日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

国旗・国歌を否定する「画期的」判決に対する反論

2006年09月27日 14時17分01秒 | 憲法の話題
  ※以下の小話はフィクションです。(笑)

  私は常々「受験というのは若者に丸暗記を強制し、創造性を殺す」ということで、入試制度には疑問を抱いていました。こうして塾の講師をやっていますが、それは「子どもが好き」なのと、時間に余裕のある仕事がそれしかないからなのです。
  そんな私は、塾で決められたカリキュラムの授業をやりながら、生徒たちの前で繰り返し「勉強なんて大事じゃない」「人生の価値は入った学校で決まるもんじゃない」と、自分の考えを述べています。
  ところが、どうやらある日、生徒から私の発言を聞かされた保護者が、塾長さんにクレームの電話を入れてきました。それも、一人ではなく複数です。塾長さんは私に、妙な発言はしないようにと釘を差しますが、私は頑として聞きません。
  とうとう、会社の人事責任者がやってきて、私をそのクラスの授業から外すと言ってきました。それに対して、私がした反論は、

 「受験に向けて生徒を洗脳するのは、
  ボクの思想・良心の自由に反します。
  苦痛を感じたので、慰謝料をください」  

  みなさん、私の言っていることは、常識的に見てオッケーですか?
  
  許されるはずがありませんよね。ところが、公立学校の教師だと、これと大して変わらない主張をしても、支援者がわんさか付いて、あまつさえ裁判で勝利してしまうようです。

国旗国歌の強制は違憲~東京地裁判決 都の教職員処分禁じる(中日新聞)
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060922/mng_____sya_____000.shtml

(以下引用)

  東京都立高校などの教職員ら401人が都と都教委を相手取り、入学・卒業式で日の丸掲揚と君が代斉唱に従う義務がないことの確認と、都教委による懲戒処分の禁止を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「国歌斉唱などを強制するのは憲法が定めた思想・良心の自由を侵害する違法行為。都教委の通達や指導は、行政の教育への不当介入の排除を定めた教育基本法に違反する」と述べ、原告側全面勝訴の判決を言い渡した。  

(引用以上)

  「この左翼教師め!!」と叫びたい人がいるのはわかりますが、それほど熱くなる必要はありません。 今回の判決は「地方裁判所の判決」であり、裁判官が先例として参考にすべき「判例」でも何でもないのです。
  司法権は馬鹿ではありません。これまでの裁判例を見ても、「良心的」な「市民」の方々が喝采するような「画期的」判決は、最終的には最高裁で常識的な結論に落ち着いています。例を挙げると、在日米軍が憲法第9条に触れると判断した「砂川事件」も、学力テストを暴力で妨害した日教組教員を正当行為として無罪にした「旭川学力テスト事件」も、郵便局のポスターに労働組合員が社会党のポスターを貼るのを処分するのは憲法違反だとした「猿払事件」も、全て下級裁判所の判断が覆されているのです。
  そうなると、今回の判決も高裁、または最高裁で覆されるのはほぼ確実でしょう。

  こういう最高裁の態度を「権力寄りだ」と批判する人がいますが、それは司法権というものをわかっていない証拠です。
  仮に、裁判所が違憲判決を出しまくったとします。法律は、国民の代表が集まる国会でいろんな手続を経て成立しているのに、それを国民の利害や政党政治の駆け引きと無縁の立場にいる裁判官がダメ出ししたら、選挙や議決などやる意味がなくなってしまいます。だからこそ、国会は「唯一の立法機関」(憲法41条)とされているわけです。
  しかも、裁判官はそもそも国民に選ばれた人間ではないわけで、司法権の側がその気になれば、特定の思想を持った人間だけで裁判官を固めて、それに反するような国の法律を全て違憲にしてしまえるのです。
  こういった点を踏まえれば、最高裁がなるべく法律を違憲にしたがらないというのは、三権分立の観点からは当然だといえます。(司法消極主義という)それを批判する人は、議会政治を否定しているのと大差はないわけです。

  もっとも、だからといって、上告審の判断が出るまで、●こういう方とそのお仲間たちがデカイ面をするのが気にくわないという方もいらっしゃるでしょう。そこで、今回は、上に挙げた東京地裁の判決とは異なる「常識的な考え」というのは何か述べておきたいと思います。

  このブログをご覧になっている方であればすぐ気が付くでしょうが、私は日の丸・君が代を学校で教えることは賛成です。それゆえ、今回の判決にも納得がいかない一人です。
  しかし、だからといって「国旗を敬い、国歌を斉唱するのは国民として当然だ」という論理だけで押し切ろうとは思っていません。そういう考えは私も良い考えだと思うのですが、結局「良心的な」方々と平行線を辿るだけに終わってしまうからです。だから、結局水掛け論で終わってしまう。
  また、国旗・国歌の強制とやらに反対してくる人間が、憲法上の権利をもちだしている以上、いくら馬鹿げた考えとは言え、その点をきちんと反論できないといけません。
  ネット右翼と言われる方が、正義感からこの事件の教師や裁判官をなじる気持ちはわかりますが、もう少し冷静になって、きちんとした論拠を示さないと、この問題に関心のあまりない人々に納得してもらうのは難しいと思います。

  では、私の考えを述べていく前に、今回の地裁判決をおさらいしてみましょう。前文は●こちらのリンクに判決の要旨があります。
  「要旨」のくせに細かすぎるんだよ!!・・・とお思いの方のために、少しこの判決の論理についてまとめてみたいと思います。
  

「国旗に向かって起立したり、国歌を伴奏したりするのは、良心の自由を密接に結びついた外部的行為であり、それらは保護されるべきものである。日の丸・君が代は軍国主義を想起させるものであり、価値中立であるとは言い難いから、それに対して起立したり、伴奏をしたりするのは、思想良心の自由の侵害に当たりうる。
  もっとも、このような外部的行為は、他人の人権等との衝突を避けるために、必要最小限の制約に服する。教育指導要領は法規としての性質を持つが、その内容が一方的な一定の理論や理念を教え込むようなものである場合は、教育基本法10条における「不当な支配」にあたる。上のような行為を強制するのは、「不当な支配」と言うべきであり、これの拒否を理由とした処分は違法だ」


  司法試験に5回落ちて、受験生ですらない私(笑)が言うのも何ですが、この判決の重要な点はズバリ言うと、「国旗に起立・礼をしたり、国歌の伴奏するのを強制したら、思想良心の自由を侵害する」という部分と、「一方的に一定の考えを教え込むようなやり方は、教育として相応しくない」という部分です。

  一つ目のポイントに付いて言うと、東京地裁は上に挙げたような行為を「思想と密接に結びついた行為」であると判断し、それを強制してはいけないという論理を展開しているということです。
  しかし、仕事をしている大人の視点から見れば「なんか変だ」と思わざるをえません。
  別に「教師は国旗・国歌を尊敬しろ」などと言う必要はありません。国旗や国歌を尊敬していなくても、あからさまに否定するような態度を採らなければ良いだけの話です。私も、受験制度に必ずしも全面的に賛成してはいませんが、受験を否定しません。だってそうでしょう?そういう仕事なんですから。
  教員の仕事に国旗や国歌について教えるなんていう項目はない!!という人は、勉強不足です。文部省令である学習指導要領は、「国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮する」ことを明記しています。(●こちらを参照)指導要領に法的拘束力があるのは、この判決も認めています。
  地裁判決は、積極的な妨害でなければいいんだ、というようなことを述べていますが、教員の立場というものをわかっていません。卒業式などの場で、国旗に向かって起立・礼をしないのを、生徒が見たらどう思うでしょうか?
  もっとも、上の指導要領は平成10年に成立しているので、それ以前からいる教員は「そんなのは後から作った決まりだ」と言うかもしれませんが、それも反論になっていません。誰も、教員個人に思想を強制してはいません。心の中など覗けるわけがないのですから、国旗国歌を尊重するフリをしていればいいだけの話です。行動と思想が一致していないと生きている気がしないという、学生運動家のようなピュアな方(笑)は、教員などやめればいいのです。生活のためにやめられないなら、仕事に対して文句を言ってはいけません。
  純主観的な思想に反する行為をやらなくてもいいんだ、としたら、世の中の職業の大半は成り立ちません。その最たるものが、警察官、検事や裁判官です。
  「俺は自由競争を肯定している。騙される奴が悪いから、詐欺師を逮捕しない」という警官がいたらどう思いますか?凶器準備集合罪で逮捕された学生運動家を「俺も安田講堂には胸が熱くなった」などとマスコミに公言して不起訴にする検事がいたら、即刻懲戒処分でしょうね。それに、裁判官が「被告人は無期懲役。人格矯正は困難だが、私が死刑に反対だから」などと言っている裁判官がいたら、きっと裁判希望者が殺到してしまうことでしょう。(笑)
  国歌の伴奏はまあ代わりがいるからいいとして、イベントの場で、君が代斉唱のとき座っていたり、 国旗に向かって起立・礼をしない教員の姿を、生徒が見たら同思うでしょうね?「尊重する態度を育てるよう配慮」するどころか、教育効果がマイナスです。
  どうも、こういう運動を行っている人々や、それを支援している人々は、教員というのは、何か特別な職業であると勘違いしている人が多いように思います。「聖職者」(近頃は「生殖者」と言うべきか)という言葉がありましたが、雇い主や上司の意向は無視して、崇高な理念を教えてやろうというような、思想・良心の自由を振りかざすところに、驕り高ぶった考えがにじんでいると思うのは私だけでしょうか。
  公立学校の教員は公務員であり、それ以前に社会人です。地方公務員法32条には「職務上の命令」が定められているのですから、東京都の通達はきちんと履行すべきなのです。上司の命令を聞かないで、現場に勝手に振るまうのが正義だと思っているとしたら、仕事というものをナメているということです。

  では、二つ目の「一方的に一定の考えを教え込むようなやり方は、教育として相応しくない」という点についてはどうでしょうか。
  はっきり言いましょう。この主張は、一見まともなことを言っているようですが、完璧に間違っています。
  試しに、「教育」という語を、辞書で引いてみてください。大辞林という辞書には、

 「他人に対して、意図的な働きかけを行うことで、
  その人間を望ましい方向へ変化させること。」

  と、定義されています。そうだとすると、教育には何らかの「意図」が必要なわけです。つまり、教育には一定の指向をもって「強制」する側面が必ず存在するのです。それがないなら、教育とは言えません。
  では、公立学校でやっている教育の意図とは何なのか、この点を曖昧にしてきたことこそが、この判決に象徴されるような馬鹿げた事態を生んでいる元凶だと言っても過言ではありません。
  公教育はまず「国民教育」です。そうだとすれば、国家が、自国民にこうであってほしいという価値判断を伴うのが当然です。国旗や国歌に対して否定的な人間を育てたいと思う国家は存在しません。そうでなければ、国旗や国歌を持つ意味がありません。日教組が大好きな北朝鮮にも、ちゃんと国旗や国家が存在します。(国歌は●こちら
  日の丸や君が代は軍国主義に染まっている歌だからダメだ、というのなら、そもそもどうして国旗・国歌法というものが制定されたのでしょうか。単純です。日の丸や君が代を否定する勢力が支持されていないから、多数派を取れないというだけです。それは取りも直さず、日の丸や君が代に対して、普通の国民がイデオロギー的な拒否反応を示していないことの現れです。
  だいいち、民主党も社民党も共産党も、その場しのぎで政権批判をしているだけで、国旗や国歌の問題をマニフェストに載せて選挙の争点になどしていません。彼らや日教組は「国民的議論」という言葉が好きですが、選挙の度に年金だのイラクだの憲法9条だの、猫の目のように争点を変えている野党ばかりで、「国民」は一体どうやって国旗・国歌について判断すればいいんでしょうね?
  国民教育が嫌なら、別に公立学校に無理をして通わなくてもいいのでは、と思います。私立に行くには金が・・・というなら、別に不登校ということで、フリースクールに通えばいいだけです。なぜ共産党や日教組の有志が、ボランティアで経営する私学校を作ってそこで自分たちのやりたいような教育を実践しないんですかね?運営資金は、それこそ「良心的な人々」のカンパで賄えばいいのです。生徒がいないなら、まず日教組教員が自分の子どもを通わせればいいだけです。それとも何ですか?「死んだ知識」や、学歴が無いと不安なんですか?(笑)
   また、「一方的な理念の伝達」が許されないとしたら、論理的には、「人権尊重」だとか「男女平等」だとか、「民主主義」だとかいった、日本で現在反論がほとんど許されないような「理念」を教えることも、教育としてNGということになってしまうでしょう。「人権や平等は正当、君が代は不当」というのでしょうが、何が不当で何が正当かなどというのは、それこそ「思想・良心の自由」の問題です。
  たとえば、公民の時間に民主主義や人権の歴史について教えていて、ある生徒が「先生、僕はヴァンデで30万人を虐殺し、ナポレオンという独裁者を生んだフランス革命に起源を持つ『平等』思想は間違っていると思います。」と言われたらどうするのでしょうか。そんなことはない、平等というのは真っ当な考えだと説得するのではありませんか。対話という作業こそありますが、「一方的に教え込んでいる」のは確かです。
  まあ、日教組の教員の方は個性を尊重するのが大好きですから、きっとそういう発言もさぞかし真摯に対応してくれるに違いありませんが。(皮肉です)
  上に挙げた議論を「なんと些末な」とお思いでしょう。しかし、「一方的な理念の伝達」を否定すれば、そういうことになるのです。「君が代反対」と「民主主義反対」とは、価値判断を抜きにすれば、論理的に全く差がありません。(注:筆者は別に民主主義や人権の「価値」を否定しているわけではない)

  では、とりあえず何を教えていくかといえば、やはり国会で決まった法律に従っていくしかないでしょう。ただし、教育が重要な問題である以上、政治の場で争点にすることは必要です。文部科学省の官僚が勝手に切り盛りしていいというものではありません。
  そういう意味では、教育基本法の改正は急務でしょう。このブログでも何度か主張している「利他精神の涵養」や、国民教育の正当性を明記することが必要です。「愛国心」も入れておいていいと思うのですが、連立与党を構成している某政党が激しく反対するのは目に見えているので、今回はこだわる必要はないかもしれません。(そんな政党と、安倍晋三首相のような保守主義者が連立しているのがよくわからないのだが)
  今回の判決で都の処分を違法とした根拠になっている「不当な支配」という文言(同法10条)も、「以下に述べるような」という感じで、例示列挙くらいはしておくべきです。そうでないと、いかなる関与が不当なのか、全て裁判官の胸先三寸で決まってしまいます。
  安倍新首相は教育改革に並々ならぬ熱意を持っているようです。教育担当の首相補佐官に、このブログでも名前を挙げた山谷えり子氏を任命したのも、その現れでしょう。文部科学大臣の伊吹文明氏も、人権擁護法案や女系天皇容認といった、在日外国人団体や社民党が賛成している政策に全て反対している人物です。
  いろいろ良くない噂(大抵は中傷だが)もある安倍首相ですが、是非とも今回の判決に象徴されるような「ふぬけた公教育」を、まともな方向に向けてほしいものです。

  次回は、燃料電池の話題の最終回です。ご期待ください。

新憲法の前文には、「海洋国家」の文言を!(その3)

2006年03月18日 00時50分57秒 | 憲法の話題
  ここまでの話で、もはや明白になった事実があります。それは、

  「日本は、シーパワーである」

  ということです。

  シーパワーとは、海軍国のことです。「海上貿易無しでは成り立たない国」と言ってもいいかもしれません。
  シーパワーが本当に守らなくてはならないものは、たったひとつしかありません。「海の平和」です。これさえ守れれば、あとはランドパワーとことごとく逆の仕組みを取ればいいのです。
  ランドパワーの逆、というのは、なるべくコストの低い方法で国を運営するということです。権限を中央に集中させない、地方を自立させる、規制はなるべく少なくする、まんべんなく予算を配分するのではなく得意なものに特化する、力ではなく技術や情報を大事にする、もっとも大きな無駄といえる戦争をする前に敵を封じ込める・・・といったところでしょうか。

  しかも、日本は、シーパワーになるために、ものすごく便利なシステムを持っています。それは、繰り返しになりますが、「皇室制度」です。
  皇室が最高の権威になり、権力に正統性を与えるという仕組みは、動乱や権力交替があった後、スムーズに国内を安定させるのに役に立ちます。明治時代に薩摩や長州が「官軍」でなかったら、東日本の人々が素直に新政府に従ったでしょうか?占領下で国民が自信を失い、共産党や日教組といったランドパワーの手先が跋扈していた戦後に、国がバラバラにならずにすんだのは、昭和天皇陛下をはじめとする皇室のおかげではないでしょうか?
  皇室のご存在は、シーパワー日本が全体主義によることなく国民統合を果たすための大きな原動力なのです。
  
  ここで、日本をシーパワーとして育てていくための具体的な提言をしておきます。

★憲法前文に、「海洋国家である我が日本は」という文言を入れる
  繰り返しになりますが、憲法の英語訳constitutionには「気質」「構成」という意味もあるのです。前文に「海洋国家」とあれば、日教組や全教の教員も日本はシーパワーだと教えざるを得ません。(笑)

★自衛隊をシーパワー流の軍隊に変える
  まず、陸上自衛隊を「日本防衛」と、災害・テロ・難民流入などの「非常事態」に特化した部隊にすることです(イメージは、スイスの自衛隊)。憲法に書くのは難しいかもしれませんが、自衛隊法に「陸上自衛隊は、災害救助と復興支援の目的以外に海外に派遣することはできない」とでも入れておけば十分です。
  その上で、海上自衛隊と海上保安庁の予算を大幅に増額します。●このニュースのように、軍事機密の入ったパソコンが私物というのでは話になりません。シーレーンを失えば日本はおしまいなのです。どんなにお金をかけてもかけすぎではありません。

★日米同盟は続ける
  思いやり予算などと言わずに、何兆円でも米軍の駐留経費として負担すべきです。アメリカ軍がいれば、ユーラシア東部のランドパワーも日本に手出しが出来ません。沖縄に基地が集中しすぎているというなら、沖縄以外の過疎化している離島に基地を作ればいいのです。
  もちろん、日本の法律を守れとか、日米地位協定を改定しろ、と米軍側に要求するのとは別問題です。こういうところで受け身になってはいけません。日米安保条約は、対等な条約なのですから、日本からもどんどんアメリカに要求はすべきです。
  朝日新聞や「ニュース23」のイラク戦争報道を見て、「アメリカは悪の帝国だ」と思って(思わされて)いる人は、少し冷静になってみてください。

★シーパワーと仲良くする
  シーパワーの国とは、対等な貿易や理性的な対話が出来る上、戦争というリスクがほとんどないという利点があります。具体例を挙げると、台湾、インドネシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスなどがそうでしょう。特に、資源の面で相互補完性の高いオーストラリア、インドネシアは、軍事同盟を結んでもいいと思えるほどです。もちろん、太平洋という地域に限って言えば、アメリカも重要なパートナーであることは変わりありません。
  これらの諸国とは、経済だけでなく、安全保障の面でもパートナーになってもらいたいものです。
  幸い、時代はそういう方向へ着実に向かっているようです。現政権の外交方針は大筋で間違っていません。

  ●3月17日の産経新聞朝刊より

(以下引用)

 中国軍拡に日米豪結束 あす初の閣僚級戦略対話

  麻生太郎外相は十七日からオーストラリアを訪問し、十八日にシドニーで開かれる日米豪三カ国による初の閣僚級戦略対話に臨む。急激な軍拡を続ける中国が大きなテーマとなるのは確実で、三カ国外相が中国問題で意見交換する。中国脅威論が国際社会に広がる中、三カ国が結束して中国に対応していくことを明確に示す節目の会談となる。
 (中略)
 日米関係筋は日米豪に英国を加えた四カ国を「海洋同盟」と指摘し、今回の戦略対話について「『海洋同盟』が、軍事力を背景に覇権をうかがう『大陸帝国』の中国、さらに海洋戦略に乗り出した中国にどう対処するかを決めていく上で今回の戦略対話は重要な一歩になる」としている。
 
(引用以上)

★ランドパワーは極力無視する。相手にしない。
  国際法違反を承知で日本の領土を不法占拠する「たかり国家」や、日本人65万人を強制連行し、6万人を死なせた「元祖全体主義国家」や、国ぐるみで外国人を誘拐している「極悪テロ国家」や、国土の90%で砂漠化が進行中で、いつ崩壊してもおかしくない「国ごとチェルノブイリ原発国家」とは、きっぱり手を切るべきでしょう。
  これら大陸の国の内部に権益(現地工場や駐在員も含む)を持っても、海の向こうの日本にはそれらを十分に守ることができません。無理にやろうとすると、中国戦線のように周辺国との対立を招き、泥沼にはまってしまうのです。
  そういう意味では、「(東)アジア」という概念を強調するのも考え物です。肌の色が同じと言っても、ランドパワーとシーパワーは、目指すべきものが全く違うのです。関わり合いにならない、もしくは、最小限の関係で済ませるというのが、お互いのためでもあります。
  逆に、ランドパワーとの「友好」や「善隣」は、日本を泥沼に引きずり込むための罠だと思った方がいいでしょう。それにも関わらず、向こうの手引きに乗る「裏切り者」が多すぎます。例えば、下記の「元官房長官」とやらがそれに当たるでしょう。

 ●朝日ドットコムより

(以下引用)

  韓国訪問中の福田康夫元官房長官は17日、ソウルで開かれた日韓・韓日協力委員会の合同総会で講演し、「アジア共同体構想」について「主導的役割をどこがとるかは難しいが、少なくとも日本、韓国、中国の連携は必要だ」と述べ、3国間の関係改善が不可欠だとの考えを強調した。アジア外交の立て直しで積極的な発言をし始めた福田氏の動きは、今秋の自民党総裁選に向けて党内の駆け引きに微妙な影響を与えそうだ。
 
(引用以上)

  また、中国や韓国を嫌いだと言って叩くのも、やりすぎは危険です。「中国韓国とは仲良くしなければいけない」的な戦後民主主義教育の洗脳の反動が来ているのは理解できますが、その程度の感情を国策の中心に置いてはいけません。日本はもっと世界全体の流れに関与して行くべきです。
  日中戦争のきっかけは、中国に進出していた日本人駐在員たちを狙った国民党による虐殺事件が相次ぎ、「暴支膺懲すべし」という世論が高まってしまったことにあります。それもこれも、日本が中国の権益に深入りしすぎた、つまり、ランドパワーになってしまったからです。
  同じように、度を超した嫌中韓感情は、「精神のランドパワー化」を招きます。「中国から日本企業を撤退させる」「朝鮮とは一切関わらない」という世論の喚起こそ必要なのです。
  そういった国々の食品の危険性や、反日デモ・暴動も、ランドパワーと断交するチャンスと捉えるべきです。

★なにより、変えてはいけないものを知る
  日本が日本であるという確固とした証をもて、ということです。
  簡単です。基本的に共産党、社民党や日教組が叩いているものを守ればいいのです。たとえば「皇室制度」「神道」「集団主義」「協調性」などがそうです。
  上に挙げた馬鹿共は、要するに日本をランドパワーの属国にしたいだけなのです。金輪際、その主張を認めてはいけません。

  これから来る「改憲」の時代、憲法の前文に、日本が目指すべき国家像が描かれることを願っています。

★参考★

日本の敗因―歴史は勝つために学ぶ

講談社

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地政学―アメリカの世界戦略地図

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●世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略
 江田島孔明氏が発行するメルマガのバックナンバー集です。
 http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/
 ※Vol.93に、拙ブログが紹介されております。

新憲法の前文には、「海洋国家」の文言を!(その2)

2006年03月15日 22時49分22秒 | 憲法の話題
  今回は、大東亜戦争(太平洋戦争)を通じて、我が国の「海洋国家」であるという気質(constitution)を考えてみたいと思います。
 
  私は、大東亜戦争(太平洋戦争)について、以下のような考え方を持っています。

  まず、①戦争に当たって、普通の国民や兵士たちが最大限の努力をしたことは、絶対に否定してはいけないということです。
  どうも戦後の教育を受けた人たちの中には、日本の兵士たちは外国で残虐な行為「ばかり」していたという印象が根付いてしまっています。
  しかし、それが真実なら●このサイトにあるような、各国要人のような言葉が発せられるはずはありません。ここだけではありません。「大東亜戦争」と「東南アジア」「インド」「ポーランド」といった言葉を組み合わせてグーグルで検索すると、さらに多くの日本に対する肯定的な評価を見ることができます。日教組や全教の教員は、インターネットを使えないほどのIT音痴なのか、彼ら風に言えば「過去を直視することをためらう」人間なのでしょう。
  ここでは、戦争に付き物の抵抗勢力の粛清や、ゲリラ・便衣兵の処刑などの虐殺が全くなかったなどと言うつもりはありません。そういった行為は、他の欧米諸国もしているのです。それなのに、我が国の教育者たちは戦前の人々を悪鬼のごとく忌み嫌い、その有害な価値観を子どもに押しつけています。まるで、ランドパワーの権力交替に伴う「易姓革命」のようです。

  また、②戦前の日本の教育や文化や伝統が戦争を生んだのではないということも忘れてはなりません。
  例えば、教育勅語があったから戦争が起こったとか、皇室制度があったから日本は軍国主義になったという、論理性のかけらもない発言をする馬鹿がよくいますが、教育勅語や皇室制度自体には、戦争を生む危険は全くありません。
  教育勅語の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という部分が全体主義だというなら、スイス政府が全国民に配っている●『民間防衛』は全体主義120%です。緊急事態になっても国家に奉仕しないで、国よりも人権を守れとか、平和が大切だから有事法制など作るなとか言っている方が異常です。
  また、昭和天皇陛下が「戦争しろ」などとおっしゃったことは全くありません。天皇の統帥権を盾に軍隊が暴走したのは、憲法の欠陥の問題であって、天皇が戦争を推進したということにはつながりません。
  百歩譲って、教育勅語や天皇陛下の御存在が軍国主義を「助長した面があった」として、原因は後述するように他にあるのです。そういうことをまともに考えようともせず、「教育勅語は軍国主義的だ」「天皇は戦争犯罪人だ」などと言っている人は、戦前の日本を否定して自分だけは善人面をしたい確信犯か、よほど頭が悪いのか、義務教育時代に日教組教員に洗脳されたか、どれかでしょう。どちらにしても、かわいそうな人です。

  しかし、これらの問題と、③「するべき戦争だったかどうか」というのは、全く別の問題です。
  あの戦争ははっきり言って失敗でした。なぜなら、陸軍が大陸進出を企図し、それをマスコミと財閥が扇動してしまったことで、日本が「ランドパワー化」してしまったからです。(ランドパワーの定義については、●「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略」をご覧ください)
  特に満州事変後の日本が「ランドパワー化」したのは、以下の特徴からでもわかります。

★全体主義的風潮になった
  ランドパワーは、陸上を主戦場にするため、死者が大量に出ます。自分の親兄弟が死んだら、戦争はまずいと思うようになるのは人情です。そういう国民の声が大きくならないようにするためには、「戦争は善だ」「文句を言う奴は非国民だ」という風潮を作ってしまえばいい、いや、作るしかないのです。
  例えば、戦争や軍隊が嫌いで嫌いで仕方がない某新聞が、虚偽報道をしてまで戦争を煽っていたというのは、非常に興味深いです(証拠は●こちら)。

★陸軍が膨張した
  ランドパワー(ロシア・中国・北朝鮮など)の特徴は、陸軍の人員が極端に多いことです。防衛戦を前方に展開することで、内陸の権益や自国の安全保障を図るためです。  戦前の日本も、上のようなランドパワー的習性を備えていたという証拠があります。「関東軍」の存在です。
  関東軍というのは、もともとは、日露戦争で獲得した旅順や、そこから伸びる南満州鉄道といった権益の保護のために駐屯していた陸軍の部隊です。それが、最終的には中央からほとんど独立して活動し、最大78万人の兵力を有する第軍団に成長しました。
  この関東軍がソ連を仮想敵として、北進を企てていたのは重要です。ランドパワー特有の「国境線を中心地域から遠ざける」習性から説明できるからです。
  「五族共和」を謳った満州国を建国し、これを基盤に「世界最終戦争」をもくろんだ石原莞爾の着想はユニークだったとは思います。しかし、大陸に利権を持ち、それを守ろうとすれば、自然とランドパワー化が進んでしまうのです。日本の気質(constitution)にあったやり方とは言い難いです。

★官僚主導の中央集権国家になった
  もっとも大きいランドパワー化の特徴はこれでしょう。
  4000年の歴史を誇るランドパワー(笑)中国は、科挙を実施していたことからもわかるように、国を支えているのは貴族ではなく官僚です。
  これは、官僚制が優れているからではありません。ランドパワーは、そうせざるしかえないのです。
  なぜなら、中央政府に次ぐ有力貴族というものが、そもそも存在し得ないからです。ランドパワーは、常に国内に反抗勢力を抱える宿命にあります。しかし、その勢力を自立させれば、敵国と結びついてしまう危険があります。だから、反抗勢力を徹底的に弾圧するのです。(逆に言えば、敵国内の反体制勢力を使って、敵国を潰すのを常套手段にしている)
  そうなると、国内に、中央政府(皇帝)を支える人材がいなくなります。それを補充するのが、科挙だったというわけです。まあ、それすらもいずれ群雄割拠に陥るのが中国の歴史なのですが・・・。
  明治時代の日本は、たしかに今日のような地方自治はなかったものの、財政の面では地方がほとんど中央政府から自立していました。補助金も交付金も存在せず、地方税の税率も自分で勝手に決めていました。また、税目自体も間接税や外形標準課税が中心でした。
  国が予算を牛耳る体制になったのは、戦争真っ直中の1940年です。所得税・法人税といった直接国税中心の体制を作り、一度中央に集めたお金を、補助金や交付税の形で地方に再分配するという形にし、地方債の起債も、大蔵省が認めた「起債計画」によってなされるようになったのです。(野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社より)このシステムは、現代に至るまで、基本的に変わっていません。

  全てを中央の統制の下に置こう、というのは、ランドパワーの発想です。日本を牛耳っていた陸軍と、「革新官僚」と言われた人々の利害が結びついて、ランドパワー型の国家体制が実現したと言えるのかも知れません。 
  しかし、日本の特徴である、シーレーンがなければ国として成り立たないという「弱点」を全く忘れてしまってはいけません。これこそが、悲劇の始まりだったといえるでしょう。
  日本敗戦の最大の要因になったのは、サイパン陥落だと言われています。なぜなら、ここから米軍の爆撃機が九州以東の本土を空襲できるからです。それにも関わらず、日本軍には当時サイパンを死守しようとした形跡がありません。米軍がサイパンに来ることを海軍は想定すらしていませんでした。サイパンを拠点として東シナ海を制圧し、東京を空爆できるというのに!!です。
  結果的に、サイパンが落ちて、東シナ海のシーレーンは完全に米軍の手に落ちてしまいました。南方戦線と本土の間の輸送船は、大戦末期になるとほとんどアメリカ軍の潜水艦に撃沈されてしまいました。東京大空襲も、原爆投下も、全てサイパンを発したB29によるものでした。
  このサイパンに対する鈍感さと比較すると、大陸での陸軍の作戦は、度を超した情熱ぶりでした。サイパン陥落と同年(1944年)の大陸打通作戦、インパール作戦、どちらも大失敗です。中国大陸での敵対ランドパワー、国民党を潰そうという日本軍の戦略が、完全にランドパワー化していたことが、ここにもよく現れています。
  資源を求めて南方に権益を確保しながら、シーレーンを守るというところに発想が行かない。ランドパワーになってしまった日本軍は、日本にとって何を守るべきかという戦略を失ってしまったのです。
  どうせ軍国主義になるなら、海軍をもっと増強し、零戦を量産し、パイロットを大量に育成すればよかったのです。そうすれば、シーレーンを守ることができたはずです。日本はアメリカとの戦争で、485機ものB29を撃墜しています。朝鮮戦争中の中国と北朝鮮を合計しても、40機しか落としていません(対日戦線投入から敗戦までは2年間、朝鮮戦争は4年間ということを考慮に入れれば実力の差はさらに大きくなる)。日本の戦闘機はめちゃくちゃ強かったのです。あの戦争中に陸軍の予算を半分に削り、零戦と航空母艦に全てを賭けていれば、あの戦争はどうなったのか分かりません。
  確かに、縦割りの官僚機構は、とかく自分たちの予算を既得権益として手放したがらないものです。3月になると、夜間の道路でやたらと片側通行が増えると思いませんか?ああやって当該年度分を消化しないと、翌年度から予算を削られてしまうからだそうです。官僚というのはそういうものなのです。
  そんな役人たちに「改革」を促すには、明確なビジョンが必要です。「そんなのできません。なぜなら・・・」と言われて、前言を撤回するような人は、リーダーとして不的確です。
  そういうとき、リーダーを支えるのは、その国の気質(constitution)に対する深い理解なのではないでしょうか。全ての政策の出発点は、constitutionであるといっても過言ではありません。なにしろ、私たちは生まれた国を捨てることはできないのですから。
  昭和の軍人・政治家たちには、「我が国が海洋国家である」という視点がかけていました。だから、社会基盤がゼロに等しい朝鮮半島や、周りが敵だらけの満州の権益に固執してしまったのです。
  朝鮮併合後の日本は、毎年国費の約20%を朝鮮半島近代化につぎこんでいました。また、毛沢東が「満州さえあれば国民党と戦える」と言ってのけたほど、満州の開発に投資していました。不況の余り東北地方で「身売り」があった時期さえも、そういう「ランドパワー権益」にはお金を出し続けました。
  日本人が「アジアの隣人」とやらに対してお人好しなのは、今も昔も同じというわけです。これを「美談」にしてしまうと、今度は朝鮮半島統一後にババを引かされる可能性が高いということに気づけません。

  今度こそは、ランドパワーのやり方は日本には合わない、日本を守れないということを、多くの日本人が自覚しなければいけないのです。

  次回では、私が「海洋国家」という言葉に託した、日本のあるべき姿について述べてみたいと思います。(つづく)


★参考★

1940年体制―「さらば戦時経済」

東洋経済新報社

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新憲法の前文には、「海洋国家」の文言を!!(その1)

2006年03月14日 01時40分37秒 | 憲法の話題
  昨年の衆議院選挙で、自由民主党が大勝したことで、憲法改正論議が一気に盛り上がってきました。
  もともと、自民党というのは、自主憲法の制定のために、1955年に保守政党が合同したのが結党のきっかけです。そうだとすると、やっと本来の目的を思いだしたということもできそうです。

  憲法というと、猫も杓子も第9条というような状況があります。確かに、これも大切な条文であることには違いありません。しかし、すでに自衛隊が存在している以上、これを憲法が追認するという以上の意味はないでしょう。

  そもそも、英語でいう「憲法」に当たる、constitutionという単語には、「構成」や「体質」という意味もあります。つまり、法規範であると同時に、その国がどんな国かという特徴を表しているものだということでもあります。

  では、その国がどんな国か、もっともよく表現されているのはどこか??

  それは、前文です。

  我が国の憲法にも、前文はあります(原文は●こちら)。しかし、これが日本という国がどんな国か、的確に表現しているとは、私には到底思えません。
  特に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とか、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という、いかにも日教組が好きそうな部分部分は、まるでリアリティが感じられません。世界に突如出現した完全無欠の理想国家の建国宣言とでも言えばいいのでしょうか。
  もっとひどいのは、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という部分です。他国から見たら完全に「余計なお世話」でしょう。
  このように、我が憲法の前文を見ても、日本という国がどんな国か全くわかりません。こういう憲法を、宗教の教義のように頑迷に信じている人たちが、「平和憲法を守って滅ぶ国が一つぐらいあってもいい」(森永卓郎・経済アナリスト)とか「戦争の準備をすると戦争が来る」(土井たか子・前社会民主党党首)などと、日本という国などどうでもいいという態度を採るのも無理はありません。
  
  では、前文にどんな言葉を入れれば、日本の憲法としてふさわしいか?

  私は、部分的ではありますが、明確な答えを一つ持っています。それは、


  「海洋国家である我が日本は」


  という文言を入れることです。

  なにそれ?魚をよく食べるってこと?  

  ・・・まあそれも外れではありませんが、もう少し深い意味があります。それは、我が国の生存は、海にかかっているといっても過言ではないということです。

  よく、日本は技術立国だとか言われますが、その基盤が「海」だということはあまり自覚されていません。

  例えば、レアメタル(希少金属)を例にとってみましょう。

●レアメタルの海外依存度

(以下引用)

■日本の全輸入量に占める国別割合(元素の右は、主な用途)

ニッケル(Ni)
メッキ、各種合金

インドネシア(44%) オーストラリア(12%) ニューカレドニア(10%)
フィリピン(9%) ロシア(4%)
 上位5カ国計 79%

クロム(Cr)
メッキ、ステンレスの原料

南アフリカ(57%) カザフスタン(18%) インド(8%)
ジンバブエ(7%) 中国(5%)上位5カ国計 95%

マンガン(Mn)
電池の陽極、マンガン合金

南アフリカ(44%) 中国(26%) オーストラリア(22%)
ガーナ(3%) インド(2%) 上位5カ国計97%

コバルト(Co)
医療用(コバルト線照射)、コバルト合金(ジェットエンジンなど)

フィンランド(23%) オーストラリア(19%) カナダ(13%)
ベルギー(13%) ザンビア(10%) 上位5カ国計78%

タングステン(W)
電球のフィラメント、タングステン鋼

中国(79%) ロシア(9%) 韓国(3%)
ポルトガル(2%) アメリカ(2%) 上位5カ国 95%

モリブデン(Mo)
自動車用薄板、航空機用特殊複合材、脱硫触媒など

チリ(31%) 中国(28%) メキシコ(15%)
カナダ(9%) アメリカ(6%) 上位5カ国計89%

バナジウム(V)
合金として被覆材、耐熱材に

南アフリカ(68%) 中国(20%) アメリカ(2%)
オーストラリア(2%) 台湾(2%) 上位5カ国計94%

【出典】日本貿易月表

※各鉱種輸入量は、様々な形態・品目で輸入されているため、
 純分に推定換算して合計量を算出しています。

(引用以上)

  こうやって見てみると、ハイテク工業製品のほとんどに使われているのがよくわかります。こういったレアメタルがなければ、我が国の技術も生かしようがありません。
  
  ここが、日本の弱点なのです。何も、レアメタルに限った話ではありません。技術は素晴らしいが、資源はない。これは、戦前から全く変わっていません。我が国の技術を生かすためには、資源を海外から調達しなくてはいけないのです。特に、工業原料として用いられる金属は、そのほとんど全てが船を使った海外からの輸送です。
  このような日本という国の「弱点」は、おそらく変わることはないでしょう。なぜなら、我々は鉱物資源に乏しく、海に囲まれたこの日本という土地に住み続けなくてはならないからです。

  日本には、広い土地など必要ありません。どんなに狭い土地でも、そこに住んでいる日本人が、物にいくらでも付加価値を付けて、外国に売ることが出来るからです。
  逆に、海の安全、つまり、シーレーン(海上輸送路)の確保は、国が全力を挙げて取り組まなければならない課題です。日本の繁栄は、海上輸送が滞り無く行われることが大前提となっています。
  教科書にもこういうことをきちんと書いて、子どもたちに徹底的に「海は日本の生命線」と教えるべきです。なぜなら、これから一人前の国民になる子どもたちも、「何を守ればよいのか」という目標を共有しておくべきだからです。
  ●扶桑社の「新しい教科書」は、我が国で日教組のようなランドパワーに加担する勢力が吹聴する「自虐史観」を覆す点で画期的なものでした。
  しかし、「新しい教科書」を巡る論争が、どうも「あの戦争は悪だったか善だったか」という点だけを巡って行われている(あるいは、意図的にそこだけに矮小化されている)のは、首を傾げざるをえません。日本は今後、どんな国として歩むべきか、そういう考えがすっぽり抜け落ちているからです
  実は、「海洋国家である我が日本」という視点を見失ったために、日本は以前大失敗したことがあります。大東亜戦争(太平洋戦争)がそれです。

  次回は、異論は多数あるかと存じますが、大東亜戦争を題材にして、日本がいかにしてアイデンティティーを見失ったかという問題を論じたいと思います。(つづく)

【皇室典範改正問題②】皇室を否定して喜ぶ奴は誰だ!?

2006年02月15日 22時38分40秒 | 憲法の話題
  前回の続きです。

  ジャーナリストである●櫻井よし子さんのブログに、こんなくだりがありました。

(以下引用)

百地章日大教授が語った。「皇室廃止を主張してきた人々が今回の報告書を支持しているのです。そのひとり、東大名誉教授の奥平康弘氏は、女系天皇は天皇制の正統性の根拠である萬世一系のイデオロギーを内側から浸食すると、“評価”しています。女系天皇はこのような皇室廃絶論者たちに悪用されていくことでしょう」

(引用以上)  

  ちなみに、この奥平という憲法学者は●9条の会、という団体の中核メンバーです。
  どうも、「進歩的」な学者の方や、インテリ層には、「天皇制」を否定したがっている連中が多いようです。 
  こういう人々が主張してくることは、だいたい想像が付きます。「皇室を養うのは税金の無駄である」というものか、「皇室制度そのものが、生まれによる差別であり、憲法違反である」というものです。

  皇室制度が生まれによる差別であろうと、金がかかるものであろうと、皇室制度はなくすべきではありません。それは、皇室があることによって、日本では世界に類を見ない効率の良い社会システムを作り上げているからです。
  その核心は、権威と権力が別れることにより、政権交代や動乱後の秩序回復のコストが低くて済むという点に尽きます。
  特に武士の世の中になって以来、日本は国を崩壊させるような内戦を経験していません。(南北朝時代は例外だが、それも長期間、北朝の力が優勢だった)それは、天皇以外は最高の権威を持つことができなかったからです。武士のトップは征夷大将軍であり、あくまで朝廷に幕府の開設を許可されているに過ぎません。これによって、権力の頂点にいる人間に、心理的な「ふた」をすることができます。要するに、「何をやっても許される」という心理状態にならず、権力の暴走が起こりにくくなるわけです。
  また、もし変事があっても、天皇を頂点とした身分秩序をすぐに整えることが出来ます。明治維新などが良い例でしょう。もし薩摩や長州が「官軍」でなかったら、その権力には正統性が無く、相手がいつまで経ってもあきらめずに、泥沼の内戦が続いていたのかもしれません。

  こういう話をすると、すぐに「日本の社会は、決まり切った秩序ばかりを追い求めて、個人の意見や自由な発想は排斥されてしまう!」などと、もっともらしいことをいう「進歩的な人たち」がいます。
  この理解は、根本的に誤っています。日本の社会は、秩序や連帯を主とし、個人の主体性を従とするだけで、決して個人が否定された社会ではなかったのです。
  それを証拠に、身分や家柄が今よりもずっとうるさかった時代に、現代とは比べものにならない優れた個人が活躍しています。平安時代の紫式部、戦国時代の武将たちや、安土桃山時代の宮本武蔵(剣術家・思想家)、江戸時代の関孝和(数学者)、明治時代の野口英世(医学者)は、個性がなかったのでしょうか?彼らより偉大な人間が、「自由で平等で豊かな」現代の日本にいたら、教えてほしいものです。
  まさか、牢屋の中にいる●この人なんて言う人は・・・日教組なら言いそうだな。(笑)

  逆に、個人の主体性を主にすると、社会が安定しません。個人を主にすると言うよりも、「権威の存在しない、平等な」社会といってもいいかもしれません。
  ●「平等など不要だ!」という記事でも紹介しましたが、国王の権威を極めて短期間で完全否定したフランス革命は、その後社会の動乱を招き、反対派の虐殺を招いています。その後、フランスがイギリスの後塵を拝してしまった原因は、ここにあります。ブルボン王朝の権威が否定された結果、国内で無駄な権力闘争ばかりして、隣接する外国勢力の干渉を招いてしまったからです。
  このような非常に効率の悪い社会制度を採っているのが、「ランドパワー」の国だけであるというのは、覚えておいて損はありません。

  以前に●ロシアのことを扱った記事で出てきましたが、「ランドパワー」というのは、地政学の用語で、陸軍国のことをいいます。
  ランドパワーの歴史は、殺し合いの歴史です。
  古代から近世にかけての中国を例に取ってみるとわかりやすいです。国が変わると王族や官僚を虐殺、反対派の粛清で虐殺、不満を爆発させた農民や義賊を虐殺、最後には自分が反乱軍に虐殺されてしまうのです。それというのも、中国には「易姓革命」といって、天に選ばれた人間なら誰でも最高の権威になれるという思想があるからです。もちろん、実際に天から神様が降りてくるわけではありません。力で権力を奪った者が権威になるのです。
  ソ連の強制収容所や、ナチスドイツの「ホロコースト」も、同じような理屈で理解できるでしょう。こういう国は、革命で権威を抹殺してしまったので、絶えず人と人とが闘争する状態になってしまったのです。
  彼らがそうなってしまったのは、結局ランドパワーの国の場合は、隣接する国から干渉を受けやすく、国内が分裂しやすいからです。だから、力で反抗する勢力を抑えるしかありません。それが行きすぎて、伝統的権威の全否定につながってしまったわけです。フランス革命も、そういう文脈で理解することができるかもしれません。
  ランドパワー流のやり方は、社会を運営するのにコスト(金・軍事力・人命)がかかりすぎます。日本のような狭い国で、絶対に真似すべきではありません。
  だからこそ、我々の祖先は、「権威」は天皇に「権力」は幕府や時の政府に、別々にしておいたのです。もし、外国の勢力が権力の分裂を図っても、次に権力の座に着いた人間が、天皇という権威から地位を授かることにより、簡単に正統性を維持できるのです。
  便利な仕組みだと思いませんか?

  それにも関わらず「人類皆平等だ!だから、天皇制は廃止だ!」と言う人がいるとしたら、それはもはや、「ランドパワー」による侵略行為と考えるべきです。
  だいたいの場合、ランドパワーの敵はランドパワーです。ランドパワーは陸づたいに他国と隣接しているので、どうしても異民族や敵対勢力をその内側に抱えやすい傾向にあります。だから、ランドパワーの国を滅ぼすには、相手を内部崩壊させるのが一番簡単なのです。
  たとえば、ある国で「自由」や「平等」を過度に強調するような運動をすれば、同質性が強く団結している集団に、反乱分子を生じさせることが出来ます。だいたい政府というのは国民に義務や負担や秩序を課したがるものです。だから、「自由」や「平等」を煽れば煽るほど、「反政府勢力」が増えるわけです。
  本人たちはわかっていないかもしれませんが、日教組のような反体制を売り物にする団体は、典型的なランドパワー(昔はソ連、今は中国・北朝鮮)の工作員の役割を果たしているわけです。日教組や全教に代表される労働組合が、ソ連や中国共産党を批判しているところを見たことがあるでしょうか?
  「人類解放」や「男女の完全平等」を謳い文句にしている共産主義の国が、なぜかランドパワーの国に多いことは、決して偶然ではありません。いや、ランドパワーだからこそ、共産主義を採用したという方が正しいでしょう。資本主義・自由主義の国の弱点は、「弱者救済」「個人間の格差」「対外進出による相手国との摩擦」です。そこに共産主義を宣伝すれば、敵国の中に簡単に反体制派を作り上げることができるからです。

  もうおわかりでしょう。天皇を最高の権威としている日本の社会を崩壊させたいと思っている勢力(ランドパワーとその手先)が、「女系天皇」と、それに続く「天皇制廃止」を狙っているのです。
  積極的に関与しているかどうかは分かりませんが、中国は明らかに「女系天皇」を歓迎しています。  
  証拠はあります。中国の国営通信社・新華社の記事がそれです。新華社は自社のウェブサイトに、(●こちらのブログを参照)「強烈に皇室典範と人権擁護法の制定に反対している」日本の右翼勢力を批判する記事を載せています。これを反対解釈すれば、中国は皇室典範の改正に好意的だということでしょう。
  それに、政府のやることに全て反対している日本共産党が、皇室典範改正だけは諸手をあげて賛成しているだけで、おかしいと思いませんか?共産党はかつて、コミンテルン(要するにソ連)の指示で天皇暗殺を計画していた政党です。

  中国や共産党と結論が一致・・・「今国会で改正だ!」と叫んでいた小泉首相は何を考えているのでしょう?

  天皇や皇室が嫌いでも、男系天皇維持に賛成すべきです。愛子様に子供が産まれなければ、自動的に皇室はその歴史を閉じます。もしお子さまが出来ても、神武天皇の皇統から外れてしまい、「天皇制」を否定する勢力に大きなアドバンテージを与えることになります。
  女系天皇容認の「暴論」は、人権擁護法案や靖国神社の問題、教科諸問題などと同様、ランドパワーによる「攻撃」だということを、しっかり認識すべきです。  

  最後に、言いっぱなしにならないように「代案」を出しておきましょう。
  
  皇室典範を改正するなら、せめて「男系の『子』」にすべきです。愛子内親王は、父を辿っていくと神武天皇までさかのぼれるます。だから、愛子様が天皇になられても、「男系」は維持できているのです。
  それとともに、皇室基本法を定めて、旧宮家の復活、養子制度など、安定的に皇室制度を維持していくための方針を作るべきです。
  また、前回の話で私が述べたような、皇室の「すごさ」「ユニークさ」を、子どもや普通の人々(インターネットを使わない人たち)にもきちんとわかってもらうことに、もっと予算や人を割くべきです。
  予算が足りないと言うのなら、人の金でマッサージチェアを買っている社会保険庁や、6年間50兆円かけてどんな成果があったかいまだに見えない内閣府男女共同参画局など潰してしまえばいいのです。
  「今は王室を賛美している時代ではない」という人は、●映画の上映前に「国王賛歌」を流しているタイ王国に行って、「おまえたちは反動保守だ!」とタイ人に文句を付けてみてほしいものです。むしろ自国の王室を賛美しない方が異常です。

  くれぐれも、安易に女系を許して、日本を侵略しようと(させようと)している勢力に付け入る隙を与えないことです。「有識者会議」や、小泉首相周辺、さらには、ランドパワーと手を組んでいる民主党や社民党などの動きには注意をすべきです。
  逆に言えば、男系維持を続けることで、日本は古代からの秩序を基調とした国柄を守ることができます。この記事を読んだ方も、ぜひ、身近な方から皇室(神武天皇王朝)の存在するメリットを伝えていくようにしてほしいです。

【皇室典範改正問題①】皇室に男女平等など不要だ!!

2006年02月12日 21時59分40秒 | 憲法の話題
  皇室典範を改正しようという動きが、最近高まってきたようです。
  これ、実はかなり重要な話です。
  どうやら、今国会への改正案提出は見送られそうですが、そういう時こそこの問題を考えるべき時と思い、2回にわたって皇室典範改正問題を扱います。
  
  ズバリ、言い切ってしまうと、皇室典範改正問題は、「女系天皇を認めるか、男系天皇を維持するか」ということだけが論点です。

  その是非について論じる前に、我が憲法で「象徴」(1条)とされている天皇と、その母体である皇室というものについて簡単に触れておきましょう。

  私は、子どもに、日本という国が出来たのは、いつか、という質問をされて、困ったときがあります。中学時代、業者テストで社会の偏差値がずっと70台だった私ですが、考えてみると、学校でそんなことを教えられていないのです。
  しかし、どうやら、我が国が統一政権を作るきっかけになったのは、「大和朝廷」の誕生にあるようです。その初代の王が、「神武天皇」と言われる人物です。
  神武天皇が実在したかどうかはわからない、と、夢のない日教組の教員が突っ込んできそうですが、天皇や皇室というものが、我が国の建国当初から存在してきたということを、昔の人たちが信じていたことは間違いありません。

  実は、この皇室には、一つの「鉄の掟」が存在します。それは、男系による皇位相続です。
  男系というのは、父から息子へ、その息子へと、男性に家を継がせるという仕組みです。これは逆に言うと、一家の主の父親だけを辿っていくと、必ず一族の祖先にたどり着くということでもあります。

  そして、なんと、日本の皇室は、誕生以来このルールを一度も曲げていないのです!!

  失礼を承知で言いますが、これは世界遺産と言ってもいいくらい貴重なことです。神武天皇から数えれば、2600年以上(実在性が認められている応神天皇から見ても約1800年)男系というルールに基づいて一つの家が継続しているのです。
  今の天皇陛下の中には、聖徳太子だとか中大兄皇子だとか、教科書でしか名前を知らないような人物の時代から続く血が流れているわけです。30歳近くになって初めてこれを知って、私は正直感動しました。(笑)
  すごい!と思っているのは、私だけではありません。外国の方々も揃って皇室のすごさを認めています。以下のようなエピソードでも、それがわかります。

 ●アメリカの大統領が、空港まで白ネクタイ
  で出迎える


  世界最強(最凶?)の権力者、アメリカ合衆国大統領が、上のようなスタイルで「ぺこぺこ」しなくてはならないのは、世界でたった3人だけです。ローマ法王、イギリス国王、そして、日本の天皇陛下です。

 ●英国の女王が上座を譲った

  イギリスの現在の王朝はウィンザー朝(ウィンザー家の王朝ということ)で、改称前のハノーヴァー朝時代から数えると、292年間続いています。イギリスの女王は、今でもイギリス連邦(カナダ、オーストラリアなど、旧英国領)の元首ですが、それの人物が上座を譲る、つまり、自分より上だと認める王侯貴族は、日本の天皇だけです。

 ●ローマ法王がわざわざ皇居まで出向いてきた

  ローマ法王は泣く子も黙るキリスト教(カトリック)の世界のボスです。その法王、ヨハネ・パウロ2世が、慣例を破って、自らその国のトップのところに赴いたのは、日本を訪問したときだけです。
  
  非常に乱暴な言い方をしてしまえば、世界で最も権威のある一家が皇室なのです。
  その理由は、非常に単純です。皇室が、信じられないほど古いからです。ずっと同じ仕組みで血統を維持してきているという、ただそれだけの理由です。戦乱で王朝が無くなってしまうのは、世界史上珍しいことではありません。だからこそ、「世界で最も古い王朝」である日本の皇室のユニークさが際だっているのです。

  ところが、その世界最強の王朝を、台無しにしてしまおうという試みがあります。「女系天皇」の導入がそれです。
  問題点をいちいち説明しても迂遠なので、下の画像をご覧頂くとよいでしょう。

  

  そうなのです。女系天皇を認めてしまうと、愛子内親王の家系の男系を辿っても、女系を辿っても、歴代の天皇にたどり着かないのです。
  このことは、「世界で最も古い王朝」の滅亡を意味します。
  お金や権力や軍事力は後からなんとでもなりますが、世界最古の王朝の称号と、それに伴う権威は二度と戻ってこないのです。勿体ないことだと思いませんか?

  ここまでは、この問題を扱ったブログなら、たいてい触れている問題です。
  しかし、ここから先がこのブログの真骨頂です。(オーバーな)
  実は、女系天皇を認めてもいいのではないか、という、その考え方自体が、大きな問題を抱えているのです。

  女系天皇を認めるべきであるという主張の多くは、

 「皇室も男女平等の方がいい」

  という、ごくごく単純な理由によるものです。
  なんと浅はかな、と、笑う無かれ。単純だけに、これを批判するのは非常に難しいのです。
  しかし、私は敢えて言います。

  皇室には、
  男女平等など不要だ!!


  と。  
  
  なぜなら、文化伝統を現代人の感覚で裁くのは、「事後法による裁判」という、最悪中の最悪のやり方だからです。
  事後法というのは、犯罪行為があった後に、それを裁くために作られる法規範のことです。法学の世界では、これは「絶対にやってはならない禁じ手」として知られています。  
  分かりやすい例を書きます。
  朝、Aさんが通学途中に、田舎にあるB駅の近くに自転車を放置した。そうしたら、その日の正午から行われたB市議会で、「自転車強制撤去条例」という条例が可決された。その条例は、「可決の時点からB駅周辺の自転車は、見つけ次第即刻撤去して鉄クズにする」という内容だった。当然、Aさんの自転車は撤去された。学校が終わって返ってきたら、Aさんは自転車がなくなってしまったので途方に暮れた・・・。
  これ、あなたがAさんだったら、「そんな条例知らん!」と文句を言いたくなるはずです。当然です。駅周辺に駐輪したら撤去されることを知っていれば、そこに止めないという選択も出来たはずです。ところが、その機会もなく、自転車を鉄クズにされてしまった。
  これが「事後法による裁判」です。要するに、不意打ちなのです。だからこそ、重要な法律や憲法は「公布」(みんなに知らせる)と「施行」(実際に効力を持つ)を分けているはずです。
  確かに、同じ人間で、一つの人格を持っている、だから男女が平等なのは当然だ、という理屈は、シンプルで理に適っているように思えます。
  しかし、そのような考え方、いわゆる「近代合理主義」が広く知られるようになったのは、どう古く見積もっても西欧のルネッサンス(14~16世紀)、一般庶民のレベルで言えばフランス革命(1789年)の頃でしょう。皇室の男系相続は、それよりずっと前から存在しています。男系が男女平等という公理に合わない不合理なものだ、という主張は、完全な反則です。そんなこと言う奴が馬鹿だと言われても仕方がありません。
  だったらお前は中国の纏足や奴隷制度も認めるのか、という声が聞こえてきそうですが、そういうものと男系天皇を比べること自体が愚かです。男系天皇という制度が人を殺したり人権を蹂躙したりしたというのでしょうか?
  不合理な伝統なら変えなくてはいけない!というなら、ローマ法王や歌舞伎役者には男しかなれないことも同じように不合理です。「歌舞伎の世界は男女差別だ!」などと叫ぶ馬鹿はいないはずです。男系天皇もそれと同じなのです。

  それに、そもそも、「男女平等」って、そんなに偉いものなんですかね?

  人類が生まれて何百万年経ちますが、男女が完全に平等だった社会は一度も実現していません。それどころか、実現しようとすると、社会がおかしくなってしまった例はたくさんあります。
  ロシア革命直後のソ連で、法律によって家族制度を廃止したことがあります。専業主婦が搾取されているから解放して人類平等を実現するというのが理由でした。その結果、少年による強姦事件が増え、もてる男が少女を手当たり次第に妊娠させ、その多くが堕胎し、社会秩序が崩壊することになりました。(ちなみに、社民党党首の●福島瑞穂氏は、著書●「結婚と家族」(岩波新書)で、この家族制度廃止を絶賛している方です)
  もちろん、こんな世の中がいいという人は福島さんとそのお仲間たちくらいしかいないので(笑)、スターリンが実権を握ってすぐに元の家族制度が復活しました。
  最近では、左翼勢力が政権を握ったノルウェーで、女性の役員比率を40%以上にしない企業は処罰する、という法律を作ったら、移行期間中に8割弱の企業が違法状態になってしまいました。これで、罰則を嫌った上場企業がみんな海外に逃げていったら、「国破れて男女平等あり」という悲惨な状況になるでしょうね。
  こんな不自然な下駄を履かせなければ実現できない「男女平等」が、人類不変の真理なのでしょうか?大いに疑問です。妄想癖のある方々が実権をするのは勝手ですが、そのために社会や普通の人々を犠牲にするのはやめてもらいたいです。勝手に内ゲバでもやってろ、という感じです。

  男女平等が男系天皇制度を廃止する根拠として弱いのはわかった。
  しかし、それでも「天皇制」を廃止すべきだ!!

  ・・・・そんな声を●この新聞の投書欄などで目にします。私の同僚にも、さしたる根拠も無いのに、「天皇制」を廃止すべきだと主張している人がいました。(ちなみに、普段はとてもいい人です)
  どうも、皇室というものに漠然とした反感を持っている日本人が多いように思います。そして、その声が、女系天皇導入、すなわち、「神武天皇王朝の崩壊」を後押ししているように思うのです。
  
  本人たちにどういう意識があるのかはわかりませんし、好き嫌いもあることでしょう。しかし、ここで一つ忠告しておきます。
 
  日本で、諸外国に比べて安定して豊かな生活をこれからも営んでいきたい、と思っているなら、皇室制度は絶対に否定すべきではありません。
  なぜなら、天皇や皇室を否定すれば、日本を食い物にし、蹂躙しようとしている勢力に荷担することになってしまうからです。

  種明かしは、次回の記事と言うことで・・・。

「平等」など不要だ!(その3)

2006年01月12日 00時38分10秒 | 憲法の話題
  さて、もうこの話も三回目ということで、私が「平等」など不要だという理由を述べてみたいと思います。

  前回の話の最後に、私は「公理は一人歩きする」という話をしました。
  もう一度復習すると、公理というのは、証明を要しないで真実であると仮定した事柄ということです。例えば、「線分とは、二点間を最短距離で結んだものである」「人は哺乳類である」というのがこれに当たります。
  そして、この公理というのは、置かれたら最後、もはやそれを「疑う」ことができないという大きな特徴があります。
  重要なことは、それが、憲法の中に置かれてしまうことは、実はかなり危険だということです。

  そのためには、まず基本法というものを理解しておく必要があります。
  「基本法」というのは、「行政分野における基本政策や基本方針を宣言するために制定される法律」のことです。このことからすると、憲法というのは、その国の最強の基本法ということになります。憲法に反する法律は無効になるからです。
  この「基本法」が作られると、その理念に沿った関係法令が次々と作られていきます。憲法で言えば、憲法に書いてあるいろんな理念を実現するための法律が作られます。たとえば、生存権(25条)を実現するために生活保護法年金法が作られています。
  
  こここそが、もっとも危険な点なのです。

  法律は国会が作るといいながら、実際のところ、法律案は内閣、というよりも関係省庁がどんどん作っているというのが現実です。これは、日本だけの問題ではありません。程度の差こそあれ、どの先進国でも進んでいる現象です。(これを「行政国家現象」といいます)

  そういう現状の中で、基本法が作られるとどうなるか。

  基本法(憲法)が当初予定していなかったような法案まで作られ始めてしまうのです。そうしないと、役人の仕事がなくなってしまうから、今まで必要がなかったところに、無理矢理「必要性」を作り出してしまうのです。
  もちろん、お金の無駄遣いという面もありますが、一番恐ろしいのは、これを「平等」でやってしまうと、本当は差別でないものまで「差別」であると認定されてしまうことになりかねないことです。
  人権擁護法案というおかしな法律案が議論されています(詳細は●こちらのQ&Aで。また●以前の記事でも詳しく述べたので、ご参照ください)。簡単に言うと、ある人の申立だけで、証拠がなくても人権委員という連中が令状もなく家宅捜索したり、裁判抜きで罰金(法律的には行政罰である「過料」)を科したりできる、とんでもない法律です。
  この法律案は、裁判だと手間がかかるので、手軽に人権救済をしようと、法務省という役所が提唱したものです。
  私が以前から思っているのは、裁判で認容判決を勝ち取れない程度の「人権侵害」など、保護する必要があるのかということです。しかし、それでも法務省は真面目に検討してしまう。  
  なぜなら、憲法に「差別はいけない」「個人の尊厳が大切だ」と書いてあるからです。憲法ができてもう59年も経っているので、そろそろ「人権」分野でネタが尽きてきた。じゃあ、外国にあるような人権救済手段を作ろうか。どうせなら使いやすくて便利な方が・・・法務省はおそらく大まじめにそう考えています。
  これこそ、「公理」が勝手に一人歩きしている例でしょう。

  しかし、もっと危険なことがあります。
 
  それは、時代が経つと、「公理の方こそが真実である」(=世の中が間違っている)という馬鹿がたくさん湧いてくることです。
  こういう現象は、教育を通じて現れてきます。子供の頃から人権が大事だの男女は完全に平等でなければならないだの言われていると、その方が「正しい」という先入観しかない人が増えていきます。そして、世代が下がるにつれて、現実に「ある」ことより、「こうあるべき」ことの方が重要だという転倒した価値観が世の中に広がってくるのです。この辺は、ラブコメ漫画や恋愛ドラマを見て「これが恋愛というものだ」と洗脳されているのと同じです。
  日教組が平和だの人権だの、必死に子どもに植え付けようとしている真の狙いはここなのです。

  そうやって、行き着くところはどこか?

  それは、「歴史・伝統・文化の否定」であり、さらには「社会や人間そのものの否定」だと私は思います。
  伝統や文化の否定は、すでに●こんなかたちで現れています。「平等」を守るためなら、他人の人格権は踏みにじっていいというのが、こういう連中、並びに「彼ら」を支持している人たちの考えです。はっきり言っていい迷惑なのですが、そんなことは考えない。崇高な理念とやらを実現することしか頭にない人たちが、肥溜めの蠅のごとく、どんどん湧いてきているのです。
  困ったことに、こういう理念馬鹿と議論をしても、私たちは絶対に勝てません。なぜなら、憲法が、人間は平等という「公理」を置いてしまっている以上、そこから演繹的に論じられたら、論理では勝ち目がないからです。
  もちろん、最高裁は馬鹿ではありませんから、「国会には裁量権がある」とか「合理的な差別ならオッケー」というエクスキューズを用意して、極端な「平等」には歯止めをかけようとしています。
  しかし、何が「合理的」なのかは、おそらく誰にもわからないのです。だから、声の大きいヒマ人(たとえば、●こういう連中)の言い分が通ってしまうことが多いのが現状です。

  だからこそ、言いたいのです。

  憲法に、「平等」など不要だ!!

  と。

  フランス革命がそうだったように、現実にない「公理」こそが正しい、という考えは、国や社会を破滅に導く危険が高いのです。
  そこまで行かなくても、実感と乖離した「平等」が社会を混乱させるのは間違いありません。
  ノルウェーで企業の役員の4割を少数派の女性にしなくてはならないという法律を作ったら、移行措置の段階で8割弱の企業が違法な状態になってしまったという笑えない話がありました。守れないと罰金だということなので、大企業はノルウェーから撤退しなくてはならなくなるかもしれません。
  行きすぎた平等、などと言いますが、「平等」を公理にしてしまうと、いずれはこうなる運命なのです。

  百歩譲って、平等が必要だというなら、それは「結果の平等」でも、「機会の平等」でもありません。「責任の平等」こそが本当に必要な「平等」です。

  刑法39条という決まりを知っていますか?
  犯罪を犯した当時、頭がおかしくなっていれば、犯罪にならなかったり、必ず減刑になるという規定です。
  「責任無くして処罰無し」ということらしいですが、頭が狂っていようが、正常だろうが、人の命を奪うことの重さは同じのはずです。それなのに、裁判官が理解不能なことをべらべら喋っていて、精神病院に通院歴があると、処罰もされず、ひどいときには「不起訴」になってしまう

  何か、おかしくありませんか?

  ほとんどの精神障害者の方が、犯罪を犯したり、迷惑を掛けないよう病気と闘っているのに、抑制できない一部の馬鹿だけが得をするような仕組みなど、ない方がいいと思いませんか?
  同じことは、少年事件や、政治家や役人の犯罪にも言えると思います。収賄事件など、犯罪成立に必要な「故意」の立証が大変難しいのだそうです。だから、よほど決定的な関係者の自白がないと処罰できないのが現状です。
  それならば、役人や政治家の不正行為なら、一定以上の証拠を挙げれば、立証責任が被告側に移るという決まりを作るのです。そうすれば、絶対に汚職などなくなります。厳しい決まりなのは当然です。それだけ責任が重い地位にいるからです。
  逆に、弱者に下駄を履かせるような施策は全て不要です。なぜなら、時が経てば差別はなくなっても履かせた下駄が「既得権益」として残ってしまうからです。
  どうしてもやりたいのなら、憲法に「不平等を是正するための立法は、時限立法でなければならない」という文言を盛り込むべきです。現に、特別措置法はそういう風にしています。
  
  これからは、「責任の平等」を流行らせたいものです。

「平等」など不要だ!!(その2)

2006年01月09日 00時00分53秒 | 憲法の話題
  今回は、いわゆる欧米の市民革命では、平等というのはどのように扱われていたのか、考えてみようと思います。

  市民革命と言えば、どんな歴史の教科書にも、イギリスの名誉革命という事件が出ています。
  1688年に、イギリスで起こった無血革命(実際はスコットランドなどで人が死んでいるが、ロンドンなどでは殺傷沙汰がなかった)として有名な名誉革命は、その成果としていわゆる「権利の章典」を国王に認めさせることに成功します。
  イギリスには成文法の憲法がないので、300年前に作られた権利章典は、未だにイギリスの憲法のような役割を果たしています。
  その内容を見てみましょう。原文の訳は、http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/billofr.htmにありますが、主なポイントは以下の通りです。

 ●議会の同意なく国王が勝手に法律を免除したり
  執行を停止してはいけない
 ●国王に請願(政治上のお願い)をするのは
  臣民の権利である
 ●国王は議会の同意なく課税してはいけない
 ●議会の選挙や討論は、自由でなければならない
 ●法律もないのに罰金を取ったりしてはいけない

  どこにも「平等」という言葉は出てきません。
  300年前のイギリスは今よりも遅れていたからでしょうか?
  そういう面もなくはないですが、はっきり言って「平等」なんてのはたいして重要なことではなかったのです。
  そんなことをしたら差別なんてなくならないじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、名誉革命の時代に「差別をなくそう」などと思っていた人はいません。
  そもそも、多くの人が憲法という法規範の意味を取り違えています。憲法というのは、人を自由にしたり、差別をなくしてくれるスーパーマンみたいなものではありません。国王などの政治権力が守らなくてはならない決まりに過ぎないのです。
  それを証拠に、日本国憲法第99条を見てください。

>天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官
>その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する
>義務を負ふ。


  国民は憲法を守らなくてはいけないなどとはどこにも書いていません。守らなくてはいけないのは公務員だけなのです。だから、日教組の教員が「みなさんは憲法を大切にしなくてはいけません!」などと言っても、信じる必要はありません。ただ単に、その教員が不勉強で馬鹿なだけです。(笑)
  いつの世の中でも、一番怖いのは行政権だということは間違いありません。なにしろ国で一番の金持ちであり、警察や軍隊を操れるのです。行政権をコントロールすることこそ、憲法の真の目的です。

  ちなみに、イギリスから独立したアメリカ合衆国憲法にも、「平等」の考えは全く出てきません。2カ所だけ出てくる「平等」という言葉は、憲法改正について各州(の上院議員)が持つ投票価値が均等であるということと、刑事手続(逮捕したり処罰したりすること)において法律を平等に適用しなくてはいけないということを規定しているに過ぎません。
  ちなみに、合衆国憲法に、いわゆる「人権」の考え方が導入されるのは、マディソンによる修正条項の提案からであり、彼はその考えが合衆国憲法の理念と異なることを知っていたようです。(詳しくは●こちらのサイトで)。

  ところが、その「平等」がフランス革命になって突如として登場します。
  その背景にあるのは、哲学者ルソーの思想です。ここでは詳しく述べませんが、ルソーは政府というのは国民の契約によって初めて成立するのだという、かの有名な「社会契約論」を唱えた人物です。
  ルソーの思想に深く立ち入ることはしませんが、一言で言うと、「人間は生まれながらに自由で平等な存在で、自分を守るために仕方なく政府を作って権力を預けている」というのが根底にある考えです。

  それまでの社会は貴族の息子は一生貴族で、農民の息子は一生農民であるというのが当たり前だと思われていたわけです。
  そこに来て、ルソーが「人間は皆平等」と言った。普通の人々の意識が覚醒した。自由で平等な自分に目覚め、不合理な旧体制を覆そうとした。なんと素晴らしいことでしょう!!

  ・・・とまあ、日教組や全教のセンセーなら、目を輝かせて熱弁するんでしょう。憲法を習いたての頃の私もそう思っていました。
  その「美しさ」を象徴するのが、フランス革命の「成果」である人権宣言です。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/furannsujinnkennsenngenn.htmに訳文があります。
  重要なのは、「前文」と「第1条」です。

  前文には、

>「人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利」

  とあります。要するに、人権は国王などによって与えられたものではないということです。  

  また、第1条には、よく引用される

「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。

  という、まさに「感動的」な文言があります。

  この二つの条文が、人々にもたらす心理的な影響はどんなものでしょう?

  それは、自分たちよりも偉い奴はこの世の中に存在しないという観念を植え付けることです。
  誰でも「平等」であるというのは、ひとりの人間を「単位としての1」として見るということに他なりません。そうだとすれば、「1」でしかない国王より、「多数」である民衆一般の方が偉いに決まっているのです。
  ここから、多数派(群衆)は常に少数派(為政者や貴族)よりも優位に立つことになります。現代でも、政治家や貴族的身分の人々を馬鹿にするような態度の人々がたくさんいますが(たとえば、「政治家はみんな汚いことをしている」と言って、政治不信になっている人も多い)、それはフランス革命の理念の成果が出ているということなのです。
  これは、考えてみれば、為政者は常に大衆の卑下・嫉妬にさらされるということでもあります。これが、フランス革命では「素晴らしい」とされていたわけです。
  そして、その「素晴らしい」理念に従って、人権宣言が出された1ヶ月あまり後、革命議会は国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑してしまいます。きっと「市民」たちは喜んで国王の首が飛ぶ場面を見守ったことでしょう。国の主人は、自分たちだ!!と思ったに違いありません。

  そして、「素晴らしい」理念によって達成された革命は、思いも寄らない方向へ向かうことになります。

  フランス革命にそぐわないと言われた人々も、次々と殺されていくことになったのです。ダントンやロベスピエールといった革命の立役者ばかりではありません。王党派が蜂起したブルターニュ地方のヴァンデでは激しい内戦が起こりましたが、フランス革命政府は鎮圧後、「地獄部隊」(笑)と言われる軍を送り、女子どもも対象とした大虐殺を行いました。

  これこそが、人権宣言の「成果」です。要するに、同じ価値をもった者同士の憎しみ合い、殺し合いです。

  身分の差別があることはよくないことだと言われます。確かに、そうでしょう。人間がみな同じ価値を持って生まれてくるのだというルソーの考えが、客観的な真実ならば。
  ところが、身分制度には非常に楽な側面もあるのです。それは、身分さえ守っていれば生き方を見失わないで済むということです。(※注)
  1990年代に、社会主義だった東欧の国々が次々に「民主化」「自由化」しました。その時、テレビで、ある旧東ドイツ在住の普通の労働者のオジサンが言っていたセリフが(正確ではないかも知れませんが)とても印象に残っています。

  「確かに、自由になっていろんなものを買えるよう
  にはなったが、何を買っていいのかわからない」


  自由の何がいけないのだろう?と思ったのですが、今思えば納得が行きます。社会主義時代に、何でも決められるのが当然だった人々に、「これからは好きにしろ」と言っても、ものを選ぶ意識も能力も無いのが当然だからです。  
  人権宣言が与えた衝撃は、ドイツの統一の比ではなかったでしょう。国王や貴族の道具だったのが、いきなり国の主人ですよ。

  皮肉なことに、フランスはその後王党派と共和国政府の間での争いが止まず、挙げ句の果てにナポレオンという軍事独裁者まで出てきてしまいます。彼がヨーロッパをさんざん引っかき回して、権力の座からいなくなった後も、パリ・コミューンという労働者の暴動が起こったり、統一前のドイツ(プロイセン)にパリを攻め落とされたりと散々な目に遭います。

  その一方で、権利の章典に「平等」など全く出てこないイギリスは、フランスを後目に七つの海の王者になってしまいます。こちらは、国王も健在で、名誉革命以降内乱など全く起こりません。
  その理由は簡単です。権利の章典に「平等」という言葉を入れなかったからです。もし、権利章典に「イギリス国民は平等である」と書かれていたら・・・おそらく、国王は処刑され、イギリスは血で血を洗う内戦に突入していたでしょう。フランスと違ってアイルランドやスコットランドと言った、反乱軍が立てこもりやすい地形があるイギリスです。フランス以上の恐ろしい事態になっていた可能性すらあります。

  そういえば、2000年以上の伝統を誇る王室があったおかげで、フランス革命のような「内戦」に突入せず、急激に発展できた国が、東アジアのどこかにありましたよね??
  日教組の真っ赤に染まった脳味噌では一生答えが出てこないでしょうが(笑)。

  さて、人権宣言は、何がいけなかったか、まとめておきたいと思います。

  それは、当時の社会で誰も実感の湧かない概念だった、平等という「公理」を置いてしまったことに尽きると思います。
  公理というのは、数学の言葉です。証明を要しないで真実であると仮定した事柄のことです。「線とは、点と点を最短距離で結んだものである」という公理があったら、もうそれに対して「それはなぜか?」という問いを発することができなくなってしまいます。
  
  この「公理」は、実はとても恐ろしいものなのです。

  なぜなら、公理というのは、時間が経つと一人歩きをしてしまうからです。

  長くなってしまったので、次回で現代における「平等」と、この記事の不愉快なタイトルをなぜ私が付けたのか、その理由を述べたいと思います。  

 ※身分について、補足

  ここで大事なのは、社会に流動性が確保されている「不平等」な社会は健全な社会だということです。「流動性がある」というのは、立身出世が家柄によらず決定されるということです。
  日本は、皇室という重石を置くことで、かえってこの流動性を確保してきたという特異な歴史を持っています。豊臣秀吉が天下人になれたことや、明治維新の担い手が下級武士だったことがその証拠です。
  ちなみに、社会主義の世の中にはこの流動性は全くありません。そんなものがあったら、革命が否定されてしまうからです。例えば、北朝鮮の身分秩序を変えようと思えば、革命でキムジョンイル一族を(政治的に)抹殺するしかないわけです。「社会」「共産」と付く政党が、自由云々を述べるのは自己否定に等しいのです。

「平等」など不要だ!!(その1)

2006年01月06日 22時48分09秒 | 憲法の話題

  物を教える人間として非常に恥ずかしいことですが、私は一度だけ本気で「人を殺してやりたい」と思ったことがあります。

  何年か前に、テレビで東大に現役合格した何人かの女子高生の日常を追ったドキュメントをやっていました。
  私が殺意(笑)を抱いたのは、名古屋の某進学校から東大の文化Ⅰ類(法学部系統)に受かった女の子でした。弁護士の娘で、将来は父の事務所で弁護士として働きたいと言っていたように思います。
  その彼女が見事に最難関大学に合格して、上京した時の話がすごかった。
  東京での住まいは、1LDK。大学1年生で「LDK」が付いているマンションです。家賃は、なんと、月12万円!!

  私はその頃、貧乏暮らしをしていたので、思ったものです。

  「もう、こいつ一人くらいなら、殺しちゃってもいいよな!?」

  もちろん、単なる妬みに過ぎなかったのですが、本気でそう思ったように記憶しています。殺しても、自分が幸せになれるわけではないのに、妬みや羨みが高じて殺意まで抱く・・・恥ずかしいことですが、そういう気持ちを持ったことがあるからこそ、「負け組」犯罪がどうして起こるのか(詳しくは●こちら)が身に沁みてわかるのかもしれません。

  さて、その時もそうでしたが、私の心に強く響いた言葉があります。

   「平等」

  という言葉がそれです。

  人間というのは、生まれながらに平等である。これは、日本のいろんな役所が認めている「公理」(証明を要しないで真実であると仮定した事柄)です。なぜなら、日本国憲法第14条1項に書いてあるからです。●グーグル検索に「生まれながら」「平等」と入れてみると、公的機関のホームページがたくさん引っかかります。
  人が生まれながらに平等だとすれば、名古屋の彼女と私が人生を歩む上でものすごいハンデ戦を強いられているのはどうも納得がいきません。あの女から財産を取り上げて、俺に回せ!という主張も、ちゃんと憲法上の根拠があることになってしまいます。

  仕方がないので、こういう説明がついてきます。東大の教授が言っていることなので(ソースは●こちら)信憑性があります。

>法の下の平等について一番重要なのは、
機会の平等の問題だと思う。

  どうやら、平等というのは、「機会の平等」を指しているようです。「結果の平等」、つまり、今ある状態が平等であることではないんだよ、ということです。
  しかし、名古屋の彼女は親父の潤沢な資金をバックに(笑)、東大入試や司法試験という難関にも十分な準備をして臨める一方、私は大学の学費を1年分しか父に出してもらえませんでした。ふつーの都立校卒なので、下手をすると大学に受かったかどうかすら怪しいです。この二人の何処が、「機会」が平等なんだ、と言いたくなります。
  生前は憲法学で文句無しのナンバー1の権威だった芦部信喜先生も、私の味方をしてくれていますよ。

>十九世紀から二十世紀にかけての市民社会において、
>すべて個人を法的に均等に取り扱いその自由な活動を
>保障するという形式的平等(機会の平等)は、
>結果として、個人の不平等をもたらした
                    (芦部信喜『憲法』岩波書店)

   芦部先生は、だから社会的・経済的弱者に対して保護を与えて、他の国民と同じような自由を享受できるようにしていくようになったんだと述べていらっしゃいます。

   そこで、私が「芦部先生がおっしゃっているのだ、だから、俺も月12万円のマンションに住ませろ!!人は生まれながらに平等なんだ!!」と主張したとしましょう。

  やっぱり、何かおかしい感じがします。なぜでしょう??
  簡単です。そんな平等など、この世の中に「ありえない」ということを、誰もが分かっているからです。生まれてくる家や親を選べない以上、私たちは生まれながらにして何らかの不平等を抱えて生まれてくるのです。
  普通以下の家に生まれた子どもなら、必ず思ったことがあるでしょう。

 「どうして、もっとお金持ちの家に生まれてこなかったんだろう?」
 「どうして、親が美男美女じゃなかったんだろう?」
 「どうして、うちは私立の学校に行けないのだろう?」

  こういう問いかけは、自然な疑問だと私は思います。なぜなら、自分より恵まれている人はこの世の中に、現実に存在しているのです。なぜ、自分はそっちの側にいないのだろう・・・と、子どもが思っても不思議ではないです。
  しかし、現実は不平等なのです。
  私は、他人と比べて絶対的に恵まれている人間は存在していると思います。よく「みんなそれぞれ悩みがある」「金持ちだとトラブルが多い、お金が無くて幸せだ」などという人がいますが、本当に心から言っているか怪しいものです。
  子どもを教えていても、よくわかります。努力しても、本当に勉強が出来ない子は確かにいます。あるいは、同じように塾にお金を払っていても、どんどん学力が伸びる子とそうでない子の違いははっきり分かります。別に、職務を放棄したくて言っているのではありません。事実なのです。
  それなのに、なぜ「平等」などという言葉が生まれたのでしょう?

  人種差別がひどかったから?
  女性が男に虐げられて苦しんでいたから?
  ○○教を信じていると罪もないのに殺されたから?  

  完全な間違いではありませんが、どれも正解ではありません。
  「平等」が憲法の中に書き込まれた本当の理由は、たった一つだけだと私は考えています。それは、

  自分よりも偉い人間を倒して
  (というか殺して)
  権力を奪うことを正当化するため

  です。

  平等というのは、そんなに汚いものなのか??・・・と思われた方は、是非次回もお付き合いください。どんな歴史の教科書にも必ず出ている二つの市民革命・・・「名誉革命」「フランス革命」の話から、現代に至るまでの「平等」の歴史を紐解いていきたいと思います。


もっとも大事な自由とは?(2)

2005年12月04日 11時49分43秒 | 憲法の話題
  憲法の中に定められている自由で最も大事なのは 表現の自由であるという話を前回しました。表現の自由には、「自己実現」(何を言うべきか言うべきでないか自律的に判断できること)や「自己統治」(意見を言うことで国の政治に影響を与えられること)という、他の自由にはない価値があるからでしたね。
  繰り返し申し上げますが、民主主義国家は、表現の自由がなくては成り立たないのです。
  それを証拠に、非民主的であると考えられる独裁国家は、古今東西、必ず表現の自由を奪うこと(言論統制)をしています。昔であれば、ソ連がそうでした。共産党の批判を表立ってすると、公職の追放や政治収容所行きが待っていたわけです。
  最近の例で言えば、北朝鮮がわかりやすいでしょう。支配者である金正日や朝鮮労働党の批判をすれば、即収容所行きです。
  また、皆さんは大いに勘違いをしているかもしれませんが、中国も立派な言論統制国家です。例えば、外国の記者は取材するとき必ず「外交部」(外務省に当たる)の人間を助手として雇わなければなりません。(詳しくは、●こちらをご覧ください)また、インターネットにおいても、中国にとって都合の悪いサイトには、中国国内からアクセスできません。(●こちらにその実態が述べられています)中国が「改革・解放」したというのは真っ赤な嘘です。
  しかし、こういう国にも、なぜか新聞やテレビが必ずあるのです。独裁国家は、テレビや新聞を怖がっていないのです。なぜでしょうか?
  それは、管理可能な表現媒体(メディア)は、全く怖くないからです。
  テレビや新聞と言ったマスメディアは、専用の建物や機材、あるいは専従の職員が必要なため、お金がかかります。そこに働いている人もたくさんいます。つまり、簡単に始められず、おいそれとやめるわけにはいかないのです。
  そのため、新聞やテレビは圧力に対してかなり弱い存在になっています。例えば、テレビなら電波法によって、総務省が放送免許をくれないと活動できません。
  また、スポンサーを通じた間接的な圧力、、弱小メディアを取材の場から閉め出す記者クラブ制度という特権に対する執着も存在します。
  さらには、いろいろな「団体」による営業妨害同然の「抗議」に対しても、毅然として対処するより、問題を起こさないように初めから無難な記事を書くだけにしようという対応がよくあると言います。
  このように、新聞やテレビは実はその基盤が脆弱なのです。「潰しちゃうよ?」とか、「スポンサー付かなくても良いの?」という脅しがあれば、かなり容易に主張を曲げうるのです。
  しかし、それだけではまだ不十分です。新聞やテレビの最大の欠点(独裁政権から見れば「利点」)は、一方的に情報を投げかけてくる、つまり、双方向性がないことです。
  このことが意味するのは、新聞やテレビというのは、簡単に情報操作が出来るということなのです。活字や映像という権威があるために、だましやすいということです。

  これに対して、インターネットは双方向性があり、統制が難しいという特徴があります。しかも、安価で、いつでも始められるし、やめられる気軽さがあります。だから、みんな自分が思ったことを何でも口に出すことになります。
  これが、独裁国家には一番怖いのです。インターネットは、統制ができないのです。やろうと思うと、上に挙げたような中国と同じような「ネットフィルタリング」という方法しかありませんが、有象無象のインターネットのサイト全てにこのようなフィルターをかけることは不可能です。
  日本は独裁国家ではありませんが、内情を批判されたくない圧力団体や、おかしなことばかり書いて国民を騙し続けている新聞などは、インターネットを不愉快に思っているでしょう。決定的だったのが、トラックバックという形で同じ考えを持つ人々と情報を共有できる「ブログ」(ウェブログ)の存在です。特定の外国政府やメディアの言っていることに反感を抱いたり、嘘を暴いたりすることが、これほど容易になった時代はありません。

  はっきり言ってしまえば、日本にも国民が本音でものを言って、「自己実現」「自己統治」をしてもらっては困る連中がいるということです。

  そこで、登場したのが人権擁護法案という法律です。
  私も大分この法案については触れてきましたが、今一度簡単におさらいをします。みなさんも、韓国をけなしたり、日教組を叩いたりしているだけで満足しないで、ぜひこの法案を知ってください。韓国や日教組にとって、最高の武器となりうる法律だからです。
  この法案は、「裁判制度を補完する目的で様々な行政上の人権救済にかかわる制度」●法務省のQ&Aによる)を作るためのものです。要するに、裁判だと時間がかかりすぎるので、行政機関が人権侵害を防ぐ措置を執るということです。
  この法案の問題点は●こちらをご覧頂ければいいでしょう。大ざっぱに言うと、問題点は、「人権委員が差別だと認定すれば全て差別になりうる」のに、「対象者には異議申立ができない」ことに尽きるでしょう。
  この法案が表現の自由に与える影響は、途方もなく大きいです。というか、国民の(特にインターネットにおける)表現の自由を潰すために作られようとしているのが、人権擁護法案なのです。
  どんな大きな影響なのかというと、「萎縮効果」という言葉を覚えておくといいでしょう。
  人権委員が初めの数年で何回か伝家の宝刀を抜いたとします。もうそれだけで十分です。言いたいことを言うと、30万円の過料か家宅捜索・取り調べになってしまう「かもしれない」と、インターネットの利用者が思ってくれれば、「推進勢力」は満足でしょう。
  政治的な意見は、自分が生活していく上でそれほど差し迫った必要性がありません。給料をもらえなくなったり、自分の会社の商品が売れなくなったりすることに比べると、どうしても後回しにしがちです。だから、面倒に巻き込まれるくらいなら、言いたいことを言わなければいいという方向にみんなの気持ちが傾いてしまうのです。これが、「萎縮効果」です。
  この事態の深刻さは、計り知れないものがあります。
  まず、言いたいことが言えないというのは、ものすごいストレスになります。だから、犯罪的な行為が増えるでしょう。実際に、言論弾圧が厳しかった旧ソ連では、麻薬が横行していました(麻薬は資本主義の病気などと言って、ソ連政府は認めなかった)。日本でも、そういう事態が起きないとも限りません。
  また、反社会的行為をしている団体・個人に正当な批判が出来なくなります。責任の追及ができないとなると、自浄作用が働きません。特に、ここに民族差別が絡むと厄介になります。理不尽な要求を突っぱねただけで、「差別だ」とされてしまいかねません。
  一番まずいのは、国民がそもそも本音でものを言うことをやめてしまうことです。
  前回も言いましたが、言いたいことを言っても、周りがそれにダメ出しをすれば、自然と「何を言っていいのか悪いのか」自分で判断できるようになります。
  しかし、人権擁護法案や、それに類似した条例が出回ってしまうと、「面倒だから言わない」という事態になってしまいます。人権擁護法案では、どんなに非のない人でも攻撃対象になる可能性があります。だから、日常会話においても、何も言いたいことが言えなくなるおそれが強いのです。

  そんな社会が、健全な人間社会といえるでしょうか?

  ちょっと待て、そういうときのために、裁判所には「違憲立法審査権」があるじゃないか。そう思う方もいると思います。憲法21条に定められた表現の自由を過度に制約するものとして憲法違反→無効ではないか。だから、法律が作られても、結局無効になるから、むきになって反対しなくてもいいのでは・・・と。
  すみませんが、その考えは、即刻捨ててください。
  法務省の見解では、人権擁護法案によってまさに「人権を侵害された」人の救済手続は、国家賠償請求訴訟で行うことになっています(なぜか、人権救済手続は使えない)。
  訴訟です。地方裁判所の判決が出るのさえ1年や2年かかるのが当たり前です。その間、原告としていろいろ活動しなくてはならない上、弁護士費用などもかかります。すでに人権委員によって「有罪」だと判定されているのですから、仕事をクビにされている可能性もあります。つまり、原告である「救済手続対象者」にとっては、あまりにも負担が大きいのです。
  しかも、実際に法律が無効になるには、裁判が確定するか、最高裁の判決が下されなければならないのです。そうなると、もう10年かかっても文句は言えません。憲法違反になるかどうかも、はっきりしたことは言えないのです。
  そして、国家賠償が支払われたとしても、微々たる金額です。刑事訴訟法39条1項の「接見交通権」を巡って最高裁まで争った訴訟が、わずか5万円の賠償で終わったことからもそれは窺えます。
  このように、人権擁護法案の「攻撃目標」になったら、反撃するのは想像を絶する困難を伴うのです。だから、そもそも法律として制定させてはいけないのです。

  インターネットの普及によって、我々は教科書でしか学ぶことができなかった表現の自由を本当に手に入れたといっても過言ではありません。
  年金が、増税が、第9条がなんですか。そんなものは後からいくらでも変えられます、表現の自由さえあれば。
  
  だからこそ、人権擁護法案には絶対に反対しましょう。
  

もっとも大事な自由とは?(1)

2005年11月30日 10時03分06秒 | 憲法の話題
  日教組が好きで好きでたまらないという「憲法」について、わかりやすく書いていこうという企画の第1回です。

  私がこれを書くべきだと思った理由は幾つかあります。

 1.日教組・全教などの団体は憲法の理念や精神をやたらと強調する
  が、何となく納得してしまう人が多いのではないか

 2.憲法改正が話題になっているが、新聞やメディアの主張を読んでも
  よくわからないという人が多いのではないか

 3.憲法の理念を振りかざして他者を攻撃してくる人間に対して、「占領
   憲法だから無効だ」と、飛躍した反論をしてしまうのを防げないか

 4.そもそも、日本の戦後教育を支えてきた「個人の尊厳」「平等」
  「平和主義」
といった理念は、本当に必要な概念なのだろうか

  こういった疑問を持っている自分自身を納得させることや、憲法というとそもそも第9条にしか目が行かない視野狭窄(改正賛成の人も反対の人も、そういう傾向がある)を少しでも変えていただければと思い、普段の記事の合間合間に書いていこうと思ったのです。

  我が国の憲法の歴史などをちまちまと述べても、他のサイトや教科書にいくらでも書いてあるでしょう。また、学術的な議論をしたいとも思っていません。
  そういうわけで、あくまで私なりの意見をここに載せていきたいと思います。学術的な見地からは不十分な点もあることと思いますが、ご容赦ください。

  初回なので、憲法に書いてある数々の「自由」や「権利」の中で、一番大切な自由とは何だろう?という話題で行きたいと思います。

  解釈上認められる自由(たとえば、「海外渡航の自由」)や権利(たとえば「知る権利」)を除くと、日本国憲法には以下のような自由・権利があります。

  ●幸福を追求する権利(13条)
  ●選挙権(15条1項)●請願権(16条)
  ●国家賠償請求権(17条)●人身の自由(18条)
  ●思想・良心の自由(19条)●信教の自由(20条)
  ●表現の自由(21条)●移転居住・職業選択の自由(22条)
  ●学問の自由(23条)●生存権(25条)
  ●教育を受ける権利(26条)●勤労権(27条)
  ●労働基本権(28条)●財産権(29条)
  ●裁判を受ける権利(32条)●弁護人選任権(34条)
  ●刑事裁判を受ける権利(37条)
  ●黙秘権(38条)●刑事賠償請求権(40条)

  ずいぶん、いっぱいありますね・・・。さて、では、どれが一番大切なのでしょうか。

  ずばりいいます、それは表現の自由です。

  なぜなら、ごく簡単に言うと、「表現の自由がなければ、行き着くのは非人間的な独裁国家になる」からです。

  表現の自由には、二つの価値があるということは、憲法の教科書では必ず触れられています。これは、憲法を知らない人も絶対にしっておくべき知識です。

  一つ目の価値は、「自己実現」という価値です。
  おいおい・・・このブログの管理人は「自己実現」が嫌いなんじゃないか?と思われる方もいるでしょうね。しかし、●この記事で取り上げたものと、ここでいう自己実現は、全く違う意味です。
  基本的に、言いたいことを我慢しているのはよくない、言っていることと思っていることがイコールでつながるべきだ。それが自分らしさだ、これが「自己実現」という言葉の表面的な意味です。
  しかし、みなさんは、「しまった!こんなこと言うべきじゃなかった!」と冷や汗をかいた経験があるはずです。それも、一度や二度ではないはずです。特に若い頃(笑)は、失言や言い過ぎ、言葉足らずで嫌な経験をしてしまったという方も多いでしょう。
  では、なぜ、「言うべきでなかった」と思うのでしょう。それは、相手に嫌な顔をされたり、周りの人間に責められたりしたからなのではありませんか?
  それは、言い換えると、その場にふさわしくない発言をした誰かに、周囲の人(つまり「社会」)が、「ダメ出し」をしたということです。発言者は、当然次からはこういうことを言わないでおこう、と思いますよね。
  こういう経験を重ねると、言っていいことと悪いことを、自分の考えで区別できるようになります。これが「自己実現」の本当の価値なのです。誰かに言われたからやらない、というのは、「自己実現」ではありません。裏を返すと、「誰かに言われなければ言ってもいい」ということになるからです。

  もう一つの価値は、「自己統治」という価値です。
  言いたいことをそのまま言えば、当然それを誰か他人が聞きつけるわけです。というか、誰でも自分の考えを他人に聞いてほしくて言うのです。だから、無人島では表現の自由が必要ありません(笑)
  こんな経験はないでしょうか?インターネットの掲示板やブログを見ていたら、自分と似た考え方をする人がいた、という経験です。
  そういうとき、何を感じましたか?
  きっと、自分と同じ考え方をしている人がいる!と知って、安心したり勇気が湧いたりしたんじゃないでしょうか?そして、それによってコメントをつけたり、自分もブログを書いてみよう、と思ったりするかもしれません。
  これこそが、表現の自由を保護しなくてはならない最大の目的なのです。社会のどこかに、自分と同じ意見や疑問や怒りを持っている人がいても、声に出さなければわからないのです。
  自分と似た声を聞けば、「自分は一人ではないのだ」という連帯感が形成されることになります。それが大きな束になると、何が出来るか分かりますか?そう、「政党」です。
  政党が政策や政治理念を掲げている、というのではありません。一人一人が言いたいこと言っていたら、似た考えの人が自然と集まっていたというのが政党の本来の姿なのです。
  政党という形を取らなくても、似た考えの仲間で「○○に投票しよう」「××の政策はサイテーだから支持しないでおこう」などという意思形成は可能です。さらに言えば、誰かの発言を聞いて納得できれば、個人でも「じゃあ俺は△△党で」という判断は可能です。
  つまり、自分の言いたいことを言わせることで、直接・間接を問わず、政治に関与していることになるわけです。
  これが、「自己統治」、すなわち、自分で自分の国を治める(政治プロセスに参加する)という価値です。

  極端な話、憲法に他の権利など一つも書いていなくてもいいのです。表現の自由さえあれば、意見が人々の間を駆けめぐるので、政府がめちゃくちゃなことをすることができなくなるのです。
  逆もまた真なり、です。表現の自由が無くなってしまえば、民主主義など成り立ちません
  私が独裁者になったら、まず初めに何をするか・・・こういうことはみなさんも考えてみるといいと思います。

  私だったら、ずばりインターネットは使用禁止にしますね。

  あれ?新聞やテレビはどうなの?と思った方、甘いです。私が独裁者なら、新聞やテレビなど少しも怖くありません

  この謎解きは、次回にしましょう。(つづく)