、誰のニーズも満たしていないのです。

  しかし、これが「犯罪教育」なら、事情は変わってきます。

  まず、教科書を用いて、以下のようなメッセージを繰り返し伝えます。
  「犯罪をやると、自由を奪われ、好きなこともできなくなります。そればかりか、一生被害者の方のために、血液を売ったり新薬の実験台になったりして生きて行かなくてはいけません」
  「犯罪を犯すということは、他人に害を与えるということです。そういう人の自由がなくなったり、血を抜き取られ続ける苦痛があるのは当然です」

  これに加えて、刑法や覚せい剤取締法などの話も簡単にするといいでしょう。その方が、興味づけしやすいからです。
  私が、死刑が不要だといったのは、小学生に対して「殺される」「死ぬ」という単語を頻繁に用いるのが適切ではないからです。残酷と言うより、あまりにも現実離れしていてリアリティがないからです。それよりも、一生自由がないとか、血を抜かれ続けるという方が現実味があります。
  さらに、犯罪被害にあった人がどれだけ辛い思いをしているか、映像や写真で訴えます。運転免許の更新時の講習で、危険運転致死傷罪制定の契機となった●こちらの事件がよく紹介されますが、こんな感じで被害者の方の声を拾うのです。ある意味、ショック療法としての側面もある方法です。こういう事柄の方が、ありもしない「強制連行」や、とても日常茶飯事とは言えない「民族差別」などを訴えるよりも、犯罪を犯すことの重さを伝える方がよほど日本の社会にとってプラスになります。
  これらも、授業の中で発問と応答を交えながら効果的に伝達していくのです。
  「ろろ君は、どう?一生プレステもできない、漫画も読めない、好きな仕事も選べないって言われたら・・・?」
  「そんなの嫌です!」

  こんな感じで十分です。
  最後に、メディアにも頑張ってもらって、犯罪被害者の声を伝えるような企画をやってもらうといいでしょう。●人権や平和を大切にするこちらの新聞なら、きっと喜んでやってくださるでしょう(笑)。
  国会も、国の犯罪教育推進義務を定めた「犯罪被害者保護基本法」を制定して、そういう動きを後押しすべきです。法務省も、どうせ仕事がないなら●こんな法案など作らずに、そういう法案を出すべきです。

  正直、規範を内面化するというのは、これくらい手間のかかることなのです。
  しかし、どうも教育する側の人間は、「それくらい当たり前のことだ」と、規範の内面化に対してあまり労力を注いでこなかったのではないかと思います。つまり、今まで共同体的な結びつきの中で、人と人との関わりを通じて何となく分かってきたことだから、敢えて教える必要はないことだと考えていたのではないか、ということです。
  確かに、小さな村社会であれば、子どもが自然に規範を内面化する機会もあるでしょうが、今のように核家族が普通になってしまい、向こう三軒両隣という関係がなくなった社会で、自然と子どもに規範を教え込む機会はどれだけあるというのでしょう。だからこそ、それを社会の大人全体で、とりわけ学校教育でやらなくてはならないのです。
  そんな仕事をなぜ先生が?などという人は、教員失格です。上に書いたような単純なことを、算数や国語のついでに教えられないなら、能力不足も甚だしいです。まさか、本当に子どもは放っておけばそのうちしていいことと悪いことがわかってくるとでも思っているのでしょうか?

  では、以上のような施策が、予算や技術的な問題で無理だというなら、どうすればいいでしょう。

  手段はひとつしかありません。現行法の枠組み、すなわち死刑制度を維持しつつ、犯罪を抑止するような刑事司法の運用をやっていくことです。
  死刑は、確かに「負け組犯罪」に対しては抑止力が低下しているものの、無期懲役よりははるかに優位です。「リンチの禁止」や「危険分子の除去」についてはまだまだ有効であり、しかも無期懲役よりも維持コストがかからずにすむという利点があります。
  もちろん、冤罪の可能性は、絶対にゼロにすることは出来ません。人間が運営する司法制度ですから、どこかで間違いが起こるのは、もう仕方のないことです。
  しかし、誤認の可能性がゼロにならないから、そんな制度はダメだというのもおかしな理屈です。
  死刑廃止論舎の論理の核心は、何よりもまず「冤罪によって命が奪われた場合に取り返しが付かない。それなら死刑にしない方がましだ」というものです。これをさらに引き延ばすと、「冤罪であなたが死刑にされて締まったら嫌でしょう?」ということにもなります。
  重要なのは、この論理には「誰でも冤罪によって処刑される可能性がある」という前提があることです。確かに、冤罪がゼロでない以上、「可能性」は完全否定できません。
  もっとも、以下のような数字を出したら、みなさんはどう思うでしょうか。
  ●犯罪白書によると、平成16年度の第一審における死刑言い渡し件数は14件です。日本の人口が1億2700万人程度なので、毎年みなさんが死刑になる確率(笑)は0.00000011%になります。
  これに対して、平成16年の交通事故死亡者は7358人ですから、毎年交通事故で死ぬ確率は0.000057%です。
  単純に出した数を比較しただけでも、死刑で死ぬ人間は交通事故死亡者の518分の1しかいないのです。しかも、ここに死刑判決が冤罪であるという要素まで入れると、この割合はもっと少なくなるでしょう。

  要するに、「誤判で死刑になりたくないなら死刑をやめろ」という主張は、「交通事故で死ぬ可能性があるから、屋外に外出するのはやめろ」と言っているよりも馬鹿馬鹿しく極端な論理と言うことです。

  おそらく、●この人のような死刑廃止論者は、「国家は国民を恣意的に殺す悪い奴らだ」という前提があるのでしょう。『原発列島』『人権読本』などという本を岩波書店から出していることから、この予測は間違っていません。
   ●この議員のような国会議員は、選挙民に対するアピールなのでしょう。人間の命は大切だ、その命を粗末にする死刑制度に反対している俺は良心的な議員だ、ということをアピールできるというわけです。それよりも、彼の持論である外国人(というより、在日朝鮮・中国人)参政権を撤回した方がよほど「良心的」だと思うのは私だけでしょうか。
  さらに、たちが悪いのは、●この人のように、死刑廃止論を反体制プロパガンダとして展開している人物です。彼が予備校の授業で「小泉首相はヒトラーだ」「南京で骨が出たんだから虐殺はあったんだ」などと発言していたのは、受験生の間では有名な話です(私も、金を払った講義の中で20分以上従軍慰安婦の話を聞かされた経験がある)。

  我々に求められているのは、冤罪で人が死ぬという確率を極限まで小さくすることです。確率をゼロにすることではありません。そして、一旦その努力を果たしたなら、そこから生じる誤差は受け容れなくてはなりません。
  それが嫌だというなら、私が3回に渡って述べてきたように、犯罪を抑止し、しかも被害者のためにもなるような、正義にかなう別の制度を提案すべきです。
  死刑廃止論者は、せっかくルールを定めたのに、その後で「やっぱりそんなの嫌だ」と言っているのと同じなのです。そういう主張を大々的に展開すること自体が、国家の刑事司法制度の権威を失わせ、国民に権力不信を植え付けていることに気づくべきです。だから、光市の母子殺人の犯人のように、無期懲役にうまく逃げることが出来た、成功だ、と手紙で嘯くような馬鹿が出てくるのです。
  そのような誹謗は当てはまらない、というなら、私のように、どうすれば死刑によらずに、たくさんの人間にルールを守らせることができるのか、きちんと代替案を示すべきです。
  たとえば、無期懲役で済ませればいい、というのは間違いです。無期懲役には仮出獄という信じられないほど「犯罪者にやさしい」制度がくっついているからです(詳しくは、●こちら)こんなものがある以上、「無期」懲役に抑止力などほとんどないと言ってもいいです。彼らは、なぜ、真っ先にこれを廃止しろと言わないのでしょうか。平成17年2月4日に愛知県安城市の大型スーパー内で発生した仮出獄中の受刑者による幼児通り魔殺人事件がありましたが、ひとの命は平等であると主張している死刑廃止論者にとっては、この被害者の命などどうでもいいのでしょうか。
  善人面をしたいというなら、ボランティアで老人ホームに行くなり、障害者の方の町中での移動をお手伝いしたり、もっと他にできることがあるでしょう。一般市民の気持ちを逆なでし、凶悪犯人を利するような主張はやめるべきです。

  自由主義社会が崩壊し始めるのは、ルールを破っても損をしないということが明らかになったときだと私は思います。日本は今その曲がり角に来ています。ルールを破った人間に対して冷たい社会を選ぶのか、自分が犯罪を犯しても楽が出来る「やさしい」社会を選ぶのか、今こそ明確にすべきです。

【この制度は】「刑罰」の存在意義を問う②【使えるよ!】

2006年06月23日 07時27分22秒 | 社会と教育
  光市の母子殺人事件ですが、どうやら最高裁がまともな判断を下したようです。

 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_06062101.htm  

 (以下引用)

山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われ、1、2審で無期懲役の判決を受けた元会社員(25)(犯行時18歳)に対する上告審判決が20日、最高裁第3小法廷であった。

 浜田邦夫裁判長(省略)は、「計画性のなさや少年だったことを理由に死刑を回避した2審判決の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べ、広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻した。(以下略)

 (引用以上)

  機会を改めて筆を執りたいと思いますが、最高裁は今までも日本が国家として体をなさなくなりそうな問題に対して、ギリギリのところで社会を安定させる方向の判断をしてきました。今回の原判決破棄・差し戻しという判断も、社会正義という観点からは至極真っ当なものだと思われます。
  もっとも、犯人が死刑になったからと言って、死んだ親子が戻ってくるわけではありません。

  私が日本の刑事司法についていつも感じていることがあります。それは、「どうも想定している犯人像が古いのではないか」というものです。
  私は以前、●「『負け組犯罪』はなぜ起こる?」という記事で、近年メディアを騒がせているような新種の犯罪は、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している男性、いわゆる「負け組」による犯罪であるという話をしました。今回の元少年も、お世辞にも恵まれた境遇とは言えず、殺害に及んだきっかけは強姦による性欲充足が目的だったので、この定義にあてはまっています。
  このような「負け組犯罪」の一番厄介な点は、彼らの行動が「快楽計算」に基づいていないことです。
  もともとこの「快楽計算」という言葉は、功利主義というイギリスの思想(詳しくは●こちら)の中で用いられるものです。要するに、人間の行動はそれによって得られる快楽が苦痛を上回ったときに行われるということです。
  これを犯罪に当てはめると、「懲役が嫌だから盗みをやらないでおこう」とか、「こいつは邪魔な奴だが、自分が死刑になるよりは生かしておく方がましだ」とかいった風になるのでしょう(宗教的道徳観があったり、極端に高潔な人格の人物はここでは除外して考えてください)。つまり、犯罪をやっても割に合わないからやらないと思わせるために、死刑だとか懲役だとかいう制度があるのです。
  しかし、犯罪に至るような「負け組」は、そういう「快楽計算」をした上で犯行に及んでいるわけではありません。
  そもそも「負け組」犯罪者にとっては、みじめな今の自分のままで生き続けることそのものが苦痛なのです。だから、そこから足したり引いたりという計算をしようという考えがそもそもないのです。
  例えば、悪名高き大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件の宅間守死刑囚は、法廷で「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかった」という発言をしています。複数の児童を殺せばどれだけ損をするか、考えた形跡がまったくありません。こういう人間に、「人を殺すとお前も死ぬぞ!」と威嚇しても、あまり効果がないような気がするのは、私だけでしょうか?
  このような議論は、とみに増え続けている外国人犯罪についても言えます。日本人とは快楽計算の尺度が全く違う連中に、日本と同じ量刑の相場で臨んでも犯行を抑止できません。

  ところで、外国人はさておくとして、「負け組」が一番嫌がることは何でしょう?

  そう、既に答えは出ています。「みじめな今の自分のままで生き続けること」でしたね。
  それでも「負け組」が何とか生きていられるのは、たまに「自己実現もどき」のガス抜きができるというわけです。風俗に行ったり、ギャンブルをやったりして、適当に欲求を発散できるわけです。
  もっと有り体にいえば、犯罪すら、惨めな自分が強者になれる自己実現の一方法になるのかもしれません。例えば、●こういう犯罪者は、自分の理想の成人女性相手に性行為ができないから、性犯罪で「異性と望み通りのセックスが出来る自分」を実現するわけです。

  ここに、「負け組」に犯罪をやらせないための重要なポイントがあります。

  快楽計算のできない「負け組」犯罪者が唯一怖れるのは、ただでさえみじめな自分の人生が、それ以上にみじめになることです。
  彼らは、自分に対して大きな不全感を抱えながら、それでもなお手持ちの時間や財産で「自己実現もどき」を得ようとする傾向があります。もし、それすら奪われてしまってもなお、生きて行かなくてはならないとしたらどうでしょう?

  これを実現させるために私が提案したいのは、以下のような制度です。

  仮に、「奉仕労働」などと名付けておきましょう。懲役と違って、奉仕労働では、きちんと企業の仕事を請け負う形にします。やることは、一般の労働者と変わりません。例えば、建設現場で働いたり、流れ作業のパートを受け持ったりします。ただし、寝泊まりは監獄です(犯罪によっては自宅から通う場合もある)。
  期間は、犯罪の性質や重大さに応じて変わりますが、凶悪犯罪や性犯罪の累犯については、無期限です。これは、「罪の重さ」というより、被害者に対して与えた有形無形の損害という点を根拠にしています。
  企業はこれに対して報酬を支払いますが、企業側のニーズも考えて、最低賃金を20%くらい下回ることを許すべきです。こうすれば、企業は安い労働力を調達できるわけです。
  そして、この報酬は、受刑者にはほとんど還元されません。役所側の諸経費を引いた残りを犯罪被害者に対して支給するのです。こうすれば、夫を失った妻の生活資金や、怪我の治療費にもなります。
  知り合いのカウンセラーの方に聞いたのですが、加害者は刑務所の中で無料でカウンセリングやら宗教指導者による教がいを受けられるのに、被害者はほとんど自腹で精神科に通ったり、カウンセリングを受けているそうです。これではあまりにも不公平だ、とその先生は嘆いていました。他者加害をする人間は大抵恵まれない環境にいるでしょうから、民事裁判で損害賠償を取るのも困難です。
  しかし、そういう金銭面の問題も、「奉仕労働」を導入すれば、かなり解決するわけです。被害者も、溜飲が下がるでしょう。「金じゃなくて心だ」などと意味不明なことを言って何もしないよりは、ずっとましだということは確かです。
  そして、犯罪者にとっても、日常生活には自由がほとんどなく、仕事をやってもやってもお金を吸い上げられてしまうわけです。たまにやるガス抜きすら出来なくなるのです。ひどい言い方をすれば、現代版の奴隷です。「負け組」にとっては、これこそが地獄でしょう。

  この制度の優れているところは(←自分で言うな)、冤罪であったとしても取り返しが付くということです。死刑の弱点を完全にカバーできた上で、終身刑という「至れり尽くせり」に伴う国家予算の負担も減らせるのです。死刑廃止の論拠も、この場合には通用しません。

  要は、現行の制度が対象としているような、近代市民社会が出来立ての頃の素朴な犯罪者(貧困から犯罪が生まれるという理解に基づいている)ではない連中に、いかにして恐怖心を植え付けて「快楽計算」をさせるか、ということです。世の中が変わってきて変な連中が出てきたのですから、刑事司法を支える価値観も刷新すべきです。もう矯正教化を第一目標にするような刑事司法など、ほとんど不要なのです。

  この程度のことでも「人権侵害だ」「個人の尊厳を踏みにじるな」などと訳の分からないことをおっしゃる方には、耳寄りな制度があります。それは「保証人制度」です。
  まず、極度に悪質な犯罪を除いては、保証人が奉仕労働に相当する金額を支払えるという規定を設けます。こうすれば、加害者の負担は軽くなります。
  その上で、保証人には犯罪者の身元を引き受けてもらいます。つまり、加害者が再び何かをやったときは、保証人に対してもペナルティを科すわけです。
  犯罪者の人権を考えているという良心的な方々は、是非ここまでやっていただきたいと思います。本当に加害者の人権を守りたいなら、それなりの責任を負担してもらわないと困ります。個人では無理でも、それこそ「市民団体」(笑)でも作ればいいんじゃありませんか?今はNPOとして法人格も取れるわけです。市民道徳やら良心やらの示し方は、裁判所の前で横断幕を持って待っていることだけではないのです。

  今回は、ここで一旦終了します。次回、もうひとつの重要な施策と、新しい制度を構築できない場合の死刑の位置づけについて述べて、このシリーズは終了ということにいたします。(つづく)

【死刑相当?】「刑罰」の存在意義を問う①【ちょっと待って】

2006年06月19日 01時53分16秒 | 社会と教育
  みなさん、人間の社会にとって一番大切なことは何だと思いますか?

  ・・・人権でしょうか?

  ・・・自由でしょうか?

  ・・・それとも、平和でしょうか?

  どれもそれなりに重要だということは間違いありません。しかし、私の考えは違います。

  それは、「ルールを守ること」です。  

  今の日本の社会を見ていて思うことは、このルールというものの取扱が実にぞんざいなものになってしまっているということです。それは、ルールを破った人間に対する処遇によく現れています。

  たとえば、みなさんは次のような記事を見て、どう思われるでしょう。  

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060615-00000198-kyodo-soci  

(以下引用)

【光市・母子惨殺】 「生きたい。悪人で終わりたくない」 "死刑の可能性"出てきた元少年、語る

・山口県光市の母子殺害事件で、殺人罪などに問われ1、2審で無期懲役(求刑死刑)を
 言い渡された男性被告(25)=事件当時(18)=が20日の最高裁判決を前に「罪は重く
 極刑以外ないが、生きたい。悪人のまま終わりたくない」と話していることが15日、関係者の
 話で分かった。被害者の遺族に謝罪の手紙を書き続けているという。
 上告審では2審判決を変更する際に開かれる弁論があり、最高裁は死刑相当と判断する
 可能性もある。弁護側は「ようやく事実と向き合い、反省している」とし(中略)ている。

(引用以上)

  この事件ではすでに確定している事実があるので、それを簡単に紹介します。

  ・突発的に犯行を思いつき、強姦目的で
   女性を殺害
  ・死体を姦淫した後、側にいた赤ん坊を
   床にたたきつけ殺害を図る 
  ・さらに、生きている赤ん坊を絞殺

  弁解の余地も無いようなひどさです。そして、重要なことは、彼がこのようなルール違反をしたことが明白だということです。そこで、この公判は専ら、量刑の面が争われることになりました。

  こういう事件にも、弁護人というのが付きます。その弁護士というのがまた、少々問題のある方でした。
  ●こちらのブログに、簡潔な論評がありますが、弁護人は死刑廃止運動に従事している有名な弁護士でした。そして、上記事件の被告人の死刑を先延ばしにするためとしか思えないタイミングで、法廷を欠席するという「戦術」を取りました。裁判官が交替するのを狙った引き延ばし策だったと言われています。
 ●なぜか妙に好意的な東京新聞の記事によると、どうやらこの人は大学時代に左翼の活動家だったようです。世論という多数派に抵抗するために死刑廃止運動を推進し、難しい弁護も引き受けていたということです。
  これだから人権や平和などと言っているやつは・・・という一言でおしまいにしては、いわゆるただのネット右翼になってしまいます。それどころか、「司法試験に落ちた腹いせではないか?」と邪推されてしまう(笑)のがオチです。
  そこで、以下では死刑制度、ひいては刑罰制度に対する私の意見を述べてみたいと思います。

  そもそも死刑の存在意義は、三つの側面を持っています。

  一つは、「犯罪に対する一般予防」です。
  つまり、一般人に対して、重い罪を犯せば死刑になるぞ、という威嚇を行い、これによって犯罪をやる気を無くさせるわけです。

  二つ目は、「私刑(リンチ)による報復の予防」です。
  ひどいやつを殺してやりたいからといって、普通の人間が復讐することを認めてしまっては、際限のない復讐合戦になってしまいます。それに、一般人が犯人が誰かを間違えるやすいことは否定できません。だから、国が間に入って、復讐を代行してやろうというわけです。
  
  そして、三つ目は、「危険分子の除去」です。
  刑法学者のほとんどはこの側面を論じていないようですが、生命を奪えば、再び犯罪を犯す確率の高い人間を社会から除去できます。矯正の余地がないほどの重症者に対しては、そういうことも許されるのです。
  
  人間の命は同じように重要なのに、国家が勝手に命を奪ってもいいのか、と言いたくなる人は、日本国憲法の第13条の2文目を見てください。

  「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利
   については、公共の福祉に反しない限り、
   立法その他の国政の上で、最大限の尊重を
   必要とする。 」

  これを裏返せば、「公共の福祉に反」するなら、「生命」に対しても「尊重を必要と」しないということになります。死刑は、憲法上ちゃんと根拠があるのです。

  それでも上の弁護士のような、「人権派」と言われる方々は、死刑制度には反対しているようです。反対者には、●最高裁判事も務めた著名な刑法学者や、●郵政民営化に反対したあの国会議員もいるほどです。
  死刑反対派は、危険分子の除去なら、『終身刑』でもいいではないかという主張をよくします。現行の無期懲役のような、仮出獄(これも考えてみればおかしな制度だが)を認めさえなければ、おかしな人間は社会に戻ってこないからです。
  また、もし冤罪だった場合、とりかえしのつかないことになるという主張もよくされます。つまり、無実の人間が間違って死んだ場合、普通の刑罰のように釈放して補償しておしまいというわけにはいかないということです。
 
  第一の理由は、恩赦などによる釈放があることを考えると、論拠としては弱い気がしますが、第二の理由は、かなりいい線を行っています。おそらく、直情的な死刑肯定派は、これを持ち出された瞬間に言葉に詰まってしまうのではないでしょうか。
  
  私の考えをごく簡単に述べさせてもらいます。
  まず、「現行の」死刑制度は、無期懲役制度も含めて廃止すべきだと考えています。
  そして、それが無理だというなら、死刑は絶対に存続させるべきです。

  その理由は、次回詳しく説明いたします。お楽しみに。

長い夢から醒めた日

2006年06月11日 00時15分50秒 | その他
  先日結果の出た旧司法試験の択一試験の結果を採点してみました。
  実は、今の今まで採点をしていなかったのです。昨年、自己採点が低かったため自分で勝負を諦めてしまい、蓋を開けたら受かっていた、という経験をしたので、今回はもうわき目もふらずに次の試験を目指そうと思っていたのです。

  結果は、昨年と全く同じ点数(43点)でした。

  合格点は42点から46点に上がっています。問題も簡単だというもっぱらの評判です。それなのに、自分は去年から全く進歩していない。去年より明らかにたくさん勉強したのに、その成果が一番でやすい民法で全然点を取れていない。

  私は、あまり司法試験には向いていないのだと実感しました。

  採点をしてみて、去年よりも良い点だったらもう一度考えてみよう、と思っていました。ところが、そんな期待は呆気なくついえてしまったというわけです。


  もうすでにご存じかもしれませんが、私が受けているのは「旧」司法試験です。30000人強が受験して、最終合格するのは500人程度です。合格率は1.6%です。
  
  一方、今年から、法科大学院(いわゆる「ロースクール」)を出た人向けの新しい司法試験が始まっています。そちらの方は、初年度の今年がなんと合格率50%、その後も20~30%が合格する試験です。
  これを私は不公平などと思いません。きっと、何かしら必要があってそうなったのでしょう。ここで批判をしても、どうこうできる次元の話ではありません。
  
  このロースクールというものに、私が行こうと思っても行けない理由が幾つかあります。

  まず、まとまったお金が必要だということです。
  もっとも、これはお金を貯めれば何とかなるでしょうし、試験の結果次第で減免措置などを受けるという手もあります。他に大きな理由は二つあります。

  そのうちの一つは、私が完全に自活しているということです。
  これが意味するのは、ロースクールでやっていくことができないということです。
  本当にロースクールで勉強して卒業したいなら、きちんとした勉強が必要です。予習や復習の量が膨大だからです。しかし、私は仕事をしており、長期休暇の際には一日中仕事をしなくてはいけないので、あまり時間がありません。旧試験ならば、完全に試験勉強だけしていればよかったのですが、ロースクールは授業に必ず出なくては行けない上に、少なくない課題も出されるわけです。身体が二つあっても無理です。
  だからといって、仕事をやめるわけにも行きません。頼れる人間が誰もいない以上、自分で生きて行かなくてはいけません。ロースクールに行っている人が、家賃や食費を全て自分で賄うほどアルバイトをしているなどという話は聞いたことがありません。
  また、夜間の授業は仕事をしている時間なので、私には受講が不可能です。

  しかし、それよりもさらに決定的なことがあります。

  それは、私が大学を中退しているということです。

  私は、卒業まで6単位残して、4年生の時に大学を辞めました。その当時は留学をしようと思っていたのと、どうせ卒業しても留学先の単位互換には代わりがないのに、お金を母に出してもらうのが忍びなかったからです。
  しかし、どういう訳か知りませんが、予備校の誘い文句にのっかって、司法試験など受け始めてしまったわけです。(旧司法試験は、教養課程を修了していれば中退でも受験できる)
  初めの頃は、合格者の数も1000人を超えており、「そのうち受かるだろう」と思っていました。今から思えば、その考えこそが間違いの元だったと思うのですが、2回目で択一試験に受かったこともあり、いい気になっていたのでしょう。
  しかし、ロースクール構想が急ピッチで現実化し、今回の旧試験から合格者が激減することになりました。その前振りとして、合格者の数を1500人まで増やした時期があったのですが、そのどちらも私はふいにしました。

  自分自身を振り返ってみると、こういう条件が揃うと成功しないという法則を地で行っているような気がしてなりません。それが「一貫性がない生き方」「先々どうなるかという想像力の欠如」「自分だけは大丈夫だろうという生ぬるい考え」です。
  大学を中退したというのも、まさにその「失敗の法則」の始まりだったのでしょう。失敗してみないとなかなかわからないものです。

  私がロースクールに行くには、まず大学にもう一度復学し、高い授業料や施設費を払いながら、週1回の授業に出つつ卒業論文を仕上げ、1年間を大学生として過ごし、適性試験という訳の分からない試験を受け、入試対策もしてまた改めてロースクールに入学しないといけないのです。
  ロースクール入試で高得点を取れば多少は違うのでしょうが、いったいいくらお金がかかるのでしょう?
  しかも入った後は、2年間(既習者コースの場合)働きながらロースクールの授業と課題をこなし、さらにその後に新司法試験の勉強までしなくてはならないのです。もちろん、これも単位を落とさずに卒業が出来れば、の話です。
  やってやれないことはない、という考えもできるのでしょうが、私と同じ境遇にない方には、なかなかこういう「異常」なケースは理解できないでしょう。

  上のようなため息の出るような話も含めていろいろ考えた上、今日採点した結果も見て、私は決めました、


  もう、法曹になるのは、やめよう。

  と。

  もちろん、すぐに気持ちが切り替わるとは、単純に思えません。
  しかし、次には300人(場合によってはもっと少なくなる)しか合格しない試験に、今回合格点をかなり下回る点しか取れなかった私が、受かるとは思えません。
  私がなりたいかどうかは問題ではないのです。試験をやる側が、あなたのように片手間で勉強しているような人間はいらないよ、と言っているのです。それならば、それにどこまでもすがりつく必要はないはずです。

  はっきり言いますが、5年に渡ってやってきた司法試験のための勉強は、「無駄」そのものです。
  どこかで生きるはずだと私を慰めてくれる方もいますが、私はそうだと思っていません。司法試験は、国の研修所に入って修行するための基礎的素養を見ているに過ぎません。その素養すらなかった人間の法律知識など、一体なんの役に立つというのでしょう。
  だから、結局私は、報われない片想いを5年間続けてきたようなものなのです。

  しかし、私は司法試験を恨もうとは思っていません。

  試験勉強をしている間、私は「自分はこれからどうなるのだろう」という不安を持たずに済みました。試験に受かれば、そんな悩みなど持つ必要がなくなるからです。受かりさえすれば、全てがチャラになるのだと信じていました。試験に受かればという想いが、自分を支えてきました。
  そういう想いは、たとえ受験勉強の障害になるからと、付き合っていた女性に別れてもらってからも変わりませんでした。
  勉強しているときは辛かったです。2年前くらいから仕事が多くなってきていて、だんだん体力や頭の回転もよくなくなっていると実感し始めていました。しかし、それでも辞めようとは思いませんでした。そうやって目標に向かっているときは、とにかく充実だけはしていたのです。
  検事として悪人を法廷に送り込んだり、弁護士として法知識のない市民のために働ける自分を思い描くのは楽しかったです。そういう自分になれるなら、今みじめな思いをしてもいい、異性と付き合えなくても、ゴールデンウィークにどこにも行けなくてもいいのだと思いました。たとえ一生独り身であったとしても、誇りをもって仕事をしていけるならそれでいいとさえ思っていました。

  いろんな悩みは、全て小さな煩いでしかなかったのです。試験に受かりさえすれば。
  そんな夢遊病のような状態が本当に幸福だったのかはわかりません。しかし、そうすることで、少なくとも自分がとるに足らない人間ではないのだと思うことはできました。ここのブログに書いたような自分の知識や考えも、「あるべき自分」になったその日のために意味があるものなのだと思うことができました。

  いつまでも結婚できない女性が結構います。理由を聞いてみると、理想とする男性と巡り会えない、チャンスがないという返事が返ってくる事が多い。
  また、30を超えても定職に就かず、留学したり資格予備校に通ったりしている人もたくさんいます。理由を聞いてみると、「自分のやりたい仕事につけない」という人が多い。
  
  そういう人を半分馬鹿にしていた自分ですが、今ではそういった理由の真の意味が、頭で考えなくても身体で分かります。

  ずっと「あるべき自分」にこだわってきたのに、今ここでこだわりを捨ててしまえば、今までの自分や思い描いてきた自己像を全て否定することになる。それが怖い、嫌だ、ということなのです。

  自分が試験の勉強をしていたのも、勉強している間は「尊敬される職業に就いて社会的に評価される自分」という、あるべき自己像を描き続けることができるからだったのかも知れません。それが全てではありませんが、大きな要素であることは間違いないと思います。
  ブログでは我欲の充足による自己実現を否定すべきだ、と主張している私ですが、自分自身がその見本のような生き方をしていたのです。

  また、「何かに向かっている自分」というアイデンティティを持つことで、簡単に自分の人生にに意味を与えることができるという側面もあるでしょう。誰だって、自分の将来が不安定で、真っ暗だなどとは信じたくないからです。
  いつまでも結婚できない女性は、理想的な男性と結ばれさえすれば、自分の人生が好転すると信じているに違いありません。何の為やら分からない留学や資格取得も、それに従事しているうちは、先のことを考える必要がありません。


  何も事情を知らない通りすがりの人間に、コメント欄で「日々死んだ知恵を延々つめ込む作業競争を手伝っている」不毛な職業などとなじられるような(笑)商売です。やはり、塾の先生に対する社会一般の評価は低いのでしょう。
  だから、正直なところ、ずっと塾講師の仕事をしていたいとは思えません。

  そうだからといって、何かほかにやりたいことがあるのか、私にはまだわかりません。

  しかし、夢ならばいつかは醒めなければいけないのです。そうした上で、人生の本当に厳しい側面に目を向けなくてはなりません。

  自分は、膨大な知識に基づく法解釈や、ミス無く素早く仕事をこなす法曹(裁判官や検事などは信じられないほど多忙)には向いていなかった。ただそれだけです。
  それでも、法曹になれた自分という夢を見るのは楽しかったです。法律学や司法試験そのものに対して、感謝したい気持ちでいっぱいです。

  
  今ワープロを打っているすぐ後ろには、本棚があります。
  まずはその本棚から、「法」と名前の付いている本を処分することから始めなければいけません。
  それらの本たちがいなくなれば、きっと本棚はがらんどうになるのでしょう。ちょうど、法曹への夢を諦めた私の心のように。

  いつの日か、本棚が、一生を捧げるに値する素晴らしいテーマに関する本で埋め尽くされるように、歩き始めたいと思います。


  さようなら、司法試験!!