あの、初めに断っておきますが、トップにある写真は私ではありませんよ(笑)。
この方は、非行カウンセラーの伊藤幸宏さんという方です。
『体当たり子直し』(小学館)や『僕たちはいらない人間ですか?』(扶桑社)といった、青少年問題に関する本を書かれているひとです。
伊藤さんの人となりはこちらをご覧になっていただければわかりますが、私からも簡単に説明させていただきます。
伊藤さんは、もともと神奈川の大暴走族連合のトップでした。警察の壊滅作戦によって逮捕されて刑務所暮らしをした後、自動車修理工場に勤める傍ら、ボランティアで非行少年少女の更生活動をなさってきました。
経歴からして「ユニーク」ですが、この人の子供へのアプローチは、本当に唸らせられるものがあります。私の子供に対する考え方が、この人の著書を読んで一変したほどです。
たとえば、非行少年を更生させるときに、わざと生まれ育った場所から離れたところに住ませて働かせるということをなさっています。これは、本当に鋭いなと思いました。
非行も心の病の一種だとすれば、他の多くの精神疾患と同じように、原因になっているのは人間関係や対人環境なのです。だから、非行をしていた環境に戻れば、せっかく少年院で改心しても、また非行の道を歩んでしまうのです。これを何とかするには、場所を変えるしかありません。
伊藤さんが素晴らしいのは、それをたった一人でも「実践」している点です。もっとも、個人が出来ることには限界があり、こういう取り組みこそ国や自治体の助けがほしい、と著作の中でおっしゃっています。
教科書の中身を若い人たちが自信を持てるように変えていくのも大事ですが、こういった、子供を「すくい上げる」活動も、また充実していてほしいものです。そういう仕組みこそ、本当のセーフネットだと思うのですが。
また、伊藤さんは著作の中で、一番良くないのは「親都合の子育て」だと、喝破されています。
これは、私の体験でも、思い当たることがあります。
教育熱心なご家庭の中には、少なからず自分の子供のことをわかっていない、わかろうとしない親御さんがいるのです。
一番分かりやすい例は、子供の学力から見れば到底届きそうにもない志望校を、子供に押しつけてしまっている親御さんです。面白いことに、そういう家庭に限って、生徒の学力が勉強すればするほど下がっていくことが多いのです。
親御さんとしては、なるだけレベルの高い学校に入れることでその子の将来をいい方向に向かわせたいと思っているのだと思うのです(もちろん、単なる見栄というのもあるかもしれませんが・・・)。
ところが、勉強をしている子供はつまらなさそうにしていることがほとんどです。当然でしょう。志望校の受かるレベルまで成績が上がらなければ、絶対に親に肯定してもらえないのですから、勉強が「苦役」になってしまうのです。
それを見た親御さんは、余計に焦ってしまうのです。私たち塾講師にも、何とかしてくれ、受からせてくれ、と督励してきます。
私はもうそういう親御さんの対処法を覚えたのですが、そうでない真面目な先生などは、それを真に受けて課題をどんどん出します。残して教えていても、義務感が先に立つからどうしても深刻な顔をして接してしまいます。そうなると、子供はますます勉強がつまらなくなる・・・もう、最悪の悪循環です。
これをどうしたら克服できるのでしょうか?実は、簡単なのです。親御さんが自分にとって都合のいい志望校を捨ててしまえばいいだけの話なのです。出発点が間違っているのです。それを改めない限り、誰も幸せにはなれません。
はっきり言いますが、頭のいい子と、そうでない子というのは、どうしても同じことをやっても差が付いてしまいます。しかし、それと子供が真っ当で幸せな人生を歩めるかどうかは別問題です。親御さんにできる一番のことは、その子が出来る範囲で最大限の努力をしたら、受かろうが落ちようが「よくがんばったね!」と言ってあげることです。そういう温かい励ましは、子供ならみんなお父さん・お母さんに言ってもらいたいはずなのですから。
これは、あくまで受験に限った話なのですが、これが家庭内の話ならどうでしょうか。(以下の話は、パクリではなく、私が勝手に作ったたとえ話です)
とても甘えん坊の子供がいるとします。この子には、何の非もありません。そういう性格の子なのです。さんざん甘えさせる(なるべく沢山口をきいてあげたり、一緒に遊んだりする)ようにすれば、そのうち勝手に親から離れていきます。
ところが、一戸建てを買ってしまい、そのローンを返済するために、お母さんが夜までパートに出てしまうようになると、この子は少しずつおかしくなってきます。家のものをわざと壊したり、学校で弱いものイジメをしたりし始めます。原因をきいても、よくわかりません。
伊藤さん流に言えば、これは子供が寂しいから構ってほしいというサインを出しているのです。みなさんも、子供の頃、よくありませんでしたか?親や友達に相手をしてもらえないから、わざとひどいことを言ったり、悪いことと知りながらものを壊したり・・・私はかなり身に覚えがあります(笑)。それと同じです。
親御さんは、ともすると、このような子供の変調を、「しっかりしなさい」などとかえって叱ってしまうことが多いです。それが、間違いなのです。子供は構われたいのです。だから、ほうっておいてはいけません。もしかしたら、その子は近い将来非行に走ってしまうかも知れない。子供は簡単に成長していきますが、落ちていくのもまた簡単なのです。
しつこいですけど、今はやりの、「世界のまずしさ」なんてほうっておいて構いません。白いバンドを300円で買っても、アフリカの内戦やイラクの空爆は終わりません。親御さんなら誰にでもできる社会貢献は、小さい子供にはたくさん甘えさせることなのです。それがゆくゆくは、健全な人格を育成することにつながるのです。
勘違いしてはいけないのは、甘えさせるというのは、ほしいものを買い与えることなんかではないということです。
伊藤さんの著書の中で、心理学者の佐々木正美先生(どんな考えの方かはこちらをご覧ください)がおっしゃっているのですが、ものを買い与えたりするだけの接し方は、最悪に「粗末な育てられ方」です。相手の気持ちを受け止めもせず、物で気をそらしているだけなのですから、当然です。
物を買ってやるから言うことをきけ、というのは、大人の都合で子供の気持ちを軽んじている典型例ですね。なにか、「援助交際」というものにつながる匂いがします。ああいう売春行為を抵抗無くやれてしまう子供というのは、きっと大人との関係を物や金を通してしか築いてこなかったのでしょう。情けない話ですね。
私が子供に対して自信を持って接することが出来るようになったのは、もちろん教える対象についての理解が深まったというのもあるのですが、伊藤さんの著作を読んで感銘を受けたことが大きいと思います。
みなさんも、よかったら伊藤さんの本を読んでみてください。本当に教育や非行少年更生を実行している方の言葉は、重みがあります。
そして、それらの言葉は、まさにみなさんの「うちの子」にもぴったり当てはまることなのです。
最後に、今回の話に関連したこのブログの記事として、
●「結果への足し算」「結果からの引き算」
●結果を出せばいいとうビョーキ
があります。
よかったら、ご覧になってください。
この方は、非行カウンセラーの伊藤幸宏さんという方です。
『体当たり子直し』(小学館)や『僕たちはいらない人間ですか?』(扶桑社)といった、青少年問題に関する本を書かれているひとです。
伊藤さんの人となりはこちらをご覧になっていただければわかりますが、私からも簡単に説明させていただきます。
伊藤さんは、もともと神奈川の大暴走族連合のトップでした。警察の壊滅作戦によって逮捕されて刑務所暮らしをした後、自動車修理工場に勤める傍ら、ボランティアで非行少年少女の更生活動をなさってきました。
経歴からして「ユニーク」ですが、この人の子供へのアプローチは、本当に唸らせられるものがあります。私の子供に対する考え方が、この人の著書を読んで一変したほどです。
たとえば、非行少年を更生させるときに、わざと生まれ育った場所から離れたところに住ませて働かせるということをなさっています。これは、本当に鋭いなと思いました。
非行も心の病の一種だとすれば、他の多くの精神疾患と同じように、原因になっているのは人間関係や対人環境なのです。だから、非行をしていた環境に戻れば、せっかく少年院で改心しても、また非行の道を歩んでしまうのです。これを何とかするには、場所を変えるしかありません。
伊藤さんが素晴らしいのは、それをたった一人でも「実践」している点です。もっとも、個人が出来ることには限界があり、こういう取り組みこそ国や自治体の助けがほしい、と著作の中でおっしゃっています。
教科書の中身を若い人たちが自信を持てるように変えていくのも大事ですが、こういった、子供を「すくい上げる」活動も、また充実していてほしいものです。そういう仕組みこそ、本当のセーフネットだと思うのですが。
また、伊藤さんは著作の中で、一番良くないのは「親都合の子育て」だと、喝破されています。
これは、私の体験でも、思い当たることがあります。
教育熱心なご家庭の中には、少なからず自分の子供のことをわかっていない、わかろうとしない親御さんがいるのです。
一番分かりやすい例は、子供の学力から見れば到底届きそうにもない志望校を、子供に押しつけてしまっている親御さんです。面白いことに、そういう家庭に限って、生徒の学力が勉強すればするほど下がっていくことが多いのです。
親御さんとしては、なるだけレベルの高い学校に入れることでその子の将来をいい方向に向かわせたいと思っているのだと思うのです(もちろん、単なる見栄というのもあるかもしれませんが・・・)。
ところが、勉強をしている子供はつまらなさそうにしていることがほとんどです。当然でしょう。志望校の受かるレベルまで成績が上がらなければ、絶対に親に肯定してもらえないのですから、勉強が「苦役」になってしまうのです。
それを見た親御さんは、余計に焦ってしまうのです。私たち塾講師にも、何とかしてくれ、受からせてくれ、と督励してきます。
私はもうそういう親御さんの対処法を覚えたのですが、そうでない真面目な先生などは、それを真に受けて課題をどんどん出します。残して教えていても、義務感が先に立つからどうしても深刻な顔をして接してしまいます。そうなると、子供はますます勉強がつまらなくなる・・・もう、最悪の悪循環です。
これをどうしたら克服できるのでしょうか?実は、簡単なのです。親御さんが自分にとって都合のいい志望校を捨ててしまえばいいだけの話なのです。出発点が間違っているのです。それを改めない限り、誰も幸せにはなれません。
はっきり言いますが、頭のいい子と、そうでない子というのは、どうしても同じことをやっても差が付いてしまいます。しかし、それと子供が真っ当で幸せな人生を歩めるかどうかは別問題です。親御さんにできる一番のことは、その子が出来る範囲で最大限の努力をしたら、受かろうが落ちようが「よくがんばったね!」と言ってあげることです。そういう温かい励ましは、子供ならみんなお父さん・お母さんに言ってもらいたいはずなのですから。
これは、あくまで受験に限った話なのですが、これが家庭内の話ならどうでしょうか。(以下の話は、パクリではなく、私が勝手に作ったたとえ話です)
とても甘えん坊の子供がいるとします。この子には、何の非もありません。そういう性格の子なのです。さんざん甘えさせる(なるべく沢山口をきいてあげたり、一緒に遊んだりする)ようにすれば、そのうち勝手に親から離れていきます。
ところが、一戸建てを買ってしまい、そのローンを返済するために、お母さんが夜までパートに出てしまうようになると、この子は少しずつおかしくなってきます。家のものをわざと壊したり、学校で弱いものイジメをしたりし始めます。原因をきいても、よくわかりません。
伊藤さん流に言えば、これは子供が寂しいから構ってほしいというサインを出しているのです。みなさんも、子供の頃、よくありませんでしたか?親や友達に相手をしてもらえないから、わざとひどいことを言ったり、悪いことと知りながらものを壊したり・・・私はかなり身に覚えがあります(笑)。それと同じです。
親御さんは、ともすると、このような子供の変調を、「しっかりしなさい」などとかえって叱ってしまうことが多いです。それが、間違いなのです。子供は構われたいのです。だから、ほうっておいてはいけません。もしかしたら、その子は近い将来非行に走ってしまうかも知れない。子供は簡単に成長していきますが、落ちていくのもまた簡単なのです。
しつこいですけど、今はやりの、「世界のまずしさ」なんてほうっておいて構いません。白いバンドを300円で買っても、アフリカの内戦やイラクの空爆は終わりません。親御さんなら誰にでもできる社会貢献は、小さい子供にはたくさん甘えさせることなのです。それがゆくゆくは、健全な人格を育成することにつながるのです。
勘違いしてはいけないのは、甘えさせるというのは、ほしいものを買い与えることなんかではないということです。
伊藤さんの著書の中で、心理学者の佐々木正美先生(どんな考えの方かはこちらをご覧ください)がおっしゃっているのですが、ものを買い与えたりするだけの接し方は、最悪に「粗末な育てられ方」です。相手の気持ちを受け止めもせず、物で気をそらしているだけなのですから、当然です。
物を買ってやるから言うことをきけ、というのは、大人の都合で子供の気持ちを軽んじている典型例ですね。なにか、「援助交際」というものにつながる匂いがします。ああいう売春行為を抵抗無くやれてしまう子供というのは、きっと大人との関係を物や金を通してしか築いてこなかったのでしょう。情けない話ですね。
私が子供に対して自信を持って接することが出来るようになったのは、もちろん教える対象についての理解が深まったというのもあるのですが、伊藤さんの著作を読んで感銘を受けたことが大きいと思います。
みなさんも、よかったら伊藤さんの本を読んでみてください。本当に教育や非行少年更生を実行している方の言葉は、重みがあります。
そして、それらの言葉は、まさにみなさんの「うちの子」にもぴったり当てはまることなのです。
最後に、今回の話に関連したこのブログの記事として、
●「結果への足し算」「結果からの引き算」
●結果を出せばいいとうビョーキ
があります。
よかったら、ご覧になってください。
久々に、雷を落としました。
同じようなケースで、参考になれば幸いなので、私がどういうことを考えながら叱ったかというポイントを交えながら、紹介したいと思います。
相手は、中3の女の子です。
可愛い感じのするムードメーカー的な女の子ですが、どうも最近タガが緩んできているなという感じがしていました。
もともとかなり出来る生徒なのですが、英語の小テストでは毎回不合格、それでも平気でいるのです。当然、出せと言った宿題を出すのも遅い。あげくに、学力からしてみたらもう100%受かるような都立校を志望校にしてしまいました。
ここのところ運動会があって授業に遅れがちだったのですが、会が終わった当日も授業に出ませんでした。
このごろの中学生というのは、どういうわけかイベントのあとに「打ち上げ」なんてやるのですね。こういうのをどうして大人の教師が止めないのか不思議です。まあ、子供としたら解放感に浸りたいということなのでしょうが、どうも私には理解できません。
そのあげく、代休だった今日も(今の中学校は休みだらけですね。さすが日教組、サボる機会が増えるのは大歓迎というところでしょうか)、親戚のところに遊びに行って2時間のうち1時間を遅刻。
クラス担任の方は休んだ分を空いている時間でフォローすればいいと思っていたようですが、私はもう我慢できませんでした。
ここで止めないと、多分このまま受験が終わってしまう。きっと、勉強なんてこんなもんだと思ってしまう。それだけは、避けなくてはいけない。
そういうこともあって、呼び出して職員室で叱りました。
まず、わざと他の子を呼んでおいて、待たせておくことにしました。その生徒と話をしながらちらっと見てみると、さすがにこれからどういうことが待ちかまえているか感づいているらしく、少し顔が青い。
さて、その子の番です。
怒鳴ったりせず、これまであった嘗めたような態度を鋭い口調で指摘し続けました。おまえは勉強を嘗めているんじゃないのか、と尋ねると、もちろんそうではないと言います。(ここで「嘗めちゃ悪い?」と言う子なら、多分平手打ちが飛んでます)その子が開き直っていなかったというのは、声がか細くなって、目が潤んできていたことからもよくわかりました。変な言い方ですが、叱るときは、そういう相手に表情の変化が分かるようになると、もう職人芸の域(笑)に入っているのかも知れません。自分で言うのも変ですが・・・。
それから、本来もっとできるはずなのに、手を抜いてしまうことはよくないことだ、先生はあなたの能力を買っているからこうやって改善のための警告をしているんだ、と伝えました。この辺から、だんだん声のトーンは丸みを帯びた感じにしていきます。もちろん、計算しての上です。
面白いものですね。その子は最後に自分からどこの学校の過去問を買えばいいか、尋ねてきました。別に、私ではなくて、明日担任の方に話せばいいはずなのですが・・・。
誰でも経験があると思うのですが、叱責されたあとの子供は必ず何か違う会話をして救われたいとすがるような気持ちを持っています。そうでもしないと、息が詰まってしまうし、許されたいと思ってそうするのでしょうね。
そういう段階まで来たら、もう表情を緩めても大丈夫です。逆に、この段階まで来たら、先ほどまで問いつめた非を蒸し返しては絶対にいけません。その子は、二度と本音で話してくれなくなってしまいます。
誰だって、救われたい一心で言葉を発したのに「だからどうしたんだ!?」などと言われたら、愕然とするでしょう。
かといって、ここで軽口ばかり叩いたら、せっかく保ってきた緊張感が台無しになってしまいます。あくまで、緩い坂を下るようにして気持ちを軟着陸させなければいけません。
人間は、理屈だけで生きているわけではないのです。それも、この年まで来てやっと身に沁みて分かったことなのですが・・・。
最後は笑顔も何回か浮かんだので、まあうまく行った方でしょう。
私が頭に来てしまったのは、二つの点で彼女の行いをこれ以上許すわけにはいかなかったからです。
まず、私たち講師の側の指示を軽んじているという点です。
言うことを聞かないと、どんな大人も初めは叱ります。しかし、そのうち根負けしてしまいます。面倒くさいので、なんとなくそのままにしてしまうのでしょう。
しかし、これでは子供に調教されているようなものです。子供には、「この人の言うことは素直に聞かなくてはいけない」と、思わせるのが原則です。日教組や人権派弁護士が好きそうな言葉ですが、子供を「対等の人格」だと認めたら絶対に嘗められてしまうのです。
そして、もう一つは、前にも挙げたように、「このまま行ったらこいつはダメになる」という危機感です。
出来ない子は、出来ない子なりに精一杯努力をしなくてはいけないし、頭の良い生徒は最大限まで学力を伸ばさなければいけないのです。そうでなければ、これから進む高校や大学、そして社会人としての生活でさえ、「この程度でいいか」という、ふぬけた態度をとり続けることになる。
そんな大人に、日本という国を任せられるでしょうか?
こんなことを言うとオーバーだろうと思うかも知れませんが、私はどの生徒にも日本人として恥ずかしくない人間になってほしいと思って接しています。たかが塾じゃないかと思う人もいるでしょうし、私も基本的に「塾なんて要らない」と考えています。
しかし、不幸にして受験という目的を達成するための場所で出会ったのですから、せめてものこと、受験勉強をするという一種の「苦役」を通じて、社会に通用する人間になってほしい、人の役に立てる能力や精神力の持ち主になってほしいと思っています。
戦後の日本の教育が一番良くなかったのは、教師自身が「国を背負う人間を育てる」という使命感、いわば教育に必要な背骨みたいなものを失ってしまったからだと思います。
自由で想像力豊かな人格形成、などというものは、残念ながら公教育では無理です。天才を理解できるのは、それに近い能力を持っている少数のエリートだけだからです。
それならば、日本という国や、地域社会、もっと小さい単位なら家族や友人のためになる人間になる、という現実的な目標を目指すしかないのです。
こういうことを言うとすぐに、「自分の生きたいように生きればいいのであって、国のためなどというのは価値観の押しつけだ」などという人がいますね。
私から、そういう人々に声を大にして言いたいことがあります。
あなたは子供に迎合してるだけだ!!!
自分で勝手に自信喪失しているだけなら勝手ですが、それを子供に対する接し方に持ち込んで善人ヅラしている大人は、一生子供と接しないでもらいたいです。
自分の国や自分の人生に誇りを持っている人間なら、絶対に子供を放っておくことはしないはずです。
「ほっとけない、世界の貧しさ」などと唱えている場合があるなら、側にいる子供をほっとかないでください。遠いところにある実現しそうもない理想を唱えるのが、今の日本人(戦後教育を受けた日本人)は本当に好きですね。たぶん、そういうお題目を唱えていれば、何かいいことをしているのだという錯覚に陥っているのでしょう。
本当に大切なのは、大人が今ここにいてできることを、諦めずにひとつひとつ子供に対して実行していくことなのではないでしょうか。親であれ、教師であれ、大人一般であれ、同じことだと思います。
無軌道になりがちだった少年・少女時代が誰にでもあるはずです。
そんなとき、みなさんは、うわべは楽しそうでも、本当は「なんか違うな」と思いながら笑っていたんじゃありませんか?
そのときのことを思い出しながら、言葉をよく選んで叱ってあげてください。それで恨まれることはまずありません。
ひととき、「あいつウザイ」などと思われるかも知れませんが、それだけ叱ったのが効いているということです。くれぐれも、むくれた顔を見て、慌てて方針を変えるようなことがないようにしてください。嘗められたらダメなのは、犬のしつけと同じです。
しかし、叱るというのはなかなかエネルギーがいりますね・・・
同じようなケースで、参考になれば幸いなので、私がどういうことを考えながら叱ったかというポイントを交えながら、紹介したいと思います。
相手は、中3の女の子です。
可愛い感じのするムードメーカー的な女の子ですが、どうも最近タガが緩んできているなという感じがしていました。
もともとかなり出来る生徒なのですが、英語の小テストでは毎回不合格、それでも平気でいるのです。当然、出せと言った宿題を出すのも遅い。あげくに、学力からしてみたらもう100%受かるような都立校を志望校にしてしまいました。
ここのところ運動会があって授業に遅れがちだったのですが、会が終わった当日も授業に出ませんでした。
このごろの中学生というのは、どういうわけかイベントのあとに「打ち上げ」なんてやるのですね。こういうのをどうして大人の教師が止めないのか不思議です。まあ、子供としたら解放感に浸りたいということなのでしょうが、どうも私には理解できません。
そのあげく、代休だった今日も(今の中学校は休みだらけですね。さすが日教組、サボる機会が増えるのは大歓迎というところでしょうか)、親戚のところに遊びに行って2時間のうち1時間を遅刻。
クラス担任の方は休んだ分を空いている時間でフォローすればいいと思っていたようですが、私はもう我慢できませんでした。
ここで止めないと、多分このまま受験が終わってしまう。きっと、勉強なんてこんなもんだと思ってしまう。それだけは、避けなくてはいけない。
そういうこともあって、呼び出して職員室で叱りました。
まず、わざと他の子を呼んでおいて、待たせておくことにしました。その生徒と話をしながらちらっと見てみると、さすがにこれからどういうことが待ちかまえているか感づいているらしく、少し顔が青い。
さて、その子の番です。
怒鳴ったりせず、これまであった嘗めたような態度を鋭い口調で指摘し続けました。おまえは勉強を嘗めているんじゃないのか、と尋ねると、もちろんそうではないと言います。(ここで「嘗めちゃ悪い?」と言う子なら、多分平手打ちが飛んでます)その子が開き直っていなかったというのは、声がか細くなって、目が潤んできていたことからもよくわかりました。変な言い方ですが、叱るときは、そういう相手に表情の変化が分かるようになると、もう職人芸の域(笑)に入っているのかも知れません。自分で言うのも変ですが・・・。
それから、本来もっとできるはずなのに、手を抜いてしまうことはよくないことだ、先生はあなたの能力を買っているからこうやって改善のための警告をしているんだ、と伝えました。この辺から、だんだん声のトーンは丸みを帯びた感じにしていきます。もちろん、計算しての上です。
面白いものですね。その子は最後に自分からどこの学校の過去問を買えばいいか、尋ねてきました。別に、私ではなくて、明日担任の方に話せばいいはずなのですが・・・。
誰でも経験があると思うのですが、叱責されたあとの子供は必ず何か違う会話をして救われたいとすがるような気持ちを持っています。そうでもしないと、息が詰まってしまうし、許されたいと思ってそうするのでしょうね。
そういう段階まで来たら、もう表情を緩めても大丈夫です。逆に、この段階まで来たら、先ほどまで問いつめた非を蒸し返しては絶対にいけません。その子は、二度と本音で話してくれなくなってしまいます。
誰だって、救われたい一心で言葉を発したのに「だからどうしたんだ!?」などと言われたら、愕然とするでしょう。
かといって、ここで軽口ばかり叩いたら、せっかく保ってきた緊張感が台無しになってしまいます。あくまで、緩い坂を下るようにして気持ちを軟着陸させなければいけません。
人間は、理屈だけで生きているわけではないのです。それも、この年まで来てやっと身に沁みて分かったことなのですが・・・。
最後は笑顔も何回か浮かんだので、まあうまく行った方でしょう。
私が頭に来てしまったのは、二つの点で彼女の行いをこれ以上許すわけにはいかなかったからです。
まず、私たち講師の側の指示を軽んじているという点です。
言うことを聞かないと、どんな大人も初めは叱ります。しかし、そのうち根負けしてしまいます。面倒くさいので、なんとなくそのままにしてしまうのでしょう。
しかし、これでは子供に調教されているようなものです。子供には、「この人の言うことは素直に聞かなくてはいけない」と、思わせるのが原則です。日教組や人権派弁護士が好きそうな言葉ですが、子供を「対等の人格」だと認めたら絶対に嘗められてしまうのです。
そして、もう一つは、前にも挙げたように、「このまま行ったらこいつはダメになる」という危機感です。
出来ない子は、出来ない子なりに精一杯努力をしなくてはいけないし、頭の良い生徒は最大限まで学力を伸ばさなければいけないのです。そうでなければ、これから進む高校や大学、そして社会人としての生活でさえ、「この程度でいいか」という、ふぬけた態度をとり続けることになる。
そんな大人に、日本という国を任せられるでしょうか?
こんなことを言うとオーバーだろうと思うかも知れませんが、私はどの生徒にも日本人として恥ずかしくない人間になってほしいと思って接しています。たかが塾じゃないかと思う人もいるでしょうし、私も基本的に「塾なんて要らない」と考えています。
しかし、不幸にして受験という目的を達成するための場所で出会ったのですから、せめてものこと、受験勉強をするという一種の「苦役」を通じて、社会に通用する人間になってほしい、人の役に立てる能力や精神力の持ち主になってほしいと思っています。
戦後の日本の教育が一番良くなかったのは、教師自身が「国を背負う人間を育てる」という使命感、いわば教育に必要な背骨みたいなものを失ってしまったからだと思います。
自由で想像力豊かな人格形成、などというものは、残念ながら公教育では無理です。天才を理解できるのは、それに近い能力を持っている少数のエリートだけだからです。
それならば、日本という国や、地域社会、もっと小さい単位なら家族や友人のためになる人間になる、という現実的な目標を目指すしかないのです。
こういうことを言うとすぐに、「自分の生きたいように生きればいいのであって、国のためなどというのは価値観の押しつけだ」などという人がいますね。
私から、そういう人々に声を大にして言いたいことがあります。
あなたは子供に迎合してるだけだ!!!
自分で勝手に自信喪失しているだけなら勝手ですが、それを子供に対する接し方に持ち込んで善人ヅラしている大人は、一生子供と接しないでもらいたいです。
自分の国や自分の人生に誇りを持っている人間なら、絶対に子供を放っておくことはしないはずです。
「ほっとけない、世界の貧しさ」などと唱えている場合があるなら、側にいる子供をほっとかないでください。遠いところにある実現しそうもない理想を唱えるのが、今の日本人(戦後教育を受けた日本人)は本当に好きですね。たぶん、そういうお題目を唱えていれば、何かいいことをしているのだという錯覚に陥っているのでしょう。
本当に大切なのは、大人が今ここにいてできることを、諦めずにひとつひとつ子供に対して実行していくことなのではないでしょうか。親であれ、教師であれ、大人一般であれ、同じことだと思います。
無軌道になりがちだった少年・少女時代が誰にでもあるはずです。
そんなとき、みなさんは、うわべは楽しそうでも、本当は「なんか違うな」と思いながら笑っていたんじゃありませんか?
そのときのことを思い出しながら、言葉をよく選んで叱ってあげてください。それで恨まれることはまずありません。
ひととき、「あいつウザイ」などと思われるかも知れませんが、それだけ叱ったのが効いているということです。くれぐれも、むくれた顔を見て、慌てて方針を変えるようなことがないようにしてください。嘗められたらダメなのは、犬のしつけと同じです。
しかし、叱るというのはなかなかエネルギーがいりますね・・・

私は小中学生に社会も教えていますが、どうも歴史について本当に知っておくべき事実を、教え手も読み手も(テキストや入試問題の)作り手も知らないことが多いようですね。
私の塾の社会のプリントでも、
「韓国人に日本語教育を強制した」
「朝鮮の農民から所有権のはっきりしていない土地を奪った」
などと、まるで日教組が検閲をしたかのような選択肢があって、情けなくなるときがあります。そもそも首都の人口の40%が奴隷だったような朝鮮に、所有権などという概念があったのかとは思いますが・・・。
歴史教育がおかしい、というのが議論されるようになってきたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」のおかげでしょう。
以前も私はここの教科書について懐疑的だったのですが、その実物を読んでみて、びっくりしたことがあります。
それは、この教科書が、期待に反して全く右翼的でなく、戦争を賛美したような記述もどこにもないのです。みなさんも、是非、実際に手にとって読んでみてください。本当に、普通の歴史の本です。
大事なのは、伝聞ではなく、自分で・実際に手にとってみることです。もし、「ここが軍国主義的だ」とか「こんなに戦前の天皇主権を賛美している」という箇所があったら、是非コメント蘭で私に教えてください。
もっとも、そういう煽りは、読んだこともない(それか、意図的に愛国心を否定しようとしている)売国左翼の人々がやっているのだとわかるでしょうけどね。
私が最近、自分の言動について大いに反省していることがあります。
それは、「実際に見もしないで、知ったつもりになっていた」ということです。
そう思うようになったのは、夏に西日本の各地をバイクで旅行した後です。
四国の県境などは、本当に不便なところが多いわけです。特に思ったのは、持ち合わせが無くなったとき、預金をおろすのが大変だな、ということでした。
香川の真ん中にある満濃町から、讃岐山脈の向こうにある吉野川市まで、主要地方道を通ってきましたが、銀行というものが一つもないのです。それにも関わらず、どの町や村にも、必ず郵便局はありました。
もし自分がここに住んでいて、「この郵便局は赤字だから、閉鎖します」と言い始めたらどう思うだろう?ここ以外にどこか金融機関と呼べるものがあるのか?
それからどうも、今やろうとしている郵政民営化というのは、どこかおかしいのではないか、と思えてきたのです。
以前の私であれば、マスコミの言うように、郵政民営化を行えば改革が進む、と思い、田舎の郵便局がどうなろうとしったことではない、と簡単に割り切っていたと思います。
いや、むしろ、政治家に公共事業を回してもらって生きているような馬鹿な連中は、苦しんで当然だ、ということさえ考えたことでしょう。
しかし、実際に田舎に行ってみると、そこにも人がいて、ちゃんと暮らしているのを目の当たりにするわけです。そして、東京に集まっている顔のない人々より、人に対して優しいことが多かったりします。
そこで考えてしまうのです。こういう人たちが、本当に政治家のおこぼれをもらって生きているような愚かな人種なのだろうか?きっと、それに頼らざるをえないような仕組みが出来上がってしまっているのではないか?自分の生活のためだったら、多少納得できないことがあっても、地元の名士として政治家を頼ってしまうのは仕方のないことなのではないか・・・と。
そうしてはじめて、地方の連中は馬鹿だから、と、よくわかってもいないのに、勝手に決めつけていた自分を、心底恥ずかしいと思いました。
五木寛之さんの著書である『養生の実技』に、以下のようなくだりがあって、なるほどと思わされたことがあります。
「萩だけでなく、全国どこを歩いても、地方都市は閑散としている。
郊外の大型店に押されて、街なかの商店がのきなみシャッターを
おろしている様子も寂しい。
(中略)
私の考えは末端が大事、ということだ。中心が元気であるためには、
末端の部分がいきいきしていなければならない。人間だと手、
足の先、皮膚や、指先や、とにかく末端が元気である必要がある」
考えてみれば、地方というのは、我々が日々口にする農作物の生まれるところでもあるわけです。
だから、地方が死に絶えてしまえば、我々は毎日の糧食にも事欠くようになってしまうわけです。そして、こんなひどい環境で安いだけが取り柄の農作物を作っている国から食料を買わなければならなくなってしまうのです。
郵政民営化の前に、地方がどっぷり浸かってしまった、土木事業中心の産業構造の転換を実行すべきです。
例えば、ぜひともやってもらいたいのは、建設会社の数を減らす措置です。建設業は公共事業に依存する割合が相当大きな業種であり、生き延びるためには結局政治献金や談合に頼らざるを得なくなっています。その数を適正規模に減らせば、税金の無駄遣いや自然破壊は絶対に減ります。その分、農業や伝統工業の分野で参入規制を緩和すればよいのです。
食糧自給率が低いというのなら、なぜもっと農業に従事する人口を増やそうとしないのでしょうか。いまだに農家の息子娘以外の新規参入が困難な仕組みを変えれば、農家の数は見違えるように増えるはずです。そういう仕組みを作ることこそ、本当の「地方活性化」なのです。
それもせずに、何が「自己責任」、何が「自助努力」でしょうか。羽振りの良いときには票を取る道具として扱っておいて、今になってはしごを外すとは、本当に卑怯なやりかたです。
まあ、その旗振り役をしているライオンヘアーの誰かさんは、地元の横須賀に米軍さえいてくれれば、地元に失業者が増えることもなく、地方の困っている人たちの声など気にする必要がないのでしょうがね!!
補助金は減る、公共事業はなくなる、それでいて農業経営には制約が多い、、あげくの果てには郵便局まで取りつぶされてしまう・・・地方が兵糧責めにあっているようなものです。こんなのが、健全な国だとは私には思えません。
これらはみんな、都会だけで生活していたら、頭でしか分からなかったことです。違う場所で暮らしている人にも、それぞれの生活や利害があるのだと知り、私は自分のものの考え方がずいぶん落ち着いたような気がします。
マスコミが短い記事を断定的に書いているだけで、わかったつもりになっているようなことって、他にもありますよね。
その最たるものは、子供を教えたことも触れたこともない人が唱えている教育制度の問題点でしょうね。まあ、これについてはまた別の機会に述べるとしましょう。
これからも、口を出す以上はいろいろなものを実際に見て、聞いて、味わって、判断するようにしたいものだと思います。
私の塾の社会のプリントでも、
「韓国人に日本語教育を強制した」
「朝鮮の農民から所有権のはっきりしていない土地を奪った」
などと、まるで日教組が検閲をしたかのような選択肢があって、情けなくなるときがあります。そもそも首都の人口の40%が奴隷だったような朝鮮に、所有権などという概念があったのかとは思いますが・・・。
歴史教育がおかしい、というのが議論されるようになってきたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」のおかげでしょう。
以前も私はここの教科書について懐疑的だったのですが、その実物を読んでみて、びっくりしたことがあります。
それは、この教科書が、期待に反して全く右翼的でなく、戦争を賛美したような記述もどこにもないのです。みなさんも、是非、実際に手にとって読んでみてください。本当に、普通の歴史の本です。
大事なのは、伝聞ではなく、自分で・実際に手にとってみることです。もし、「ここが軍国主義的だ」とか「こんなに戦前の天皇主権を賛美している」という箇所があったら、是非コメント蘭で私に教えてください。
もっとも、そういう煽りは、読んだこともない(それか、意図的に愛国心を否定しようとしている)売国左翼の人々がやっているのだとわかるでしょうけどね。
私が最近、自分の言動について大いに反省していることがあります。
それは、「実際に見もしないで、知ったつもりになっていた」ということです。
そう思うようになったのは、夏に西日本の各地をバイクで旅行した後です。
四国の県境などは、本当に不便なところが多いわけです。特に思ったのは、持ち合わせが無くなったとき、預金をおろすのが大変だな、ということでした。
香川の真ん中にある満濃町から、讃岐山脈の向こうにある吉野川市まで、主要地方道を通ってきましたが、銀行というものが一つもないのです。それにも関わらず、どの町や村にも、必ず郵便局はありました。
もし自分がここに住んでいて、「この郵便局は赤字だから、閉鎖します」と言い始めたらどう思うだろう?ここ以外にどこか金融機関と呼べるものがあるのか?
それからどうも、今やろうとしている郵政民営化というのは、どこかおかしいのではないか、と思えてきたのです。
以前の私であれば、マスコミの言うように、郵政民営化を行えば改革が進む、と思い、田舎の郵便局がどうなろうとしったことではない、と簡単に割り切っていたと思います。
いや、むしろ、政治家に公共事業を回してもらって生きているような馬鹿な連中は、苦しんで当然だ、ということさえ考えたことでしょう。
しかし、実際に田舎に行ってみると、そこにも人がいて、ちゃんと暮らしているのを目の当たりにするわけです。そして、東京に集まっている顔のない人々より、人に対して優しいことが多かったりします。
そこで考えてしまうのです。こういう人たちが、本当に政治家のおこぼれをもらって生きているような愚かな人種なのだろうか?きっと、それに頼らざるをえないような仕組みが出来上がってしまっているのではないか?自分の生活のためだったら、多少納得できないことがあっても、地元の名士として政治家を頼ってしまうのは仕方のないことなのではないか・・・と。
そうしてはじめて、地方の連中は馬鹿だから、と、よくわかってもいないのに、勝手に決めつけていた自分を、心底恥ずかしいと思いました。
五木寛之さんの著書である『養生の実技』に、以下のようなくだりがあって、なるほどと思わされたことがあります。
「萩だけでなく、全国どこを歩いても、地方都市は閑散としている。
郊外の大型店に押されて、街なかの商店がのきなみシャッターを
おろしている様子も寂しい。
(中略)
私の考えは末端が大事、ということだ。中心が元気であるためには、
末端の部分がいきいきしていなければならない。人間だと手、
足の先、皮膚や、指先や、とにかく末端が元気である必要がある」
考えてみれば、地方というのは、我々が日々口にする農作物の生まれるところでもあるわけです。
だから、地方が死に絶えてしまえば、我々は毎日の糧食にも事欠くようになってしまうわけです。そして、こんなひどい環境で安いだけが取り柄の農作物を作っている国から食料を買わなければならなくなってしまうのです。
郵政民営化の前に、地方がどっぷり浸かってしまった、土木事業中心の産業構造の転換を実行すべきです。
例えば、ぜひともやってもらいたいのは、建設会社の数を減らす措置です。建設業は公共事業に依存する割合が相当大きな業種であり、生き延びるためには結局政治献金や談合に頼らざるを得なくなっています。その数を適正規模に減らせば、税金の無駄遣いや自然破壊は絶対に減ります。その分、農業や伝統工業の分野で参入規制を緩和すればよいのです。
食糧自給率が低いというのなら、なぜもっと農業に従事する人口を増やそうとしないのでしょうか。いまだに農家の息子娘以外の新規参入が困難な仕組みを変えれば、農家の数は見違えるように増えるはずです。そういう仕組みを作ることこそ、本当の「地方活性化」なのです。
それもせずに、何が「自己責任」、何が「自助努力」でしょうか。羽振りの良いときには票を取る道具として扱っておいて、今になってはしごを外すとは、本当に卑怯なやりかたです。
まあ、その旗振り役をしているライオンヘアーの誰かさんは、地元の横須賀に米軍さえいてくれれば、地元に失業者が増えることもなく、地方の困っている人たちの声など気にする必要がないのでしょうがね!!
補助金は減る、公共事業はなくなる、それでいて農業経営には制約が多い、、あげくの果てには郵便局まで取りつぶされてしまう・・・地方が兵糧責めにあっているようなものです。こんなのが、健全な国だとは私には思えません。
これらはみんな、都会だけで生活していたら、頭でしか分からなかったことです。違う場所で暮らしている人にも、それぞれの生活や利害があるのだと知り、私は自分のものの考え方がずいぶん落ち着いたような気がします。
マスコミが短い記事を断定的に書いているだけで、わかったつもりになっているようなことって、他にもありますよね。
その最たるものは、子供を教えたことも触れたこともない人が唱えている教育制度の問題点でしょうね。まあ、これについてはまた別の機会に述べるとしましょう。
これからも、口を出す以上はいろいろなものを実際に見て、聞いて、味わって、判断するようにしたいものだと思います。
日本教職員組合(日教組)という団体をご存じでしょうか?(ホームページは●こちら)
日の丸・君が代を拒絶し、偏向した教育を子供に押しつけ、教科書の「検閲」(下注)までしてしまう・・・本当に売国奴のような団体です。これでしっかり働いてくれていればいいのですが、残業や休日出勤ははことごとく拒否、少しでも文句を言うと、組合ごとねじ込んでくる・・・労働組合の悪いイメージを日本各地で見事に「宣伝」してくれています。
(注:日教組は各自治体の教育委員会が教科書を採択する上でのチェック項目なるものを設けており、その内容は明らかに特定のイデオロギーに染まっています。詳しくは●こちらをご覧ください)
日教組がいかにひどい団体かは、●「日教組を観察する」というサイトをご覧頂ければよくわかるかと思います。そこで、私ならではのユニークな視点(笑)で、この団体のおかしなところを紹介してみたいと思います。
日教組ホームページの「休憩室」というディレクトリに、「点鐘」というコラムがあります。
そこに、こんな「興味深い」内容の文章が載っていました。
「裁かれる教員と生徒の恋愛」
宮 淑子
ジャーナリスト
「N子が失踪して、もう6日になります。手を尽くして捜していますが、行方が掴めません」とAさんから携帯にメールが入った。それは大変、と私は現地に向かった。
Aさんは中学校教員だった1999年、教え子のN子さん(当時15歳)との恋愛・妊娠が発覚。「生徒を妊娠させた淫行教員」として懲戒免職になった。
教員と生徒の恋愛は学校では御法度なのか。「淫行教員」扱いで懲戒免職となる行為なのか。N子さんの性的自己決定権はどうなるのか。私は数々の疑念を抱いて2002年、取材に赴いた。教員資格を剥奪された後、小さな民間企業で働くAさん。パート勤めをするN子さん。二人の間には二児ができ、生活は楽ではなかったが、固い絆で結ばれていることがうかがわれた。「私は、Aに性暴力を受けた被害者ではありません。私が彼を選んだのです。彼の身の潔白が証明されるなら、協力は惜しみません」と気持ちを話してくれたN子さん。(以上、拙著『黙りこくる少女たち』《講談社》に詳しい)。
N子さんに一体、どういう心の変化があったのだろう。
「僕に対する不満でしょうか?僕が教職を捨ててまでN子と守ろうとしたことの意味が一挙に崩壊した感じで、いまはただ虚ろな気分です」と肩を落とすAさん。ふたりの生活が危機にあることだけは確かだ。
「教員は商品である子どもに手を出すな、ストイックであれ」「教員と生徒は上下関係があり、対等な恋愛はありえない」と教員と生徒との恋愛には否定論者が多い。スクールセクハラなど性暴力の訴えが盛んになった今日、文科省は恋愛すら「わいせつ行為」として教員を懲戒免職の対象にする。
最近M県で、男生徒と交際の女性高校教員が懲戒免職となった(読売新聞 2005.3.9)。この事件の真相を詳しく知りたい。知っているひとは教えてほしい。「教員と生徒の恋愛(の自由)」は、一律な処分、制裁で済む問題ではないと私は思っており、これからも追い求めていきたい問題だからだ。
N子さんの失踪に関する部分を除き、筆者の主張をを要約すると、こういうことになります。
どうして、先生と生徒が恋愛してはいけないのか。生徒にも性に関する自己決定権がある以上、恋愛は尊重すべきではないか。世の中では「教師はストイックでなければダメ」だとか「教師が優位に立っている以上、どうしても教師が支配するような関係になってしまいがちだ」だとか言っている者がいるが、そんなのは当事者の問題であり、懲戒免職の事由にはすべきでない。教師と生徒の恋愛は、その内情まできちんと調べた上で処分すべきか否か検討すべきだ。
私はもう、苦笑するしかありません。このコラムの筆者は、先生と生徒の恋愛を正当化しようと、本当に必死ですね。
先生と生徒の恋愛というのは、ないことではないでしょう。私の元同僚(愛媛の高校で教員経験あり)も、机を並べていた先生の結婚式に呼ばれたら、相手が教え子の女の子だったという経験をしています。
しかし、それは少なくとも、町中でカップルが手をつなぐみたいな、おおっぴらにするものではありません。
このコラムの筆者には、特定の生徒と教師が関係を持ったら、周囲はそれをどう思うかという視点が欠けています。これはかなり重大なことです。恋人づきあいなどというのは、究極の「えこひいき」でしょう。成績評価や進路指導に手心を加えているという目で見られるのが当たり前です。
こういうことを言うと、「本人同士が好きと言っているのに、それの何が悪いんだ」という反論があるでしょう。
みなさんもよく知っておいてほしいのは、こういう「自分がどう思うかが重要で、他人に干渉される謂われはない」という姿勢こそ、今の日本の子供たちがおかしくなり始めている発端だということです。
つまり、こういう考えの持ち主は、恋愛(というか、色欲)に没頭している本人たち以外の人間が、どんな思いを持つかという点についての想像力が、決定的に欠けているのです。自分の娘が教師の性愛の対象になることを受け容れられない保護者の立場など、全く考慮していない。教職にいる以上、そういう社会的制約があるのは当然の宿命だとも思えず、それを非合理だと攻撃し、自分の振る舞いたいように振る舞うことを至上命題にする。
なんだかまるで、「キレる子供」みたいですね。
こういう論理で自分のやることを正当化している大人は、援助交際をしている女子生徒が「やりたくてやってるからいいじゃん、誰にも迷惑かけてないし」などと反論したら、きっと何も言い返せないでしょう。情けない限りです。
「N子さんの性的自己決定権」というのも、意味不明な言葉ですね。
日教組、というか、売国左翼的な文脈で言えば、「女は男のなぐさみものではない、セックスや恋愛に関することは、女である私が自分で決める」という感じでしょうか。まあ、やりたければ勝手にやればいいでしょう。それだけが正しい生き方だと吹聴するような暴挙に出ない限りは。
しかし、そんな自己決定権は、海千山千のバーのママ(笑)ならいざしらず、15才の女子生徒にそもそも認められるものなのでしょうか。
これも、いかにも日教組的な考え方ですね。要するに、「子供も大人と対等な人格である」というやつです。
私もそういう風に考えたことがあったからわかるのですが、「子供と大人は対等」というのはあり得ない妄想です。
大人の側に、社会に出たときこういう風に行動してほしい、こんなことはしてほしくないという価値観があれば、子供の足りない面がむしろ目に付くはずなのです。それを、うまく躾けながら人格を育てていくというのが、教育というものなのではありませんか。
こういうことを言うと、日教組の先生は「思想の押しつけ」だとか、「自由や権利を奪うのはよくない」などと言い返してくるのでしょうね。
私には、「自分は人間としての自信に欠けているから、何もしませんよ。それの何が悪いんですか」と、半べそをかいているようにしか見えませんが(笑)。
普通に考えればわかるのですが、法律上結婚を許される年齢でもない女子生徒を妊娠させることが、その子の人生にとってプラスにはならないことはすぐにわかることです。それを、性的自己決定権などというわけの分からない言葉で「人権問題」にしてしまう。常識だとか、社会通念だとか、周囲の目はお構いなしです。
教師が軽はずみな真似をしたのを、無理矢理弁護しているように思えてしかたがありません。
まさか、「俺(わたし)たちも、生徒と恋したい!男女の関係になりたい」という声を民主的に吸い上げていて、春闘の交渉材料にでもするつもりなのでしょうかね?そうだったら、笑い事ではありませんよね・・・。
このようなどうしようもなく低劣な文章をホームページに載せて平気でいる団体が、「教え子を再び戦場に送るな」などというメッセージを掲載していたりするわけです。
お前に教え子と呼べるような子供がいるのか・・・?という疑問はさてき、ここまで来ると、もうブラックユーモアとしか言いようがありません。こういう思考回路を持った先生に教わるより戦場に行く方がまだましかもしれません。
このコラムだけでも、日教組がいかに教育の本質を見失い、下らないことに時間と税金を費やしている(組合活動を勤務時間中にやっているセンセー方も多いらしい)のか、本当によくわかりますね。
私も受験できちんと結果を残しながら教育の末端を担っていくつもりです。ここを見られた親御さんは、ぜひ日教組でない、まともな先生を応援してあげてくださいね。
日の丸・君が代を拒絶し、偏向した教育を子供に押しつけ、教科書の「検閲」(下注)までしてしまう・・・本当に売国奴のような団体です。これでしっかり働いてくれていればいいのですが、残業や休日出勤ははことごとく拒否、少しでも文句を言うと、組合ごとねじ込んでくる・・・労働組合の悪いイメージを日本各地で見事に「宣伝」してくれています。
(注:日教組は各自治体の教育委員会が教科書を採択する上でのチェック項目なるものを設けており、その内容は明らかに特定のイデオロギーに染まっています。詳しくは●こちらをご覧ください)
日教組がいかにひどい団体かは、●「日教組を観察する」というサイトをご覧頂ければよくわかるかと思います。そこで、私ならではのユニークな視点(笑)で、この団体のおかしなところを紹介してみたいと思います。
日教組ホームページの「休憩室」というディレクトリに、「点鐘」というコラムがあります。
そこに、こんな「興味深い」内容の文章が載っていました。
「裁かれる教員と生徒の恋愛」
宮 淑子
ジャーナリスト
「N子が失踪して、もう6日になります。手を尽くして捜していますが、行方が掴めません」とAさんから携帯にメールが入った。それは大変、と私は現地に向かった。
Aさんは中学校教員だった1999年、教え子のN子さん(当時15歳)との恋愛・妊娠が発覚。「生徒を妊娠させた淫行教員」として懲戒免職になった。
教員と生徒の恋愛は学校では御法度なのか。「淫行教員」扱いで懲戒免職となる行為なのか。N子さんの性的自己決定権はどうなるのか。私は数々の疑念を抱いて2002年、取材に赴いた。教員資格を剥奪された後、小さな民間企業で働くAさん。パート勤めをするN子さん。二人の間には二児ができ、生活は楽ではなかったが、固い絆で結ばれていることがうかがわれた。「私は、Aに性暴力を受けた被害者ではありません。私が彼を選んだのです。彼の身の潔白が証明されるなら、協力は惜しみません」と気持ちを話してくれたN子さん。(以上、拙著『黙りこくる少女たち』《講談社》に詳しい)。
N子さんに一体、どういう心の変化があったのだろう。
「僕に対する不満でしょうか?僕が教職を捨ててまでN子と守ろうとしたことの意味が一挙に崩壊した感じで、いまはただ虚ろな気分です」と肩を落とすAさん。ふたりの生活が危機にあることだけは確かだ。
「教員は商品である子どもに手を出すな、ストイックであれ」「教員と生徒は上下関係があり、対等な恋愛はありえない」と教員と生徒との恋愛には否定論者が多い。スクールセクハラなど性暴力の訴えが盛んになった今日、文科省は恋愛すら「わいせつ行為」として教員を懲戒免職の対象にする。
最近M県で、男生徒と交際の女性高校教員が懲戒免職となった(読売新聞 2005.3.9)。この事件の真相を詳しく知りたい。知っているひとは教えてほしい。「教員と生徒の恋愛(の自由)」は、一律な処分、制裁で済む問題ではないと私は思っており、これからも追い求めていきたい問題だからだ。
N子さんの失踪に関する部分を除き、筆者の主張をを要約すると、こういうことになります。
どうして、先生と生徒が恋愛してはいけないのか。生徒にも性に関する自己決定権がある以上、恋愛は尊重すべきではないか。世の中では「教師はストイックでなければダメ」だとか「教師が優位に立っている以上、どうしても教師が支配するような関係になってしまいがちだ」だとか言っている者がいるが、そんなのは当事者の問題であり、懲戒免職の事由にはすべきでない。教師と生徒の恋愛は、その内情まできちんと調べた上で処分すべきか否か検討すべきだ。
私はもう、苦笑するしかありません。このコラムの筆者は、先生と生徒の恋愛を正当化しようと、本当に必死ですね。
先生と生徒の恋愛というのは、ないことではないでしょう。私の元同僚(愛媛の高校で教員経験あり)も、机を並べていた先生の結婚式に呼ばれたら、相手が教え子の女の子だったという経験をしています。
しかし、それは少なくとも、町中でカップルが手をつなぐみたいな、おおっぴらにするものではありません。
このコラムの筆者には、特定の生徒と教師が関係を持ったら、周囲はそれをどう思うかという視点が欠けています。これはかなり重大なことです。恋人づきあいなどというのは、究極の「えこひいき」でしょう。成績評価や進路指導に手心を加えているという目で見られるのが当たり前です。
こういうことを言うと、「本人同士が好きと言っているのに、それの何が悪いんだ」という反論があるでしょう。
みなさんもよく知っておいてほしいのは、こういう「自分がどう思うかが重要で、他人に干渉される謂われはない」という姿勢こそ、今の日本の子供たちがおかしくなり始めている発端だということです。
つまり、こういう考えの持ち主は、恋愛(というか、色欲)に没頭している本人たち以外の人間が、どんな思いを持つかという点についての想像力が、決定的に欠けているのです。自分の娘が教師の性愛の対象になることを受け容れられない保護者の立場など、全く考慮していない。教職にいる以上、そういう社会的制約があるのは当然の宿命だとも思えず、それを非合理だと攻撃し、自分の振る舞いたいように振る舞うことを至上命題にする。
なんだかまるで、「キレる子供」みたいですね。
こういう論理で自分のやることを正当化している大人は、援助交際をしている女子生徒が「やりたくてやってるからいいじゃん、誰にも迷惑かけてないし」などと反論したら、きっと何も言い返せないでしょう。情けない限りです。
「N子さんの性的自己決定権」というのも、意味不明な言葉ですね。
日教組、というか、売国左翼的な文脈で言えば、「女は男のなぐさみものではない、セックスや恋愛に関することは、女である私が自分で決める」という感じでしょうか。まあ、やりたければ勝手にやればいいでしょう。それだけが正しい生き方だと吹聴するような暴挙に出ない限りは。
しかし、そんな自己決定権は、海千山千のバーのママ(笑)ならいざしらず、15才の女子生徒にそもそも認められるものなのでしょうか。
これも、いかにも日教組的な考え方ですね。要するに、「子供も大人と対等な人格である」というやつです。
私もそういう風に考えたことがあったからわかるのですが、「子供と大人は対等」というのはあり得ない妄想です。
大人の側に、社会に出たときこういう風に行動してほしい、こんなことはしてほしくないという価値観があれば、子供の足りない面がむしろ目に付くはずなのです。それを、うまく躾けながら人格を育てていくというのが、教育というものなのではありませんか。
こういうことを言うと、日教組の先生は「思想の押しつけ」だとか、「自由や権利を奪うのはよくない」などと言い返してくるのでしょうね。
私には、「自分は人間としての自信に欠けているから、何もしませんよ。それの何が悪いんですか」と、半べそをかいているようにしか見えませんが(笑)。
普通に考えればわかるのですが、法律上結婚を許される年齢でもない女子生徒を妊娠させることが、その子の人生にとってプラスにはならないことはすぐにわかることです。それを、性的自己決定権などというわけの分からない言葉で「人権問題」にしてしまう。常識だとか、社会通念だとか、周囲の目はお構いなしです。
教師が軽はずみな真似をしたのを、無理矢理弁護しているように思えてしかたがありません。
まさか、「俺(わたし)たちも、生徒と恋したい!男女の関係になりたい」という声を民主的に吸い上げていて、春闘の交渉材料にでもするつもりなのでしょうかね?そうだったら、笑い事ではありませんよね・・・。
このようなどうしようもなく低劣な文章をホームページに載せて平気でいる団体が、「教え子を再び戦場に送るな」などというメッセージを掲載していたりするわけです。
お前に教え子と呼べるような子供がいるのか・・・?という疑問はさてき、ここまで来ると、もうブラックユーモアとしか言いようがありません。こういう思考回路を持った先生に教わるより戦場に行く方がまだましかもしれません。
このコラムだけでも、日教組がいかに教育の本質を見失い、下らないことに時間と税金を費やしている(組合活動を勤務時間中にやっているセンセー方も多いらしい)のか、本当によくわかりますね。
私も受験できちんと結果を残しながら教育の末端を担っていくつもりです。ここを見られた親御さんは、ぜひ日教組でない、まともな先生を応援してあげてくださいね。
休みだったので、大相撲観戦をしてきました。
私はブルガリア出身の琴欧州のファンです。国技館でチケットを買うと、力士の写真入りクリアファイルをくれるのですが、その中にも琴欧州が出ていたのは嬉しかったです。
ただ、一緒に映っているのが普天王(0勝9敗)、若の里(休場中)というのは、あまり縁起が良くないですね・・・。
今日は、合格体験記というものについて取り上げてみたいと思います。
本屋に行くと、資格試験や大学受験の合格体験記が沢山売っています。
あそこに書いてあることは、どの程度参考にできるのか?そう尋ねられたら、私は、こう答えるようにしています。
「その人と自分が違う人間だということが理解できるなら、
大いに参考にすべきである」
この意味を、今から簡単に説明しましょう。
合格体験記を読むときに、絶対にやってはいけない態度は以下の二つです。
1.自分にそっくりそのまま当てはめてしまう
例えば、○○大学に受かった人の体験記で、「一日2時間やれば受かる」と書いてあったとすると、「じゃあ、俺も2時間しか勉強しないぞ」という風に考えてしまうのがそうです。
2時間で受かったのは、「その人」であって、自分ではないのです。その人はもしかしたら、基礎力がしっかりしていたのかも知れないし、学校の授業(入試を意識しているもの)をカウントしていないのかも知れない。一度見たことは忘れないほど頭のいい人なのかも知れない。
そういう条件があっての「2時間」であって、読み手の受験生が何時間必要かは、目標との兼ね合いで考えて行くしかないのです。
こういう人は、人生を長い目で見ると、かならず損をします。たとえば、これからはこの会社が伸びる、という話を聞くと、その会社に入ることしか考えなくなる。しばらくして、起業して成功した話を聞くと、思い切りよく会社をやめてしまう。資金繰りが苦しくなると、同業者がよく利用しているという高利の商工ローンに手を出す・・・。
何でも鵜呑みにしてしまう人は、どこかで必ず「カモ」にされるます。
成功体験を何でもそっくりあてはめてしまいがちな人は「疑問を持つ」ようにすべきです。
勉強時間は2時間でいい、と言う人には、必ず「なぜ2時間で済んだのか」を質問すべきです。
また、「この参考書を使うと受かる」と言う人に対しては、「何のために、どのタイミングで、どのように使ったのか」をきいてみるべきです。
納得できないところがあってもいいのです。そういう姿勢は、また違う意味で「勉強」になります。
では、もう一つの態度に行きましょう。
2.話を最初から聞こうとしない・すぐ疑う
ちょうど1.と正反対の態度です。
たとえば、ある予備校の講座を取ったら受かったよ、というと、「あの予備校はこういうところがダメだ」と反論してくるような感じでしょうか。
こういう姿勢を徹底させると、どういう末路に陥るか。
資格試験に受かるために、ある講座を受けることにした。わからないことが出てくると、途端にあら探しをし始める。よくないところをほじくり返すように見つけて、「続けても無駄だ」と、講座そのものに出なくなる・・・。
司法試験などの難関試験に特に多いのですが、こうやって毎年毎年やる講座を変えている受験生がいるのです。もちろん、なかなか合格しないのですが。
なぜそうなってしまうのか。理由はいくつか考えられます。
まず、そもそも「体験もせずに難癖をつけている」というのがあります。
予備校では「ガイダンス」と言って、講座担当者がこういう風にやっていきますよ、ということを説明する場を設けることが多いです。そういうのに出てみれば、その講師がお金を出すに値するかは或る程度わかります。
そういうこともしないで、伝聞で良い・悪いを判断する姿勢では、先が思いやられます。
その他には、「ただ単にサボる言い訳にしている」というのもあります。
わからないところが出てきたり、ある程度努力が必要な段階というものが、勉強にはつきものです。そういうところに来ると、教え方が悪いの、テキストが悪いの、他人のせいにして逃げてしまうのです。
私のいる塾業界でも、三つも四つも塾を変わっている子供が結構います。成績が出ないと、親御さんが「責任追及」を始めるのですが、すぐにその矛先が教え手の方へ向くのです。
こういう親御さんに育てられた子供は、もう不幸としか言いようがありません。
こういう傾向の人は、まず人の話を素直に聞くことです。
言っていることの意味内容に対して、初めから否定的な態度で接すると、覚えるのは難しくなります。相手の言うことを「聞く」というのは、自分の考えを捨てることではありません。まずは、ちゃんと聞くことです。
それから、言われた通り全力でやってみることです。その上で、やっぱりダメだというのなら、やり方を変えればいいのです。
それも出来ないというなら、やり方を人に教え手もらわなければいいのです。自分で対象を研究して、効果的な学習法を編み出せれば、時間はかかっても「勝ち」です。
もっとも、我流がひどすぎると、全く効果が上がりません。やはり、人の話は聞いた方がいいでしょうね。
結局、私が言いたいのは、
「何が妥当なのかは、自分で考えろ」
ということです。
ただ、それではあまりにも無責任なので、一定の指針は示させてもらうとしましょう。
<成功体験談よりも、失敗体験談を聞くべし>
他山の石、というやつです。
私なら、小論文のある大学で、小論文対策をほとんどやらなかったことや、高校で真面目に数学をやらなかったことです。
成功体験というのは、だいたいが自分がやったことをそのまま言っているだけです。個人差を考えると、あまり参考にはならないのです。
しかし、失敗体験は、そうすると必ずダメだというケースですから、避けることができれば合格に一歩近づくと言えます。
それに加えて、「こうすればよかった」という改善策を具体的に言っている体験談は、もう絶対に「買い」です。
<発憤材料には、どんどんすべし>
例えば、自分の模試の偏差値が40しかなく、志望校の合格圏内には全く届かない。そんなときに、同じ時期に偏差値40だったという合格者の話を聞いた、というケースを考えてみましょう。
こういう場合、「じゃあ偏差値40でも大丈夫なんだ」と、その合格者のやったことをそのままやろうとするのは、あまり賢いやり方とは言えません。その人はたまたま偏差値が低く出ていただけなのかもしれないからです。
しかし、「じゃあ、私も頑張ろう!」という風に、気合いを入れるのは大いに結構です。こいつに負けたくない、と、仮想敵にしてみると、だらけそうな時にいい興奮剤になるのではないでしょうか。
<疑問を持ったら、必ず質問すべし>
ポイントは、以下の4つです。
「何の為に、そうしたのか」
「どの程度の時間をかけたのか」
「やってみて、何が大変だったか」
「結局、どの程度役に立ったのか」
自分の人生がかかっているなら、そのくらいは質問できるのではないでしょうか。それでも、疑問がない、というなら、信じてやってみればいいだけです。
なんにせよ、一番大事なのは、自分の頭で考えることです。
自分で考え抜いて乗り越えた受験は、その後の人生で必ずプラスに働きますよ。
私はブルガリア出身の琴欧州のファンです。国技館でチケットを買うと、力士の写真入りクリアファイルをくれるのですが、その中にも琴欧州が出ていたのは嬉しかったです。
ただ、一緒に映っているのが普天王(0勝9敗)、若の里(休場中)というのは、あまり縁起が良くないですね・・・。
今日は、合格体験記というものについて取り上げてみたいと思います。
本屋に行くと、資格試験や大学受験の合格体験記が沢山売っています。
あそこに書いてあることは、どの程度参考にできるのか?そう尋ねられたら、私は、こう答えるようにしています。
「その人と自分が違う人間だということが理解できるなら、
大いに参考にすべきである」
この意味を、今から簡単に説明しましょう。
合格体験記を読むときに、絶対にやってはいけない態度は以下の二つです。
1.自分にそっくりそのまま当てはめてしまう
例えば、○○大学に受かった人の体験記で、「一日2時間やれば受かる」と書いてあったとすると、「じゃあ、俺も2時間しか勉強しないぞ」という風に考えてしまうのがそうです。
2時間で受かったのは、「その人」であって、自分ではないのです。その人はもしかしたら、基礎力がしっかりしていたのかも知れないし、学校の授業(入試を意識しているもの)をカウントしていないのかも知れない。一度見たことは忘れないほど頭のいい人なのかも知れない。
そういう条件があっての「2時間」であって、読み手の受験生が何時間必要かは、目標との兼ね合いで考えて行くしかないのです。
こういう人は、人生を長い目で見ると、かならず損をします。たとえば、これからはこの会社が伸びる、という話を聞くと、その会社に入ることしか考えなくなる。しばらくして、起業して成功した話を聞くと、思い切りよく会社をやめてしまう。資金繰りが苦しくなると、同業者がよく利用しているという高利の商工ローンに手を出す・・・。
何でも鵜呑みにしてしまう人は、どこかで必ず「カモ」にされるます。
成功体験を何でもそっくりあてはめてしまいがちな人は「疑問を持つ」ようにすべきです。
勉強時間は2時間でいい、と言う人には、必ず「なぜ2時間で済んだのか」を質問すべきです。
また、「この参考書を使うと受かる」と言う人に対しては、「何のために、どのタイミングで、どのように使ったのか」をきいてみるべきです。
納得できないところがあってもいいのです。そういう姿勢は、また違う意味で「勉強」になります。
では、もう一つの態度に行きましょう。
2.話を最初から聞こうとしない・すぐ疑う
ちょうど1.と正反対の態度です。
たとえば、ある予備校の講座を取ったら受かったよ、というと、「あの予備校はこういうところがダメだ」と反論してくるような感じでしょうか。
こういう姿勢を徹底させると、どういう末路に陥るか。
資格試験に受かるために、ある講座を受けることにした。わからないことが出てくると、途端にあら探しをし始める。よくないところをほじくり返すように見つけて、「続けても無駄だ」と、講座そのものに出なくなる・・・。
司法試験などの難関試験に特に多いのですが、こうやって毎年毎年やる講座を変えている受験生がいるのです。もちろん、なかなか合格しないのですが。
なぜそうなってしまうのか。理由はいくつか考えられます。
まず、そもそも「体験もせずに難癖をつけている」というのがあります。
予備校では「ガイダンス」と言って、講座担当者がこういう風にやっていきますよ、ということを説明する場を設けることが多いです。そういうのに出てみれば、その講師がお金を出すに値するかは或る程度わかります。
そういうこともしないで、伝聞で良い・悪いを判断する姿勢では、先が思いやられます。
その他には、「ただ単にサボる言い訳にしている」というのもあります。
わからないところが出てきたり、ある程度努力が必要な段階というものが、勉強にはつきものです。そういうところに来ると、教え方が悪いの、テキストが悪いの、他人のせいにして逃げてしまうのです。
私のいる塾業界でも、三つも四つも塾を変わっている子供が結構います。成績が出ないと、親御さんが「責任追及」を始めるのですが、すぐにその矛先が教え手の方へ向くのです。
こういう親御さんに育てられた子供は、もう不幸としか言いようがありません。
こういう傾向の人は、まず人の話を素直に聞くことです。
言っていることの意味内容に対して、初めから否定的な態度で接すると、覚えるのは難しくなります。相手の言うことを「聞く」というのは、自分の考えを捨てることではありません。まずは、ちゃんと聞くことです。
それから、言われた通り全力でやってみることです。その上で、やっぱりダメだというのなら、やり方を変えればいいのです。
それも出来ないというなら、やり方を人に教え手もらわなければいいのです。自分で対象を研究して、効果的な学習法を編み出せれば、時間はかかっても「勝ち」です。
もっとも、我流がひどすぎると、全く効果が上がりません。やはり、人の話は聞いた方がいいでしょうね。
結局、私が言いたいのは、
「何が妥当なのかは、自分で考えろ」
ということです。
ただ、それではあまりにも無責任なので、一定の指針は示させてもらうとしましょう。
<成功体験談よりも、失敗体験談を聞くべし>
他山の石、というやつです。
私なら、小論文のある大学で、小論文対策をほとんどやらなかったことや、高校で真面目に数学をやらなかったことです。
成功体験というのは、だいたいが自分がやったことをそのまま言っているだけです。個人差を考えると、あまり参考にはならないのです。
しかし、失敗体験は、そうすると必ずダメだというケースですから、避けることができれば合格に一歩近づくと言えます。
それに加えて、「こうすればよかった」という改善策を具体的に言っている体験談は、もう絶対に「買い」です。
<発憤材料には、どんどんすべし>
例えば、自分の模試の偏差値が40しかなく、志望校の合格圏内には全く届かない。そんなときに、同じ時期に偏差値40だったという合格者の話を聞いた、というケースを考えてみましょう。
こういう場合、「じゃあ偏差値40でも大丈夫なんだ」と、その合格者のやったことをそのままやろうとするのは、あまり賢いやり方とは言えません。その人はたまたま偏差値が低く出ていただけなのかもしれないからです。
しかし、「じゃあ、私も頑張ろう!」という風に、気合いを入れるのは大いに結構です。こいつに負けたくない、と、仮想敵にしてみると、だらけそうな時にいい興奮剤になるのではないでしょうか。
<疑問を持ったら、必ず質問すべし>
ポイントは、以下の4つです。
「何の為に、そうしたのか」
「どの程度の時間をかけたのか」
「やってみて、何が大変だったか」
「結局、どの程度役に立ったのか」
自分の人生がかかっているなら、そのくらいは質問できるのではないでしょうか。それでも、疑問がない、というなら、信じてやってみればいいだけです。
なんにせよ、一番大事なのは、自分の頭で考えることです。
自分で考え抜いて乗り越えた受験は、その後の人生で必ずプラスに働きますよ。
私の仕事は「ネット政治活動家」や「WEB思想家」ではないので(笑)、今日は受験勉強に関係した話を書きます。
受験勉強のことを、創造性を殺すだの、役に立たない知識を覚えさせているだけだの、文句を付けてくる人がいます。
受験勉強をしているみなさんは、そういう「たわごと」について、一切耳を貸す必要はありません。
上に書いたような文句を言っている人は、
●自分が受験勉強をしたく(させたく)ないので、
なにかと理由をこじつけている
●努力をしたくない若年層の受け狙い
●自分の周りの、受験のない世界しか知らない
この三つのどれかに当たるという、ただそれだけです。
私が勉強を教えてきた経験からも、また理屈の上からも、受験でうまくやる人は仕事もうまくできるようになります。
なぜなら、この二つの分野は、「事務処理」という共通点を持っているからです。
事務処理、というのは、簡単に言えば、「やるべきことを早く、正確に、効率よく済ませる」ということです。
経費云々は別として、仕事はさっさと・きちんと仕上げた方がいいに決まっています。お客さんも喜ぶし、自分も早く帰れるので楽になります。
そうなると、受験で合格するのも、事務処理能力を向上させればいいということになります。事務処理が上手に出来るような「作法」を身につければ、仕事をやる上でも応用できるはずです。
具体的に、どういう点に注意すれば、事務処理がうまく行くかを挙げてみます。
1.すぐに手を着ける
当たり前のことですが、こういうことを確実に出来ない人が多いです。
例えば、午後7時から勉強をすると決めたとします。「決めた」のですから、守らなければダメです。誰でも、そう思うでしょう。
ところが、実際は2、3分遅れてもいいや、と思ってしまう人が多いのです。
まだ時間は沢山あるんだし・・・と、油断していると、あっという間に30分。
経験がある人は、多いでしょう?
仕事でもそうです。出社のタイムカードを押したのは、始業4分前。さて、今日は何をしようか。そう焦らなくてもいいか。ちょっと一服して、ゆっくり始めよう・・・。
私もたまにやってしまうのですが、こういう仕事の「入り」をした日というのは、どうも全体的に気が緩みがちです。出足が鈍ってしまうからでしょうね。スタートダッシュは大切だと思います。
勉強や仕事に、すぐに手を着けられない人は、こんな工夫をしてみてはどうでしょう。実際私がしているのは、
(1)始業3分前には席につき手帳で予定を確認
(2)同じく始業3分前にやるべきことを書き出す
(3)すぐできる、簡単なことをやってみる
(3)は、最近結構使っている方法なのですが、簡単に仕事向きの脳に切り替えられるのでお勧めです。私の場合は、1件だけ電話をしたり、テストの採点を5人分だけやってみたり、という感じです。受験生なら、昨日やった英単語を5個だけ(「5個だけ」とわざと少な目にするのがコツ)。仕事でも、ここにルーティンワークを持ってくると効果があります。
2.一度にひとつのことしかやらない
理由は簡単で、混乱するからです。
以前、●「こんなノートは命取り!」という記事で、「データ抽出」と「データ整理」は分けろという話をしたかと思います。
何かを見聞きしてそこから必要な情報を持ってくるという、集中力を要する作業と、それを記憶したりまとめたりする地道な作業とは、分けた方が絶対に効率がいいです。
たとえば、みなさんも、作文を書いていて、こんな経験をしたことはありませんか?
開始1分にして、勢いよく書き出す。しかし、文体がおかしくなってきて、3行目あたりで消しゴム使用。書くペースは遅くなる一方、そして、気づいたときには、前後一貫しない文章と、書いて消した後だらけの原稿用紙が・・・。
これは、別に、その人に文章の才能がないうわけではないのです。いけないのは、書くことを考える作業と、文字を書く作業を分断していないことなのです。
受験勉強でも、実際に問題にアタックする作業と、単純に何かを覚える作業と、分けてやらずにだらだらやっている人は多いです。これは、私の受験生としての経験からも、間違いなく非効率です。
これを、克服する方法は、以下の通りです。
(1)考える作業と、単純作業は、必ず分ける
(2)道具をいちいち持ち替えない工夫をする
(3)同じ作業の間は、基本的に中断しない
(1)は、過去の記事●「こんなノートは命取り!」を参照してください。
また、(2)については、例えば
●「鉛筆」を使う作業と、「赤ペン」(加筆、重要)を使う作業
●「殴り書き」(問題を解く、考えを吐き出す)と「清書」(答案を書く)
といった分け方がいいでしょう。
(3)は当たり前すぎますが、そういうことこそおそろかにしてはいけません。
私は、テストの採点が嫌でたまらなかったことがあります。理由は、遅くてたまらないからです。
そこで、採点作業を、「正誤の判定」「ページ毎の点数計算」「全体の点数計算」「コメントを書く」「束にして点数を記録する」という風に、バラバラにして一つ一つに集中するようにしました。そうしたら、能率が急に上がったという経験があります。
受験勉強なら、一問一問解いて丸つけをして採点、というのではなく、5問や10問といった区切り毎に、「解く」「丸つけ」「解説を読んで理解」「覚えるべき事柄をノートなどに記録」といった作業分類を行うといいでしょう。
3.整理整頓する
ここで言う「整理整頓」とは、
(1)書類や筆記用具すぐに出せる場所に置く
(2)使ったらすぐ片づける
(3)不要なものは置かない
(4)同じものは、同じところに置く
という、4つの要素を指します。
気を付けてほしいのは、(1)や(4)です。
こういうことを書くと、すぐに分類や見た目に凝り始めてしまう困った人がいます。そんなことに時間を使わないでください。人生の無駄です。
分類はあくまで手段です。2時間も3時間もかけて、人件費の枠内でやることではありません。あくまで、仕事の流れの中で、必要に応じて置き方・見え方を変えていくことです。
実行しやすいのは、(2)と(3)でしょう。
通常私は、夕方小学生の授業を実施し、少し間を置いて、夜7時過ぎから中学生の授業をしています。そこで、小学生の時間が終わったら、そこで使った名簿や教材などは、次の授業に入る前に元の場所に戻すようにしています。なぜなら、後でまとめて片づけるのは、ものすごく億劫だからです。
また、(3)絡みで重要なのは、要らないものはすぐに捨てるということです。
業務用の連絡が書面で渡されたとします。数字がたくさんのっかっていたり、全体が重要だったりするものは、ファイルか何かに入れておけばいいでしょう。しかし、そうでないものは、その場で手帳にメモして捨ててしまうことにしています。
「後で見ればいい」としまったものは、後になっても見ないでおしまい、という経験は、皆さんもきっとおありでしょう。そうなる前に、情報だけ抜き取ってゴミ箱もしくはシュレッダーへ・・・そうすれば、机の上にアルプス山脈が出来上がることはありません。
なんか、どっかで聞いたようなことばかりだな、と思うでしょう。しかし、そういう基本的なことこそ、何事にも通じる重要なポイントなのです。
参考になりましたでしょうか?
受験勉強のことを、創造性を殺すだの、役に立たない知識を覚えさせているだけだの、文句を付けてくる人がいます。
受験勉強をしているみなさんは、そういう「たわごと」について、一切耳を貸す必要はありません。
上に書いたような文句を言っている人は、
●自分が受験勉強をしたく(させたく)ないので、
なにかと理由をこじつけている
●努力をしたくない若年層の受け狙い
●自分の周りの、受験のない世界しか知らない
この三つのどれかに当たるという、ただそれだけです。
私が勉強を教えてきた経験からも、また理屈の上からも、受験でうまくやる人は仕事もうまくできるようになります。
なぜなら、この二つの分野は、「事務処理」という共通点を持っているからです。
事務処理、というのは、簡単に言えば、「やるべきことを早く、正確に、効率よく済ませる」ということです。
経費云々は別として、仕事はさっさと・きちんと仕上げた方がいいに決まっています。お客さんも喜ぶし、自分も早く帰れるので楽になります。
そうなると、受験で合格するのも、事務処理能力を向上させればいいということになります。事務処理が上手に出来るような「作法」を身につければ、仕事をやる上でも応用できるはずです。
具体的に、どういう点に注意すれば、事務処理がうまく行くかを挙げてみます。
1.すぐに手を着ける
当たり前のことですが、こういうことを確実に出来ない人が多いです。
例えば、午後7時から勉強をすると決めたとします。「決めた」のですから、守らなければダメです。誰でも、そう思うでしょう。
ところが、実際は2、3分遅れてもいいや、と思ってしまう人が多いのです。
まだ時間は沢山あるんだし・・・と、油断していると、あっという間に30分。
経験がある人は、多いでしょう?
仕事でもそうです。出社のタイムカードを押したのは、始業4分前。さて、今日は何をしようか。そう焦らなくてもいいか。ちょっと一服して、ゆっくり始めよう・・・。
私もたまにやってしまうのですが、こういう仕事の「入り」をした日というのは、どうも全体的に気が緩みがちです。出足が鈍ってしまうからでしょうね。スタートダッシュは大切だと思います。
勉強や仕事に、すぐに手を着けられない人は、こんな工夫をしてみてはどうでしょう。実際私がしているのは、
(1)始業3分前には席につき手帳で予定を確認
(2)同じく始業3分前にやるべきことを書き出す
(3)すぐできる、簡単なことをやってみる
(3)は、最近結構使っている方法なのですが、簡単に仕事向きの脳に切り替えられるのでお勧めです。私の場合は、1件だけ電話をしたり、テストの採点を5人分だけやってみたり、という感じです。受験生なら、昨日やった英単語を5個だけ(「5個だけ」とわざと少な目にするのがコツ)。仕事でも、ここにルーティンワークを持ってくると効果があります。
2.一度にひとつのことしかやらない
理由は簡単で、混乱するからです。
以前、●「こんなノートは命取り!」という記事で、「データ抽出」と「データ整理」は分けろという話をしたかと思います。
何かを見聞きしてそこから必要な情報を持ってくるという、集中力を要する作業と、それを記憶したりまとめたりする地道な作業とは、分けた方が絶対に効率がいいです。
たとえば、みなさんも、作文を書いていて、こんな経験をしたことはありませんか?
開始1分にして、勢いよく書き出す。しかし、文体がおかしくなってきて、3行目あたりで消しゴム使用。書くペースは遅くなる一方、そして、気づいたときには、前後一貫しない文章と、書いて消した後だらけの原稿用紙が・・・。
これは、別に、その人に文章の才能がないうわけではないのです。いけないのは、書くことを考える作業と、文字を書く作業を分断していないことなのです。
受験勉強でも、実際に問題にアタックする作業と、単純に何かを覚える作業と、分けてやらずにだらだらやっている人は多いです。これは、私の受験生としての経験からも、間違いなく非効率です。
これを、克服する方法は、以下の通りです。
(1)考える作業と、単純作業は、必ず分ける
(2)道具をいちいち持ち替えない工夫をする
(3)同じ作業の間は、基本的に中断しない
(1)は、過去の記事●「こんなノートは命取り!」を参照してください。
また、(2)については、例えば
●「鉛筆」を使う作業と、「赤ペン」(加筆、重要)を使う作業
●「殴り書き」(問題を解く、考えを吐き出す)と「清書」(答案を書く)
といった分け方がいいでしょう。
(3)は当たり前すぎますが、そういうことこそおそろかにしてはいけません。
私は、テストの採点が嫌でたまらなかったことがあります。理由は、遅くてたまらないからです。
そこで、採点作業を、「正誤の判定」「ページ毎の点数計算」「全体の点数計算」「コメントを書く」「束にして点数を記録する」という風に、バラバラにして一つ一つに集中するようにしました。そうしたら、能率が急に上がったという経験があります。
受験勉強なら、一問一問解いて丸つけをして採点、というのではなく、5問や10問といった区切り毎に、「解く」「丸つけ」「解説を読んで理解」「覚えるべき事柄をノートなどに記録」といった作業分類を行うといいでしょう。
3.整理整頓する
ここで言う「整理整頓」とは、
(1)書類や筆記用具すぐに出せる場所に置く
(2)使ったらすぐ片づける
(3)不要なものは置かない
(4)同じものは、同じところに置く
という、4つの要素を指します。
気を付けてほしいのは、(1)や(4)です。
こういうことを書くと、すぐに分類や見た目に凝り始めてしまう困った人がいます。そんなことに時間を使わないでください。人生の無駄です。
分類はあくまで手段です。2時間も3時間もかけて、人件費の枠内でやることではありません。あくまで、仕事の流れの中で、必要に応じて置き方・見え方を変えていくことです。
実行しやすいのは、(2)と(3)でしょう。
通常私は、夕方小学生の授業を実施し、少し間を置いて、夜7時過ぎから中学生の授業をしています。そこで、小学生の時間が終わったら、そこで使った名簿や教材などは、次の授業に入る前に元の場所に戻すようにしています。なぜなら、後でまとめて片づけるのは、ものすごく億劫だからです。
また、(3)絡みで重要なのは、要らないものはすぐに捨てるということです。
業務用の連絡が書面で渡されたとします。数字がたくさんのっかっていたり、全体が重要だったりするものは、ファイルか何かに入れておけばいいでしょう。しかし、そうでないものは、その場で手帳にメモして捨ててしまうことにしています。
「後で見ればいい」としまったものは、後になっても見ないでおしまい、という経験は、皆さんもきっとおありでしょう。そうなる前に、情報だけ抜き取ってゴミ箱もしくはシュレッダーへ・・・そうすれば、机の上にアルプス山脈が出来上がることはありません。
なんか、どっかで聞いたようなことばかりだな、と思うでしょう。しかし、そういう基本的なことこそ、何事にも通じる重要なポイントなのです。
参考になりましたでしょうか?
「神のいどころ」というブログで紹介されていたインドネシア独立戦争と日本軍兵士たちの話を再紹介します。リンクをクリックして、是非ご覧ください。今の歴史教科書にいかに「嘘」や「自虐」が多いか、よく分かると思います。
本来縁もゆかりもないはずの現地の人と一緒になって、独立戦争を戦うなんて、今の日本人からしてみたら信じられませんよね。しかし、戦前の人たちは本当にそういうことをしていたのです。
みなさんに是非とも知っていただきたいのは、日本にとっての「アジア」というのは、生ゴミ入り餃子を売りつけて平気でいる国や、枯れ草に緑のペンキを塗るのを緑化計画と称している変な国ばかりではないということです。インドネシアのように、「正しい」」評価をしてくれる国だってあるのです。
そして、それは、戦後の教育でさんざん悪者扱いされてきた「戦前」生まれの人々の活躍によるところが大きいのです。
別に、靖国神社にお参りしなくてもいいです。そういった人々に感謝する心を忘れず、謙虚に海外の友好国と付き合っていきましょう。
まあ、それはいいです。では、今日は「呼び捨てにされたのは生まれて初めて」の続きを書きます。
本当の優しさというのは、どんなことだろうと考えてみます。
そうなると、どうもいけませんね。我々は「相手のことを考える」とか「時には強く叱ることもある」などと、観念的なことばかり口にしてしまいます。
そこで、私は、相撲の世界で続いてきたある伝統について、お話したいと思います。
入門してからそれほど年月がたっていないからでしょうか、ひょろっとした体型のお相撲さんを、昔から「ソップ力士」と言います。
「ソップ」というのは、「スープ」がなまったものです。
ちゃんこ鍋のスープは、ラーメンか何かのように、鳥ガラから取るそうですね。だから、鳥ガラのように痩せている力士、ということで、「ソップ」という風に呼ぶようになったそうです。
こういった力士たちは、最近までは、なかなか身体を大きくする(有り体に言えば、「太る」)ことができなかったと言います。
なぜなら、ちゃんこ鍋を作って食べるとき、先に箸をつけるのは、先輩力士なのです。肉や野菜の多くは、先輩たちにだいたい平らげられてしまったそうです。そうなると、「ソップ力士」たちは、文字通り「ソップ」だけを食べることになるのです。
そんな不平等な、と言っても仕方がないのです。元関脇・玉海力である河邊幸夫さんも、「相撲の世界は番付が全て」だと言っています。
その河邊さんが、リンク先のサイトでこんなことをおっしゃっています。彼は、下っ端の時代に「ちゃんこ番」という料理係をやらされていた経験があります。
「 ちゃんこ番は4、5日に1回の割合で回ってきました。入門前は
炊事なんてやったことがありませんから、先輩がやっている
のを見て覚えるんです
だいたい1か月もしないうちに包丁を持たされました。
『おい、おまえ、そこの野菜を切っとけ』と言われてね。
でも、見ただけでは覚えられるものではなく、なかなか
うまく切れないわけです。切れないと殴られる。
千切りなんかは、先輩に『これはだれが食うんだ。馬が
食うんじゃないんだ。もっと細かく切れ』とどなられる。
そうこうして不器用な手つきでやっているうちに、不思議な
ことに2、3か月もしてくると、ちゃんと千切りもできるように
なるんです。」
この話を聞いて、「相撲界はとんでもないところだ。新弟子の人権をなんだと思っているんだ。もっと同じ人間として扱うべきだ。料理より練習をやって、合理的に強くなるべきだ」と、思った方、いらっしゃいますか。
はっきり申し上げます。
あなたのような人が沢山いるから、日本の子供たちはおかしくなってしまったのです。お願いですから、考え方を今すぐ変えてください。そうでなくても、今まで自分が信じてきた「個人の尊重」とやらを、疑ってみてください。
それができないと言うなら、どうか一生子育てや、子供を教育する立場になどつかないで頂きたい。(これ、本気で言ってます)
私がとやかく言うより、河邊さんの言葉を引用した方が早いでしょう。
「 当時は、
『強くなるために来たのにこんなことばかりやらされて
悔しい、こんなことをやるために、ここにいるんじゃない』
と思いましたよ。後から考えると、その悔しい思いが、
強さの元になっていくんですね。」
この言葉からもわかるように、「ちゃんこ番」は、若い力士の交感神経を鍛えるための「合理的な」システムなのです。
全力で相手にぶつかる。あっという間に勝負が付く。土俵際でうっちゃられることもある。怪我をすれば番付が落ちる。力士の世界は、塾講師の世界と比べるのがおこがましくなるような、本当に厳しい世界です。
そんな世界で、職業人として食っていくとき、最後の防波堤になるものはなんでしょうか。そうです。ピンチに交感神経を働かせること以外にありません。相手に勝つ、自分に勝つ、それだけを考える状態を作り出すしかないのです。
河邊さんが玉海力として土俵に上がっていた頃、番付が伸びていかない時期があ
りました。夜遊びばかりしていたからです。なかなか、そのクセが抜けない。
そんな折り、親方が急死します。そこから心を入れ替えた玉海力は、稽古に身を入れるようになります。そして、十両、幕内と出生していくことになるわけです。
それが可能だったのは、彼が「ちゃんこ番」を経験したからに他なりません。ちゃんこ番の頃に味わった試練が、いざというとき力を出せるような、強い自律神経を育んだであろうことは、今までの私の話を見ていただければよくわかると思います。
逆に、ちゃんこ番の経験がない、大学出身の力士は、大切なところで怪我をしたり欠場したりということが多いような気がします。
相撲の世界は、良い面があるからこそ、ちゃんこ番という伝統を残しているのです。
しかも、最後に残った「ソップ」というのは、一番栄養が残っている部分でもあるのです。
もちろん、お腹がいっぱいになるような栄養、今時の肥満児がたくさん摂取している「栄養」ではありません。ミネラルやビタミン(後者は熱に弱いものが多く、それほど残ってはいないだろうが・・・)だけが残っているわけです。それが、健康な体と、のちのちの大食に耐えうる強い胃腸を作っているのではないか、と私は密かに思っています。
どうです。
これこそが、「本当の優しさ」ではありませんか?
「ソップ」で育った若者が、引きこもりになるでしょうか。「自分のやりたいことが見つからない」と、ニート(NEET、Not in Employment,Education,or Trainingの略。くわしくはこちらをご覧ください)状態に陥ったりするでしょうか。絶対にありません。苦しい状況に陥ったら、きっと彼らの交感神経はフル稼働して、最後の最後まで戦い抜くことができるはずでしょう。
若者は、いつも腹を空かせながら、大人の作り上げた規範に挑戦していくべきなのです。全ての若者がそうなるはずだ、とは言いませんが、そういう若者が多ければ多いほど、社会は活力を増す。私はそう信じています。
是非とも、お子さんをお持ちの親御さんや、私のような立場の方に申し上げたい。その時は嫌な顔をされたとしても、本当に意味のある厳しさ、本当の優しさは、大人になったときに必ず報われる、と。
子供に対する誠実な気持ちは、必ず伝わります。たとえ、それが自分の命がついえたあとであってもです。 河邊さんの親方が、本当に理不尽な仕打ちばかりする(あるいは、させる)人だったら、親方の死後、玉海力が心を入れ替えたでしょうか?
ひとりでも多くの大人、親御さんに、「ソップ」の持つ本当の優しさを理解してほしい、私はそう思っています。
本来縁もゆかりもないはずの現地の人と一緒になって、独立戦争を戦うなんて、今の日本人からしてみたら信じられませんよね。しかし、戦前の人たちは本当にそういうことをしていたのです。
みなさんに是非とも知っていただきたいのは、日本にとっての「アジア」というのは、生ゴミ入り餃子を売りつけて平気でいる国や、枯れ草に緑のペンキを塗るのを緑化計画と称している変な国ばかりではないということです。インドネシアのように、「正しい」」評価をしてくれる国だってあるのです。
そして、それは、戦後の教育でさんざん悪者扱いされてきた「戦前」生まれの人々の活躍によるところが大きいのです。
別に、靖国神社にお参りしなくてもいいです。そういった人々に感謝する心を忘れず、謙虚に海外の友好国と付き合っていきましょう。
まあ、それはいいです。では、今日は「呼び捨てにされたのは生まれて初めて」の続きを書きます。
本当の優しさというのは、どんなことだろうと考えてみます。
そうなると、どうもいけませんね。我々は「相手のことを考える」とか「時には強く叱ることもある」などと、観念的なことばかり口にしてしまいます。
そこで、私は、相撲の世界で続いてきたある伝統について、お話したいと思います。
入門してからそれほど年月がたっていないからでしょうか、ひょろっとした体型のお相撲さんを、昔から「ソップ力士」と言います。
「ソップ」というのは、「スープ」がなまったものです。
ちゃんこ鍋のスープは、ラーメンか何かのように、鳥ガラから取るそうですね。だから、鳥ガラのように痩せている力士、ということで、「ソップ」という風に呼ぶようになったそうです。
こういった力士たちは、最近までは、なかなか身体を大きくする(有り体に言えば、「太る」)ことができなかったと言います。
なぜなら、ちゃんこ鍋を作って食べるとき、先に箸をつけるのは、先輩力士なのです。肉や野菜の多くは、先輩たちにだいたい平らげられてしまったそうです。そうなると、「ソップ力士」たちは、文字通り「ソップ」だけを食べることになるのです。
そんな不平等な、と言っても仕方がないのです。元関脇・玉海力である河邊幸夫さんも、「相撲の世界は番付が全て」だと言っています。
その河邊さんが、リンク先のサイトでこんなことをおっしゃっています。彼は、下っ端の時代に「ちゃんこ番」という料理係をやらされていた経験があります。
「 ちゃんこ番は4、5日に1回の割合で回ってきました。入門前は
炊事なんてやったことがありませんから、先輩がやっている
のを見て覚えるんです
だいたい1か月もしないうちに包丁を持たされました。
『おい、おまえ、そこの野菜を切っとけ』と言われてね。
でも、見ただけでは覚えられるものではなく、なかなか
うまく切れないわけです。切れないと殴られる。
千切りなんかは、先輩に『これはだれが食うんだ。馬が
食うんじゃないんだ。もっと細かく切れ』とどなられる。
そうこうして不器用な手つきでやっているうちに、不思議な
ことに2、3か月もしてくると、ちゃんと千切りもできるように
なるんです。」
この話を聞いて、「相撲界はとんでもないところだ。新弟子の人権をなんだと思っているんだ。もっと同じ人間として扱うべきだ。料理より練習をやって、合理的に強くなるべきだ」と、思った方、いらっしゃいますか。
はっきり申し上げます。
あなたのような人が沢山いるから、日本の子供たちはおかしくなってしまったのです。お願いですから、考え方を今すぐ変えてください。そうでなくても、今まで自分が信じてきた「個人の尊重」とやらを、疑ってみてください。
それができないと言うなら、どうか一生子育てや、子供を教育する立場になどつかないで頂きたい。(これ、本気で言ってます)
私がとやかく言うより、河邊さんの言葉を引用した方が早いでしょう。
「 当時は、
『強くなるために来たのにこんなことばかりやらされて
悔しい、こんなことをやるために、ここにいるんじゃない』
と思いましたよ。後から考えると、その悔しい思いが、
強さの元になっていくんですね。」
この言葉からもわかるように、「ちゃんこ番」は、若い力士の交感神経を鍛えるための「合理的な」システムなのです。
全力で相手にぶつかる。あっという間に勝負が付く。土俵際でうっちゃられることもある。怪我をすれば番付が落ちる。力士の世界は、塾講師の世界と比べるのがおこがましくなるような、本当に厳しい世界です。
そんな世界で、職業人として食っていくとき、最後の防波堤になるものはなんでしょうか。そうです。ピンチに交感神経を働かせること以外にありません。相手に勝つ、自分に勝つ、それだけを考える状態を作り出すしかないのです。
河邊さんが玉海力として土俵に上がっていた頃、番付が伸びていかない時期があ
りました。夜遊びばかりしていたからです。なかなか、そのクセが抜けない。
そんな折り、親方が急死します。そこから心を入れ替えた玉海力は、稽古に身を入れるようになります。そして、十両、幕内と出生していくことになるわけです。
それが可能だったのは、彼が「ちゃんこ番」を経験したからに他なりません。ちゃんこ番の頃に味わった試練が、いざというとき力を出せるような、強い自律神経を育んだであろうことは、今までの私の話を見ていただければよくわかると思います。
逆に、ちゃんこ番の経験がない、大学出身の力士は、大切なところで怪我をしたり欠場したりということが多いような気がします。
相撲の世界は、良い面があるからこそ、ちゃんこ番という伝統を残しているのです。
しかも、最後に残った「ソップ」というのは、一番栄養が残っている部分でもあるのです。
もちろん、お腹がいっぱいになるような栄養、今時の肥満児がたくさん摂取している「栄養」ではありません。ミネラルやビタミン(後者は熱に弱いものが多く、それほど残ってはいないだろうが・・・)だけが残っているわけです。それが、健康な体と、のちのちの大食に耐えうる強い胃腸を作っているのではないか、と私は密かに思っています。
どうです。
これこそが、「本当の優しさ」ではありませんか?
「ソップ」で育った若者が、引きこもりになるでしょうか。「自分のやりたいことが見つからない」と、ニート(NEET、Not in Employment,Education,or Trainingの略。くわしくはこちらをご覧ください)状態に陥ったりするでしょうか。絶対にありません。苦しい状況に陥ったら、きっと彼らの交感神経はフル稼働して、最後の最後まで戦い抜くことができるはずでしょう。
若者は、いつも腹を空かせながら、大人の作り上げた規範に挑戦していくべきなのです。全ての若者がそうなるはずだ、とは言いませんが、そういう若者が多ければ多いほど、社会は活力を増す。私はそう信じています。
是非とも、お子さんをお持ちの親御さんや、私のような立場の方に申し上げたい。その時は嫌な顔をされたとしても、本当に意味のある厳しさ、本当の優しさは、大人になったときに必ず報われる、と。
子供に対する誠実な気持ちは、必ず伝わります。たとえ、それが自分の命がついえたあとであってもです。 河邊さんの親方が、本当に理不尽な仕打ちばかりする(あるいは、させる)人だったら、親方の死後、玉海力が心を入れ替えたでしょうか?
ひとりでも多くの大人、親御さんに、「ソップ」の持つ本当の優しさを理解してほしい、私はそう思っています。
改めてタイトルを見ると、本当に異様ですね・・・。
もっとも、これが教育に携わる人間の置かれている現状なのです。
さて、今日は子供時代に交感神経が発達していないと、どんな弊害があるかという点についての話です。
前回述べたことを、おさらいしておきましょう。
人間の自律神経(自分の意思でコントロールできない神経)は、緊張や興奮・ストレスと関係のある「交感神経」と、リラックスや弛緩と関係のある「副交感神経」とに分かれています。
そして、交感神経は、陸に上がった我々の祖先が、獲物を倒すために発達させたものであると考えられています。
一般的に、ストレスがかかると、交感神経が優位に立ちます。
人間の身体には「恒常性」(ホメオスタシス)というものが備わっており、ストレスがかかると正常な状態を保とうという反作用が生まれます。たとえば、緊張すると汗をかきます。あれは、汗を分泌することで副交感神経を働かせようとしているからです。
ところで、「ストレス」と聞くと、どのようなことを想像するでしょうか。
ストレスが原因で病気になる、心が蝕まれる・・・どうもストレスというのは悪玉だと考えられているようです。なるべくなら、ストレスなど持ちたくはないと思う人がほとんどでしょう。それなのに、現代社会は、どうもいろいろなところでストレスを感じさせるようにできているような気がする・・・。
我々はストレスというものを一方的に悪だという烙印を押して、それを排除することに熱中してきました。その、最大の成果が「文明社会」というものです。何でもすぐに手にはいるので、我慢する必要もほとんどありません。面倒くさいことは、機械がなんでもやってくれます。
でも、待ってください。
それで、本当に我々がストレスから解放されたのでしょうか?
それどころか、かえって新しいストレスに晒されてしまっているようにも思えます。たとえば、エアコンによる冷やしすぎで身体がおかしくなるというようなストレスは、エアコンが普及していなかった昭和30年代にはほとんどなかったことです。それに、外的環境にストレスを感じなくなったせいか、人間関係などのストレスでずいぶん悩まされることになっています。
面白いものですね。我々は、生活を便利に、なるべく我慢の要らないようにしてきたはずです。それなのに、文明が発達したせいで、新しいストレスに晒されているのです。
このようなイタチごっこを続けていて、いつかは本当に、「誰もストレスを感じない社会」というのが来るのでしょうか?
そんなことは絶対にありません。
極端なことを言えば、ストレスを取り除こう、我慢はやめよう、という考え方の方が間違っているのです。
それは、人間には、ストレスというものが「必要」だからです。
ストレスを受けると、交感神経が優位に立つということは、再三述べてきました。
交感神経が優位になると、ノルアドレナリンやエンドルフィンといった脳内物質が分泌します。これらは、いわゆる「脳内麻薬」と言われるもので、分泌している間は、辛さや苦しみ、疲労感などを感じなくなります。
こんな経験はないでしょうか。スポーツをやっていて、ちょっと足をひねってしまった。だけど、夢中になってプレーしていたら、痛みを忘れてしまった。そして、その夜風呂に入ると、一気に痛みが襲ってきた・・・。
私にも、肩や肘の関節がもとから悪いのですが、論文式の試験で答案を書いていると、いつの間にか痛みを感じなくなるということがよくあります。
こういった現象は、脳内麻薬によってもたらされたものだと言えるでしょう。例えば、エンドルフィンは、モルヒネ(麻酔に用いられる)と同じ作用で、苦しみを和らげる効果があります。(アドレナリンの仲間は、興奮して集中力を上げる効用がある)
こういった脳内麻薬は、高いストレスがかかったときに、身体がこれに対応するために分泌するのです。つまり、生命の危機や獲物をどうしても捕らなくてはならない状況に陥ったとき、交感神経が優位に立ち、脳内麻薬を分泌させることによって、平常時には考えられないような活動をすることができるのです。
人間の身体には、ちゃんとストレスに対応できる仕組みが備わっているのです。
そこで、今の子供を見てください。
彼らは、徹底的にストレスを排除した生活を送っています。腹が空けばすぐに食べ物にありつける、両親の手伝いや家の仕事をやるわけでもない。
特に、ストレスが完全な悪というレッテルを貼られているのは、教育の現場です。
落ちこぼれる子がいるからと、教える内容はどんどん削減されていく。詰め込み式の暗記教育は子供の個性を殺すからと、何の具体的な成果も挙げられない「総合学習」をやらされる、校則に違反しても叱られないし、秩序を乱しても教師に殴られることもない。怖い先生は人気が無くなるので、みんな「物わかりの良い」大人になる。挙げ句の果てに自由、平等、権利、個人の尊重・・・わがままを貫き通すのに都合のいい概念を、周りの大人(主に「学生運動」を経験した「団塊の世代」が中心)が吹聴してくれる。
そして、挙げ句の果ては、「呼び捨て去れたことのない子供」ですよ。
子供が交感神経を鍛える場所など、どこにもないではありませんか!!
陰湿ないじめや不当な差別は、確かに悪いものでしょう。しかし、だからといって、「かわいそう」「つらそう」と、何でもかんでも子供の足枷を外していくことが、本当に人間を尊重している教育と言えるでしょうか?
本当に「種としての」人間を尊重するなら、体罰を復活させ、校則は厳しく守らせ、大人に楯突くことを100%許さず、若者の世迷い事や軽挙妄動には冷たく接するべきです。
別に、私は体罰をどんどんやれ、などと主張するつもりもありません。「お辞儀の角度は45度で」というような無意味に細かい校則を作れなどと言うつもりもないです。
少ないルールでも良い、絶対に守らせようとする大人がいる。子供は不完全極まりない生き物ですから、どうしてもルールを逸脱してしまう。そのたびに大人に注意される。間違っているのは事実だから、反論することもできない。
そうやって育った子供が、性格が歪んでしまうでしょうか?
全く逆です。「絶対に大人になって見返してやる」「負けてたまるか」と思った子供は、自分の前にある規範を乗り越えようと、必死に生きようとするはずです。ストレスは、交感神経を発達させるという役割もあります。
そうやって「無慈悲で、強大な大人」との衝突を経た子供は、いざという時に力を発揮できる可能性が高いでしょう。明治時代や戦前に生まれた人たちは、ほとんどがそういう人だったのではないでしょうか。
私は、戦前の教育は少しも間違っていないと思います。なぜなら、子供の交感神経をきちんと鍛えておいて、困難があっても脳内麻薬を分泌させて、普段よりも高いパフォーマンスを発揮させることができたからです。
「学力よりも個性を育てよう」とか、「子供を対等の人格として扱い、共に学ぼう」などと言っている人(左翼的な理想ばかり唱えている人々)は、そういうことをわかっているのでしょうか?
子供を守ってやろう、子供に辛い思いはさせないでおこう、そんなことを考えている時点で、教育者として「失格」だと私は言いたいです。
子供を育てる、すなわち、適度に交感神経を発達させるには、ストレスは絶対に必要なのです。そうやって子供と向き合うことこそ、本当の優しさなのではないでしょうか。
次回は、このテーマの締めくくりとして、「本当の優しさ」というものについて、昔から日本で行われているある格闘技の世界の話を紹介してみたいと思います。(つづく)
もっとも、これが教育に携わる人間の置かれている現状なのです。
さて、今日は子供時代に交感神経が発達していないと、どんな弊害があるかという点についての話です。
前回述べたことを、おさらいしておきましょう。
人間の自律神経(自分の意思でコントロールできない神経)は、緊張や興奮・ストレスと関係のある「交感神経」と、リラックスや弛緩と関係のある「副交感神経」とに分かれています。
そして、交感神経は、陸に上がった我々の祖先が、獲物を倒すために発達させたものであると考えられています。
一般的に、ストレスがかかると、交感神経が優位に立ちます。
人間の身体には「恒常性」(ホメオスタシス)というものが備わっており、ストレスがかかると正常な状態を保とうという反作用が生まれます。たとえば、緊張すると汗をかきます。あれは、汗を分泌することで副交感神経を働かせようとしているからです。
ところで、「ストレス」と聞くと、どのようなことを想像するでしょうか。
ストレスが原因で病気になる、心が蝕まれる・・・どうもストレスというのは悪玉だと考えられているようです。なるべくなら、ストレスなど持ちたくはないと思う人がほとんどでしょう。それなのに、現代社会は、どうもいろいろなところでストレスを感じさせるようにできているような気がする・・・。
我々はストレスというものを一方的に悪だという烙印を押して、それを排除することに熱中してきました。その、最大の成果が「文明社会」というものです。何でもすぐに手にはいるので、我慢する必要もほとんどありません。面倒くさいことは、機械がなんでもやってくれます。
でも、待ってください。
それで、本当に我々がストレスから解放されたのでしょうか?
それどころか、かえって新しいストレスに晒されてしまっているようにも思えます。たとえば、エアコンによる冷やしすぎで身体がおかしくなるというようなストレスは、エアコンが普及していなかった昭和30年代にはほとんどなかったことです。それに、外的環境にストレスを感じなくなったせいか、人間関係などのストレスでずいぶん悩まされることになっています。
面白いものですね。我々は、生活を便利に、なるべく我慢の要らないようにしてきたはずです。それなのに、文明が発達したせいで、新しいストレスに晒されているのです。
このようなイタチごっこを続けていて、いつかは本当に、「誰もストレスを感じない社会」というのが来るのでしょうか?
そんなことは絶対にありません。
極端なことを言えば、ストレスを取り除こう、我慢はやめよう、という考え方の方が間違っているのです。
それは、人間には、ストレスというものが「必要」だからです。
ストレスを受けると、交感神経が優位に立つということは、再三述べてきました。
交感神経が優位になると、ノルアドレナリンやエンドルフィンといった脳内物質が分泌します。これらは、いわゆる「脳内麻薬」と言われるもので、分泌している間は、辛さや苦しみ、疲労感などを感じなくなります。
こんな経験はないでしょうか。スポーツをやっていて、ちょっと足をひねってしまった。だけど、夢中になってプレーしていたら、痛みを忘れてしまった。そして、その夜風呂に入ると、一気に痛みが襲ってきた・・・。
私にも、肩や肘の関節がもとから悪いのですが、論文式の試験で答案を書いていると、いつの間にか痛みを感じなくなるということがよくあります。
こういった現象は、脳内麻薬によってもたらされたものだと言えるでしょう。例えば、エンドルフィンは、モルヒネ(麻酔に用いられる)と同じ作用で、苦しみを和らげる効果があります。(アドレナリンの仲間は、興奮して集中力を上げる効用がある)
こういった脳内麻薬は、高いストレスがかかったときに、身体がこれに対応するために分泌するのです。つまり、生命の危機や獲物をどうしても捕らなくてはならない状況に陥ったとき、交感神経が優位に立ち、脳内麻薬を分泌させることによって、平常時には考えられないような活動をすることができるのです。
人間の身体には、ちゃんとストレスに対応できる仕組みが備わっているのです。
そこで、今の子供を見てください。
彼らは、徹底的にストレスを排除した生活を送っています。腹が空けばすぐに食べ物にありつける、両親の手伝いや家の仕事をやるわけでもない。
特に、ストレスが完全な悪というレッテルを貼られているのは、教育の現場です。
落ちこぼれる子がいるからと、教える内容はどんどん削減されていく。詰め込み式の暗記教育は子供の個性を殺すからと、何の具体的な成果も挙げられない「総合学習」をやらされる、校則に違反しても叱られないし、秩序を乱しても教師に殴られることもない。怖い先生は人気が無くなるので、みんな「物わかりの良い」大人になる。挙げ句の果てに自由、平等、権利、個人の尊重・・・わがままを貫き通すのに都合のいい概念を、周りの大人(主に「学生運動」を経験した「団塊の世代」が中心)が吹聴してくれる。
そして、挙げ句の果ては、「呼び捨て去れたことのない子供」ですよ。
子供が交感神経を鍛える場所など、どこにもないではありませんか!!
陰湿ないじめや不当な差別は、確かに悪いものでしょう。しかし、だからといって、「かわいそう」「つらそう」と、何でもかんでも子供の足枷を外していくことが、本当に人間を尊重している教育と言えるでしょうか?
本当に「種としての」人間を尊重するなら、体罰を復活させ、校則は厳しく守らせ、大人に楯突くことを100%許さず、若者の世迷い事や軽挙妄動には冷たく接するべきです。
別に、私は体罰をどんどんやれ、などと主張するつもりもありません。「お辞儀の角度は45度で」というような無意味に細かい校則を作れなどと言うつもりもないです。
少ないルールでも良い、絶対に守らせようとする大人がいる。子供は不完全極まりない生き物ですから、どうしてもルールを逸脱してしまう。そのたびに大人に注意される。間違っているのは事実だから、反論することもできない。
そうやって育った子供が、性格が歪んでしまうでしょうか?
全く逆です。「絶対に大人になって見返してやる」「負けてたまるか」と思った子供は、自分の前にある規範を乗り越えようと、必死に生きようとするはずです。ストレスは、交感神経を発達させるという役割もあります。
そうやって「無慈悲で、強大な大人」との衝突を経た子供は、いざという時に力を発揮できる可能性が高いでしょう。明治時代や戦前に生まれた人たちは、ほとんどがそういう人だったのではないでしょうか。
私は、戦前の教育は少しも間違っていないと思います。なぜなら、子供の交感神経をきちんと鍛えておいて、困難があっても脳内麻薬を分泌させて、普段よりも高いパフォーマンスを発揮させることができたからです。
「学力よりも個性を育てよう」とか、「子供を対等の人格として扱い、共に学ぼう」などと言っている人(左翼的な理想ばかり唱えている人々)は、そういうことをわかっているのでしょうか?
子供を守ってやろう、子供に辛い思いはさせないでおこう、そんなことを考えている時点で、教育者として「失格」だと私は言いたいです。
子供を育てる、すなわち、適度に交感神経を発達させるには、ストレスは絶対に必要なのです。そうやって子供と向き合うことこそ、本当の優しさなのではないでしょうか。
次回は、このテーマの締めくくりとして、「本当の優しさ」というものについて、昔から日本で行われているある格闘技の世界の話を紹介してみたいと思います。(つづく)
9月初旬に、私の塾(というより、会社)は、後期の指導体制を周知するために、職員を集めた会合を催します。
毎回、そこで地区責任者が変更点やら注意事項やら、あまり面白くないことを話すのです。組織としてやっている以上、こういう行事を設けて一体感を作り出すという目的なのでしょう。
だいたい予想通りの話を聞いていると、一つだけ面白い話がありました。今年あったというあるクレームの話です。
その頃、ちょうどテーマが「言葉の暴力は禁止」とかいうのに移っていました。
その中程で、責任者の方が取り上げたクレームの実例を聞いて、私は背筋がぞっとしてしまいました。
ある先生が、入ってきて2週間くらいの生徒を、いわゆる「呼び捨て」にしたのだそうです。私の塾は、受け取り方によっては呼び捨てにされて不快感を催す、という理解をしており、原則として呼び捨ては禁止されています。
数日後、その生徒の親からクレームが来ました。社是に従わなかった分、多少のお咎めは仕方がないでしょう。呼び捨てにされた生徒と信頼関係が成立していなければ、嫌な感じがするのは確かだと私も思います。
しかし、そのクレームの、理由になっている部分がすごいのです。
「うちの子は、呼び捨てにされたのは生まれて初めてで、ものすごくショックを受けて帰ってきた。おたくでは先生たちにどういう指導をしているのか」
どうです?
もう、こういうのは常識になってしまっているんでしょうかね?
呼び捨てが人生で、初めて。
ということは、親も、子供を「○○くん」「○○ちゃん」と読んでいるのでしょうか。
そんなのは、家庭の方針だろう、と言われればそれまでです。それに、子供を「くん」「ちゃん」で呼び育てて、人格がおかしくなるという証拠もありません。
私が驚いたのは、その方針自体ではないのです。
呼び捨てにされた程度で「ショック」を受けている子供が、受験や、その後に続いている人生で起こるトラブルに、まともに対処できるのでしょうか?
私は、はっきり言っておきます。
そんな子供は、ろくな受験もできないでしょう。そして、失敗したことを他人のせいにし、被害者面をして生きていくに違いない、と。
ところで、昔からよく、痛みを知る、苦労をして人間を磨く、そういう経験を積むと、良い人間になると言われています。
これらは、今までは、科学的な根拠は全くない、ただの人生訓でしかありませんでしたが、最近私は科学的根拠を見つけました。(笑)
それは、「自律神経」です。
自律神経は、「交感神経」と「副交感神経」と、2種類に分けることが出来ます。
「交感神経」というのは、緊張やストレスと関係のある神経です。これが働くと、毛穴が締まる、筋肉がこわばる、心拍数が上がるなどの現象が起こります。
これに対して、「副交感神経」は、リラックスや身体の弛緩(=ゆるみ)と関係のある神経です。こちらが優位になると、毛穴が開き汗が出る、脈拍が遅くなる、尿や鼻水が出やすくなる、という変化が見られます。
この二つの神経は、心の働きときれいにつながっています。例えば、危険を感じると、人間は鼓動が早くなったり、背中がこわばったりしますが、それは交感神経が働いている証拠なのです。逆に、風呂にはいると副交感神経が働くので、尿意を催したり、血行が良くなって身体がだるくなったりします。
交感神経が発達しているのは、人間や他の陸棲動物の特長です。
海に住んでいるイカには、副交感神経しかないそうです。餌はすぐ側にあるし、食べられそうになったら逃げればいい(逃げ切れないのがいても、他にたくさんの個体がいるので種の保存には問題ない)。だから、緊張する必要がないのです。
それに対して、陸に上がった生き物は、ただでさえ重力に抗って行動しなくてはならない上、獲物を捕らえて食べなくてはなりません。だから、自分を興奮させて、敵を攻撃する必要が出てくる。交感神経が優位になると、ドーパミンやノルアドレナリンという、いわゆる「脳内麻薬」が大量に放出されることからも、それが分かります。
人間が獲物を捕ることは今ではあまりありません。しかし、生きていく上で困難や危機に直面したとき、これを乗り越えなくてはならない場面はいくらでもあります。そういうときに、交感神経をフル稼働させることによって、人間はピンチに打ち勝つことができるようになっているのです。
たとえば、仕事に夢中になっている人は、食べることや寝ることも忘れて没頭します。これは、交感神経が働きっぱなしだから、身体もそれに従っているのです。一番極端な例は、「覚せい剤」です。あれを打つと、完全に交感神経優位になります。だから、食べたり寝たりせずに何かに集中できるのです。食べる=消化器官の活動は副交感神経の働きと関係があります。また、寝ている間に体温が上がったり汗をかいたりするのは、副交感神経が活発になっているからです。交感神経が勝っていると、副交感神経に関係のある活動がストップしてしまうのです。
私が思うに、今の子供は、交感神経を鍛える訓練をほとんどしていない、いや、子供によっては全くしていないと感じています。
それがもたらす弊害については、次回詳しく述べたいと思います。
毎回、そこで地区責任者が変更点やら注意事項やら、あまり面白くないことを話すのです。組織としてやっている以上、こういう行事を設けて一体感を作り出すという目的なのでしょう。
だいたい予想通りの話を聞いていると、一つだけ面白い話がありました。今年あったというあるクレームの話です。
その頃、ちょうどテーマが「言葉の暴力は禁止」とかいうのに移っていました。
その中程で、責任者の方が取り上げたクレームの実例を聞いて、私は背筋がぞっとしてしまいました。
ある先生が、入ってきて2週間くらいの生徒を、いわゆる「呼び捨て」にしたのだそうです。私の塾は、受け取り方によっては呼び捨てにされて不快感を催す、という理解をしており、原則として呼び捨ては禁止されています。
数日後、その生徒の親からクレームが来ました。社是に従わなかった分、多少のお咎めは仕方がないでしょう。呼び捨てにされた生徒と信頼関係が成立していなければ、嫌な感じがするのは確かだと私も思います。
しかし、そのクレームの、理由になっている部分がすごいのです。
「うちの子は、呼び捨てにされたのは生まれて初めてで、ものすごくショックを受けて帰ってきた。おたくでは先生たちにどういう指導をしているのか」
どうです?
もう、こういうのは常識になってしまっているんでしょうかね?
呼び捨てが人生で、初めて。
ということは、親も、子供を「○○くん」「○○ちゃん」と読んでいるのでしょうか。
そんなのは、家庭の方針だろう、と言われればそれまでです。それに、子供を「くん」「ちゃん」で呼び育てて、人格がおかしくなるという証拠もありません。
私が驚いたのは、その方針自体ではないのです。
呼び捨てにされた程度で「ショック」を受けている子供が、受験や、その後に続いている人生で起こるトラブルに、まともに対処できるのでしょうか?
私は、はっきり言っておきます。
そんな子供は、ろくな受験もできないでしょう。そして、失敗したことを他人のせいにし、被害者面をして生きていくに違いない、と。
ところで、昔からよく、痛みを知る、苦労をして人間を磨く、そういう経験を積むと、良い人間になると言われています。
これらは、今までは、科学的な根拠は全くない、ただの人生訓でしかありませんでしたが、最近私は科学的根拠を見つけました。(笑)
それは、「自律神経」です。
自律神経は、「交感神経」と「副交感神経」と、2種類に分けることが出来ます。
「交感神経」というのは、緊張やストレスと関係のある神経です。これが働くと、毛穴が締まる、筋肉がこわばる、心拍数が上がるなどの現象が起こります。
これに対して、「副交感神経」は、リラックスや身体の弛緩(=ゆるみ)と関係のある神経です。こちらが優位になると、毛穴が開き汗が出る、脈拍が遅くなる、尿や鼻水が出やすくなる、という変化が見られます。
この二つの神経は、心の働きときれいにつながっています。例えば、危険を感じると、人間は鼓動が早くなったり、背中がこわばったりしますが、それは交感神経が働いている証拠なのです。逆に、風呂にはいると副交感神経が働くので、尿意を催したり、血行が良くなって身体がだるくなったりします。
交感神経が発達しているのは、人間や他の陸棲動物の特長です。
海に住んでいるイカには、副交感神経しかないそうです。餌はすぐ側にあるし、食べられそうになったら逃げればいい(逃げ切れないのがいても、他にたくさんの個体がいるので種の保存には問題ない)。だから、緊張する必要がないのです。
それに対して、陸に上がった生き物は、ただでさえ重力に抗って行動しなくてはならない上、獲物を捕らえて食べなくてはなりません。だから、自分を興奮させて、敵を攻撃する必要が出てくる。交感神経が優位になると、ドーパミンやノルアドレナリンという、いわゆる「脳内麻薬」が大量に放出されることからも、それが分かります。
人間が獲物を捕ることは今ではあまりありません。しかし、生きていく上で困難や危機に直面したとき、これを乗り越えなくてはならない場面はいくらでもあります。そういうときに、交感神経をフル稼働させることによって、人間はピンチに打ち勝つことができるようになっているのです。
たとえば、仕事に夢中になっている人は、食べることや寝ることも忘れて没頭します。これは、交感神経が働きっぱなしだから、身体もそれに従っているのです。一番極端な例は、「覚せい剤」です。あれを打つと、完全に交感神経優位になります。だから、食べたり寝たりせずに何かに集中できるのです。食べる=消化器官の活動は副交感神経の働きと関係があります。また、寝ている間に体温が上がったり汗をかいたりするのは、副交感神経が活発になっているからです。交感神経が勝っていると、副交感神経に関係のある活動がストップしてしまうのです。
私が思うに、今の子供は、交感神経を鍛える訓練をほとんどしていない、いや、子供によっては全くしていないと感じています。
それがもたらす弊害については、次回詳しく述べたいと思います。






