日教組の主張を笑いながらお勉強する企画・第2弾です。
このブログのモットーは、「額に青筋より、ユーモアで」という点にあります。今回も軽い気持ちで、鋭く日教組の主張をコケにしてみましょう。
さて、今回のネタは、●日教組のホームページにある、「義務教育があぶない!」という主張コーナーです。原文を掲載しますが、長いと感じる場合は色を変えた所だけ読んで頂いても楽しめます
(以下引用)
「義務教育があぶない!!」
憲法で保証された「義務教育」は、子供たち一人ひとりが確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネットです。全国のどこに住んでいても、子どもたちが等しく良質な教育を受けられるようにするために、国が教職員(教員・事務職員・栄養職員)給与の2分1を負担する「義務教育費国庫負担制度」がつくられました。
この制度は、教育の機会均等と教育水準の維持向上に大きな役割を果たしています。
ところがいま、政府の構造改革路線のなかで、「義務教育費国庫負担制度」の見直しが大きな焦点になっているのです。
●廃止されたらどうなるの?
これまで義務教育費国庫負担で、全国のどの地域の学校にも必要な教職員が確保され、きめ細やかな指導が行われてきました。検討されているのは、国の負担金を廃止し、財源を地方自治体に移すということです。その試算では、全国の37道県で現状の国庫負担額より財源が下回る見通しです。財源が確保できなければ、現行の教職員配置が困難になり、40人を超える学級が生まれたり、小規模の統廃合が進んだり、教員が専門外の教科も教えざるをえないケースが増えることも考えられます。教材・教具費など保護者負担の増額も求められます。大都市と地方における教育水準の格差が拡大し、等しく教育を受ける権利が奪われてしまします。
●ゆきとどいた環境、最善の教育環境を
小泉首相は、「06年度までの3年間で補助金4兆円削減」を指示しました。そのなかで、金額の大きい「義務教育費国庫負担」が標的になり、制度そのものの廃止や事務教員の適用除外が提案されています。
教育のあり方については、自治体が地域住民とともに知恵を集め工夫を凝らしていく必要がありますが、その財政を保証するのは国の役割です。地方分権を進めるのであれば、まず多くのムダが指摘されている補助金の見直しを優先するべきです。
(中略)ムダな支出を見直し財政再建をはかることは重要ですが、教育関連予算は日本の未来をつくる「先行投資」です。国や地方自治体の財政が厳しくても、いまこそ充分な教育予算を確保すべきです。
私たちは、義務教育費国庫負担制度を維持し、子どもたちにゆきとどいた教育を行うために、30人以下学級や最善の教育環境を保証する教育予算の拡充を求めます。
「事務職員・栄養職員の適用除外」も検討されていますが、両職種は学校に不可欠な職員であり除外すべきではありません。保護者・地域の人々などからの多様な要請に応えていくために、学校予算、情報、渉外などの業務を担う事務職員の役割は増大しています。子どもたちへの食教育や栄養指導を行う栄養職員の役割も重要です。制度の維持は、教育関係者・PTAなどの一致した願いです。
(引用以上)
すみません、私、タイトルからして爆笑してしまいました(笑) 。
>義務教育があぶない!
それを言うなら「日教組はあぶない!」だと思うのですが、自覚ゼロですね。
しかも、書き出しからして凄まじいことになっています。
> 憲法で保証された
憲法がいつ、「万一の場合は責任を取ると請け負う」ことになったのでしょうか?憲法上の人権は「保障」されるものだと思うのですが・・・。
日教組の先生は、まさか社会の授業で「国連の安全保証理事会」などと板書しているのでしょうか。家電製品みたいですね。学力崩壊は日教組から始まる、という感じです。
>確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネット
そうですか。じゃあ、一日も早く、平和だの反戦だの人権だののたまって左翼思想を押しつけるような社会の授業や、学力増進に何の役にも立たない総合学習をやめるべきでしょうね。仮に、(実際はなかった)朝鮮人強制連行や従軍慰安婦の話を滔々と聞かせて「生きる力を身につけ」た子どもがいたら、是非紹介してもらいたいものです。
日教組が作ったセーフティネット・・・穴だらけで、かえって不安になってしまいますね。クモの巣の方がまだましかもしれません。
> 教育の機会均等と教育水準の維持向上
日教組というのは本当にプライドのない団体ですね。これ、彼らの大嫌いな文部科学省の主張そのままですね。文科省がこう言うと、「教師には教育の自由があるんだ!」「全体主義には負けないぞ!」とか言い始めるくせに・・・。
教育水準を維持する一番簡単な方法は、学習指導要領を徹底させることだというのは先日のブログ(●こちらの記事です)で私も書きましたが、それに反対しているのは日教組自身です。だから、日教組がなくなれば、教育水準の維持向上はバッチリ図れます。
>きめ細やかな指導
これも笑うしかありませんね。学校できめ細かく面倒を見て、「確かな学力と生きる力」を身につけられているなら、塾やフリースクールなんてものがこんなに沢山存在しません。いくら社交辞令でも、あからさま過ぎです。
>40人を超える学級が生まれたり
これも日教組(全教や共産党もですが)お得意の主張ですね。彼らはよく「30人学級の実現」ということを言いますが、子供の減少で20人学級になっている学校も都区内には結構あります。それにも関わらず学級崩壊という現象が止まらないのは、多分に教え手の能力や、クラス分け等の運営に問題があるのです。
そういう自分たちの弱点には触れず、とにかく教員の数を確保して教師一人当たりの生徒数を減らせば全てがうまく行くというのです。要するに、子どものことより自分の雇用対策を優先させているだけです。
>教員が専門外の教科も教えざるをえないケースが増える
教員免許取得者に非常勤(パートタイム)でやらせてみよう、という発想がどうして生まれないのでしょうかね?専門外の人間が教えるより、ずっといいと思うのですが。日教組は本当に建設的な提案ができませんね。旧社会党や共産党そっくりです。
>自治体が地域住民とともに知恵を集め工夫を凝らしていく
>必要がありますが、その財政を保証するのは国の役割
工夫はしたいが、自助努力はしない・・・すごい発想ですね。こういう文章を書くバカは、大学時代に「一人暮らしをして自由なライフスタイルを実現する必要があるが、その為の金を出すのは親の役割」などと考えていたんでしょうね。どうか、こういう発想は、小学生までにしてもらいたいものです。
> 教育関連予算は日本の未来をつくる「先行投資」です
授業の度に戦前の日本や天皇制をバカにしているような授業をしている連中に、「日本の未来」などと言う資格はありません。まず、学習指導要領に従って、勤務時間内に教育の成果を上げてから言ってほしいです。「本業なんてどうでもいいです!」と明言している会社に、誰が投資をするでしょうか?
> 財政が厳しくても・・・予算を確保すべきです。
エゴむき出しですね(笑)。金が無くても俺たちにはよこせ!というわけです。
>地域の人々
これはひょっとして●こういう団体のことでしょうか?確かに「親の会」とか言ってますからねぇ(笑)。
余談ですが、現代の左翼団体は、国会ではもう勝ち目がないと見て、地方議会や地方公共団体に集中攻撃をしかけています。その「成果」として、危険な条例がどんどん可決されつつあります。先日ブログで取り上げた「鳥取県人権救済条例」や、「川崎市人権オンブズパーソン条例」(詳細は●こちらのブログでご覧ください)などが良い例です。
おかしな人たちの浸食を許さないように、地方の政治にも目を配ることが大切だということを、ここで強調しておきたいです。
> 子どもたちへの食教育や栄養指導を行う栄養職員
あの・・・こういう人って、給食の献立を考えているだけじゃないんですか?子ども一人一人に面接して、「カップラーメンばかり食べちゃダメよ」などと声を掛けている「栄養職員」の話など、聞いたことがありません。
しかも、ここの日本語は変ですね。食生活や栄養「に関する」指導を行うというべきです。そうでないと、「食生活(や栄養指導)を行う職員」になってしまいます。先生が完璧であれ、とは言いませんが、もう少し表現力を磨いた方がよいと思われます。
> 教育関係者・PTAなどの一致した願い
日教組や左翼の市民団体というのは、すぐ「みんなの願い」ということを言い出しますが、本当かどうか怪しいですね。
むしろ、そういう訳の分からない団体など消えてほしい、というのが(普通の)みんなの願いなのではないかと思われます。
いろいろ突っ込んでみましたが、日教組が消えてなくなるのが一番の改革だ、という確信がますます強くなりました。
義務教育の国家負担は、堂々と減らすべきです。そして、不良債権になっている日教組の教員にはさっさと教職をやめてもらいましょう!!
このブログのモットーは、「額に青筋より、ユーモアで」という点にあります。今回も軽い気持ちで、鋭く日教組の主張をコケにしてみましょう。
さて、今回のネタは、●日教組のホームページにある、「義務教育があぶない!」という主張コーナーです。原文を掲載しますが、長いと感じる場合は色を変えた所だけ読んで頂いても楽しめます
(以下引用)
「義務教育があぶない!!」
憲法で保証された「義務教育」は、子供たち一人ひとりが確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネットです。全国のどこに住んでいても、子どもたちが等しく良質な教育を受けられるようにするために、国が教職員(教員・事務職員・栄養職員)給与の2分1を負担する「義務教育費国庫負担制度」がつくられました。
この制度は、教育の機会均等と教育水準の維持向上に大きな役割を果たしています。
ところがいま、政府の構造改革路線のなかで、「義務教育費国庫負担制度」の見直しが大きな焦点になっているのです。
●廃止されたらどうなるの?
これまで義務教育費国庫負担で、全国のどの地域の学校にも必要な教職員が確保され、きめ細やかな指導が行われてきました。検討されているのは、国の負担金を廃止し、財源を地方自治体に移すということです。その試算では、全国の37道県で現状の国庫負担額より財源が下回る見通しです。財源が確保できなければ、現行の教職員配置が困難になり、40人を超える学級が生まれたり、小規模の統廃合が進んだり、教員が専門外の教科も教えざるをえないケースが増えることも考えられます。教材・教具費など保護者負担の増額も求められます。大都市と地方における教育水準の格差が拡大し、等しく教育を受ける権利が奪われてしまします。
●ゆきとどいた環境、最善の教育環境を
小泉首相は、「06年度までの3年間で補助金4兆円削減」を指示しました。そのなかで、金額の大きい「義務教育費国庫負担」が標的になり、制度そのものの廃止や事務教員の適用除外が提案されています。
教育のあり方については、自治体が地域住民とともに知恵を集め工夫を凝らしていく必要がありますが、その財政を保証するのは国の役割です。地方分権を進めるのであれば、まず多くのムダが指摘されている補助金の見直しを優先するべきです。
(中略)ムダな支出を見直し財政再建をはかることは重要ですが、教育関連予算は日本の未来をつくる「先行投資」です。国や地方自治体の財政が厳しくても、いまこそ充分な教育予算を確保すべきです。
私たちは、義務教育費国庫負担制度を維持し、子どもたちにゆきとどいた教育を行うために、30人以下学級や最善の教育環境を保証する教育予算の拡充を求めます。
「事務職員・栄養職員の適用除外」も検討されていますが、両職種は学校に不可欠な職員であり除外すべきではありません。保護者・地域の人々などからの多様な要請に応えていくために、学校予算、情報、渉外などの業務を担う事務職員の役割は増大しています。子どもたちへの食教育や栄養指導を行う栄養職員の役割も重要です。制度の維持は、教育関係者・PTAなどの一致した願いです。
(引用以上)
すみません、私、タイトルからして爆笑してしまいました(笑) 。
>義務教育があぶない!
それを言うなら「日教組はあぶない!」だと思うのですが、自覚ゼロですね。
しかも、書き出しからして凄まじいことになっています。
> 憲法で保証された
憲法がいつ、「万一の場合は責任を取ると請け負う」ことになったのでしょうか?憲法上の人権は「保障」されるものだと思うのですが・・・。
日教組の先生は、まさか社会の授業で「国連の安全保証理事会」などと板書しているのでしょうか。家電製品みたいですね。学力崩壊は日教組から始まる、という感じです。
>確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネット
そうですか。じゃあ、一日も早く、平和だの反戦だの人権だののたまって左翼思想を押しつけるような社会の授業や、学力増進に何の役にも立たない総合学習をやめるべきでしょうね。仮に、(実際はなかった)朝鮮人強制連行や従軍慰安婦の話を滔々と聞かせて「生きる力を身につけ」た子どもがいたら、是非紹介してもらいたいものです。
日教組が作ったセーフティネット・・・穴だらけで、かえって不安になってしまいますね。クモの巣の方がまだましかもしれません。
> 教育の機会均等と教育水準の維持向上
日教組というのは本当にプライドのない団体ですね。これ、彼らの大嫌いな文部科学省の主張そのままですね。文科省がこう言うと、「教師には教育の自由があるんだ!」「全体主義には負けないぞ!」とか言い始めるくせに・・・。
教育水準を維持する一番簡単な方法は、学習指導要領を徹底させることだというのは先日のブログ(●こちらの記事です)で私も書きましたが、それに反対しているのは日教組自身です。だから、日教組がなくなれば、教育水準の維持向上はバッチリ図れます。
>きめ細やかな指導
これも笑うしかありませんね。学校できめ細かく面倒を見て、「確かな学力と生きる力」を身につけられているなら、塾やフリースクールなんてものがこんなに沢山存在しません。いくら社交辞令でも、あからさま過ぎです。
>40人を超える学級が生まれたり
これも日教組(全教や共産党もですが)お得意の主張ですね。彼らはよく「30人学級の実現」ということを言いますが、子供の減少で20人学級になっている学校も都区内には結構あります。それにも関わらず学級崩壊という現象が止まらないのは、多分に教え手の能力や、クラス分け等の運営に問題があるのです。
そういう自分たちの弱点には触れず、とにかく教員の数を確保して教師一人当たりの生徒数を減らせば全てがうまく行くというのです。要するに、子どものことより自分の雇用対策を優先させているだけです。
>教員が専門外の教科も教えざるをえないケースが増える
教員免許取得者に非常勤(パートタイム)でやらせてみよう、という発想がどうして生まれないのでしょうかね?専門外の人間が教えるより、ずっといいと思うのですが。日教組は本当に建設的な提案ができませんね。旧社会党や共産党そっくりです。
>自治体が地域住民とともに知恵を集め工夫を凝らしていく
>必要がありますが、その財政を保証するのは国の役割
工夫はしたいが、自助努力はしない・・・すごい発想ですね。こういう文章を書くバカは、大学時代に「一人暮らしをして自由なライフスタイルを実現する必要があるが、その為の金を出すのは親の役割」などと考えていたんでしょうね。どうか、こういう発想は、小学生までにしてもらいたいものです。
> 教育関連予算は日本の未来をつくる「先行投資」です
授業の度に戦前の日本や天皇制をバカにしているような授業をしている連中に、「日本の未来」などと言う資格はありません。まず、学習指導要領に従って、勤務時間内に教育の成果を上げてから言ってほしいです。「本業なんてどうでもいいです!」と明言している会社に、誰が投資をするでしょうか?
> 財政が厳しくても・・・予算を確保すべきです。
エゴむき出しですね(笑)。金が無くても俺たちにはよこせ!というわけです。
>地域の人々
これはひょっとして●こういう団体のことでしょうか?確かに「親の会」とか言ってますからねぇ(笑)。
余談ですが、現代の左翼団体は、国会ではもう勝ち目がないと見て、地方議会や地方公共団体に集中攻撃をしかけています。その「成果」として、危険な条例がどんどん可決されつつあります。先日ブログで取り上げた「鳥取県人権救済条例」や、「川崎市人権オンブズパーソン条例」(詳細は●こちらのブログでご覧ください)などが良い例です。
おかしな人たちの浸食を許さないように、地方の政治にも目を配ることが大切だということを、ここで強調しておきたいです。
> 子どもたちへの食教育や栄養指導を行う栄養職員
あの・・・こういう人って、給食の献立を考えているだけじゃないんですか?子ども一人一人に面接して、「カップラーメンばかり食べちゃダメよ」などと声を掛けている「栄養職員」の話など、聞いたことがありません。
しかも、ここの日本語は変ですね。食生活や栄養「に関する」指導を行うというべきです。そうでないと、「食生活(や栄養指導)を行う職員」になってしまいます。先生が完璧であれ、とは言いませんが、もう少し表現力を磨いた方がよいと思われます。
> 教育関係者・PTAなどの一致した願い
日教組や左翼の市民団体というのは、すぐ「みんなの願い」ということを言い出しますが、本当かどうか怪しいですね。
むしろ、そういう訳の分からない団体など消えてほしい、というのが(普通の)みんなの願いなのではないかと思われます。
いろいろ突っ込んでみましたが、日教組が消えてなくなるのが一番の改革だ、という確信がますます強くなりました。
義務教育の国家負担は、堂々と減らすべきです。そして、不良債権になっている日教組の教員にはさっさと教職をやめてもらいましょう!!
いつも感じるのですが、どうしてこう教育の世界には「夢」や「努力」、「理想」「個性」といった、綺麗だけれど抽象的な言葉がたくさん飛び交っているのでしょう?日教組がバカの一つ覚えのように繰り返す「平和」や「反戦」や「人権」となると、唱えている人間自身が暴力行為で学力テストを妨害したり(「旭川学力テスト事件」などが有名)、人の親の職業に文句を付けたりしている(※注)ので、もはやブラックユーモアとしか思えません。
※自衛官の息子さんや娘さんに「あなたの父親は人殺しだ」という
不届きな教師が結構いた(いる)らしいです。
どうも、我が国は若者や子どものことを考えるとき、こういう言葉で具体的な対処をせずにお茶を濁していることが多いのではないでしょうか。
10月26日のことですが、YAHOOのニュースでこんな記事を見つけました。厚生労働省職業安定局(サイトは●こちら)のやっているキャンペーンらしいです。
(以下引用)
<眞鍋かをり>ニート、引きこもりにエール
「若者の人間力を高めるための国民運動」のイベントが26日、東京都千代田区の東京国際フォーラムであり、タレント・眞鍋かをりさんと五輪柔道三連覇の野村忠宏さんが若者にエールを送り、歌手の川嶋あいさんが応援ミニライブを開いた。
ニートや引きこもりなど問題が増えている若者を支援しようと、経済界や労働界などでつくる「同国民会議」(議長、奥田碩・経団連会長)が主催。眞鍋さんは「若者サポーター」として、参加した約300人の若者らに「社会に出て大人として働くためには、能力よりも先に人間力が必要。若者のみなさんは、自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って」と呼びかけた。また、野村さんは「目標を持って自分を奮い立たせてください」と訴えた。
その後、若者と識者らのトークセッションがあり、川嶋あいさんが熱唱し、「夢を一つは持って、火の中に飛び込む意気込みでがんばって」と激励した(毎日新聞)
(引用以上)
うーむ、素直に賛同してしまいたくなりますが、ちょっと疑ってかからなくてはいけませんねぇ。突っ込み開始です。
>東京国際フォーラム
ニートになるような「若者」がこんなところまで眞鍋かをりの話をわざわざ聞きにくるんでしょうか(笑)。警視庁の一日警察署長と同じで、ただタレントを呼んで予算を消化しているだけのような気がします。
お次は、何とか国民会議のトップの方。
>議長、奥田碩・経団連会長
ニートやフリーターを生んだ主犯格のご登場ですね(笑)。経団連のメンバーである大企業が正社員の雇用を減らして、いつでもクビを切れる派遣社員に大幅に雇用をシフトしたことと、中国に生産拠点を大幅に移転したことで、将来の職業の見通しが立たない若者が増えているのが、悲しいことに現状なのです。
そういう現状をまさか奥田さん自身が「私が悪かった」と言うわけにもいかないのでしょうが、若者の成長=企業の労働力確保という意図が見え見えで、興ざめです。
まあ、奥田さんとしてはトヨタの車が売れればいいのかな?
さて、眞鍋かをりの発言に行きましょう。
>人間力が必要。
●このサイトに、中身らしきものがあります。
>「人生を考える力」や「コミュニケーション能力」を身につけさせ、
>「働くことの理解」を深めさせるなど、社会に出る前の若者が
>「生きる自信」と力をつけることができるようにします。
(鍵括弧は、筆者による)
上で「 」をつけたものは、確かに重要です。
しかし、それなら文部科学省と連携しないとだめだと思います。それに、上のトヨタの会長のところで言いましたが、大企業がリストラしやすいだけの今の産業構造にも手を着けた方がいいでしょう。
まあ、確実に言えることは、「人生を考える力」や「コミュニケーション能力」や「働くことへの理解」を身につける教育にとって、暇さえあれば日本の悪口を言いながら変な授業(例えば、●こういう授業です)をやっている日教組の組合員以上の不適任者はいないということです。
>自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って
あの・・・それが出来ないから、みんな苦しんでるんじゃないですかねぇ?
なぜ社会に出るとき若者が無防備なのか、経済構造や教育の現状をきちんと見直さなければ、ニートというのはなくなりません。こんな呼びかけなら誰にでもできます。どうやって人間力を高めるか、それを具体的に提示すべきなのではないでしょうか。
聞くところによると、眞鍋さんはヒット数日本一とかいうブログ(●このブログのこと)を運営しているらしいですが、その中身と同様、あまり中身のない呼びかけですね。
最後は、川嶋あいという歌手(?)の発言。
> 夢を一つは持って
さあ、出てきましたよ!戦後教育が生んだ癌、「自己実現教」のご登場です。
「自己実現教」とは、私の勝手な造語です。「夢を持ってなりたい自分になる」という発想をその根本教義にしている、一種の宗教と言ってもいいでしょう。「努力すればできないことはない!」「君たちは何にでもなれる!」などという文句で、年端もいかない若者を勧誘している戦後の新興宗教で、その最大の信者が「団塊の世代」と「学校の教員」(日教組とは限らない)です。
無自覚に「夢」や「希望」という単語を連発するのがこの宗教の信者の特徴の一つです。もちろん、夢や希望を持つな、などと私は言うつもりではありません。しかし、「夢が叶うにはこういう条件が必要だ」「誰にでも可能ではないのだ」ということをきちんと教えなければ、ただの無責任になってしまいます。人生すら狂わせ兼ねません。
ニートになってしまうのは、いざ社会と接触を持とうというときに、今まで教えられてきた「頑張れば叶う夢」とのギャップが大きすぎてショック症状になってしまうことも原因の一つです。この国民会議とやらも、そういうギャップをきちんと若者に伝えて、「世の中は甘くないんだぞ、でも一緒にがんばってみようや」と呼びかけるべきなのです。それなのに、最後には結局「夢」。もう、馬鹿馬鹿しくて笑うしかありません。プロデュースしている厚生労働省の役人自身が、「夢を追いかけなきゃ人生じゃない!」などという幻想を捨て切れていないのでしょうね。
そして、締めの一言がこれです。
>火の中に飛び込む意気込みでがんばって
あんた、ひとを殺す気ですか(笑)。最近のマスメディアには、こういう類の、人生がまるで博打であるかのような発言は結構多いですね。もちろん、「焼死」してしまっても、自己責任というわけです。
今の若者の大多数が求めているのは、コツコツ努力すればちゃんと老後まで暮らしていける生活なのではないでしょうか。「自己実現教」の狂信者がどうなろうと勝手ですが、真面目な人や純粋な人をけしかけて、火の中に飛び込ませるような真似はやめるべきです。
さて、けなしてばかりだとトヨタの会長さんに悪いので(笑)、建設的なことも書いておきましょう。
こういうイベントにお金をかけるなら、「使命感」や「利他精神」といった、我欲の充足による自己実現でない価値を若者に教える内容にすべきです(たとえば、日本の漁船の安全のために頑張っている海上保安庁の職員に「使命感」というものについて語ってもらう)。
人の役に立つ、ということは、誰にでもできます。極端な話、真面目に働いて暮らしていけるだけで、両親という他人を喜ばせることができます。そういう喜びを感じながら暮らせるなら、人生が生きるに値しないなんてことは絶対にありません。
ところが、夢を叶えるとなると、こうはいきません。なぜなら、才能や運というものが絶対に必要になるからです。夢を叶えることが人生の意味だと強調してしまったら、そのための条件を備えていない大多数の人間には生きている価値がないことになってしまいます。「頑張れば、みんな松浦亜弥とかイチローとかホリエモンになれるんだよ!」と言っているのと同じです。誰にでもきらりと光る何かがある、なんて言っても無駄です。「きらりと光る何か」がお金にならないものなら、社会は見向きもしません。それが現実です。だから、「自分らしく生きて夢を叶える」ことを人生の目標にするなと私は言っているのです。「なりたい」「したい」という我欲の追求には限界があることを、子どもや若者にちゃんと教えるべきです。
今の若者は、夢や希望や理想を伝えられすぎて、社会に出る前から疲れてしまっているのではないでしょうか。
だから、『世界に一つだけの花』のような歌が流行るのです。ああいった歌には、「自分(らしさ)」という言葉は腐るほど出てきても、「他人」「社会」「国」という概念は絶対に出てきません。若者たちは心のどこかで、自己実現が無理だということがわかってきたので、人と関わらない「自分(らしさ)」に逃げ込もうとしているのではないかという気がします。そこには「人のために何かをしよう」というメッセージはありません。そんなことばかり考えているから、自分の殻に閉じこもってしまうのです。
若者に外を向いて自分を律していく力強さを与えるのが教育の役割ではないかと、私は思います。しかし、日教組が言うような「個性の尊重」「自由と平等」では、他人のために自分をコントロールしなくていいんだというわがままやずるさが増幅されるだけで、そういう力を与えることはできません。
それで、挙げ句の果てに、役所が税金を使って「人間力」とか「夢を持って」などと呼びかけているわけです。単語こそ変わりましたが、結局は日教組の平和や人権と同様、中身がない抽象的な言葉であることは変わりありません。呼びかける前に、何か教育の現場で具体的なアクションを起こせばいいと思うのですが・・・。
結論として、こんなイベントはやるだけ無駄です。。
日教組教員を含む教師たちも、若者に「周りが何を言おうと自分らしく生きろ」とか「いつまでも9条を守って平和な日本を」などと語りかけている場合ではないです。特に日教組は、義務教育が「子供たち一人ひとりが確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネット」だと主張しているのです(●日教組のホームページ左のフレームにある「義務教育が危ない!」を参照)。だったら、もっと具体的なプログラムを提唱してみろ!!と言ってやりたい気分です。
※自衛官の息子さんや娘さんに「あなたの父親は人殺しだ」という
不届きな教師が結構いた(いる)らしいです。
どうも、我が国は若者や子どものことを考えるとき、こういう言葉で具体的な対処をせずにお茶を濁していることが多いのではないでしょうか。
10月26日のことですが、YAHOOのニュースでこんな記事を見つけました。厚生労働省職業安定局(サイトは●こちら)のやっているキャンペーンらしいです。
(以下引用)
<眞鍋かをり>ニート、引きこもりにエール
「若者の人間力を高めるための国民運動」のイベントが26日、東京都千代田区の東京国際フォーラムであり、タレント・眞鍋かをりさんと五輪柔道三連覇の野村忠宏さんが若者にエールを送り、歌手の川嶋あいさんが応援ミニライブを開いた。
ニートや引きこもりなど問題が増えている若者を支援しようと、経済界や労働界などでつくる「同国民会議」(議長、奥田碩・経団連会長)が主催。眞鍋さんは「若者サポーター」として、参加した約300人の若者らに「社会に出て大人として働くためには、能力よりも先に人間力が必要。若者のみなさんは、自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って」と呼びかけた。また、野村さんは「目標を持って自分を奮い立たせてください」と訴えた。
その後、若者と識者らのトークセッションがあり、川嶋あいさんが熱唱し、「夢を一つは持って、火の中に飛び込む意気込みでがんばって」と激励した(毎日新聞)
(引用以上)
うーむ、素直に賛同してしまいたくなりますが、ちょっと疑ってかからなくてはいけませんねぇ。突っ込み開始です。
>東京国際フォーラム
ニートになるような「若者」がこんなところまで眞鍋かをりの話をわざわざ聞きにくるんでしょうか(笑)。警視庁の一日警察署長と同じで、ただタレントを呼んで予算を消化しているだけのような気がします。
お次は、何とか国民会議のトップの方。
>議長、奥田碩・経団連会長
ニートやフリーターを生んだ主犯格のご登場ですね(笑)。経団連のメンバーである大企業が正社員の雇用を減らして、いつでもクビを切れる派遣社員に大幅に雇用をシフトしたことと、中国に生産拠点を大幅に移転したことで、将来の職業の見通しが立たない若者が増えているのが、悲しいことに現状なのです。
そういう現状をまさか奥田さん自身が「私が悪かった」と言うわけにもいかないのでしょうが、若者の成長=企業の労働力確保という意図が見え見えで、興ざめです。
まあ、奥田さんとしてはトヨタの車が売れればいいのかな?
さて、眞鍋かをりの発言に行きましょう。
>人間力が必要。
●このサイトに、中身らしきものがあります。
>「人生を考える力」や「コミュニケーション能力」を身につけさせ、
>「働くことの理解」を深めさせるなど、社会に出る前の若者が
>「生きる自信」と力をつけることができるようにします。
(鍵括弧は、筆者による)
上で「 」をつけたものは、確かに重要です。
しかし、それなら文部科学省と連携しないとだめだと思います。それに、上のトヨタの会長のところで言いましたが、大企業がリストラしやすいだけの今の産業構造にも手を着けた方がいいでしょう。
まあ、確実に言えることは、「人生を考える力」や「コミュニケーション能力」や「働くことへの理解」を身につける教育にとって、暇さえあれば日本の悪口を言いながら変な授業(例えば、●こういう授業です)をやっている日教組の組合員以上の不適任者はいないということです。
>自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って
あの・・・それが出来ないから、みんな苦しんでるんじゃないですかねぇ?
なぜ社会に出るとき若者が無防備なのか、経済構造や教育の現状をきちんと見直さなければ、ニートというのはなくなりません。こんな呼びかけなら誰にでもできます。どうやって人間力を高めるか、それを具体的に提示すべきなのではないでしょうか。
聞くところによると、眞鍋さんはヒット数日本一とかいうブログ(●このブログのこと)を運営しているらしいですが、その中身と同様、あまり中身のない呼びかけですね。
最後は、川嶋あいという歌手(?)の発言。
> 夢を一つは持って
さあ、出てきましたよ!戦後教育が生んだ癌、「自己実現教」のご登場です。
「自己実現教」とは、私の勝手な造語です。「夢を持ってなりたい自分になる」という発想をその根本教義にしている、一種の宗教と言ってもいいでしょう。「努力すればできないことはない!」「君たちは何にでもなれる!」などという文句で、年端もいかない若者を勧誘している戦後の新興宗教で、その最大の信者が「団塊の世代」と「学校の教員」(日教組とは限らない)です。
無自覚に「夢」や「希望」という単語を連発するのがこの宗教の信者の特徴の一つです。もちろん、夢や希望を持つな、などと私は言うつもりではありません。しかし、「夢が叶うにはこういう条件が必要だ」「誰にでも可能ではないのだ」ということをきちんと教えなければ、ただの無責任になってしまいます。人生すら狂わせ兼ねません。
ニートになってしまうのは、いざ社会と接触を持とうというときに、今まで教えられてきた「頑張れば叶う夢」とのギャップが大きすぎてショック症状になってしまうことも原因の一つです。この国民会議とやらも、そういうギャップをきちんと若者に伝えて、「世の中は甘くないんだぞ、でも一緒にがんばってみようや」と呼びかけるべきなのです。それなのに、最後には結局「夢」。もう、馬鹿馬鹿しくて笑うしかありません。プロデュースしている厚生労働省の役人自身が、「夢を追いかけなきゃ人生じゃない!」などという幻想を捨て切れていないのでしょうね。
そして、締めの一言がこれです。
>火の中に飛び込む意気込みでがんばって
あんた、ひとを殺す気ですか(笑)。最近のマスメディアには、こういう類の、人生がまるで博打であるかのような発言は結構多いですね。もちろん、「焼死」してしまっても、自己責任というわけです。
今の若者の大多数が求めているのは、コツコツ努力すればちゃんと老後まで暮らしていける生活なのではないでしょうか。「自己実現教」の狂信者がどうなろうと勝手ですが、真面目な人や純粋な人をけしかけて、火の中に飛び込ませるような真似はやめるべきです。
さて、けなしてばかりだとトヨタの会長さんに悪いので(笑)、建設的なことも書いておきましょう。
こういうイベントにお金をかけるなら、「使命感」や「利他精神」といった、我欲の充足による自己実現でない価値を若者に教える内容にすべきです(たとえば、日本の漁船の安全のために頑張っている海上保安庁の職員に「使命感」というものについて語ってもらう)。
人の役に立つ、ということは、誰にでもできます。極端な話、真面目に働いて暮らしていけるだけで、両親という他人を喜ばせることができます。そういう喜びを感じながら暮らせるなら、人生が生きるに値しないなんてことは絶対にありません。
ところが、夢を叶えるとなると、こうはいきません。なぜなら、才能や運というものが絶対に必要になるからです。夢を叶えることが人生の意味だと強調してしまったら、そのための条件を備えていない大多数の人間には生きている価値がないことになってしまいます。「頑張れば、みんな松浦亜弥とかイチローとかホリエモンになれるんだよ!」と言っているのと同じです。誰にでもきらりと光る何かがある、なんて言っても無駄です。「きらりと光る何か」がお金にならないものなら、社会は見向きもしません。それが現実です。だから、「自分らしく生きて夢を叶える」ことを人生の目標にするなと私は言っているのです。「なりたい」「したい」という我欲の追求には限界があることを、子どもや若者にちゃんと教えるべきです。
今の若者は、夢や希望や理想を伝えられすぎて、社会に出る前から疲れてしまっているのではないでしょうか。
だから、『世界に一つだけの花』のような歌が流行るのです。ああいった歌には、「自分(らしさ)」という言葉は腐るほど出てきても、「他人」「社会」「国」という概念は絶対に出てきません。若者たちは心のどこかで、自己実現が無理だということがわかってきたので、人と関わらない「自分(らしさ)」に逃げ込もうとしているのではないかという気がします。そこには「人のために何かをしよう」というメッセージはありません。そんなことばかり考えているから、自分の殻に閉じこもってしまうのです。
若者に外を向いて自分を律していく力強さを与えるのが教育の役割ではないかと、私は思います。しかし、日教組が言うような「個性の尊重」「自由と平等」では、他人のために自分をコントロールしなくていいんだというわがままやずるさが増幅されるだけで、そういう力を与えることはできません。
それで、挙げ句の果てに、役所が税金を使って「人間力」とか「夢を持って」などと呼びかけているわけです。単語こそ変わりましたが、結局は日教組の平和や人権と同様、中身がない抽象的な言葉であることは変わりありません。呼びかける前に、何か教育の現場で具体的なアクションを起こせばいいと思うのですが・・・。
結論として、こんなイベントはやるだけ無駄です。。
日教組教員を含む教師たちも、若者に「周りが何を言おうと自分らしく生きろ」とか「いつまでも9条を守って平和な日本を」などと語りかけている場合ではないです。特に日教組は、義務教育が「子供たち一人ひとりが確かな学力や生きる力を身につけ、社会人となるためのセーフティネット」だと主張しているのです(●日教組のホームページ左のフレームにある「義務教育が危ない!」を参照)。だったら、もっと具体的なプログラムを提唱してみろ!!と言ってやりたい気分です。
最近気づいたこと・・・フォントをやたらと変えるから更新に時間がかかるのだということです。
今日は、少しさっぱりした画面でお届けいたします(笑)。
前回は、日教組とその手下が「勤務評定」というものを頑なに拒絶しており、その原因は、彼らの政治活動ができなくなるからではないか、という話をいたしました。
しかし、日教組やその配下の教職員組合は、教育職における勤務には、客観的評価が困難であるという主張をしています。これは、正しい主張なのでしょうか。
結論から言えば、100%正しくありません!!!!
なぜなら、日本の公教育には、「学習指導要領」という明確な基準があるからです。基準があるのですから、それに基づいた知識の修得、体系的理解の度合い、それに対する熱意、工夫という点で、客観的評価ができます。
こんなの、普通の企業どころか、塾の業界でも当たり前のことです!!
こういうことを言うと、日教組の人間から「おまえは塾講師などという気楽な仕事をしているからそんなことが言えるのだ!」「この右翼が!」という、赤い罵声が飛んできそうです。しかし、はっきり言ってやりたいのですが、そもそも、教育に携わる仕事に、明確な達成度を設けるべきでないという発想がおかしいのです。
教師が扱うのは、あくまで知識や理解、あるいは社会に出たときに必要となる能力や心構えの伝授であって、それ以上でもそれ以下でもないはずです。
日教組に限らず、世間一般も、教師というのは何か特別なものを教える職業だという変な誤解があります。それが全ての間違いの元なのではないでしょうか。先生というのは、生徒とともに学び、心のふれあいを通じて人格的成長を促す存在である・・・とかいった感じでしょうか。
後述しますが、そういう曖昧模糊とした「教師」の定義が、日教組の横暴を許す元凶になっているのです。
さて、学習指導要領には、かなり詳細に「ここをこうすべき」という到達点が記載されています(詳しくは●こちらのサイトを参照してください)。
例えば、「社会」の「歴史的分野」における「近現代の日本と世界」という項目を見てみましょう。日教組教師が一番赤く燃え上がりそうな箇所です。
>昭和初期から第二次世界大戦の終結までの我が国の政治・
>外交の動き,中国などアジア諸国との関係,欧米諸国の動きに
>着目させて,経済の混乱と社会問題の発生,軍部の台頭から
>戦争までの経過を理解させるとともに,戦時下の国民の生活に
>着目させる。また,大戦が人類全体に惨禍を及ぼしたことを
>理解させる。
ここで文部科学省から「こうしなさい」と言われているのは、「アジア諸国との関係」に「着目」させて、「大戦が人類全体に惨禍を及ぼしたことを理解させる」という点だけです。日本軍の残虐な所行(もちろん中国や韓国の捏造)を生徒に教え込め、などとはひとことも書いていません。
しかも、「内容の取扱」についても、きちんと注文が入っています。
>生徒の発達段階を考慮し,抽象的で高度な内容や複雑な社会構造
>などに深入りすることは避けるとともに,各時代の特色を表す
>歴史的事象を重点的に選んで指導内容を構成することにより,
>細かな知識を記憶するだけの学習に陥らないようにすること。
この下りを読むと、完全な自己申告に基づく「従軍慰安婦」の苦労話を長々と扱うことなど、完全なルール違反だということがよくわかりますね。日本軍の慰み者にされて、子宮を摘出したなどという話が、「生徒の発達段階を考慮し」ているとはとても思えません。
こんなの、ただのマニュアルだろ?こんなのの通りにやる必要ないじゃん!?と青筋を立てている教員の方に申し上げます。
学習指導要領は、最高裁も判決で法的拘束力があることを認めています(伝習館高校事件判決、最判平成2年1月18日)。つまり、指導要領の不履行を理由に処分された場合、争っても勝ち目がないのです。憲法学者がいくら難癖をつけようが無駄です。
そこで、考え方を変えてみます。
学習指導要領において「理解させる」べきとされている知識を、テストという形で測り、到達度を評価するというのが公立学校の目的だと考えるのです。こう決めてしまう方が「教育とは何か?」という不毛な論争が始まらないで済みます。人員や負担可能なコストに限界のある公教育など、それで十分です。また、その方が生徒にとっても得るものが大きいはずです。
そして、勤務評定というのも、そういった客観的に出てきた数字に、普段の勤務態度を加えて行えばいいのです。簡単なことです。
公立の学校は、ただでさえカリキュラムの進み具合が遅いです。中3の2学期まで歴史をやっている中学校があります。そうなると、「公民的分野」を扱えないことになるわけです。これは、明らかに指導要領違反です。
だってそうでしょう?
みなさんは、入試までに全範囲を終えて、問題演習を積むことができないようなカリキュラムを組んでいたり、カリキュラムをこなすことを放棄している先生ばかりの塾に通い(お子さんを通わせ)ますか?そんなのお金の無駄だと、誰もが思うはずです。
それが、公立学校の先生となると、何か当然のことのように思ってしまう人が多いのではありませんか。それが、そもそもの間違いです。お金(税金)が使われているのですから、きちんと指導要領を守ってもらうように働きかけるべきです。
これを防ぐために提案したいのは、「校長の権限強化」と「教育委員の定期的な現場視察」です。
校長先生は、現場の教員にとっては「上司」です。上司が部下の仕事ぶりに目を光らせるのは当然です。また、さらに上司である(というか、第三者的な立場にいる)教育委員の監督が入るとなれば、教師と子どもだけの密室で何かおかしなことが起こっているという事態は避けることが出来ます。
そうすれば、同じ学年なのに、先生によって進む範囲がバラバラなどという、営利企業の塾がやったら生徒がみんな逃げてしまうような事態は起きずに済みます。
その上で、中間テストや期末テスト、さらには全国的な学力テストをやればいいのです。ほら、すっきりしたでしょう?
なんですって?
「ただ知識を授けてテストで点を取らせるなどというのは、教育じゃない」「子どもの自由な発想や想像力を育てて、個性を伸ばすのが教師の勤めだ」ですって??
だったら、そういう教育を実際に行って成果を出している学校なり、先生なりを私に紹介してくれませんかね。はっきり言いますが、私はそんな公立学校の教員は日本中探してもどこにもいないと断言できます。
優れた先生、良い先生というのは、あくまで具体的に教える対象があってこそ人間性なり、人生経験をかもし出せるのです。
相手は人間ですから、ただ教えるだけでは何も覚えてくれないものです。そこで、その先生なりに工夫をしたり、面白おかしく話して聞かせたりするのではありませんか?
教える立場の人間は、その教える対象を「好きで好きでたまらない」という人であるべきです。この科目の素晴らしさを、どうしても子どもに知ってもらいたいと思うからこその、工夫や人間味なのです。
個性だの創造性だの自由だの言っている教師に聞きたいのですが、なぜ、英語なら英語の、歴史なら歴史のプロになろうとしないのでしょうか?本当に知識や理解を十分兼ね備えている教師なら、学習指導要領に沿って教えるくらい訳のない話のはずです。勤務評定など怖くないはずです。
そんなに文部科学省の学習指導要領に従う気がないのなら、平和や人権のことを学ぶための私塾を作れば良いではないかと思います。それなら、勤務評定を気にせず自分の言いたいことを言えます。(もちろん、そんな塾に子どもをやる親はあまりいないと思いますが)。
それだとお金がもらえないから、と、税金から給料を頂きながら「活動」するというのはおかしな話です。教職は政治的な思想を主張するステージではありません。それでも何か伝えたい思いがあるなら、まずは職務を適正に執行すべきです。
日教組がその形成に一役買った戦後の教育論の最大の間違いは、具体的な対象として何を設定するかということを問題にせず、教育に抽象的な概念(平和、人権、夢、理想、努力、可能性、友情、愛など)をはびこらせてしまったことにあります。前回も言いましたが、こういう高尚な概念は、単なるサボる理屈にしかならないのです。
理想が何か、愛が何か、そんなことは親や友達との交流から教わるものです。教師が教壇から生徒に伝えることではありません。生徒とのふれあいがどうのこうの、というのなら、まず教育指導要領に書いてあることをきちんと教えてから、その合間に息抜きとしてやるべきなのです。それこそが、公立学校の教員として評価されるべき仕事なのです。
日教組が教育の自由とやらをふりかざして勤務評定を拒むなら、我々も明確な評価基準と、それを達成させるための監督システムを提唱して対抗していくことが必要です。
日教組に限らず、左翼的な考え方をする人たちと向き合うときに大切なことは、具体的にどうするか、というレベルで議論をすることです。日教組に反論されて、「個性の尊重」だの「自由な発想」だの持ち出してしまったら、その時点で負けです。
もう一度繰り返しますが、我が国には教育指導要領という具体的な基準があるのです。それをどれだけ達成できたか、テストの点や勤務態度を対象とするのなら、十分客観的な勤務評定は可能です。
今の社会は、あらゆるところで競争をしているのですから、日教組の組合員たちも勤評闘争などという根暗な行動に走らず、国民が認める明確な基準の下、お日様の下で正々堂々仕事の質で勝負してほしいものです!!
今日は、少しさっぱりした画面でお届けいたします(笑)。
前回は、日教組とその手下が「勤務評定」というものを頑なに拒絶しており、その原因は、彼らの政治活動ができなくなるからではないか、という話をいたしました。
しかし、日教組やその配下の教職員組合は、教育職における勤務には、客観的評価が困難であるという主張をしています。これは、正しい主張なのでしょうか。
結論から言えば、100%正しくありません!!!!
なぜなら、日本の公教育には、「学習指導要領」という明確な基準があるからです。基準があるのですから、それに基づいた知識の修得、体系的理解の度合い、それに対する熱意、工夫という点で、客観的評価ができます。
こんなの、普通の企業どころか、塾の業界でも当たり前のことです!!
こういうことを言うと、日教組の人間から「おまえは塾講師などという気楽な仕事をしているからそんなことが言えるのだ!」「この右翼が!」という、赤い罵声が飛んできそうです。しかし、はっきり言ってやりたいのですが、そもそも、教育に携わる仕事に、明確な達成度を設けるべきでないという発想がおかしいのです。
教師が扱うのは、あくまで知識や理解、あるいは社会に出たときに必要となる能力や心構えの伝授であって、それ以上でもそれ以下でもないはずです。
日教組に限らず、世間一般も、教師というのは何か特別なものを教える職業だという変な誤解があります。それが全ての間違いの元なのではないでしょうか。先生というのは、生徒とともに学び、心のふれあいを通じて人格的成長を促す存在である・・・とかいった感じでしょうか。
後述しますが、そういう曖昧模糊とした「教師」の定義が、日教組の横暴を許す元凶になっているのです。
さて、学習指導要領には、かなり詳細に「ここをこうすべき」という到達点が記載されています(詳しくは●こちらのサイトを参照してください)。
例えば、「社会」の「歴史的分野」における「近現代の日本と世界」という項目を見てみましょう。日教組教師が一番赤く燃え上がりそうな箇所です。
>昭和初期から第二次世界大戦の終結までの我が国の政治・
>外交の動き,中国などアジア諸国との関係,欧米諸国の動きに
>着目させて,経済の混乱と社会問題の発生,軍部の台頭から
>戦争までの経過を理解させるとともに,戦時下の国民の生活に
>着目させる。また,大戦が人類全体に惨禍を及ぼしたことを
>理解させる。
ここで文部科学省から「こうしなさい」と言われているのは、「アジア諸国との関係」に「着目」させて、「大戦が人類全体に惨禍を及ぼしたことを理解させる」という点だけです。日本軍の残虐な所行(もちろん中国や韓国の捏造)を生徒に教え込め、などとはひとことも書いていません。
しかも、「内容の取扱」についても、きちんと注文が入っています。
>生徒の発達段階を考慮し,抽象的で高度な内容や複雑な社会構造
>などに深入りすることは避けるとともに,各時代の特色を表す
>歴史的事象を重点的に選んで指導内容を構成することにより,
>細かな知識を記憶するだけの学習に陥らないようにすること。
この下りを読むと、完全な自己申告に基づく「従軍慰安婦」の苦労話を長々と扱うことなど、完全なルール違反だということがよくわかりますね。日本軍の慰み者にされて、子宮を摘出したなどという話が、「生徒の発達段階を考慮し」ているとはとても思えません。
こんなの、ただのマニュアルだろ?こんなのの通りにやる必要ないじゃん!?と青筋を立てている教員の方に申し上げます。
学習指導要領は、最高裁も判決で法的拘束力があることを認めています(伝習館高校事件判決、最判平成2年1月18日)。つまり、指導要領の不履行を理由に処分された場合、争っても勝ち目がないのです。憲法学者がいくら難癖をつけようが無駄です。
そこで、考え方を変えてみます。
学習指導要領において「理解させる」べきとされている知識を、テストという形で測り、到達度を評価するというのが公立学校の目的だと考えるのです。こう決めてしまう方が「教育とは何か?」という不毛な論争が始まらないで済みます。人員や負担可能なコストに限界のある公教育など、それで十分です。また、その方が生徒にとっても得るものが大きいはずです。
そして、勤務評定というのも、そういった客観的に出てきた数字に、普段の勤務態度を加えて行えばいいのです。簡単なことです。
公立の学校は、ただでさえカリキュラムの進み具合が遅いです。中3の2学期まで歴史をやっている中学校があります。そうなると、「公民的分野」を扱えないことになるわけです。これは、明らかに指導要領違反です。
だってそうでしょう?
みなさんは、入試までに全範囲を終えて、問題演習を積むことができないようなカリキュラムを組んでいたり、カリキュラムをこなすことを放棄している先生ばかりの塾に通い(お子さんを通わせ)ますか?そんなのお金の無駄だと、誰もが思うはずです。
それが、公立学校の先生となると、何か当然のことのように思ってしまう人が多いのではありませんか。それが、そもそもの間違いです。お金(税金)が使われているのですから、きちんと指導要領を守ってもらうように働きかけるべきです。
これを防ぐために提案したいのは、「校長の権限強化」と「教育委員の定期的な現場視察」です。
校長先生は、現場の教員にとっては「上司」です。上司が部下の仕事ぶりに目を光らせるのは当然です。また、さらに上司である(というか、第三者的な立場にいる)教育委員の監督が入るとなれば、教師と子どもだけの密室で何かおかしなことが起こっているという事態は避けることが出来ます。
そうすれば、同じ学年なのに、先生によって進む範囲がバラバラなどという、営利企業の塾がやったら生徒がみんな逃げてしまうような事態は起きずに済みます。
その上で、中間テストや期末テスト、さらには全国的な学力テストをやればいいのです。ほら、すっきりしたでしょう?
なんですって?
「ただ知識を授けてテストで点を取らせるなどというのは、教育じゃない」「子どもの自由な発想や想像力を育てて、個性を伸ばすのが教師の勤めだ」ですって??
だったら、そういう教育を実際に行って成果を出している学校なり、先生なりを私に紹介してくれませんかね。はっきり言いますが、私はそんな公立学校の教員は日本中探してもどこにもいないと断言できます。
優れた先生、良い先生というのは、あくまで具体的に教える対象があってこそ人間性なり、人生経験をかもし出せるのです。
相手は人間ですから、ただ教えるだけでは何も覚えてくれないものです。そこで、その先生なりに工夫をしたり、面白おかしく話して聞かせたりするのではありませんか?
教える立場の人間は、その教える対象を「好きで好きでたまらない」という人であるべきです。この科目の素晴らしさを、どうしても子どもに知ってもらいたいと思うからこその、工夫や人間味なのです。
個性だの創造性だの自由だの言っている教師に聞きたいのですが、なぜ、英語なら英語の、歴史なら歴史のプロになろうとしないのでしょうか?本当に知識や理解を十分兼ね備えている教師なら、学習指導要領に沿って教えるくらい訳のない話のはずです。勤務評定など怖くないはずです。
そんなに文部科学省の学習指導要領に従う気がないのなら、平和や人権のことを学ぶための私塾を作れば良いではないかと思います。それなら、勤務評定を気にせず自分の言いたいことを言えます。(もちろん、そんな塾に子どもをやる親はあまりいないと思いますが)。
それだとお金がもらえないから、と、税金から給料を頂きながら「活動」するというのはおかしな話です。教職は政治的な思想を主張するステージではありません。それでも何か伝えたい思いがあるなら、まずは職務を適正に執行すべきです。
日教組がその形成に一役買った戦後の教育論の最大の間違いは、具体的な対象として何を設定するかということを問題にせず、教育に抽象的な概念(平和、人権、夢、理想、努力、可能性、友情、愛など)をはびこらせてしまったことにあります。前回も言いましたが、こういう高尚な概念は、単なるサボる理屈にしかならないのです。
理想が何か、愛が何か、そんなことは親や友達との交流から教わるものです。教師が教壇から生徒に伝えることではありません。生徒とのふれあいがどうのこうの、というのなら、まず教育指導要領に書いてあることをきちんと教えてから、その合間に息抜きとしてやるべきなのです。それこそが、公立学校の教員として評価されるべき仕事なのです。
日教組が教育の自由とやらをふりかざして勤務評定を拒むなら、我々も明確な評価基準と、それを達成させるための監督システムを提唱して対抗していくことが必要です。
日教組に限らず、左翼的な考え方をする人たちと向き合うときに大切なことは、具体的にどうするか、というレベルで議論をすることです。日教組に反論されて、「個性の尊重」だの「自由な発想」だの持ち出してしまったら、その時点で負けです。
もう一度繰り返しますが、我が国には教育指導要領という具体的な基準があるのです。それをどれだけ達成できたか、テストの点や勤務態度を対象とするのなら、十分客観的な勤務評定は可能です。
今の社会は、あらゆるところで競争をしているのですから、日教組の組合員たちも勤評闘争などという根暗な行動に走らず、国民が認める明確な基準の下、お日様の下で正々堂々仕事の質で勝負してほしいものです!!
ものを教える職業に就いていると、こちらがうっかりして、生徒に悲しい思いをさせてしまうことがあります。例えば、こちらが「重要でないから、まあ次でもいいか」と思っていても、生徒にとっては大事な配布物だったり、返却されるべきテスト答案であったりするわけです。だから、些細なことと思っていても、いろいろ気は遣わなくてはいけません。
また、授業には時間割があります。生徒たちはその時間に遅れると「遅刻」です。その裏返しとして、当然教える立場の人間も、時間までには教室に行って、定刻に授業を始められるような態勢でいなくてはなりません。授業開始時間に遅れてしまっては、生徒に合わせる顔がないはずです。
ところで、そういった「規律」を、私が守ることができる要因は何だろう、と考えてみます。もちろん、使命感や弱みを見せられないという気持ちもあります。
しかし、もっとも大きいのは、真面目にやらなければクビにされるという怖さではないのでしょうか。
私の持論として、よほど金持ちでない限り、生きて行くには自分の能力や個性を社会が求める形で提供するしかないという考えがあります。(私は勝手に「個性の社会化」などと言っています。
だから、誰かに必要とされるように頑張るしかないのです。動物だってそうです。ロバや荷物運びの牛は、体力や勤勉さ(?)があるからこそ、人間にかわいがられるのです。
正直なところ、教育というのも、そういう現実に負けないような訓練をする場だと私は割り切っています。
しかし、本当に恐れ入りました。
そのような常識が全く通用しないロバや荷役牛以下の馬鹿が、今の日本にはいるのです!!!!
勤務評定3道県で実施せず・文科省「法に違反」~北海道・福岡・沖縄
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/teacher/051020-1teach.html
公立学校の教員にも、民間企業と同様の勤務評定が存在します。これは、ちゃんと人事院規則9-8第37条などの法令上の根拠のあるものです。だから、行政機関の構成員である公立学校教員も、履行しなければならない義務があります。
ところが、上記の三県では、必ずしも法令にのっとった勤務評定がなされていいないのです。いや、実施させないような圧力が働いていると言うべきです。
福岡県の実態を見てみましょう。
>福岡県教委は昭和三十三年、実施要領を規則として策定して
>いたが、教職員組合の激しい反対にあうなどして「当分の間、
>規則は実施しない」と付則で定め、凍結していた。
やっぱりか、という感じですね。この「教職員組合」というのは、もちろん日教組の子分のことです。
激しい反対などというのも、「俺の仕事に評価など付けるな!」という、一般企業ではまず100%許されないような非常識極まりない暴挙です。なにしろ、サボろうが平和を叫んで授業をまともにやらなかろうが、全く給与も下がらないし、ボーナスも普通にもらえるのです。そんなのが常態化している企業など、半年と持たずに倒産します。
しかも、日教組や全教(こちらは共産党系の組合。日教組は旧社会党系)という馬鹿集団は、自分たちの反社会的行為を勤評闘争などといって正当化しています。
●このサイトを見ていただくと、彼らの鼻息の荒さ(赤さ)がよくわかります。
例えば、このくだりを見てみましょう。
>愛媛地評・県職組と共闘態勢を確立した県教組は、知事に対して
>反対決議文を手渡すとともに、連日組合員を動員して教育長室前で
>坐り込むとともに、県教組委員長以下5人が県庁前でハンガーストライキ
>にはいり、全県下の組合員を鼓舞した。
労働者の団体行動権は憲法で保障されています(28条)が、ここまで極端なことをやるという神経が、普通の人間にはわかりかねます。
しかも、ただ勤務評定を付けるという、それだけのことにこの反応です。別に、労災が相次いでいるとか、教育庁が解雇を乱発しているわけでもありません。彼らの行動を支持する人の方が感覚がおかしいのではないかと思います。
なぜ彼らは、そこまで勤務評定に反対するのでしょう?
上に挙げたリンクには、
>教育職の公務員(教員)については教育という職務の特殊性から
>客観的な勤務評価(勤評)は極めて困難
などと空々しい理由が挙げられています。
私の同僚だった人にも、合格実績やら数字やらの話題になると、すぐに「扱っているのは人間であって、数字でない」という趣旨のことを言い出す人がいました。頑張っている人なら言葉に重みがあるのですが、本当に生徒のためを思って奔走している人がそういう言い訳はまずしません。よほど意地悪な上司に当たらない限り、そういう努力は評価されているからです。
空々しい倫理や道徳を口にする人は、だいたいがただの言い逃れだということが、この業界にいてよくわかります。どうも、人間相手だから、というような美しい理想は、ほとんどの場合サボる言い訳として機能しているような気がします。
日教組が「勤務評定などできないのだ、だからするな!」などとわけの分からないことをわめき散らして文部科学省に対抗するのは、「反戦・平和教育」や中国・韓国の主張する嘘ばかりの「歴史」による洗脳といった、およそ教育とは呼べないような「政治活動」ができなくなるからです。
はっきり言ってしまえば、日教組というのは社会主義を理想とする政治団体なのです。(彼らの詳しい成り立ち等は、後日詳しく触れてみたいと思います)彼らのホームページ(ブログが穢れるので載せたくないのですが、●リンクはこちら)で記事を読んでみるとよくわかりますが、「米軍出て行け!自衛隊は廃止しろ!」とか、「公共事業は全く不要だ!税金は全部福祉のために使え!」という、実現不可能なありえない政治的主張をしている政党と、思考様式が酷似していることに気づくはずです。
そういうちょっと偏った思想に若いうちから「先生」と呼ばれることで拍車がかかります。
「自分たちは聖職者だ!」(それなのに、●こういう犯罪的行為をしている)とか、「子どもたちに崇高な社会主義の理念を教えて、日本を戦争のない平和な国にするぞ!」(で、実際に教えているのは●こんな頓珍漢なことばかり)などという勘違いをしてしまうのでしょう。
こういうのも、一種のエリート意識には違いありません。本人がエリートだと思っているからエリートなのです。だから、自分には違う規範が適用されるのだと、勘違いし始めるのは不思議ではありません。なにしろ、周りには同じ思想の方々がいっぱい生息しているのですから。
こんな冷戦時代の社会党のようなおかしな考え方なんて、もうしている人は少ないんでしょ?と侮るなかれ。
日教組は今でも構成員30万人を超える巨大組合です。そして、彼らは支持政党である民主党を使って、政治の世界にも介入してきています。
日教組をコケにするのはいいのですが、実力を嘗めてかかってはいけません。
次回は、彼らの言う、「教育は客観的な評価が困難」という主張に、反論してみたいと思います。乞う、ご期待!!(えらそうに・・・)
また、授業には時間割があります。生徒たちはその時間に遅れると「遅刻」です。その裏返しとして、当然教える立場の人間も、時間までには教室に行って、定刻に授業を始められるような態勢でいなくてはなりません。授業開始時間に遅れてしまっては、生徒に合わせる顔がないはずです。
ところで、そういった「規律」を、私が守ることができる要因は何だろう、と考えてみます。もちろん、使命感や弱みを見せられないという気持ちもあります。
しかし、もっとも大きいのは、真面目にやらなければクビにされるという怖さではないのでしょうか。
私の持論として、よほど金持ちでない限り、生きて行くには自分の能力や個性を社会が求める形で提供するしかないという考えがあります。(私は勝手に「個性の社会化」などと言っています。
だから、誰かに必要とされるように頑張るしかないのです。動物だってそうです。ロバや荷物運びの牛は、体力や勤勉さ(?)があるからこそ、人間にかわいがられるのです。
正直なところ、教育というのも、そういう現実に負けないような訓練をする場だと私は割り切っています。
しかし、本当に恐れ入りました。
そのような常識が全く通用しないロバや荷役牛以下の馬鹿が、今の日本にはいるのです!!!!
勤務評定3道県で実施せず・文科省「法に違反」~北海道・福岡・沖縄
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/teacher/051020-1teach.html
公立学校の教員にも、民間企業と同様の勤務評定が存在します。これは、ちゃんと人事院規則9-8第37条などの法令上の根拠のあるものです。だから、行政機関の構成員である公立学校教員も、履行しなければならない義務があります。
ところが、上記の三県では、必ずしも法令にのっとった勤務評定がなされていいないのです。いや、実施させないような圧力が働いていると言うべきです。
福岡県の実態を見てみましょう。
>福岡県教委は昭和三十三年、実施要領を規則として策定して
>いたが、教職員組合の激しい反対にあうなどして「当分の間、
>規則は実施しない」と付則で定め、凍結していた。
やっぱりか、という感じですね。この「教職員組合」というのは、もちろん日教組の子分のことです。
激しい反対などというのも、「俺の仕事に評価など付けるな!」という、一般企業ではまず100%許されないような非常識極まりない暴挙です。なにしろ、サボろうが平和を叫んで授業をまともにやらなかろうが、全く給与も下がらないし、ボーナスも普通にもらえるのです。そんなのが常態化している企業など、半年と持たずに倒産します。
しかも、日教組や全教(こちらは共産党系の組合。日教組は旧社会党系)という馬鹿集団は、自分たちの反社会的行為を勤評闘争などといって正当化しています。
●このサイトを見ていただくと、彼らの鼻息の荒さ(赤さ)がよくわかります。
例えば、このくだりを見てみましょう。
>愛媛地評・県職組と共闘態勢を確立した県教組は、知事に対して
>反対決議文を手渡すとともに、連日組合員を動員して教育長室前で
>坐り込むとともに、県教組委員長以下5人が県庁前でハンガーストライキ
>にはいり、全県下の組合員を鼓舞した。
労働者の団体行動権は憲法で保障されています(28条)が、ここまで極端なことをやるという神経が、普通の人間にはわかりかねます。
しかも、ただ勤務評定を付けるという、それだけのことにこの反応です。別に、労災が相次いでいるとか、教育庁が解雇を乱発しているわけでもありません。彼らの行動を支持する人の方が感覚がおかしいのではないかと思います。
なぜ彼らは、そこまで勤務評定に反対するのでしょう?
上に挙げたリンクには、
>教育職の公務員(教員)については教育という職務の特殊性から
>客観的な勤務評価(勤評)は極めて困難
などと空々しい理由が挙げられています。
私の同僚だった人にも、合格実績やら数字やらの話題になると、すぐに「扱っているのは人間であって、数字でない」という趣旨のことを言い出す人がいました。頑張っている人なら言葉に重みがあるのですが、本当に生徒のためを思って奔走している人がそういう言い訳はまずしません。よほど意地悪な上司に当たらない限り、そういう努力は評価されているからです。
空々しい倫理や道徳を口にする人は、だいたいがただの言い逃れだということが、この業界にいてよくわかります。どうも、人間相手だから、というような美しい理想は、ほとんどの場合サボる言い訳として機能しているような気がします。
日教組が「勤務評定などできないのだ、だからするな!」などとわけの分からないことをわめき散らして文部科学省に対抗するのは、「反戦・平和教育」や中国・韓国の主張する嘘ばかりの「歴史」による洗脳といった、およそ教育とは呼べないような「政治活動」ができなくなるからです。
はっきり言ってしまえば、日教組というのは社会主義を理想とする政治団体なのです。(彼らの詳しい成り立ち等は、後日詳しく触れてみたいと思います)彼らのホームページ(ブログが穢れるので載せたくないのですが、●リンクはこちら)で記事を読んでみるとよくわかりますが、「米軍出て行け!自衛隊は廃止しろ!」とか、「公共事業は全く不要だ!税金は全部福祉のために使え!」という、実現不可能なありえない政治的主張をしている政党と、思考様式が酷似していることに気づくはずです。
そういうちょっと偏った思想に若いうちから「先生」と呼ばれることで拍車がかかります。
「自分たちは聖職者だ!」(それなのに、●こういう犯罪的行為をしている)とか、「子どもたちに崇高な社会主義の理念を教えて、日本を戦争のない平和な国にするぞ!」(で、実際に教えているのは●こんな頓珍漢なことばかり)などという勘違いをしてしまうのでしょう。
こういうのも、一種のエリート意識には違いありません。本人がエリートだと思っているからエリートなのです。だから、自分には違う規範が適用されるのだと、勘違いし始めるのは不思議ではありません。なにしろ、周りには同じ思想の方々がいっぱい生息しているのですから。
こんな冷戦時代の社会党のようなおかしな考え方なんて、もうしている人は少ないんでしょ?と侮るなかれ。
日教組は今でも構成員30万人を超える巨大組合です。そして、彼らは支持政党である民主党を使って、政治の世界にも介入してきています。
日教組をコケにするのはいいのですが、実力を嘗めてかかってはいけません。
次回は、彼らの言う、「教育は客観的な評価が困難」という主張に、反論してみたいと思います。乞う、ご期待!!(えらそうに・・・)
草莽崛起 ーPRIDE OF JAPANというブログがあります。地方議員の有志の方が編集されているようです。そこに、素晴らしい記事が載っていたので、是非とも取り上げさせて頂きます。
「佐世保市小六同級生殺害事件に思う 」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-date-20050627.html
(当該文章は、少し下がったところです)
全文抜粋すると、かえって敬遠されてしまいそうなので、私の方でなるほど、と思った記述を取り上げてみたいと思います。
>共同体破壊思想と戦後教育の目標とは結びつくはずがないと誰しも
>思われるであろう。しかし、共同体意識なき民主主義、つまり
>国家意識なき民主主義は、自己中心主義しか生まないのである。
>むしろ、彼女は、戦後教育の最優秀児童なのである。
この下りは、私が「これのどこが軍国主義なの?」という記事で述べたことと、言葉こそ違いますが同じ趣旨のものだと思われます。
民主主義というのは、卑近な言い方をしてしまえば「俺にもよこせ」という発想が根底にあります。だから、「みんなのために何かをしよう」という気持ち(上の文章だと「共同体意識」)が欠けてしまうと、ブレーキのない欲望という名の列車(すいません、元ネタが古いです)になって、しまいには「脱線」してしまうのでしょう。
佐世保の事件は、「自分の邪魔になるものは殺してしまえばいい」という、究極に利己的な発想から出ているような気がしてなりません。
>感性とは他と共鳴する力である。その大本は、母親と子どもの
>深い絆から育まれる。深い愛情の下で育てられた子どもは、
>母親を慕い、自分の子どもを愛情深く育む。感性は、他からの愛情を
>受け入れ、他に愛情を施す力といえる。
これも的を射た発言ですね。父親には、権威になることは出来ても、母性的な愛情というものはどうしても出せません。だからこそ、自分にないものを持っている女性というものを尊敬できるのだと、最近は思うようになりました。
しかし、日教組やこういう「女性」団体の手に掛かると、上のようなごく当たり前の発言も「女のシャドーワークを押しつける差別発言だ!」とか、「子育てを母親に押しつける男性優位の偏見が生み出した妄言だ!」などという罵詈雑言の対象になってしまうのでしょう。
馬鹿というのは、どんなときも同じ物差しで測ることしかできない人間のことを言うのでしょうね。
>三十数年前のゲバルト学生による革命運動を思い起こすと
>よく理解できる。彼らは自由・平等・平和を叫びながら、仲間を
>粛清していったのである。そこには、共同体意識がなかった。
>仲間意識と言ってもよい。同じ仲間であるとの意識がなく
>個人の尊厳を守れば、自由も平等も平和も自己中心主義に陥る。
この下りを理解するには、連合赤軍あさま山荘事件(詳しい情報は●こちら)というものを思い浮かべれば十分でしょう。
社会から切り離された「本当の自由」というのは存在しないのです。だからこそ、職場で、クラスで、地域社会で、もっと大きいレベルで言えば日本という国で、我々は仲間というものを持ち、そのつながりによって自分が何者かを確認しながら生きているのです。
そういうものを「本音の付き合いじゃない」「汚い」「こんなのは俺じゃない」などと言って捨てようという傾向があります。歌の歌詞などには、そういった歌詞が氾濫しています。そういう一種の純潔主義が高じて、「ひきこもり」や「ニート」というものが生まれたわけです。
戦後教育の洗礼を受けてしまった日本人が学ばなくてはならないのは、他者の存在を抜きにした「自己実現」というのは存在しないという、ごく当たり前の事実を、子どもにきちんと教えることなのではないでしょうか。
そのために、一番簡単なのは、
日教組がやっているような戦前の日本を
否定するような教育をやめること
です。
日本が進出した地域の抵抗運動ばかりデカデカと取り上げ、歴代の
政治権力が全て人民を弾圧したかのような印象を与える歴史教科書。
(この話題と言えば、やはり●このサイト。日教組の「検閲」についての
記事は必見)
学習指導要領を無視し、「平和教育」「反戦教育」と称する日本の悪口
ばかりの左翼思想を子どもに刷り込む(日教組・全教の)偏向授業。
(例えば、●こういう阿呆教員の授業)
まともな内容を掲げる教科書の採択を妨害しようとする、
偏執狂的で悪質な妨害運動。
(詳しくは●こちらのブログの9月2日の記事をご覧ください)
子どもの教育と全く関連が無く、誰のためにやっているのか
首を傾げたくなるような反日本的国際交流。
(たとえば、●こういうイベント。主催者をご覧あれ)
こういった(日教組の)馬鹿な行動を、直ちに是正すべきです。自分の国を嫌いな人間が、その国の将来についてきちんと考えるわけがないのはもちろんのこと、死ぬまで逃れられない「日本人である」という事実を否定し、自己嫌悪に陥ることがあまりにも多いからです。
かくいう私も、ごく最近やっと「日本に生まれてきてよかった」と思うようになり、急に精神的に安定した経験があります。
日本が好きだからこそ、建設的な批判ができるのです。私も決して天の邪鬼や悪のりで日教組を叩いているのではなく、子供のためなどと吹聴して嘘ばかり付いている偽善者の集まりが許せないからです。ですから、
これからも遠慮なく日教組を叩きまくります。
それでは、本日はこの辺で。
「佐世保市小六同級生殺害事件に思う 」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-date-20050627.html
(当該文章は、少し下がったところです)
全文抜粋すると、かえって敬遠されてしまいそうなので、私の方でなるほど、と思った記述を取り上げてみたいと思います。
>共同体破壊思想と戦後教育の目標とは結びつくはずがないと誰しも
>思われるであろう。しかし、共同体意識なき民主主義、つまり
>国家意識なき民主主義は、自己中心主義しか生まないのである。
>むしろ、彼女は、戦後教育の最優秀児童なのである。
この下りは、私が「これのどこが軍国主義なの?」という記事で述べたことと、言葉こそ違いますが同じ趣旨のものだと思われます。
民主主義というのは、卑近な言い方をしてしまえば「俺にもよこせ」という発想が根底にあります。だから、「みんなのために何かをしよう」という気持ち(上の文章だと「共同体意識」)が欠けてしまうと、ブレーキのない欲望という名の列車(すいません、元ネタが古いです)になって、しまいには「脱線」してしまうのでしょう。
佐世保の事件は、「自分の邪魔になるものは殺してしまえばいい」という、究極に利己的な発想から出ているような気がしてなりません。
>感性とは他と共鳴する力である。その大本は、母親と子どもの
>深い絆から育まれる。深い愛情の下で育てられた子どもは、
>母親を慕い、自分の子どもを愛情深く育む。感性は、他からの愛情を
>受け入れ、他に愛情を施す力といえる。
これも的を射た発言ですね。父親には、権威になることは出来ても、母性的な愛情というものはどうしても出せません。だからこそ、自分にないものを持っている女性というものを尊敬できるのだと、最近は思うようになりました。
しかし、日教組やこういう「女性」団体の手に掛かると、上のようなごく当たり前の発言も「女のシャドーワークを押しつける差別発言だ!」とか、「子育てを母親に押しつける男性優位の偏見が生み出した妄言だ!」などという罵詈雑言の対象になってしまうのでしょう。
馬鹿というのは、どんなときも同じ物差しで測ることしかできない人間のことを言うのでしょうね。
>三十数年前のゲバルト学生による革命運動を思い起こすと
>よく理解できる。彼らは自由・平等・平和を叫びながら、仲間を
>粛清していったのである。そこには、共同体意識がなかった。
>仲間意識と言ってもよい。同じ仲間であるとの意識がなく
>個人の尊厳を守れば、自由も平等も平和も自己中心主義に陥る。
この下りを理解するには、連合赤軍あさま山荘事件(詳しい情報は●こちら)というものを思い浮かべれば十分でしょう。
社会から切り離された「本当の自由」というのは存在しないのです。だからこそ、職場で、クラスで、地域社会で、もっと大きいレベルで言えば日本という国で、我々は仲間というものを持ち、そのつながりによって自分が何者かを確認しながら生きているのです。
そういうものを「本音の付き合いじゃない」「汚い」「こんなのは俺じゃない」などと言って捨てようという傾向があります。歌の歌詞などには、そういった歌詞が氾濫しています。そういう一種の純潔主義が高じて、「ひきこもり」や「ニート」というものが生まれたわけです。
戦後教育の洗礼を受けてしまった日本人が学ばなくてはならないのは、他者の存在を抜きにした「自己実現」というのは存在しないという、ごく当たり前の事実を、子どもにきちんと教えることなのではないでしょうか。
そのために、一番簡単なのは、
日教組がやっているような戦前の日本を
否定するような教育をやめること
です。
日本が進出した地域の抵抗運動ばかりデカデカと取り上げ、歴代の
政治権力が全て人民を弾圧したかのような印象を与える歴史教科書。
(この話題と言えば、やはり●このサイト。日教組の「検閲」についての
記事は必見)
学習指導要領を無視し、「平和教育」「反戦教育」と称する日本の悪口
ばかりの左翼思想を子どもに刷り込む(日教組・全教の)偏向授業。
(例えば、●こういう阿呆教員の授業)
まともな内容を掲げる教科書の採択を妨害しようとする、
偏執狂的で悪質な妨害運動。
(詳しくは●こちらのブログの9月2日の記事をご覧ください)
子どもの教育と全く関連が無く、誰のためにやっているのか
首を傾げたくなるような反日本的国際交流。
(たとえば、●こういうイベント。主催者をご覧あれ)
こういった(日教組の)馬鹿な行動を、直ちに是正すべきです。自分の国を嫌いな人間が、その国の将来についてきちんと考えるわけがないのはもちろんのこと、死ぬまで逃れられない「日本人である」という事実を否定し、自己嫌悪に陥ることがあまりにも多いからです。
かくいう私も、ごく最近やっと「日本に生まれてきてよかった」と思うようになり、急に精神的に安定した経験があります。
日本が好きだからこそ、建設的な批判ができるのです。私も決して天の邪鬼や悪のりで日教組を叩いているのではなく、子供のためなどと吹聴して嘘ばかり付いている偽善者の集まりが許せないからです。ですから、
これからも遠慮なく日教組を叩きまくります。
それでは、本日はこの辺で。
閑話休題、ということで、日教組に茶々を入れつつ、彼らのような左翼(共産主義的)団体の「考え方」を学んでみようと思います。
教育総研http://www.jtu-net.or.jp/soken/という日教組の外郭団体のホームページに、去年起きた「長崎県佐世保市小6カッター殺人事件」についての意見が出ています。原文が見たい方は、上記の教育総研HPのリンクのクリックして、そのページの一番下をご覧ください。引用の長文が鬱陶しければ、色を変えたところだけお読みになって頂いても十分楽しめます。では、行きましょうか。
(以下引用)
長崎県佐世保市での小学6年生の同級生殺害事件に関して、あるカウンセラーが、「to be(being)ではなく、becomingばかりが強調され、この緊張に耐えられなくて、心のトラブルという形でSOSを発信している。自分が自分のあるがままに受け入れることが大切で、『ダメなところがあってもそれがあなただ』という全部をひっくるめた自分を抱きしめて、というメッセージを常に送ることが大切である」と解説していた(毎日新聞04年6月24日)。また、別のカウンセラーは、「子どもはいつも元気なよい子であることを求められ、無意識のうちに「怒り」や「悲しみ」を心の中に閉じ込め、大人が望むように自分を合わせる。(中略)」と語っている(毎日04年6月7日)。
私たちはこの発言の共感するとともに、事件がおきるたびに、「心の教育」が強調されることに疑問を持っている。前述したように、「心の教育」はむしろ逆にストレスを膨らますだけである。必要なのは、子どもたちが「自分は自分である」と自己を肯定的に受け止められるようにできる対応である。エンパワーメントとは、本来その人が持っている自らの力を活性化させることであり、「あるがまま」というアイデンティティーを機軸にしないとエンパワーメントできないはずである。「個人の尊厳」の基本は、まさにここにある。
長崎県は、2003年の長崎市での幼児突き落とし殺害事件の後、「命の大切さ」を教える「心の教育」に力を入れてきたという。しかし「心の教育を徹底してきたつもりだったが、子どもたちの心に響いていなかった」(佐世保市立大久保小校長の話、毎日04年6月27日)わけである。命の大切さ・尊さ・重さ、そしてはかなさを、徳目を中心とした「心の教育」で「指導」して「教え」て「わからせる」ことができる、と考えること自体に問題があるというべきではないだろうか。それは、たとえば人がいたずらに殺されているイラクや自殺多発社会日本のリアルな現実に目を向けつつ、生活的な経験をともなう「感性的な了解」によって子どもたちの内側に紡がれるものである。それゆえに、「総合学習」のような参画型の学習機会を拡充するなど、教育のあり方そのものを根本から見直すことが求められているのではなかろうか。
事件の原因を子どもたちに求め、子どもたちを「いじくりまわす」対策を教育としておこなうのは、止めにしよう。社会を、大人の生き方を、子どもたちが自己肯定感をもって生き育つことができるように変えていくことこそが、肝要である。こうしたことは、「個人の尊厳」(憲法・教育基本法)に基づく教育を現実化していくことで可能となることを、改めて確認したい。
2004年7月20日
国民教育文化総合研究所
(引用以上)
なるほどなぁ、と思ってはいけません。こういう「一見正論めいた」発言の中に、日教組らしさが隠されているのです。
まあ、あまり眉間にしわを寄せず、硬軟取り混ぜて突っ込んでいきましょう。
まずは、日教組の「知的レベル」から。
>「to be(being)ではなく、becomingばかりが強調され
あのですね、to不定詞は、今の状態ではなく、「これから」そうあるべき状態ですよ。beingだけの方が英語としては自然です。英語の先生は日教組の中にいないんでしょうかね?
それに、後ろの方のbecomingもおかしいですね。大人が今は違うけど「これから」こうであってほしいという意味の「なること」なら、to becomeにしなくてはなりません。ingを使ったら、過去(なった)か現在進行中(なりつつある)になってしまいます。
子どもの学力低下が叫ばれていますが、学力低下しているのは、日教組の方だということが判明しました(笑)。
まさか、「カウンセラーの言っていたのをそのまま引用しただけで、自分たちに責任はない」なんて、いいませんよね、センセー??
> 『ダメなところがあってもそれがあなただ』という全部をひっくる
>めた自分を抱きしめて、というメッセージを常に送ることが大切
日教組には国語の先生もいないようですね。この文章、はっきり言ってど下手くそです。
通常、「という」が出てきた場合、前は他者のセリフ等「引用」していて、その後ろにその意味内容の説明が来るはずです。
ex. 「教え子を再び戦場に送るな」という空虚なメッセージ
ところが、上の文章は『ダメな・・・』と「全部を・・・抱きしめて」が「という」によってつながれており、極めて冗長になっています。しかも、「抱きしめて」の後にまたも「という」が使われており、何が何だかわからなくなっています。おそらく、書いている方も言いたいことが多すぎて、頭の中を整理できていないのでしょう。
「義務教育は将来への投資!」などと日教組のHPに書いてありますが、日教組の活動家がいる学校に子どもを通わせたりしたら、貴重な時間が最悪の不良債権になりかねませんね。
> 子どもはいつも元気なよい子であることを求められ、無意識の
>うちに「怒り」や「悲しみ」を心の中に閉じ込め、
>大人が望むように自分を合わせる。
別に、いつも元気な良い子であることを求めている大人ばかりではないと思いますし、大人が望むような振る舞いをする子どもがそこまで沢山いるとは思いませんがねぇ。
日教組というのは、こういう一方的なものの見方をして、常に子どもを被害者扱いしますね(その割には、自分たちは大したことをしてない)。そうして、国や教育委員会といった敵対勢力の権威を潰そうとするわけです。「日本帝国主義にいじめられている貧しくて可愛そうな人民」を救ってあげる「人民の模範である○国共産党」と、プロパガンダのやり方が極めて似ています。
上の「抱きしめて」云々もそうですが、親が子どもに対して価値観を注入するということを、絶対悪だと決めつけるのもこの団体の特徴です。なぜなら、親が子供にそういうことをすると、自分たちの思想を擦り込むことが出来ないからです。親子や兄弟といった家族的なつながりを否定するのは、典型的な共産主義の発想です(毛沢東の「文化大革命」でも、紅衛兵になった子どもが父母をつるし上げることがよくあった)。
あるいは、「投射」といって、自分たちの願望を「大人一般」というレベルに投影させているのかもしれません。みなさんも、子供の頃(もしかしたら、最近も?)経験したことはありませんか?「あいつは、俺のことが嫌いなんだよ」と言っている自分が、実はその人のことを嫌っているということを。本当は、日教組も、いわゆる「いい子」の方が好きなのでしょうね。何しろ、「日本は悪いことをした!アジアの人々に謝罪すべきだ!」などと妄言を吐いても、素直にうんうん言いながら聞いてくれるでしょうし・・・。
>「心の教育」はむしろ逆にストレスを膨らますだけである。
そりゃあ、教え手が日教組の組合員だったら、ストレスもたまるでしょう。小学生に出産するときの様子を無修正写真で見せたり(これ、本当らしいです。立ち読みした 『正論』という雑誌に出ていました)、「中国人女性を強姦して殺した後はらわたをひきずりだす日本兵」(もちろん真っ赤なニセモノ)の写真を使って教育してしまうのですから、「心の教育」でもどんなことを教えるか、だいたい想像がつきます。
だいたい、利他精神や勤勉さや文化伝統に対する敬意も無く、欲望とイデオロギーのコンプレックス(複合体)になっているような人間に、情操教育などできるのでしょうか。教えている側からして情緒不安定人間なのですから、日教組の組合員こそ「心の教育」を受けた方がいいと思われます。
>エンパワーメント
意味不明な左翼用語が出てきましたね。
empowermentとは、「力を与えること」という意味ですが、日教組のような左翼団体が使うと、女性などの社会的「弱者」が権力の中に入り込んで、圧殺されてきた自分の要求を押し通すことになるようです。まあ、早い話、田嶋陽子みたいになるということですね。
>命の大切さ・尊さ・重さ、そしてはかなさを、徳目を中心とした
>「心の教育」で「指導」して「教え」て「わからせる」ことができる、
>と考えること自体に問題があるというべきではないだろうか。
これも、問題をはき違えていますね。こういう教育の効果があったかなかったかが、佐世保事件の問題ではないのです。あそこまで狂ったようにインターネットにのめり込まないように、個別に対処すればよかっただけの話です。
日教組に限らず、左翼的な連中というのは、ものすごく特殊なケースを持ってきて、それを制度の欠陥のせいであると主張するのを常套手段にしています。この場合、狭山事件か何かのように、レアケースをご神体のように祭り上げ、自分たちの功名心や自己顕示欲を満たしているだけの場合がほとんどです。騙されてはいけません。
>人がいたずらに殺されているイラク
話が飛びすぎです(笑)。 イラクで人が死んでいる話をしたら、長崎のカッター殺人事件は起きなかった、と。棒高跳びのブブカも真っ青の飛躍ですね。日教組の組合員は、子ども相手だからといって、こんなむちゃくちゃな話ばかりしているのでしょうか。だから、まともな大人に相手にされないのでしょう。
>自殺多発社会日本のリアルな現実
本当に左翼というのはやりかたがワンパターンですね(笑)。これは、「醜悪なもの、劣悪なものの中にこそ真実がある」という彼ら特有の歪んだ価値観の現れです。上に挙げたような出産無修正写真などがその良い例です。それにしても、自殺が多発している現実を見せて、子どもが「おれもがんばろう!」などと思うんでしょうか?
どうせなら、広島県で校長先生が自殺した事件(※下注)などを取り上げると、日教組が全体主義者の集まりだということがわかっていいと思います(笑)。
※注:広島県教職員組合が校長を日の丸・君が代のことで締め上げて
自殺に追い込んだ「広島県立世羅高校事件」のこと。
詳しくは、●こちらのサイトをご覧ください。
>「総合学習」のような参画型の学習機会を拡充するなど
まだ今時「ゆとり教育」を推進すべきだとか考えている人たちがいるんですねぇ。きっと、教科書を使うと教育指導要領に従わざるを得ず、自分たちの赤く燃え上がる思想の流布に都合が悪いからでしょう。そうやって、子どもがどんどん勉強しなくなっていくわけです。
参加といわず「参画」(男女共同参画を匂わせる)というというのも嫌らしいですね。
>子どもたちを「いじくりまわす」対策を教育としておこなうのは、
>止めにしよう。
この文章で、最大・最狂のヒットはこの部分で決まりでしょう。人権や平和を熱く語り、日本の悪口を散々子どもの頭に注ぎ込むという、子どもたちを無用に「いじくりまわす」教育をしているのは、自分たちであるということに全く自覚がないようすです。
本当に頭のおかしくなった人は「俺は異常じゃない、周りの人間がおかしいんだ」などと言い出すらしいですが、日教組はもうそれに類する末期症状にあるようです。
> 社会を、大人の生き方を、子どもたちが自己肯定感をもって
>生き育つことができるように変えていくことこそが、肝要である
この部分で言いたいのは「社会を」「変えていく」ということだけでしょうね。今の世の中は間違っていて、ほとんどの人間が自民党に投票する愚民だから、革命を起こすしかない、という、典型的な左翼思想がかいま見えます。
>「個人の尊厳」(憲法・教育基本法)に基づく教育を現実化していくことで
>可能となることを、改めて確認したい。
あれだけ子どもがおかしな事件を起こしているのに、この馬鹿な団体はまだ反省していないようですね。これも左翼にありがちな思考パターンなのですが、そもそも自分の発想自体が間違っているのに、「やり方が徹底していないからだ」と、間違いを認めないで、さらにやり方が過激になっていきます。もう、こうなると「あさま山荘」状態になるまで止まりませんね。
さて、そろそろ日教組のホームページ(リンクは●こちら)に遊びに行ってみましょうかねぇ。首相の靖国神社参拝について、彼ららしい主張をしてくれていそうで、楽しみです。
教育総研http://www.jtu-net.or.jp/soken/という日教組の外郭団体のホームページに、去年起きた「長崎県佐世保市小6カッター殺人事件」についての意見が出ています。原文が見たい方は、上記の教育総研HPのリンクのクリックして、そのページの一番下をご覧ください。引用の長文が鬱陶しければ、色を変えたところだけお読みになって頂いても十分楽しめます。では、行きましょうか。
(以下引用)
長崎県佐世保市での小学6年生の同級生殺害事件に関して、あるカウンセラーが、「to be(being)ではなく、becomingばかりが強調され、この緊張に耐えられなくて、心のトラブルという形でSOSを発信している。自分が自分のあるがままに受け入れることが大切で、『ダメなところがあってもそれがあなただ』という全部をひっくるめた自分を抱きしめて、というメッセージを常に送ることが大切である」と解説していた(毎日新聞04年6月24日)。また、別のカウンセラーは、「子どもはいつも元気なよい子であることを求められ、無意識のうちに「怒り」や「悲しみ」を心の中に閉じ込め、大人が望むように自分を合わせる。(中略)」と語っている(毎日04年6月7日)。
私たちはこの発言の共感するとともに、事件がおきるたびに、「心の教育」が強調されることに疑問を持っている。前述したように、「心の教育」はむしろ逆にストレスを膨らますだけである。必要なのは、子どもたちが「自分は自分である」と自己を肯定的に受け止められるようにできる対応である。エンパワーメントとは、本来その人が持っている自らの力を活性化させることであり、「あるがまま」というアイデンティティーを機軸にしないとエンパワーメントできないはずである。「個人の尊厳」の基本は、まさにここにある。
長崎県は、2003年の長崎市での幼児突き落とし殺害事件の後、「命の大切さ」を教える「心の教育」に力を入れてきたという。しかし「心の教育を徹底してきたつもりだったが、子どもたちの心に響いていなかった」(佐世保市立大久保小校長の話、毎日04年6月27日)わけである。命の大切さ・尊さ・重さ、そしてはかなさを、徳目を中心とした「心の教育」で「指導」して「教え」て「わからせる」ことができる、と考えること自体に問題があるというべきではないだろうか。それは、たとえば人がいたずらに殺されているイラクや自殺多発社会日本のリアルな現実に目を向けつつ、生活的な経験をともなう「感性的な了解」によって子どもたちの内側に紡がれるものである。それゆえに、「総合学習」のような参画型の学習機会を拡充するなど、教育のあり方そのものを根本から見直すことが求められているのではなかろうか。
事件の原因を子どもたちに求め、子どもたちを「いじくりまわす」対策を教育としておこなうのは、止めにしよう。社会を、大人の生き方を、子どもたちが自己肯定感をもって生き育つことができるように変えていくことこそが、肝要である。こうしたことは、「個人の尊厳」(憲法・教育基本法)に基づく教育を現実化していくことで可能となることを、改めて確認したい。
2004年7月20日
国民教育文化総合研究所
(引用以上)
なるほどなぁ、と思ってはいけません。こういう「一見正論めいた」発言の中に、日教組らしさが隠されているのです。
まあ、あまり眉間にしわを寄せず、硬軟取り混ぜて突っ込んでいきましょう。
まずは、日教組の「知的レベル」から。
>「to be(being)ではなく、becomingばかりが強調され
あのですね、to不定詞は、今の状態ではなく、「これから」そうあるべき状態ですよ。beingだけの方が英語としては自然です。英語の先生は日教組の中にいないんでしょうかね?
それに、後ろの方のbecomingもおかしいですね。大人が今は違うけど「これから」こうであってほしいという意味の「なること」なら、to becomeにしなくてはなりません。ingを使ったら、過去(なった)か現在進行中(なりつつある)になってしまいます。
子どもの学力低下が叫ばれていますが、学力低下しているのは、日教組の方だということが判明しました(笑)。
まさか、「カウンセラーの言っていたのをそのまま引用しただけで、自分たちに責任はない」なんて、いいませんよね、センセー??
> 『ダメなところがあってもそれがあなただ』という全部をひっくる
>めた自分を抱きしめて、というメッセージを常に送ることが大切
日教組には国語の先生もいないようですね。この文章、はっきり言ってど下手くそです。
通常、「という」が出てきた場合、前は他者のセリフ等「引用」していて、その後ろにその意味内容の説明が来るはずです。
ex. 「教え子を再び戦場に送るな」という空虚なメッセージ
ところが、上の文章は『ダメな・・・』と「全部を・・・抱きしめて」が「という」によってつながれており、極めて冗長になっています。しかも、「抱きしめて」の後にまたも「という」が使われており、何が何だかわからなくなっています。おそらく、書いている方も言いたいことが多すぎて、頭の中を整理できていないのでしょう。
「義務教育は将来への投資!」などと日教組のHPに書いてありますが、日教組の活動家がいる学校に子どもを通わせたりしたら、貴重な時間が最悪の不良債権になりかねませんね。
> 子どもはいつも元気なよい子であることを求められ、無意識の
>うちに「怒り」や「悲しみ」を心の中に閉じ込め、
>大人が望むように自分を合わせる。
別に、いつも元気な良い子であることを求めている大人ばかりではないと思いますし、大人が望むような振る舞いをする子どもがそこまで沢山いるとは思いませんがねぇ。
日教組というのは、こういう一方的なものの見方をして、常に子どもを被害者扱いしますね(その割には、自分たちは大したことをしてない)。そうして、国や教育委員会といった敵対勢力の権威を潰そうとするわけです。「日本帝国主義にいじめられている貧しくて可愛そうな人民」を救ってあげる「人民の模範である○国共産党」と、プロパガンダのやり方が極めて似ています。
上の「抱きしめて」云々もそうですが、親が子どもに対して価値観を注入するということを、絶対悪だと決めつけるのもこの団体の特徴です。なぜなら、親が子供にそういうことをすると、自分たちの思想を擦り込むことが出来ないからです。親子や兄弟といった家族的なつながりを否定するのは、典型的な共産主義の発想です(毛沢東の「文化大革命」でも、紅衛兵になった子どもが父母をつるし上げることがよくあった)。
あるいは、「投射」といって、自分たちの願望を「大人一般」というレベルに投影させているのかもしれません。みなさんも、子供の頃(もしかしたら、最近も?)経験したことはありませんか?「あいつは、俺のことが嫌いなんだよ」と言っている自分が、実はその人のことを嫌っているということを。本当は、日教組も、いわゆる「いい子」の方が好きなのでしょうね。何しろ、「日本は悪いことをした!アジアの人々に謝罪すべきだ!」などと妄言を吐いても、素直にうんうん言いながら聞いてくれるでしょうし・・・。
>「心の教育」はむしろ逆にストレスを膨らますだけである。
そりゃあ、教え手が日教組の組合員だったら、ストレスもたまるでしょう。小学生に出産するときの様子を無修正写真で見せたり(これ、本当らしいです。立ち読みした 『正論』という雑誌に出ていました)、「中国人女性を強姦して殺した後はらわたをひきずりだす日本兵」(もちろん真っ赤なニセモノ)の写真を使って教育してしまうのですから、「心の教育」でもどんなことを教えるか、だいたい想像がつきます。
だいたい、利他精神や勤勉さや文化伝統に対する敬意も無く、欲望とイデオロギーのコンプレックス(複合体)になっているような人間に、情操教育などできるのでしょうか。教えている側からして情緒不安定人間なのですから、日教組の組合員こそ「心の教育」を受けた方がいいと思われます。
>エンパワーメント
意味不明な左翼用語が出てきましたね。
empowermentとは、「力を与えること」という意味ですが、日教組のような左翼団体が使うと、女性などの社会的「弱者」が権力の中に入り込んで、圧殺されてきた自分の要求を押し通すことになるようです。まあ、早い話、田嶋陽子みたいになるということですね。
>命の大切さ・尊さ・重さ、そしてはかなさを、徳目を中心とした
>「心の教育」で「指導」して「教え」て「わからせる」ことができる、
>と考えること自体に問題があるというべきではないだろうか。
これも、問題をはき違えていますね。こういう教育の効果があったかなかったかが、佐世保事件の問題ではないのです。あそこまで狂ったようにインターネットにのめり込まないように、個別に対処すればよかっただけの話です。
日教組に限らず、左翼的な連中というのは、ものすごく特殊なケースを持ってきて、それを制度の欠陥のせいであると主張するのを常套手段にしています。この場合、狭山事件か何かのように、レアケースをご神体のように祭り上げ、自分たちの功名心や自己顕示欲を満たしているだけの場合がほとんどです。騙されてはいけません。
>人がいたずらに殺されているイラク
話が飛びすぎです(笑)。 イラクで人が死んでいる話をしたら、長崎のカッター殺人事件は起きなかった、と。棒高跳びのブブカも真っ青の飛躍ですね。日教組の組合員は、子ども相手だからといって、こんなむちゃくちゃな話ばかりしているのでしょうか。だから、まともな大人に相手にされないのでしょう。
>自殺多発社会日本のリアルな現実
本当に左翼というのはやりかたがワンパターンですね(笑)。これは、「醜悪なもの、劣悪なものの中にこそ真実がある」という彼ら特有の歪んだ価値観の現れです。上に挙げたような出産無修正写真などがその良い例です。それにしても、自殺が多発している現実を見せて、子どもが「おれもがんばろう!」などと思うんでしょうか?
どうせなら、広島県で校長先生が自殺した事件(※下注)などを取り上げると、日教組が全体主義者の集まりだということがわかっていいと思います(笑)。
※注:広島県教職員組合が校長を日の丸・君が代のことで締め上げて
自殺に追い込んだ「広島県立世羅高校事件」のこと。
詳しくは、●こちらのサイトをご覧ください。
>「総合学習」のような参画型の学習機会を拡充するなど
まだ今時「ゆとり教育」を推進すべきだとか考えている人たちがいるんですねぇ。きっと、教科書を使うと教育指導要領に従わざるを得ず、自分たちの赤く燃え上がる思想の流布に都合が悪いからでしょう。そうやって、子どもがどんどん勉強しなくなっていくわけです。
参加といわず「参画」(男女共同参画を匂わせる)というというのも嫌らしいですね。
>子どもたちを「いじくりまわす」対策を教育としておこなうのは、
>止めにしよう。
この文章で、最大・最狂のヒットはこの部分で決まりでしょう。人権や平和を熱く語り、日本の悪口を散々子どもの頭に注ぎ込むという、子どもたちを無用に「いじくりまわす」教育をしているのは、自分たちであるということに全く自覚がないようすです。
本当に頭のおかしくなった人は「俺は異常じゃない、周りの人間がおかしいんだ」などと言い出すらしいですが、日教組はもうそれに類する末期症状にあるようです。
> 社会を、大人の生き方を、子どもたちが自己肯定感をもって
>生き育つことができるように変えていくことこそが、肝要である
この部分で言いたいのは「社会を」「変えていく」ということだけでしょうね。今の世の中は間違っていて、ほとんどの人間が自民党に投票する愚民だから、革命を起こすしかない、という、典型的な左翼思想がかいま見えます。
>「個人の尊厳」(憲法・教育基本法)に基づく教育を現実化していくことで
>可能となることを、改めて確認したい。
あれだけ子どもがおかしな事件を起こしているのに、この馬鹿な団体はまだ反省していないようですね。これも左翼にありがちな思考パターンなのですが、そもそも自分の発想自体が間違っているのに、「やり方が徹底していないからだ」と、間違いを認めないで、さらにやり方が過激になっていきます。もう、こうなると「あさま山荘」状態になるまで止まりませんね。
さて、そろそろ日教組のホームページ(リンクは●こちら)に遊びに行ってみましょうかねぇ。首相の靖国神社参拝について、彼ららしい主張をしてくれていそうで、楽しみです。
2006年6月1日。
塾の講師である私が、地理の授業である県を紹介しました。
「東部に、日本では珍しい砂丘がある」
「らっきょう、なしの生産が日本有数である」
「日本で最も人口が少ない」
「過疎化に悩まされている地域で、急速に高齢化が進んでいる」
正解は、もちろん鳥取県です。上に挙げた4つの事柄は、全て普通の人から見たら、当たり障りのない事実でしかありません。
ところが、その次の週。
私の勤めている塾に、鳥取県の人権救済委員だという男性がやってきます。
男性は授業中である私を廊下まで呼び出し、
「あなたが鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例
第3条7号に規定する人権侵害行為を行ったとの申立が当委員会に
あったので、我々の事情聴取と資料提供要請に応じていただきく
思います。ちょっとお時間を頂けませんか?」
と、わけの分からないことを言い出しました。
授業中なんで、困るんですが、と言うと、その男性は、
「それなら、あなたが人権侵害行為を行ったかどうか、あなたの
机やカバンの中を調べさせてもらいますよ。
あなたの家のパソコンとか、そういったものも見せて頂きます」
まるで犯罪者扱いです。「そんなの嫌です」と私が言うと、
「それなら5万円以下の過料を払って頂きますが、それでもいいんですか?」
は あ ? ?
一体、自分がどんな違反行為をやったというのでしょう。
駐車禁止で反則金9000円取られるときは、あの取ろうとしても取れない黄色い札を警察官がくっつけていきます。そこに、違反した場所や、現認した時刻が書いてあります。
そんな証拠もないのに、人権侵害行為を調査すると言い、断ったら5万円払えという。お前は一体何様なんだ?
私は、後日鳥取県から送られてきた督促状にしたがって、仕方なく5万円を納める羽目になりました。
ところで、私はなぜ5万円払う羽目になったのでしょう?
それは、鳥取県に住んでいる私の生徒の遠い親戚が、私が授業で「過疎化に悩まされていて、爺さん婆さんしか住んでいないショボい県だ」と言ったらしい、ということを聞きつけ、鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例にある「人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発する目的で、当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を公然と摘示する行為」(要するに、鳥取県人という不特定の人々に対する差別的言動をしたかもしれないと、人権救済委員という行政機関に申し立てたのです。
この条例、児童虐待や外国人に対する人種「差別」のような人権侵害を、裁判よりも簡単に、しかも手早く(まるで吉野屋のように)是正するための条例だということです。片山善博知事(どんな思想の持ち主かは●このリンク先のページを見ていただけるとわかります)が強力に押し進め(議案提出は県議会議員による)10月12日に鳥取県議会において38人中35人という圧倒的多数の賛成を得て、めでたく制定されました。
施行は、10月16日時点では、平成18年6月1日ということになっています。つまり、上のフィクションでの私は、タイミング的にめでたく東京での犠牲者第1号となったようです。
しかし、私がした発言にしろ、鳥取県にいる親戚が聞きつけたという「じーさんばーさんばかりいる田舎」という内容にしろ、一体何が差別だというのでしょうか?鳥取県のことが出てきたら、人権弾圧が横行する日本で、唯一の「地上の楽園」とでも言わないといけないのでしょうか?鳥取が本当に過疎化の進んでいる地域で、それを少しでも茶化したら「ホルホルホル!貴様は差別主義者ニダ!」ということになってしまうんでしょうか?
そんなことまで根ほり葉ほり調べられ、拒むと罰金(正確には、行政罰である「過料」)の対象となってしまうなら、面倒なので少しでも人の気に障りそうなことは何も言えなくなってしまうでしょうね。「日教組は生徒を思想洗脳する反日共産主義団体だ」などとブログに自分の考えを書いたら完全にアウトでしょう。そうしたら、もうこのブログは成り立ちませんね(笑)。
興味深い事柄を面白おかしく取り上げるのも人権侵害にされてしまうので、きっと無味乾燥なブログが増えるでしょう。もっとひどい事態としては、鳥取県(人)について何か言うのはタブーということになってしまいかねません。
これって、立派な表現の自由(日本国憲法21条1項)の侵害だと思うのですが、どうでしょうか。
(携帯で見ている方はすみません)私が「らしい」、「したかもしれない」と赤い字にしたところが、この条例のもう一つのミソです。
そうです。要するに本当に差別や人権侵害をやったかどうかは関係ないわけです。
なぜなら、、鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例は、鳥取県民が自分や第三者(!)に対する人権侵害だと思ったら、すぐに救済手続の申立ができるのです。それらしい理由を説明する義務すらありません(警察が容疑者を逮捕したり家宅捜索するには、裁判所に理由を言って令状をもらわないといけない)。
こんなに「便利」な条例はありません。自分がやっつけたいやつが北海道にいようが、沖縄にいようが、人権救済委員が、鳥取県民(というか、鳥取は地方交付税をたくさんもらっているので、我々国民)の税金で、無料で嫌がらせを代行してくれるわけです。
しかも、この条例で晴れて人権侵害の加害者だと認定されれば、(おそらく鳥取県まで)人権教育のようなものを受けに行かないといけない羽目になり、それを断ると、なんと「加害者」として氏名を公表されてしまうのです。
私が総会屋や暴力団だったとしたら、絶対に鳥取県に住所を移転しますね。そうすれば、簡単に恐喝や強要が可能になるからです。
私がこの悪魔のような(←これも人権救済対象)条例を取り上げたのは、こういう言論弾圧こそまさに人権擁護法案(詳しくは●このサイトのQ&Aを参照)の狙いだからです。
はっきり言ってしまえば、人権擁護を名目に恐喝・強要まがいのことをやりたがっている連中がいるということです。今までは抗議と称して新聞社にねじ込んだり、ホームページに大量アクセスしてダメにしたり、自主的に嫌がらせしていたわけですが、人権擁護法案ができれば、全国に2万人いる人権擁護委員という行政機関が代わりに実力行使してくれるわけです。
逆に言えば、鳥取県がおかしな(←これも人権救済の対象)条例を作ってしまったのは、人権擁護法案を成立させる布石でもあるわけです。「鳥取県で同様の人権条例の成果が上がっている」などと、法務省の左翼思想を持った官僚(←これも人権救済の対象)が自慢げに話すであろうことは目に見えています。
この条例がどんな形で運営されるかは、注目でしょう。
鳥取県の片山知事は北朝鮮訪問歴があり、朝鮮総連の幹部と親交があるということです。奇しくも、「鳥取県人権尊重の社会づくり委員会」 (サイトは●こちら)というところに、朴井愚(パクチョンオ)という朝鮮総連の人間が所属していますが、こういう人が人権救済委員になると、どういうことが起こるか・・・賢明なみなさんは大体想像がつくでしょう。私が上の方で書いた「ニダ」という表現など、こういう方の怒りを買う格好の材料ですね(ちなみに、人権救済委員は職権で=自分で勝手に調査をすることができます)。
●「人権擁護(言論弾圧)法案反対!」というブログや●こちらのサイトで、反対運動をしていますので、覗いてみるとよいと思います。また、このブログでも、以下に「連絡」先を挙げておきます。
ブログでものを言う自由を守りましょう!
~連絡先~
鳥取県人権推進課
TEL0857-20-3224FAX0857-20-3052
jinken@city.tottori.tottori.jp
鳥取県知事 片山善博
TEL 0857-26-7000
chiji@pref.tottori.jp
鳥取県東京事務所
http://www.pref.tottori.jp/tokyooffice/

塾の講師である私が、地理の授業である県を紹介しました。
「東部に、日本では珍しい砂丘がある」
「らっきょう、なしの生産が日本有数である」
「日本で最も人口が少ない」
「過疎化に悩まされている地域で、急速に高齢化が進んでいる」
正解は、もちろん鳥取県です。上に挙げた4つの事柄は、全て普通の人から見たら、当たり障りのない事実でしかありません。
ところが、その次の週。
私の勤めている塾に、鳥取県の人権救済委員だという男性がやってきます。
男性は授業中である私を廊下まで呼び出し、
「あなたが鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例
第3条7号に規定する人権侵害行為を行ったとの申立が当委員会に
あったので、我々の事情聴取と資料提供要請に応じていただきく
思います。ちょっとお時間を頂けませんか?」
と、わけの分からないことを言い出しました。
授業中なんで、困るんですが、と言うと、その男性は、
「それなら、あなたが人権侵害行為を行ったかどうか、あなたの
机やカバンの中を調べさせてもらいますよ。
あなたの家のパソコンとか、そういったものも見せて頂きます」
まるで犯罪者扱いです。「そんなの嫌です」と私が言うと、
「それなら5万円以下の過料を払って頂きますが、それでもいいんですか?」
は あ ? ?
一体、自分がどんな違反行為をやったというのでしょう。
駐車禁止で反則金9000円取られるときは、あの取ろうとしても取れない黄色い札を警察官がくっつけていきます。そこに、違反した場所や、現認した時刻が書いてあります。
そんな証拠もないのに、人権侵害行為を調査すると言い、断ったら5万円払えという。お前は一体何様なんだ?
私は、後日鳥取県から送られてきた督促状にしたがって、仕方なく5万円を納める羽目になりました。
ところで、私はなぜ5万円払う羽目になったのでしょう?
それは、鳥取県に住んでいる私の生徒の遠い親戚が、私が授業で「過疎化に悩まされていて、爺さん婆さんしか住んでいないショボい県だ」と言ったらしい、ということを聞きつけ、鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例にある「人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発する目的で、当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を公然と摘示する行為」(要するに、鳥取県人という不特定の人々に対する差別的言動をしたかもしれないと、人権救済委員という行政機関に申し立てたのです。
この条例、児童虐待や外国人に対する人種「差別」のような人権侵害を、裁判よりも簡単に、しかも手早く(まるで吉野屋のように)是正するための条例だということです。片山善博知事(どんな思想の持ち主かは●このリンク先のページを見ていただけるとわかります)が強力に押し進め(議案提出は県議会議員による)10月12日に鳥取県議会において38人中35人という圧倒的多数の賛成を得て、めでたく制定されました。
施行は、10月16日時点では、平成18年6月1日ということになっています。つまり、上のフィクションでの私は、タイミング的にめでたく東京での犠牲者第1号となったようです。
しかし、私がした発言にしろ、鳥取県にいる親戚が聞きつけたという「じーさんばーさんばかりいる田舎」という内容にしろ、一体何が差別だというのでしょうか?鳥取県のことが出てきたら、人権弾圧が横行する日本で、唯一の「地上の楽園」とでも言わないといけないのでしょうか?鳥取が本当に過疎化の進んでいる地域で、それを少しでも茶化したら「ホルホルホル!貴様は差別主義者ニダ!」ということになってしまうんでしょうか?
そんなことまで根ほり葉ほり調べられ、拒むと罰金(正確には、行政罰である「過料」)の対象となってしまうなら、面倒なので少しでも人の気に障りそうなことは何も言えなくなってしまうでしょうね。「日教組は生徒を思想洗脳する反日共産主義団体だ」などとブログに自分の考えを書いたら完全にアウトでしょう。そうしたら、もうこのブログは成り立ちませんね(笑)。
興味深い事柄を面白おかしく取り上げるのも人権侵害にされてしまうので、きっと無味乾燥なブログが増えるでしょう。もっとひどい事態としては、鳥取県(人)について何か言うのはタブーということになってしまいかねません。
これって、立派な表現の自由(日本国憲法21条1項)の侵害だと思うのですが、どうでしょうか。
(携帯で見ている方はすみません)私が「らしい」、「したかもしれない」と赤い字にしたところが、この条例のもう一つのミソです。
そうです。要するに本当に差別や人権侵害をやったかどうかは関係ないわけです。
なぜなら、、鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例は、鳥取県民が自分や第三者(!)に対する人権侵害だと思ったら、すぐに救済手続の申立ができるのです。それらしい理由を説明する義務すらありません(警察が容疑者を逮捕したり家宅捜索するには、裁判所に理由を言って令状をもらわないといけない)。
こんなに「便利」な条例はありません。自分がやっつけたいやつが北海道にいようが、沖縄にいようが、人権救済委員が、鳥取県民(というか、鳥取は地方交付税をたくさんもらっているので、我々国民)の税金で、無料で嫌がらせを代行してくれるわけです。
しかも、この条例で晴れて人権侵害の加害者だと認定されれば、(おそらく鳥取県まで)人権教育のようなものを受けに行かないといけない羽目になり、それを断ると、なんと「加害者」として氏名を公表されてしまうのです。
私が総会屋や暴力団だったとしたら、絶対に鳥取県に住所を移転しますね。そうすれば、簡単に恐喝や強要が可能になるからです。
私がこの悪魔のような(←これも人権救済対象)条例を取り上げたのは、こういう言論弾圧こそまさに人権擁護法案(詳しくは●このサイトのQ&Aを参照)の狙いだからです。
はっきり言ってしまえば、人権擁護を名目に恐喝・強要まがいのことをやりたがっている連中がいるということです。今までは抗議と称して新聞社にねじ込んだり、ホームページに大量アクセスしてダメにしたり、自主的に嫌がらせしていたわけですが、人権擁護法案ができれば、全国に2万人いる人権擁護委員という行政機関が代わりに実力行使してくれるわけです。
逆に言えば、鳥取県がおかしな(←これも人権救済の対象)条例を作ってしまったのは、人権擁護法案を成立させる布石でもあるわけです。「鳥取県で同様の人権条例の成果が上がっている」などと、法務省の左翼思想を持った官僚(←これも人権救済の対象)が自慢げに話すであろうことは目に見えています。
この条例がどんな形で運営されるかは、注目でしょう。
鳥取県の片山知事は北朝鮮訪問歴があり、朝鮮総連の幹部と親交があるということです。奇しくも、「鳥取県人権尊重の社会づくり委員会」 (サイトは●こちら)というところに、朴井愚(パクチョンオ)という朝鮮総連の人間が所属していますが、こういう人が人権救済委員になると、どういうことが起こるか・・・賢明なみなさんは大体想像がつくでしょう。私が上の方で書いた「ニダ」という表現など、こういう方の怒りを買う格好の材料ですね(ちなみに、人権救済委員は職権で=自分で勝手に調査をすることができます)。
●「人権擁護(言論弾圧)法案反対!」というブログや●こちらのサイトで、反対運動をしていますので、覗いてみるとよいと思います。また、このブログでも、以下に「連絡」先を挙げておきます。
ブログでものを言う自由を守りましょう!
~連絡先~
鳥取県人権推進課
TEL0857-20-3224FAX0857-20-3052
jinken@city.tottori.tottori.jp
鳥取県知事 片山善博
TEL 0857-26-7000
chiji@pref.tottori.jp
鳥取県東京事務所
http://www.pref.tottori.jp/tokyooffice/

教育勅語の話題も、すでに3回目になってしまいました。
更新が遅くて申し訳ありません。
さて、もう一度、教育勅語の要約文を見直してみましょう。
(以下引用)
私(天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、良心を孝行し、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を高め、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(引用以上)
明治天皇の、というよりも、1890年当時の日本政府が、国民に「こうであってほしい」という願いだということは、すぐにわかりますよね。
しかし、教育勅語と聞くと、もうスイッチが入ってしまうバカが沢山います。読んでいてムカムカする人もいらっしゃると思いますが、一応、彼らの言い分も聞いてみましょう。●この論文の筆者などが、典型的な「スイッチ入りまくり人間」です。
(以下引用)
「教育勅語」は「大日本帝国憲法」を道徳的・教育的に裏付けたもので、天皇制絶対主義教育の最高規範として、発布以来終戦まで、日本の教育の渕源及び大綱となった。そして絶対的権威を持つ聖典として、日本人形成の上で絶大な影響力を与えた。その内容の骨子は軍事的国防思想・国教思想・立憲思想という3つの基本的な柱によって構成されており、前段では、日本の国体が教育の原理であるとし、その具体的内容は家族国家間の倫理によって説明されている。中段には忠、孝など封建道徳の徳目と国憲国法の遵守という立憲的徳目とが混在しているままに臣民倫理が説かれており、下段では、教育勅語の正当性を説き、臣民の実践を絶対的に要請している。
「教育勅語」の煥発により、教科書には「家」や「祖先」などの家族主義的要素と「天皇」などの国家主義的要素が強調されるようになった。これは国民各自の生活の場である家族という集団に対する情緒的な愛着と、家父長制に対する伝統的な忠誠の2つの要素をすべて天皇へと集中させ、国民の「皇民」とし、天皇を頂点とする「家族国家」によって統一することを狙ったものであった。こうした教科書による国民の洗脳はその後もますますエスカレートしていった。
(中略)
実際、特攻隊員の手記などを読むと、「天皇」の為に「お国」の為に、命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めているものが多く、驚かされる。彼らにとって特攻隊員に指名されることは、教育で培われた「忠君愛国」の精神を十分に発揮する場であり、神である天皇のために戦える機会が与えられたことを意味する、栄誉ある使命だったのである。
(引用以上)
この卒業論文の筆者は、典型的な日教組に洗脳されている考え方をしています。なんでもかんでも敗戦に結びつけて戦前のものを非難することで、「自分は善人だ、良心的だ」と思いこもうとしているのが、ありありと見て取れます。
それに、典型的な「軍隊アレルギー」の持ち主だということもわかります。「命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めてい」ない軍人や自衛隊員がいたら、困るのは自分のような普通の国民だという当たり前のことも理解できていないようです。
いったいどういう大学教育を受けたのか知りませんが、卒業した後、人権とか平和とか教職員組合とかが名前に付いてる変な団体に入って人生を(あるいは、教え子を)狂わせないでほしいものですね。
特攻隊と言えば、玉砕もしなかったくせに特攻隊員であったことをウリにしている社会主義者の国会議員(●このお方のことです)がいますが、彼もその頃はもう分別の付く年齢になっていたのです。玉砕するくらいなら自由を求めて戦えばよかったはずです。それを、いまごろになって「あの頃は反対できる雰囲気ではなかった」などと言い訳をしているのです。日本のために死んでいった仲間に対して、恥ずかしくないのでしょうか?
こういう人たちは、日本が戦争で敗北を喫したショックと、それにも関わらず自分が何もできなかった無力感にさいなまれて、戦前の日本文化を非難することで免罪符にしようとしているだけです。
さて、教育勅語に対する批判の多くは、日本で戦後主流となった「個人の尊重」「自由」「平等」「権利」といった、美しい響きのする概念に立脚しています。
それが、今の価値観から歴史を裁こうとしている愚かな行為であることは再三述べてきましたが、私はそれだけでなく、自由、権利といった言葉に最高の価値を置くこと自体に大きな問題があると思います。
塾で生徒を残した後、心配している親御さんに、今から帰る旨生徒に電話で一報させることがよくあります。
そうすると、そのうち何人かが、残ってもいないのに塾の電話で家庭になにやら連絡を取るようになってしまいます。そういう生徒に注意すると、
「授業料を払っているから当然の権利だ」
というのです。子どもだけでなく、どうやら親もそういうことを家で吹聴していたようです。
日本人であれば、こういうときに「塾も大変だろうから」と少しは相手を思いやると思うのですが、戦後教育にどっぷり浸かっているこの子どもとその親には、そういう観念はこれっぽっちもないようです。
そうなると、相手を思いやっている方が一方的に損をすることになります。まるで、自分の国のドラマで日本人を悪の権化として描きながら、少しでも自国の批判をすると「謝罪しろ」「賠償しろ」とわめき始めるどこかの国の人たちと、その国にも気を遣ってしまう日本との関係のようになるわけです。
また、私は生徒の学力をつけるために宿題を普段より多めに出したとき「人権侵害だ」と言われたことがあります。もちろん、ふざけて言っているのでしょうが、子どもは「権利」とか「人権」という言葉を、自分にとって嫌なものはとにかく避けよう、排除しようという文脈で使っているわけです。そういえば、私も教師に何かを強制されると、「個人の自由はどうなるんですか」などと反発したことがあったように覚えています。
こういう経験からわかるのは、結局日本では
個人の尊重、自由、権利といった言葉が、何かを
サボるための理由として使われてしまう
ということです。
考えてみると、「俺の考えを尊重しろ」「俺の自由だ」「俺にもこういう権利があるからよこせ」というのは、ある意味消極的な概念で、そこから何かを生み出したり、人と人とがつながったり、そういうプラスの側面はでてきにくいわけです。
逆に、「勤勉」であるとか、「協調性がある」とか、「他人のためになることをしようとする(利他精神がある)」ことは、それによって社会全体の生産性が増し、安定した生活をみんなが送れるようになるのです。これこそ、まさに教育勅語の精神なのです。自由・平等・権利を第一にするよりも、勤勉や協調性、利他精神を基調にする方が、面倒ごとが少なくて済むのです。
日本が、敗戦の焼け野原があったにも関わらず、世界に類を見ないような豊かな国を作り上げたのは、教育勅語の精神を忠実に守っていたからに他ならないのです。
もっと具体的に言えば、高度成長が可能だったのは、教育勅語の精神が息づいていた戦前生まれの人たちの努力によるところが大きかったのです。
それとは逆に、高度成長期が終わりを告げ、1990年代になると、急に日本がおかしくなってきます。
冷戦終結によって、アメリカの対日戦略が変化したこと(例えば、CIAのドッチェ長官が、「冷戦後最大の敵は日本」と公聴会で発言している)や、日本の官僚主導の経済の仕組みが世界の常識に合わなくなってしまったこともあると思いますが、一番大きい原因は、戦後教育を受けた人間たちが社会の中で責任ある地位に就くようになってしまったことだと私は思います。
考えてもみてください。自由だ平等だ権利だと「洗脳」され、なんでも自分中心の考え方だった人たちが、権力を握ったらどうなるのか。「権利」があるからと、自分の「自由」に物事を押し進めようとするに決まっています。
日本の社会で、青少年の凶悪犯罪だとか、不倫だとかセクハラだとか援助交際だとか、恥ずべき現象が表に出てきた(それ以前の社会でも「全く存在しなかった」とはいえない)のはいつからでしょうか。全て、教育勅語で育った世代が第一線を退き、戦後教育しか知らない世代が台頭してきてからでしょう?勤勉や利他精神が失われると、ろくなことにならない証拠です。
もちろん、教育でも戦後教育の悪癖は見事に現れています。私が勝手に「自己実現教」と名付けている考え方がそれです。
以前●このブログでも述べたように、日本の(特に団塊の世代の)教師は、努力して自分の夢を叶えようという、自己実現の考え、言い換えれば利己的な発想ばかり植え付けてきました。それが、いわゆる戦後教育だったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、「これがほしい」「こうなりたい」という利己的な願望は、結果的にはほとんどの人が挫折せざるをえないものです。なぜなら、自分の願望を実現できるだけの才能や環境や財産的基盤を持っている人は、世の中にはごく少数しかいないからです。それが、たまたま高度成長という時代のせいで、見えにくくなっていたというだけなのです。
それにも関わらず、教師たちはいつも「努力すれば○○になれる」という、功利的な側面しか教えられませんでした。無理もありません。教育勅語に刻まれている精神を捨ててしまえば、もう利己主義しか残らないのです。
そんな折り、日本は戦後初めて泥沼の不況に陥ってしまいました。将来にあまり希望を持てないようなニュースが次々と報じられます。そうなると、「頑張れば○○になれる」という主張は全く力がなくなってしまいます。利己主義は、世の中がうまく行っているときにしか機能しないのです。
「自由・平等・権利」という指導原理がすでに破綻しているのです。これでは、いくら人間的に魅力のある教師でも、生徒を指導するのは困難です。いわゆる「学級崩壊」は起こるべくして起こったと言えるでしょう。
私が言いたいのは、教育勅語に読み込まれた勤勉や利他の精神は、その表現に時代的な限界はあったものの、いつの時代にも通用する指導原理であるということです。
なにも、教育勅語を復活させろ、あれを毎日生徒児童に暗唱させろ、ということではありません。教育勅語が言っていたように、個人の自己実現以上に大切なものがこの世の中にはあるのです。そして、それを伝えることこそ、大人の義務なのではないか、と私は思います。
まあ、馬鹿げたコラム(●こちらの記事で取り上げています)をホームページに掲出して、生徒に手を出すことを正当化しようとしている日教組には何を言っても無駄でしょう。
しかし、私が言ったようなことを理解し始めている人たちもいます。
「愛国心」盛り込み、教育基本法改正へ (現代教育新聞社ウェブサイトより)
http://www.gks.co.jp/y_2001/gov/data/03032803.html
(以下引用)
教育基本法改正について検討していた中央教育審議会は20日、愛国心や公共心などを盛り込むよう求めた答申をまとめ、遠山敦子文部科学大臣に提出した。答申では、新たな理念として「社会に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自立心の涵養」「日本の伝統文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」など挙げ、教育の基本目標を「21正規を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」とした。文科省は、改正法案の策定作業に取りかかり、開会中の通常国会への法案提出を目指す。
(引用終わり)
このような試みが、日教組や社民党、共産党、民主党の元社会党一派の妨害に負けずに是非成功してほしいと思います。
更新が遅くて申し訳ありません。
さて、もう一度、教育勅語の要約文を見直してみましょう。
(以下引用)
私(天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、良心を孝行し、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を高め、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(引用以上)
明治天皇の、というよりも、1890年当時の日本政府が、国民に「こうであってほしい」という願いだということは、すぐにわかりますよね。
しかし、教育勅語と聞くと、もうスイッチが入ってしまうバカが沢山います。読んでいてムカムカする人もいらっしゃると思いますが、一応、彼らの言い分も聞いてみましょう。●この論文の筆者などが、典型的な「スイッチ入りまくり人間」です。
(以下引用)
「教育勅語」は「大日本帝国憲法」を道徳的・教育的に裏付けたもので、天皇制絶対主義教育の最高規範として、発布以来終戦まで、日本の教育の渕源及び大綱となった。そして絶対的権威を持つ聖典として、日本人形成の上で絶大な影響力を与えた。その内容の骨子は軍事的国防思想・国教思想・立憲思想という3つの基本的な柱によって構成されており、前段では、日本の国体が教育の原理であるとし、その具体的内容は家族国家間の倫理によって説明されている。中段には忠、孝など封建道徳の徳目と国憲国法の遵守という立憲的徳目とが混在しているままに臣民倫理が説かれており、下段では、教育勅語の正当性を説き、臣民の実践を絶対的に要請している。
「教育勅語」の煥発により、教科書には「家」や「祖先」などの家族主義的要素と「天皇」などの国家主義的要素が強調されるようになった。これは国民各自の生活の場である家族という集団に対する情緒的な愛着と、家父長制に対する伝統的な忠誠の2つの要素をすべて天皇へと集中させ、国民の「皇民」とし、天皇を頂点とする「家族国家」によって統一することを狙ったものであった。こうした教科書による国民の洗脳はその後もますますエスカレートしていった。
(中略)
実際、特攻隊員の手記などを読むと、「天皇」の為に「お国」の為に、命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めているものが多く、驚かされる。彼らにとって特攻隊員に指名されることは、教育で培われた「忠君愛国」の精神を十分に発揮する場であり、神である天皇のために戦える機会が与えられたことを意味する、栄誉ある使命だったのである。
(引用以上)
この卒業論文の筆者は、典型的な日教組に洗脳されている考え方をしています。なんでもかんでも敗戦に結びつけて戦前のものを非難することで、「自分は善人だ、良心的だ」と思いこもうとしているのが、ありありと見て取れます。
それに、典型的な「軍隊アレルギー」の持ち主だということもわかります。「命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めてい」ない軍人や自衛隊員がいたら、困るのは自分のような普通の国民だという当たり前のことも理解できていないようです。
いったいどういう大学教育を受けたのか知りませんが、卒業した後、人権とか平和とか教職員組合とかが名前に付いてる変な団体に入って人生を(あるいは、教え子を)狂わせないでほしいものですね。
特攻隊と言えば、玉砕もしなかったくせに特攻隊員であったことをウリにしている社会主義者の国会議員(●このお方のことです)がいますが、彼もその頃はもう分別の付く年齢になっていたのです。玉砕するくらいなら自由を求めて戦えばよかったはずです。それを、いまごろになって「あの頃は反対できる雰囲気ではなかった」などと言い訳をしているのです。日本のために死んでいった仲間に対して、恥ずかしくないのでしょうか?
こういう人たちは、日本が戦争で敗北を喫したショックと、それにも関わらず自分が何もできなかった無力感にさいなまれて、戦前の日本文化を非難することで免罪符にしようとしているだけです。
さて、教育勅語に対する批判の多くは、日本で戦後主流となった「個人の尊重」「自由」「平等」「権利」といった、美しい響きのする概念に立脚しています。
それが、今の価値観から歴史を裁こうとしている愚かな行為であることは再三述べてきましたが、私はそれだけでなく、自由、権利といった言葉に最高の価値を置くこと自体に大きな問題があると思います。
塾で生徒を残した後、心配している親御さんに、今から帰る旨生徒に電話で一報させることがよくあります。
そうすると、そのうち何人かが、残ってもいないのに塾の電話で家庭になにやら連絡を取るようになってしまいます。そういう生徒に注意すると、
「授業料を払っているから当然の権利だ」
というのです。子どもだけでなく、どうやら親もそういうことを家で吹聴していたようです。
日本人であれば、こういうときに「塾も大変だろうから」と少しは相手を思いやると思うのですが、戦後教育にどっぷり浸かっているこの子どもとその親には、そういう観念はこれっぽっちもないようです。
そうなると、相手を思いやっている方が一方的に損をすることになります。まるで、自分の国のドラマで日本人を悪の権化として描きながら、少しでも自国の批判をすると「謝罪しろ」「賠償しろ」とわめき始めるどこかの国の人たちと、その国にも気を遣ってしまう日本との関係のようになるわけです。
また、私は生徒の学力をつけるために宿題を普段より多めに出したとき「人権侵害だ」と言われたことがあります。もちろん、ふざけて言っているのでしょうが、子どもは「権利」とか「人権」という言葉を、自分にとって嫌なものはとにかく避けよう、排除しようという文脈で使っているわけです。そういえば、私も教師に何かを強制されると、「個人の自由はどうなるんですか」などと反発したことがあったように覚えています。
こういう経験からわかるのは、結局日本では
個人の尊重、自由、権利といった言葉が、何かを
サボるための理由として使われてしまう
ということです。
考えてみると、「俺の考えを尊重しろ」「俺の自由だ」「俺にもこういう権利があるからよこせ」というのは、ある意味消極的な概念で、そこから何かを生み出したり、人と人とがつながったり、そういうプラスの側面はでてきにくいわけです。
逆に、「勤勉」であるとか、「協調性がある」とか、「他人のためになることをしようとする(利他精神がある)」ことは、それによって社会全体の生産性が増し、安定した生活をみんなが送れるようになるのです。これこそ、まさに教育勅語の精神なのです。自由・平等・権利を第一にするよりも、勤勉や協調性、利他精神を基調にする方が、面倒ごとが少なくて済むのです。
日本が、敗戦の焼け野原があったにも関わらず、世界に類を見ないような豊かな国を作り上げたのは、教育勅語の精神を忠実に守っていたからに他ならないのです。
もっと具体的に言えば、高度成長が可能だったのは、教育勅語の精神が息づいていた戦前生まれの人たちの努力によるところが大きかったのです。
それとは逆に、高度成長期が終わりを告げ、1990年代になると、急に日本がおかしくなってきます。
冷戦終結によって、アメリカの対日戦略が変化したこと(例えば、CIAのドッチェ長官が、「冷戦後最大の敵は日本」と公聴会で発言している)や、日本の官僚主導の経済の仕組みが世界の常識に合わなくなってしまったこともあると思いますが、一番大きい原因は、戦後教育を受けた人間たちが社会の中で責任ある地位に就くようになってしまったことだと私は思います。
考えてもみてください。自由だ平等だ権利だと「洗脳」され、なんでも自分中心の考え方だった人たちが、権力を握ったらどうなるのか。「権利」があるからと、自分の「自由」に物事を押し進めようとするに決まっています。
日本の社会で、青少年の凶悪犯罪だとか、不倫だとかセクハラだとか援助交際だとか、恥ずべき現象が表に出てきた(それ以前の社会でも「全く存在しなかった」とはいえない)のはいつからでしょうか。全て、教育勅語で育った世代が第一線を退き、戦後教育しか知らない世代が台頭してきてからでしょう?勤勉や利他精神が失われると、ろくなことにならない証拠です。
もちろん、教育でも戦後教育の悪癖は見事に現れています。私が勝手に「自己実現教」と名付けている考え方がそれです。
以前●このブログでも述べたように、日本の(特に団塊の世代の)教師は、努力して自分の夢を叶えようという、自己実現の考え、言い換えれば利己的な発想ばかり植え付けてきました。それが、いわゆる戦後教育だったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、「これがほしい」「こうなりたい」という利己的な願望は、結果的にはほとんどの人が挫折せざるをえないものです。なぜなら、自分の願望を実現できるだけの才能や環境や財産的基盤を持っている人は、世の中にはごく少数しかいないからです。それが、たまたま高度成長という時代のせいで、見えにくくなっていたというだけなのです。
それにも関わらず、教師たちはいつも「努力すれば○○になれる」という、功利的な側面しか教えられませんでした。無理もありません。教育勅語に刻まれている精神を捨ててしまえば、もう利己主義しか残らないのです。
そんな折り、日本は戦後初めて泥沼の不況に陥ってしまいました。将来にあまり希望を持てないようなニュースが次々と報じられます。そうなると、「頑張れば○○になれる」という主張は全く力がなくなってしまいます。利己主義は、世の中がうまく行っているときにしか機能しないのです。
「自由・平等・権利」という指導原理がすでに破綻しているのです。これでは、いくら人間的に魅力のある教師でも、生徒を指導するのは困難です。いわゆる「学級崩壊」は起こるべくして起こったと言えるでしょう。
私が言いたいのは、教育勅語に読み込まれた勤勉や利他の精神は、その表現に時代的な限界はあったものの、いつの時代にも通用する指導原理であるということです。
なにも、教育勅語を復活させろ、あれを毎日生徒児童に暗唱させろ、ということではありません。教育勅語が言っていたように、個人の自己実現以上に大切なものがこの世の中にはあるのです。そして、それを伝えることこそ、大人の義務なのではないか、と私は思います。
まあ、馬鹿げたコラム(●こちらの記事で取り上げています)をホームページに掲出して、生徒に手を出すことを正当化しようとしている日教組には何を言っても無駄でしょう。
しかし、私が言ったようなことを理解し始めている人たちもいます。
「愛国心」盛り込み、教育基本法改正へ (現代教育新聞社ウェブサイトより)
http://www.gks.co.jp/y_2001/gov/data/03032803.html
(以下引用)
教育基本法改正について検討していた中央教育審議会は20日、愛国心や公共心などを盛り込むよう求めた答申をまとめ、遠山敦子文部科学大臣に提出した。答申では、新たな理念として「社会に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自立心の涵養」「日本の伝統文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」など挙げ、教育の基本目標を「21正規を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」とした。文科省は、改正法案の策定作業に取りかかり、開会中の通常国会への法案提出を目指す。
(引用終わり)
このような試みが、日教組や社民党、共産党、民主党の元社会党一派の妨害に負けずに是非成功してほしいと思います。
さて、前回に続いて、教育勅語の話です。
既に見たように、教育勅語の発想は、決して「お国のために死ね」というものではなく、社会の行動規範として当たり前のことを掲げているものです。
私はいつも思うのですが、なんでもかんでも「軍国主義的だ」「右翼だ」と言う人というのは、ちゃんと中身を見て言っているんでしょうかね?
つい先日も、中国の外務大臣だか誰だかが、「扶桑社の歴史教科書」(どんなものかは、こちらをご覧ください)を軍国主義の再来だと言った後、町村外務大臣に「じゃあ中身読んだんですか」ときかれて、堂々と「読んでないと」答えた(詳細はここを参照してください)という事件がありました。どうも、教育勅語を非難している人も、同様の傾向があるのではないかと思います。
そればかりでなく、我々も歴史の授業で教育勅語の存在と、「天皇による思想の押しつけだ」「お国のために死ねという考えを国民に植え付けた」などという日教組が馬鹿の一つ覚えのように繰り返している主張に沿ったコメント以外、何も教えられません。また、どんな内容だったのか学ぼうともしません。
この国の教育というのは、中身の妥当性を検討することなく、戦前のものは全て悪いという歪んだ価値判断によって運営されているような気がしてなりません。美点も汚点も、全て学んでこそ歴史を学んだと言えるのではありませんか。
もっとも、現在の憲法は「国民主権」ですから、どうも「臣民」だとか、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」という表現には、違和感を感じてしまうのは否めません。
しかし、あくまでそれは現在我々が持っている価値観から見て変な感じがするのであって、当時としてはそう表現するのが限界だったということは知っておかなくてはいけません。
まず、憲法の性質上の問題です。大日本帝国憲法という戦前の憲法は、「欽定憲法」でした。日本は急激に近代化し、欧米の帝国主義勢力に対抗するために、なんでもかんでも上からの改革を進めるほかなかったのです。そんな中で、アジアで初めて憲法を作ったわけです。
その当時日本の周りにあった国は、欧米諸国にさんざん侵略されながら自分が世界の中心にいると思って全く改革を進めようとしない清王朝や、20世紀になるまで奴隷制を存続させていた李氏朝鮮です。日本は、精一杯努力をしたと言えるでしょう。
そういう事情に目を向けず、ただ単に「臣民」という言葉を聞いただけでスイッチが入ってしまうおかしな人がよくいるのですが、歴史を今から見て事後法的に切り捨てるというのは、全く理性的ではありません。おそらく、伝統や歴史を階級闘争の視点から全否定するマルクス主義の影響を受けているのでしょうが・・・。
そうはいっても、要約文のほうの「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。」というところがひっかかるという人もいるでしょう。私も以前はそうでした。
しかし、国がピンチのときに国民みんなで頑張りましょうという考えのどこが異常なのでしょうか。国家の危機管理として当然のことを言っているまでです。教育勅語をお嫌いな方々は、中国や韓国が大好きな人が多いようですが、そういう国々で「戦争になっても俺は国家のために働くつもりはない!」と言ったら間違いなく非国民ですよ。アメリカでも、フランスでも、タイでもインドネシアでもそうです。だいいち、韓国に徴兵制があることを、どうやって説明するのでしょうか。理解に苦しみます。
ここまで来ても、みなさんの中で、こう思う人もいるでしょうね。
教育勅語がまっとうなことを言っているのはよくわかった。表現も当時としては当然だったと認めよう。
しかし、どうして国や明治天皇が個人の生き方を決めなくてはならないのだ?
すみません、この話題でもう1回分続きます。(つづく)
既に見たように、教育勅語の発想は、決して「お国のために死ね」というものではなく、社会の行動規範として当たり前のことを掲げているものです。
私はいつも思うのですが、なんでもかんでも「軍国主義的だ」「右翼だ」と言う人というのは、ちゃんと中身を見て言っているんでしょうかね?
つい先日も、中国の外務大臣だか誰だかが、「扶桑社の歴史教科書」(どんなものかは、こちらをご覧ください)を軍国主義の再来だと言った後、町村外務大臣に「じゃあ中身読んだんですか」ときかれて、堂々と「読んでないと」答えた(詳細はここを参照してください)という事件がありました。どうも、教育勅語を非難している人も、同様の傾向があるのではないかと思います。
そればかりでなく、我々も歴史の授業で教育勅語の存在と、「天皇による思想の押しつけだ」「お国のために死ねという考えを国民に植え付けた」などという日教組が馬鹿の一つ覚えのように繰り返している主張に沿ったコメント以外、何も教えられません。また、どんな内容だったのか学ぼうともしません。
この国の教育というのは、中身の妥当性を検討することなく、戦前のものは全て悪いという歪んだ価値判断によって運営されているような気がしてなりません。美点も汚点も、全て学んでこそ歴史を学んだと言えるのではありませんか。
もっとも、現在の憲法は「国民主権」ですから、どうも「臣民」だとか、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」という表現には、違和感を感じてしまうのは否めません。
しかし、あくまでそれは現在我々が持っている価値観から見て変な感じがするのであって、当時としてはそう表現するのが限界だったということは知っておかなくてはいけません。
まず、憲法の性質上の問題です。大日本帝国憲法という戦前の憲法は、「欽定憲法」でした。日本は急激に近代化し、欧米の帝国主義勢力に対抗するために、なんでもかんでも上からの改革を進めるほかなかったのです。そんな中で、アジアで初めて憲法を作ったわけです。
その当時日本の周りにあった国は、欧米諸国にさんざん侵略されながら自分が世界の中心にいると思って全く改革を進めようとしない清王朝や、20世紀になるまで奴隷制を存続させていた李氏朝鮮です。日本は、精一杯努力をしたと言えるでしょう。
そういう事情に目を向けず、ただ単に「臣民」という言葉を聞いただけでスイッチが入ってしまうおかしな人がよくいるのですが、歴史を今から見て事後法的に切り捨てるというのは、全く理性的ではありません。おそらく、伝統や歴史を階級闘争の視点から全否定するマルクス主義の影響を受けているのでしょうが・・・。
そうはいっても、要約文のほうの「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。」というところがひっかかるという人もいるでしょう。私も以前はそうでした。
しかし、国がピンチのときに国民みんなで頑張りましょうという考えのどこが異常なのでしょうか。国家の危機管理として当然のことを言っているまでです。教育勅語をお嫌いな方々は、中国や韓国が大好きな人が多いようですが、そういう国々で「戦争になっても俺は国家のために働くつもりはない!」と言ったら間違いなく非国民ですよ。アメリカでも、フランスでも、タイでもインドネシアでもそうです。だいいち、韓国に徴兵制があることを、どうやって説明するのでしょうか。理解に苦しみます。
ここまで来ても、みなさんの中で、こう思う人もいるでしょうね。
教育勅語がまっとうなことを言っているのはよくわかった。表現も当時としては当然だったと認めよう。
しかし、どうして国や明治天皇が個人の生き方を決めなくてはならないのだ?
すみません、この話題でもう1回分続きます。(つづく)
みなさんは、教育勅語って、ご存じですか?
かつて、明治天皇が、教育の理念として国民に授けたもので、戦前の日本人であればみんな暗唱させられた言葉です。
まず、現物をみてみましょう。(あまり読む気がしませんが・・・)
勅 語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
以下が、要約文になります。
私(天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、良心を孝行し、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を高め、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
この教育勅語に関する説明は、明治神宮のホームページをご覧になるとわかりやすいと思います。
さて、このブログの管理人である私は、日教組(のような社会主義団体)が死ぬほど嫌いなので、彼らがムキになって叩いているものを検証してみようと思い立ちました。
みなさんも、教育勅語の存在自体は、歴史の授業で習っていますね。
しかし、その印象はというと、「軍国主義の象徴」という暗いイメージばかりなのではないでしょうか。
それこそ、まさに日教組の反日・反戦前教育の成果なのです。
「要約文」を読んでみてください。
家族や友人を大事にしろ、社会の役に立つ人になれ、学問や仕事をしっかりやれ、言動を慎め・・・どれも人間が生きていく上でごく当たり前のことではありませんか。これのどこが「軍国主義」なのか、私にはわかりません。
私も、つい最近まで「悪の象徴」であるかのように勘違いしていたのですが、もし自分に子どもがいたなら、今挙げたことは間違いなく教えようと思うでしょう。それくらい、当然のことを述べているのが教育勅語なのです。
そして、その「当然のこと」が、今の日本の社会ではどうもきちんとやれていない気がします。「学問を怠らず」に「知識を養」っている大学生などほとんどいませんし、大人も一分の人を除いてはなるべく仕事をさぼりたいと思っています。家族が家に寝に帰ってくるだけの「ホテル家族」に至っては、お互いを全く尊敬し合っていません。
どうして、そうなってしまうのか。答えは簡単です。
具体的にどういう風に行動しろと教えていないからです。
これは、社会ではなく、個人の場合にも言えます。
子どもが電車やレストランで走り回っていて、うるさいと思ったことがありませんか?私は、結構神経質なので、そういうのがどうも我慢できないたちです。音や振動そのものより、そういう行動が許されると思っている甘えが許せないのです。だから、何回か「うるさい、静かにしろ」などと怒鳴りつけてしまったことがあります。
そういう子どもは、どうして公共の場で我慢ができないのでしょうか。
これも簡単ですね。騒ぐのはいけないことだと、親が教えていないから
です。それ以上でも、それ以下でもありません。
放っておけば、そのうち静かになるし、だんだん分別がついてくる・・・などと考えている人がいますね。俗に言う「放任主義」などというやつです。残念ながら、日本語が間違っています。そういう姿勢は無責任と言います。小さな共同体の中で、大人がみんなで子どもの面倒を見ていた頃は、ほっといてもよかったのでしょうが、核家族が中心でマンション住まいが多い現代では、そういう働きは期待できません。だから、親がいちいち教えるしかないのです。
教育勅語が果たしていた役割も、そんな「親のしつけ」と似たようなところがあるのだと私は思います。
こんなことを私が言うと、どうも納得が出来ないという人がいるでしょうね。
どうして国や政府なんかに
生き方を教えられなくてはいけないんだ?
「臣民」とか「皇運ヲ扶翼スヘシ」とかいうけど、
国民を天皇の道具として扱うつもりなんじゃないのか?
そもそも、他人の役に立つように
生きなくちゃいけなんなんておかしくないか?
長くなりそうなので、反論は明日以降ということで。(つづく)
かつて、明治天皇が、教育の理念として国民に授けたもので、戦前の日本人であればみんな暗唱させられた言葉です。
まず、現物をみてみましょう。(あまり読む気がしませんが・・・)
勅 語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
以下が、要約文になります。
私(天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、良心を孝行し、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を高め、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
この教育勅語に関する説明は、明治神宮のホームページをご覧になるとわかりやすいと思います。
さて、このブログの管理人である私は、日教組(のような社会主義団体)が死ぬほど嫌いなので、彼らがムキになって叩いているものを検証してみようと思い立ちました。
みなさんも、教育勅語の存在自体は、歴史の授業で習っていますね。
しかし、その印象はというと、「軍国主義の象徴」という暗いイメージばかりなのではないでしょうか。
それこそ、まさに日教組の反日・反戦前教育の成果なのです。
「要約文」を読んでみてください。
家族や友人を大事にしろ、社会の役に立つ人になれ、学問や仕事をしっかりやれ、言動を慎め・・・どれも人間が生きていく上でごく当たり前のことではありませんか。これのどこが「軍国主義」なのか、私にはわかりません。
私も、つい最近まで「悪の象徴」であるかのように勘違いしていたのですが、もし自分に子どもがいたなら、今挙げたことは間違いなく教えようと思うでしょう。それくらい、当然のことを述べているのが教育勅語なのです。
そして、その「当然のこと」が、今の日本の社会ではどうもきちんとやれていない気がします。「学問を怠らず」に「知識を養」っている大学生などほとんどいませんし、大人も一分の人を除いてはなるべく仕事をさぼりたいと思っています。家族が家に寝に帰ってくるだけの「ホテル家族」に至っては、お互いを全く尊敬し合っていません。
どうして、そうなってしまうのか。答えは簡単です。
具体的にどういう風に行動しろと教えていないからです。
これは、社会ではなく、個人の場合にも言えます。
子どもが電車やレストランで走り回っていて、うるさいと思ったことがありませんか?私は、結構神経質なので、そういうのがどうも我慢できないたちです。音や振動そのものより、そういう行動が許されると思っている甘えが許せないのです。だから、何回か「うるさい、静かにしろ」などと怒鳴りつけてしまったことがあります。
そういう子どもは、どうして公共の場で我慢ができないのでしょうか。
これも簡単ですね。騒ぐのはいけないことだと、親が教えていないから
です。それ以上でも、それ以下でもありません。
放っておけば、そのうち静かになるし、だんだん分別がついてくる・・・などと考えている人がいますね。俗に言う「放任主義」などというやつです。残念ながら、日本語が間違っています。そういう姿勢は無責任と言います。小さな共同体の中で、大人がみんなで子どもの面倒を見ていた頃は、ほっといてもよかったのでしょうが、核家族が中心でマンション住まいが多い現代では、そういう働きは期待できません。だから、親がいちいち教えるしかないのです。
教育勅語が果たしていた役割も、そんな「親のしつけ」と似たようなところがあるのだと私は思います。
こんなことを私が言うと、どうも納得が出来ないという人がいるでしょうね。
どうして国や政府なんかに
生き方を教えられなくてはいけないんだ?
「臣民」とか「皇運ヲ扶翼スヘシ」とかいうけど、
国民を天皇の道具として扱うつもりなんじゃないのか?
そもそも、他人の役に立つように
生きなくちゃいけなんなんておかしくないか?
長くなりそうなので、反論は明日以降ということで。(つづく)
画像の男性の方は山口良治さんという方です。名前は知らなくても、少し説明すれば、「ああ、『スクール・ウォーズ』の人ね」という反応が返ってくるひとです。
「スクール・ウォーズ」(くわしくはこちらのサイトをご覧ください)というドラマは、ある高校ラグビー部が、荒廃の中から立ち上がり、やがて全国制覇を成し遂げるようになったという、実話に基づく学園ものドラマです。私は小学生の時、このドラマを土曜の9時に見るのが本当に楽しみでした。ラグビーも面白いのですが、先生と生徒の人間模様が(オーバーですが)とても心を打つのです。大人になって、DVDで見ても感激します。
そのモデルになった元伏見工業高校のラグビー部監督にして、元ラグビー全日本代表の名フランカーが、山口先生なのです。
山口先生の話は、それこそ本も沢山出ているので、それをご覧になるといいと思います。私は、教育者としての山口先生について、印象に残ったエピソードをいくつか取り上げてみたいと思います。
まずは、伏見工業に赴任した年度に行った校門での服装検査があります。
山口先生は赴任してしばらく、思うようにラグビーを教えることもできず悶々としていたことがありました。しかし、「教師として全力を尽くそう」と思い立ち、次の朝から校門での服装検査を始めたのです。
思いついたらすぐやるというのは、素晴らしいことです。そして、通りかかる生徒の服装を注意するという簡単にやれそうなことを始めるというのも、さすがという感じがします。
校内改革うんぬん、といって会議を開いてああでもないこうでもない、というのもいいのですが、そういう話し合いをすると必ず理由を付けて「できない」と言い出すバカが出てくるものです。そして、そのバカを説得するために、せっかく出てきた案がどんどん修正されてしまう。これでは、何のために会議をやっているのかわかりません。
思い立ったら、自分の出来そうなことを、すぐにやる。そして、小さい成功を収める。それが、大きな物事につながる自信になるのです。
校門での服装検査を始めて3週間ほどで、校則違反の服装は激減したそうです。山口先生が教師として活動していくとき、この体験は大きな自信になったでしょうね。
そして、もうひとつ素晴らしいのは、校門に立って声をかけることで、生徒の存在を認めてやったことです。
いじめられるとき、一番辛いのはなんでしょう。悪口を言われたり、蹴られたりするのもいやですが、一番きついのは絶対に「無視」です。なにしろ、自分の存在を認めてもらえないわけですから、それが続けば自殺してしまうのもわからなくはありません。
服装に文句を付けるというのは、不良の生徒からすれば「いちゃもん」には違いなのですが、それでも何もしないで素通りするよりは、絶対に気分がいいはずです。声をかけてもらえなかれば、自分から因縁をつけるしかないのですから・・・。
これに似たことで、私が極めて重要だと考えているのは「あいさつ」です。
最近の子供はあいさつもしないし、何かあっても「すいません」と言わないのでけしからん、という人がいます。その通りだと思います。
しかし、よく考えてみてください。子供が日常生活で大人から「おはよう」とか「こんにちは」と声をかけられる経験に乏しかったとしたら、そもそもあいさつなどする気になるのでしょうか。あいさつをしない原因は、周囲の大人があいさつをしていないことである可能性が高いです。だいいち、「近頃の子供は」などと言っている人は、自分から声をかけているのでしょうか?(私は、必ず自分から生徒に「こんにちわ」と言います)
あいさつは、大人からしなければダメなのです。声をかけてもらって、存在を認められた経験が多ければ、子供は自然にあいさつをするようになります。それでもあいさつしてこないなら、「おまえも、あいさつぐらいしろ」と言ってやればいいのです。それも立派な社会教育です。
そもそも、大人の側があいさつなんて馬鹿馬鹿しいと思っているから子供もやらなくなるのです。そういう大人が多すぎるのです。金にならなければ、目に見えた効果が出なければ・・・さびしいことですね。
先の話で服装の違反が激減したのは、山口先生が一人一人に声をかけたということと無縁ではないはずですし、先生が本気で服装を改めさせようと思っていたからこそ、その思いが通じたのではないでしょうか。何事も、真剣にやらなければ相手に通じないのです。
すごいな・・・と思った話は、親の前で泣きながら生徒をぶん殴った話です。
親御さんが止めに入ると、山口先生は「話してきくような子だったら、こんなことになるか。あんたは黙ってみていろ」と言い放ったそうです。
その後、その生徒はだんだん真面目になっていったといいます。
もちろん、生徒を殴ってしまうことがいいことであるはずがありません。しかし、それにも関わらず山口先生はやってしまったわけです。なぜ、手が出てしまったのでしょうか。
子供の面倒を見ていると、こいつのこの言動は絶対に許せないと思うことがあるはずです。私だったら、人の話を聞こうとしないことや、理由もないのに他人をバカにすることです。
そういう場面を見ると、このままこの子は悪い方へ落ちていってしまうのではないか、という危機感を感じてしまうのです。そして、それがも、手の着けようもないワルの生徒だったら、殴ってでも止めさせなければならない・・・きっと、山口先生はそう思われたのでしょう。
こういうことを言うと、必ず「体罰はいけない」とか「子供を対等の人格として扱わなくてはいけない」と、言い出す大馬鹿野郎がいます。
そんなことを言ってのうのうとしていられるのは、その子のことはどうでもいいと思っていて、面倒くさいことはしたくないと思っているからです。
自分の愚かな振る舞いに気づいていない子供は、崖から落ちそうになっているのと同じです。そんなとき、いちいちみなさんは119番に電話して「今子供が崖から落ちそうになっています」などと言いますか?なりふり構わず助け出さなくてはいけないと思いませんか?人の話を軽んじる態度や、他人を平気で傷つける行為は、小さいことのように思えますが、それと同じなのです。
山口先生が、こんなことをおっしゃっています。
「子供の立場に立つ」教育とか子育てということが流行のように
いわれる。いったい子供のどの立場に立ってやるのか。その子が20歳、
30歳になったとき、どんな大人になっているか、将来を見通しての
ことであるのか。そうでなかったら、こんな無責任な言い方はない
だろう。
この言葉を聞いて思うのは、全ての元凶は大人自身が今さえよければ、自分さえよければと思っていることに尽きる、ということです。
今子供に嫌われたくないから、叱らないでおこう。今子供の辛そうな顔を見たくないから、部活もやめさせよう。今勉強が出来なくなると自分のせいで落ちたと言われるから、家の手伝いはさせないでおこう・・・こういう配慮は、全て大人が自分のためにやっているだけの、ずるい浅知恵でしかありません。そんな浅知恵を弄したとしても、子供は何の感謝もしないでしょう。それどころか、「大人なんて、ちょろいもんだ」と思いさえします。子供というのは、素直ですがものすごくずるい生き物でもあるわけです。
だいいち、なぜ子供と接するのに、自分が得をしよう、楽をしようなどと思うのでしょうか。それは、戦後の「自由で平等な」教育のせいで、「誰かの役に立つ人間になる」ことや、「社会のために働く」ことが、損なことだと思われるようになってしまったせいです。
山口先生は、こんなことも言っています。
「自分はスポーツで素晴らしい経験をしたから、スポーツ
の素晴らしさを伝えていくという社会的使命を担っている」
自分が素晴らしいと思ったことを、他人、なかんずく、子供に伝えていきたいと思うこと、それが教育というものの原点なのではないか、そう感じさせられます。
私は、社会の授業などをするときに、旅先で撮ってきた写真を見せて、生徒に「ここに書いてある○○というのは、こういうものだ」と伝えることをよくやります。
そんなことをしても、1円も給料は変わりません。それなのに、そうしようと思うのは、ビジュアルだとよく伝わるからというわけではなく、自分が素晴らしいと思ったものを伝えたいという気持ちがあるからです。
そうやって、他人と関わっていく中でしか、本当の自己実現は達成できないと思うのです。
日教組の馬鹿教師が、頼みもしないのに「日本兵にはらわたを引きずり出される中国人女性」の写真(もちろんニセモノ)を子供に見せて喜んでいる話を聞いたことがありますが、そういうのは洗脳というので、一緒にしないように(笑)。
このまま終わるとこのブログの管理人の品性が疑われるので、最後は、先生のこんな言葉で締めくくりたいと思います。
「教育って感動だと思います。子供たちのちょっとしたことに
周りの大人が一緒になって喜んであげることが子供たちに感動を
与えるための第一歩です」
「スクール・ウォーズ」(くわしくはこちらのサイトをご覧ください)というドラマは、ある高校ラグビー部が、荒廃の中から立ち上がり、やがて全国制覇を成し遂げるようになったという、実話に基づく学園ものドラマです。私は小学生の時、このドラマを土曜の9時に見るのが本当に楽しみでした。ラグビーも面白いのですが、先生と生徒の人間模様が(オーバーですが)とても心を打つのです。大人になって、DVDで見ても感激します。
そのモデルになった元伏見工業高校のラグビー部監督にして、元ラグビー全日本代表の名フランカーが、山口先生なのです。
山口先生の話は、それこそ本も沢山出ているので、それをご覧になるといいと思います。私は、教育者としての山口先生について、印象に残ったエピソードをいくつか取り上げてみたいと思います。
まずは、伏見工業に赴任した年度に行った校門での服装検査があります。
山口先生は赴任してしばらく、思うようにラグビーを教えることもできず悶々としていたことがありました。しかし、「教師として全力を尽くそう」と思い立ち、次の朝から校門での服装検査を始めたのです。
思いついたらすぐやるというのは、素晴らしいことです。そして、通りかかる生徒の服装を注意するという簡単にやれそうなことを始めるというのも、さすがという感じがします。
校内改革うんぬん、といって会議を開いてああでもないこうでもない、というのもいいのですが、そういう話し合いをすると必ず理由を付けて「できない」と言い出すバカが出てくるものです。そして、そのバカを説得するために、せっかく出てきた案がどんどん修正されてしまう。これでは、何のために会議をやっているのかわかりません。
思い立ったら、自分の出来そうなことを、すぐにやる。そして、小さい成功を収める。それが、大きな物事につながる自信になるのです。
校門での服装検査を始めて3週間ほどで、校則違反の服装は激減したそうです。山口先生が教師として活動していくとき、この体験は大きな自信になったでしょうね。
そして、もうひとつ素晴らしいのは、校門に立って声をかけることで、生徒の存在を認めてやったことです。
いじめられるとき、一番辛いのはなんでしょう。悪口を言われたり、蹴られたりするのもいやですが、一番きついのは絶対に「無視」です。なにしろ、自分の存在を認めてもらえないわけですから、それが続けば自殺してしまうのもわからなくはありません。
服装に文句を付けるというのは、不良の生徒からすれば「いちゃもん」には違いなのですが、それでも何もしないで素通りするよりは、絶対に気分がいいはずです。声をかけてもらえなかれば、自分から因縁をつけるしかないのですから・・・。
これに似たことで、私が極めて重要だと考えているのは「あいさつ」です。
最近の子供はあいさつもしないし、何かあっても「すいません」と言わないのでけしからん、という人がいます。その通りだと思います。
しかし、よく考えてみてください。子供が日常生活で大人から「おはよう」とか「こんにちは」と声をかけられる経験に乏しかったとしたら、そもそもあいさつなどする気になるのでしょうか。あいさつをしない原因は、周囲の大人があいさつをしていないことである可能性が高いです。だいいち、「近頃の子供は」などと言っている人は、自分から声をかけているのでしょうか?(私は、必ず自分から生徒に「こんにちわ」と言います)
あいさつは、大人からしなければダメなのです。声をかけてもらって、存在を認められた経験が多ければ、子供は自然にあいさつをするようになります。それでもあいさつしてこないなら、「おまえも、あいさつぐらいしろ」と言ってやればいいのです。それも立派な社会教育です。
そもそも、大人の側があいさつなんて馬鹿馬鹿しいと思っているから子供もやらなくなるのです。そういう大人が多すぎるのです。金にならなければ、目に見えた効果が出なければ・・・さびしいことですね。
先の話で服装の違反が激減したのは、山口先生が一人一人に声をかけたということと無縁ではないはずですし、先生が本気で服装を改めさせようと思っていたからこそ、その思いが通じたのではないでしょうか。何事も、真剣にやらなければ相手に通じないのです。
すごいな・・・と思った話は、親の前で泣きながら生徒をぶん殴った話です。
親御さんが止めに入ると、山口先生は「話してきくような子だったら、こんなことになるか。あんたは黙ってみていろ」と言い放ったそうです。
その後、その生徒はだんだん真面目になっていったといいます。
もちろん、生徒を殴ってしまうことがいいことであるはずがありません。しかし、それにも関わらず山口先生はやってしまったわけです。なぜ、手が出てしまったのでしょうか。
子供の面倒を見ていると、こいつのこの言動は絶対に許せないと思うことがあるはずです。私だったら、人の話を聞こうとしないことや、理由もないのに他人をバカにすることです。
そういう場面を見ると、このままこの子は悪い方へ落ちていってしまうのではないか、という危機感を感じてしまうのです。そして、それがも、手の着けようもないワルの生徒だったら、殴ってでも止めさせなければならない・・・きっと、山口先生はそう思われたのでしょう。
こういうことを言うと、必ず「体罰はいけない」とか「子供を対等の人格として扱わなくてはいけない」と、言い出す大馬鹿野郎がいます。
そんなことを言ってのうのうとしていられるのは、その子のことはどうでもいいと思っていて、面倒くさいことはしたくないと思っているからです。
自分の愚かな振る舞いに気づいていない子供は、崖から落ちそうになっているのと同じです。そんなとき、いちいちみなさんは119番に電話して「今子供が崖から落ちそうになっています」などと言いますか?なりふり構わず助け出さなくてはいけないと思いませんか?人の話を軽んじる態度や、他人を平気で傷つける行為は、小さいことのように思えますが、それと同じなのです。
山口先生が、こんなことをおっしゃっています。
「子供の立場に立つ」教育とか子育てということが流行のように
いわれる。いったい子供のどの立場に立ってやるのか。その子が20歳、
30歳になったとき、どんな大人になっているか、将来を見通しての
ことであるのか。そうでなかったら、こんな無責任な言い方はない
だろう。
この言葉を聞いて思うのは、全ての元凶は大人自身が今さえよければ、自分さえよければと思っていることに尽きる、ということです。
今子供に嫌われたくないから、叱らないでおこう。今子供の辛そうな顔を見たくないから、部活もやめさせよう。今勉強が出来なくなると自分のせいで落ちたと言われるから、家の手伝いはさせないでおこう・・・こういう配慮は、全て大人が自分のためにやっているだけの、ずるい浅知恵でしかありません。そんな浅知恵を弄したとしても、子供は何の感謝もしないでしょう。それどころか、「大人なんて、ちょろいもんだ」と思いさえします。子供というのは、素直ですがものすごくずるい生き物でもあるわけです。
だいいち、なぜ子供と接するのに、自分が得をしよう、楽をしようなどと思うのでしょうか。それは、戦後の「自由で平等な」教育のせいで、「誰かの役に立つ人間になる」ことや、「社会のために働く」ことが、損なことだと思われるようになってしまったせいです。
山口先生は、こんなことも言っています。
「自分はスポーツで素晴らしい経験をしたから、スポーツ
の素晴らしさを伝えていくという社会的使命を担っている」
自分が素晴らしいと思ったことを、他人、なかんずく、子供に伝えていきたいと思うこと、それが教育というものの原点なのではないか、そう感じさせられます。
私は、社会の授業などをするときに、旅先で撮ってきた写真を見せて、生徒に「ここに書いてある○○というのは、こういうものだ」と伝えることをよくやります。
そんなことをしても、1円も給料は変わりません。それなのに、そうしようと思うのは、ビジュアルだとよく伝わるからというわけではなく、自分が素晴らしいと思ったものを伝えたいという気持ちがあるからです。
そうやって、他人と関わっていく中でしか、本当の自己実現は達成できないと思うのです。
日教組の馬鹿教師が、頼みもしないのに「日本兵にはらわたを引きずり出される中国人女性」の写真(もちろんニセモノ)を子供に見せて喜んでいる話を聞いたことがありますが、そういうのは洗脳というので、一緒にしないように(笑)。
このまま終わるとこのブログの管理人の品性が疑われるので、最後は、先生のこんな言葉で締めくくりたいと思います。
「教育って感動だと思います。子供たちのちょっとしたことに
周りの大人が一緒になって喜んであげることが子供たちに感動を
与えるための第一歩です」
2005年、もしくは2006年は、日本が自由主義・民主主義国家であることを放棄した記念すべき年になるかもしれません。
なぜなら、二つのとんでもない法律が、成立しようとしているからです。
●人権擁護法案の成立
このブログでも何度も危険な法律だと指摘してきた人権擁護法案(くわしくは人権擁護法案Q&Aをご覧ください)ですが、いよいよ小泉首相自ら動き出したようです。この産経新聞の記事でも明白です。
そもそもこの法案は与党である公明党が、異常なまでの熱意で成立を図っている法律です。(その意図については、各自お考えください)自民党としても、公明党の選挙協力なくして今回の圧勝はなかったと認めざるを得ません。そこで、見返りとして人権擁護法案の国会提出、ということになったのでしょう。
私はこの法案に100%反対です。理由は簡単です。私にとっては正当な批判であっても、人権委員や人権擁護委員が差別だ、人権侵害だと思ってしまえば、差別的言動として家宅捜索などの対象になってしまうからです。
簡単な例で言っておくと、私がこういう記事を書いて、日教組の組合員が「不愉快だ」と思えば、人権侵害になります。
人権擁護委員になりたがっている人たちがどういう人たちか、このブログの「法案推進派」というところを見るとよくわかります。思いっきり日教組と仲の良さそうな人たちばかりです。
彼らが「あいつは右翼だからけしからん」と判断すれば、特別救済手続が始まります。
たとえば、法案44条1項3号にある手続がもうすごいです。
「当該人権侵害等が現に行われ、又は行われた疑いがあると
認める場所に立ち入り、文書その他の物件を検査し、又は関係者に
質問すること。」
要するに「ガサ入れ」です。警察がこれをやるときは捜索・差押令状が必要なのですが、人権(擁護)委員がやるときは無令状で(つまり、裁判所のチェックも得ないで)やれてしまいます。もちろん、この「検査」や「質問」が普通の質問で済むわけがありません。金目のものを持って行かれたり、見られたくないものを暴かれたり、いろいろ出来てしまうのです。
しかも、これ、断ると過料(罰金みたいなもの)を払わないといけません。つまり、人権(擁護)委員というのは、警察を超える強大な権限を持っているわけです。
その人権(擁護)委員に、なんと外国人もなれてしまうというおまけつきです。
日教組が喜んで教えている自虐的な歴史教育は、在日韓国人・朝鮮人も大好きです。彼らが人権擁護委員だったら、私の家にガサ入れついでに、「この差別主義者が!」とか言いながら、私に殴る蹴るの暴行を加える危険すらあります。
おそらく、ブログの世界は真っ先に狙われるでしょう。日教組やその他の反日的な勢力にとって、教科書への内政干渉を批判したり、北朝鮮や中国が「実際にしていること」を取り上げたりする記事を書かれるのは、もっとも困ることだからです。
これに対して、大手マスコミは圧力に弱い(ばかりでなく、こういう明らかに反日的な新聞社もある)ので、上に挙げたような団体にとっては怖れるに足りないのです。
この法案が成立したら、どんな社会が来るのでしょうか。
すぐにそうなるとは思いませんが、きっとみんなタブーになるような問題については、何も口にしなくなるでしょう。特定の団体が人権(擁護)委員を牛耳れば、その団体に対する言動は全て差別とみなされ、攻撃されてしまうのですから当然です。
内閣や国会が人権委員の人事権を持っていてもダメです。社会全体で自由な意見の表明や交換ができなければ、人権擁護法に反対する国会議員はそもそも当選できなくなる事態も生じるわけです。
そうして、一部の人種・団体による横暴には、誰も何も言えなくなってしまうのです。
こんな社会が健全でしょうか?
簡単に出来る反対運動については、私が上で挙げた反対運動のサイトで紹介しています(たとえば、各省庁に意見をメールできる便利なサイトなど)。
一番いいのは、ネットをやらない人にこの法案の危険性を伝えることです。テレビや新聞に出てくることが世の中の全てだと思っている人はたくさんいますので・・・。
●共謀罪が成立
これも、人権擁護法案に負けじと凄まじい法律です。簡単にまとめられたものとして、静岡弁護士会の共謀罪反対声明がありますので、是非ご覧ください。
簡単に言ってしまえば、「犯罪をやろう」とふざけて会話をしても罪になるというすさまじい法律です。
刑法というのは、罪になるべき悪い行為をして初めて罪になる(これを罪刑法定主義という)のですが、それが思いっきり緩められてしまっています。
ものすごく下品な例ですが、私が「女優の○○とエッチがしたい」と、友人と会話しただけで捕まってしまいます(強姦罪の法定刑は3年以上の懲役なので、共謀だけで2年以下の懲役になります。
そんな会話、しなけりゃいいだろと思いますよね。しかし、これを利用すると、証拠を捏造して嫌いなやつを陥れることができてしまうのが問題なのです。なにしろ、「血の付いたナイフ」や「死体」などと違って、「会話の記録」(メールでも掲示板でも何でもいい)さえあれば理論上は立件できるわけです。
こういうことを言うと、「そんな馬鹿げたことはないだろ」という人がいます。人権擁護法案についても、「まさかそんな変な人が委員になるわけない」という反応が時々あります。
しかし、そもそも犯罪者を簡単に作り出せるような制度が存在する限り、「絶対にありえない」という保障はありません。そういう可能性が蟻の一穴となって、社会が崩壊してしまうということもあるのです
そうなると、きっと誰も本音で不満を漏らすことができなくなるでしょうね。「殺してやりたい」と、ふざけて言っただけで罪になってしまうんですから。
なんか、まるでナチス政権のゲシュタポを彷彿とさせますね(言っておきますが、これは冗談でも何でもありません)。
犯罪防止条約というものを具体化した法律のようですが、こんなものより先に、スパイ防止法を作ったり、犯罪者を簡単に釈放させないように刑務所を増設する方が先だと思うのですが・・・。
これと人権擁護法案を組み合わせると、権力者や一部の団体にとって都合の悪いやつを簡単に抹殺できることになります。
まるで、将軍様のいらっしゃる「地上の楽園」ですね。
(こういう発言も、「人権擁護」の対象ですね・・・)
既存のテレビ、新聞メディアには、反対運動を期待できないでしょう。なにしろ、上の二つの法案がテレビで取り上げられたことはほとんどないのですから。
ネットでこの情報を広めないと、本当に北朝鮮のような国になってしまいます。小泉自民党に投票した方々も、こんな法案まで成立させるつもりはなかったはずです。
今からでも遅くないですから、反対のメールを送ったり、自分のブログに反対運動のリンクを貼ったり、知らない人に人権擁護法案や共謀罪の話をしたりしましょう。
ブログでものを言える自由を失ってもいいのですか??
なぜなら、二つのとんでもない法律が、成立しようとしているからです。
●人権擁護法案の成立
このブログでも何度も危険な法律だと指摘してきた人権擁護法案(くわしくは人権擁護法案Q&Aをご覧ください)ですが、いよいよ小泉首相自ら動き出したようです。この産経新聞の記事でも明白です。
そもそもこの法案は与党である公明党が、異常なまでの熱意で成立を図っている法律です。(その意図については、各自お考えください)自民党としても、公明党の選挙協力なくして今回の圧勝はなかったと認めざるを得ません。そこで、見返りとして人権擁護法案の国会提出、ということになったのでしょう。
私はこの法案に100%反対です。理由は簡単です。私にとっては正当な批判であっても、人権委員や人権擁護委員が差別だ、人権侵害だと思ってしまえば、差別的言動として家宅捜索などの対象になってしまうからです。
簡単な例で言っておくと、私がこういう記事を書いて、日教組の組合員が「不愉快だ」と思えば、人権侵害になります。
人権擁護委員になりたがっている人たちがどういう人たちか、このブログの「法案推進派」というところを見るとよくわかります。思いっきり日教組と仲の良さそうな人たちばかりです。
彼らが「あいつは右翼だからけしからん」と判断すれば、特別救済手続が始まります。
たとえば、法案44条1項3号にある手続がもうすごいです。
「当該人権侵害等が現に行われ、又は行われた疑いがあると
認める場所に立ち入り、文書その他の物件を検査し、又は関係者に
質問すること。」
要するに「ガサ入れ」です。警察がこれをやるときは捜索・差押令状が必要なのですが、人権(擁護)委員がやるときは無令状で(つまり、裁判所のチェックも得ないで)やれてしまいます。もちろん、この「検査」や「質問」が普通の質問で済むわけがありません。金目のものを持って行かれたり、見られたくないものを暴かれたり、いろいろ出来てしまうのです。
しかも、これ、断ると過料(罰金みたいなもの)を払わないといけません。つまり、人権(擁護)委員というのは、警察を超える強大な権限を持っているわけです。
その人権(擁護)委員に、なんと外国人もなれてしまうというおまけつきです。
日教組が喜んで教えている自虐的な歴史教育は、在日韓国人・朝鮮人も大好きです。彼らが人権擁護委員だったら、私の家にガサ入れついでに、「この差別主義者が!」とか言いながら、私に殴る蹴るの暴行を加える危険すらあります。
おそらく、ブログの世界は真っ先に狙われるでしょう。日教組やその他の反日的な勢力にとって、教科書への内政干渉を批判したり、北朝鮮や中国が「実際にしていること」を取り上げたりする記事を書かれるのは、もっとも困ることだからです。
これに対して、大手マスコミは圧力に弱い(ばかりでなく、こういう明らかに反日的な新聞社もある)ので、上に挙げたような団体にとっては怖れるに足りないのです。
この法案が成立したら、どんな社会が来るのでしょうか。
すぐにそうなるとは思いませんが、きっとみんなタブーになるような問題については、何も口にしなくなるでしょう。特定の団体が人権(擁護)委員を牛耳れば、その団体に対する言動は全て差別とみなされ、攻撃されてしまうのですから当然です。
内閣や国会が人権委員の人事権を持っていてもダメです。社会全体で自由な意見の表明や交換ができなければ、人権擁護法に反対する国会議員はそもそも当選できなくなる事態も生じるわけです。
そうして、一部の人種・団体による横暴には、誰も何も言えなくなってしまうのです。
こんな社会が健全でしょうか?
簡単に出来る反対運動については、私が上で挙げた反対運動のサイトで紹介しています(たとえば、各省庁に意見をメールできる便利なサイトなど)。
一番いいのは、ネットをやらない人にこの法案の危険性を伝えることです。テレビや新聞に出てくることが世の中の全てだと思っている人はたくさんいますので・・・。
●共謀罪が成立
これも、人権擁護法案に負けじと凄まじい法律です。簡単にまとめられたものとして、静岡弁護士会の共謀罪反対声明がありますので、是非ご覧ください。
簡単に言ってしまえば、「犯罪をやろう」とふざけて会話をしても罪になるというすさまじい法律です。
刑法というのは、罪になるべき悪い行為をして初めて罪になる(これを罪刑法定主義という)のですが、それが思いっきり緩められてしまっています。
ものすごく下品な例ですが、私が「女優の○○とエッチがしたい」と、友人と会話しただけで捕まってしまいます(強姦罪の法定刑は3年以上の懲役なので、共謀だけで2年以下の懲役になります。
そんな会話、しなけりゃいいだろと思いますよね。しかし、これを利用すると、証拠を捏造して嫌いなやつを陥れることができてしまうのが問題なのです。なにしろ、「血の付いたナイフ」や「死体」などと違って、「会話の記録」(メールでも掲示板でも何でもいい)さえあれば理論上は立件できるわけです。
こういうことを言うと、「そんな馬鹿げたことはないだろ」という人がいます。人権擁護法案についても、「まさかそんな変な人が委員になるわけない」という反応が時々あります。
しかし、そもそも犯罪者を簡単に作り出せるような制度が存在する限り、「絶対にありえない」という保障はありません。そういう可能性が蟻の一穴となって、社会が崩壊してしまうということもあるのです
そうなると、きっと誰も本音で不満を漏らすことができなくなるでしょうね。「殺してやりたい」と、ふざけて言っただけで罪になってしまうんですから。
なんか、まるでナチス政権のゲシュタポを彷彿とさせますね(言っておきますが、これは冗談でも何でもありません)。
犯罪防止条約というものを具体化した法律のようですが、こんなものより先に、スパイ防止法を作ったり、犯罪者を簡単に釈放させないように刑務所を増設する方が先だと思うのですが・・・。
これと人権擁護法案を組み合わせると、権力者や一部の団体にとって都合の悪いやつを簡単に抹殺できることになります。
まるで、将軍様のいらっしゃる「地上の楽園」ですね。
(こういう発言も、「人権擁護」の対象ですね・・・)
既存のテレビ、新聞メディアには、反対運動を期待できないでしょう。なにしろ、上の二つの法案がテレビで取り上げられたことはほとんどないのですから。
ネットでこの情報を広めないと、本当に北朝鮮のような国になってしまいます。小泉自民党に投票した方々も、こんな法案まで成立させるつもりはなかったはずです。
今からでも遅くないですから、反対のメールを送ったり、自分のブログに反対運動のリンクを貼ったり、知らない人に人権擁護法案や共謀罪の話をしたりしましょう。
ブログでものを言える自由を失ってもいいのですか??
この記事の続き・・・ではありません。いわゆる緊急企画(笑)です。
身内を持ち上げてしまって恐縮ですが、おととい逝去した祖母のことを書いてみようと思います。
88才でなくなった私の祖母は、若い頃はとても苦労したそうです。
嫁いできた先で、いわゆる「嫁姑」の諍いがあったのです。しかし、昔の人は強いですね。内心思うことはあったらしいですが、それでも義理の母に尽くしました。足が悪くなった後はおぶって買い物などに連れていったこともあったそうです。
こういうことを「どうして私だけがこんな目にあわなくちゃいけないの」と、考える人もいるでしょう(公然とそのようなことを言い始めたのは日教組の左翼教育に洗脳された団塊の世代ですが)。しかし、当時はそれが当然と思われるような社会だったわけです。だから、祖母は逃げ出しもせずよく耐えたと思います。
少女時代に関東大震災、長男が生まれた2年後に東京大空襲と、かなり厳しい時代を生き抜いてきたわけです。それで人道にもとるようなことをしていないのなら、どんな人でも尊敬しなくてはならないと、今では思います。
もっとも、今思えば若い時分苦労したのは、無駄ではなかったと私は思います。
祖母のことを悪く言う人が全くいないというのが、それを物語っています。なにか飛び抜けた才能があったわけでもない、地位や役職があったわけでもないおばあさんでしたが、人に好かれる天分があったようです。
祖母はくも膜下出血で死んでしまいましたが、その前日に、通っていた接骨院にカレーパンを大量に差し入れていたと、その接骨院の受付の方からうかがいました。別に、人気取りをしようとか、そういう狙いがあったわけではないようです。常日頃から「死ぬのは怖くない」と言っていた人ですから、我欲もなく、ただ単に他人の喜ぶ顔が嬉しかったのでしょうね。ちなみに、祖母は差し入れなどに関しては「常習犯」だったようです。
祖母のそういった話を、異口同音に耳にして、人に親切にしても、何か見返りを期待しているといい気分がしないということを、改めて感じました。もっとも、私はまだまだ執着心が強すぎるので、なかなか祖母のようにはいかないと思うのですが・・・。
また、他人の世話になるというのも、好きではなかったようです。88才になっても、洗い物や買い物は自分でやっていました。だんだんと行動半径やできることの範囲は狭まっていたにせよ、身の回りのことは全て自分で出来ていたようです。かえって、一緒に住んでいた伯父(長男)の方が、祖母がいなくなって大丈夫なのだろうか・・・と思うほどです。
若かろうと大人だろうと、本当に独立している人というのはなかなかいません。みんな他人に何かを与えてもらいたいと、誰かに依存して生きていると思うのです。その中で、「こうしてほしい」という思いと、実際にしてもらることとの落差に悩んでいる。典型的なのは、異性と付き合って嫌な面を知るとすぐに別れてしまう奴です。こういう人間は、生まれついた美貌や才能がなければ、永久に「こんなはずじゃない」ともがき続けます。(上に挙げたようなものがあっても、それはそれで「地獄」だと思うのですが)
祖母はそういう人間の弱さ、醜さを超越していたとさえ思えます。人間生きていれば少しくらい「長生きしたい」とか「もう少し生活に余裕がほしい」とかいう我欲があると思うのですが、祖母にはそういう素振りがない。時々ぽつりと言うのが、
「いい子供や孫に恵まれた。自分は本当に幸せだった」
「もういつ死んでも怖くない」
「死ぬときはポックリ逝きたい」
というセリフでした。
こういう言葉は与え続けた人間にしか口に出来ない言葉だと私は思います。私は自分に嘘を付きたくないので、「死ぬのは怖い」です。
しかし、こうして日々生きていく中でのしかかってくる辛さや苦労をあるものは越え、またあるものは抱えながら過ごしていけば、いつかは「本当に幸せだった」と思える日が来ると信じたいです。
最近、私は自分の依って立つ立場みたいなものが急に明確になったという経験をしています。
それもこれも、私が忌み嫌っている人権擁護法案(くわしくはこちら)や、各種左翼団体の皆様方(笑)のおかげなのですが、まあ、それは主題から外れるのでまたの機会に譲ります。
そういうこともあって、他人に自分の生き方やらなんやらで悩みをうち明けるような「ネタ」が激減しました。この年でやっと、自分の思想信条みたいなものが確立したということなのでしょう。
下らないことで悩んだときは、なぜか祖母の元へ足を運んだものです。祖母は高度な知識を要する話題や、私が置かれている立場というものは正直ほとんどわからなかったでしょう。しかし、孫の愚痴はちゃんと聞いてくれていました。
そういう機会もめっきり減っていた矢先の祖母の死でした。だから、私には、祖母が「もう孫の世話を焼かなくて済むわい」と思っていたのではないか、と思っています。
さんざん迷惑をかけた私ですが、祖母の棺に花を手向けるときも、焼却炉に入れられたときも、涙が出てきませんでした。
よく頑張った、もうゆっくり休んでくださいという思いでいっぱいだったからです。
今度は、私が祖母の分まで一生懸命生きなくてはならないと思っています。
私一人にそう思わせただけでも、祖母の人生には大きな意味があったと、祖母を称えたいです。
おばあさん、本当におつかれさま。ありがとうございました。
身内を持ち上げてしまって恐縮ですが、おととい逝去した祖母のことを書いてみようと思います。
88才でなくなった私の祖母は、若い頃はとても苦労したそうです。
嫁いできた先で、いわゆる「嫁姑」の諍いがあったのです。しかし、昔の人は強いですね。内心思うことはあったらしいですが、それでも義理の母に尽くしました。足が悪くなった後はおぶって買い物などに連れていったこともあったそうです。
こういうことを「どうして私だけがこんな目にあわなくちゃいけないの」と、考える人もいるでしょう(公然とそのようなことを言い始めたのは日教組の左翼教育に洗脳された団塊の世代ですが)。しかし、当時はそれが当然と思われるような社会だったわけです。だから、祖母は逃げ出しもせずよく耐えたと思います。
少女時代に関東大震災、長男が生まれた2年後に東京大空襲と、かなり厳しい時代を生き抜いてきたわけです。それで人道にもとるようなことをしていないのなら、どんな人でも尊敬しなくてはならないと、今では思います。
もっとも、今思えば若い時分苦労したのは、無駄ではなかったと私は思います。
祖母のことを悪く言う人が全くいないというのが、それを物語っています。なにか飛び抜けた才能があったわけでもない、地位や役職があったわけでもないおばあさんでしたが、人に好かれる天分があったようです。
祖母はくも膜下出血で死んでしまいましたが、その前日に、通っていた接骨院にカレーパンを大量に差し入れていたと、その接骨院の受付の方からうかがいました。別に、人気取りをしようとか、そういう狙いがあったわけではないようです。常日頃から「死ぬのは怖くない」と言っていた人ですから、我欲もなく、ただ単に他人の喜ぶ顔が嬉しかったのでしょうね。ちなみに、祖母は差し入れなどに関しては「常習犯」だったようです。
祖母のそういった話を、異口同音に耳にして、人に親切にしても、何か見返りを期待しているといい気分がしないということを、改めて感じました。もっとも、私はまだまだ執着心が強すぎるので、なかなか祖母のようにはいかないと思うのですが・・・。
また、他人の世話になるというのも、好きではなかったようです。88才になっても、洗い物や買い物は自分でやっていました。だんだんと行動半径やできることの範囲は狭まっていたにせよ、身の回りのことは全て自分で出来ていたようです。かえって、一緒に住んでいた伯父(長男)の方が、祖母がいなくなって大丈夫なのだろうか・・・と思うほどです。
若かろうと大人だろうと、本当に独立している人というのはなかなかいません。みんな他人に何かを与えてもらいたいと、誰かに依存して生きていると思うのです。その中で、「こうしてほしい」という思いと、実際にしてもらることとの落差に悩んでいる。典型的なのは、異性と付き合って嫌な面を知るとすぐに別れてしまう奴です。こういう人間は、生まれついた美貌や才能がなければ、永久に「こんなはずじゃない」ともがき続けます。(上に挙げたようなものがあっても、それはそれで「地獄」だと思うのですが)
祖母はそういう人間の弱さ、醜さを超越していたとさえ思えます。人間生きていれば少しくらい「長生きしたい」とか「もう少し生活に余裕がほしい」とかいう我欲があると思うのですが、祖母にはそういう素振りがない。時々ぽつりと言うのが、
「いい子供や孫に恵まれた。自分は本当に幸せだった」
「もういつ死んでも怖くない」
「死ぬときはポックリ逝きたい」
というセリフでした。
こういう言葉は与え続けた人間にしか口に出来ない言葉だと私は思います。私は自分に嘘を付きたくないので、「死ぬのは怖い」です。
しかし、こうして日々生きていく中でのしかかってくる辛さや苦労をあるものは越え、またあるものは抱えながら過ごしていけば、いつかは「本当に幸せだった」と思える日が来ると信じたいです。
最近、私は自分の依って立つ立場みたいなものが急に明確になったという経験をしています。
それもこれも、私が忌み嫌っている人権擁護法案(くわしくはこちら)や、各種左翼団体の皆様方(笑)のおかげなのですが、まあ、それは主題から外れるのでまたの機会に譲ります。
そういうこともあって、他人に自分の生き方やらなんやらで悩みをうち明けるような「ネタ」が激減しました。この年でやっと、自分の思想信条みたいなものが確立したということなのでしょう。
下らないことで悩んだときは、なぜか祖母の元へ足を運んだものです。祖母は高度な知識を要する話題や、私が置かれている立場というものは正直ほとんどわからなかったでしょう。しかし、孫の愚痴はちゃんと聞いてくれていました。
そういう機会もめっきり減っていた矢先の祖母の死でした。だから、私には、祖母が「もう孫の世話を焼かなくて済むわい」と思っていたのではないか、と思っています。
さんざん迷惑をかけた私ですが、祖母の棺に花を手向けるときも、焼却炉に入れられたときも、涙が出てきませんでした。
よく頑張った、もうゆっくり休んでくださいという思いでいっぱいだったからです。
今度は、私が祖母の分まで一生懸命生きなくてはならないと思っています。
私一人にそう思わせただけでも、祖母の人生には大きな意味があったと、祖母を称えたいです。
おばあさん、本当におつかれさま。ありがとうございました。






