※以下の小話はフィクションです。(笑)
私は常々「受験というのは若者に丸暗記を強制し、創造性を殺す」ということで、入試制度には疑問を抱いていました。こうして塾の講師をやっていますが、それは「子どもが好き」なのと、時間に余裕のある仕事がそれしかないからなのです。
そんな私は、塾で決められたカリキュラムの授業をやりながら、生徒たちの前で繰り返し「勉強なんて大事じゃない」「人生の価値は入った学校で決まるもんじゃない」と、自分の考えを述べています。
ところが、どうやらある日、生徒から私の発言を聞かされた保護者が、塾長さんにクレームの電話を入れてきました。それも、一人ではなく複数です。塾長さんは私に、妙な発言はしないようにと釘を差しますが、私は頑として聞きません。
とうとう、会社の人事責任者がやってきて、私をそのクラスの授業から外すと言ってきました。それに対して、私がした反論は、
「受験に向けて生徒を洗脳するのは、
ボクの思想・良心の自由に反します。
苦痛を感じたので、慰謝料をください」
みなさん、私の言っていることは、常識的に見てオッケーですか?
許されるはずがありませんよね。ところが、公立学校の教師だと、これと大して変わらない主張をしても、支援者がわんさか付いて、あまつさえ裁判で勝利してしまうようです。
国旗国歌の強制は違憲~東京地裁判決 都の教職員処分禁じる(中日新聞)
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060922/mng_____sya_____000.shtml
(以下引用)
東京都立高校などの教職員ら401人が都と都教委を相手取り、入学・卒業式で日の丸掲揚と君が代斉唱に従う義務がないことの確認と、都教委による懲戒処分の禁止を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「国歌斉唱などを強制するのは憲法が定めた思想・良心の自由を侵害する違法行為。都教委の通達や指導は、行政の教育への不当介入の排除を定めた教育基本法に違反する」と述べ、原告側全面勝訴の判決を言い渡した。
(引用以上)
「この左翼教師め!!」と叫びたい人がいるのはわかりますが、それほど熱くなる必要はありません。 今回の判決は「地方裁判所の判決」であり、裁判官が先例として参考にすべき「判例」でも何でもないのです。
司法権は馬鹿ではありません。これまでの裁判例を見ても、「良心的」な「市民」の方々が喝采するような「画期的」判決は、最終的には最高裁で常識的な結論に落ち着いています。例を挙げると、在日米軍が憲法第9条に触れると判断した「砂川事件」も、学力テストを暴力で妨害した日教組教員を正当行為として無罪にした「旭川学力テスト事件」も、郵便局のポスターに労働組合員が社会党のポスターを貼るのを処分するのは憲法違反だとした「猿払事件」も、全て下級裁判所の判断が覆されているのです。
そうなると、今回の判決も高裁、または最高裁で覆されるのはほぼ確実でしょう。
こういう最高裁の態度を「権力寄りだ」と批判する人がいますが、それは司法権というものをわかっていない証拠です。
仮に、裁判所が違憲判決を出しまくったとします。法律は、国民の代表が集まる国会でいろんな手続を経て成立しているのに、それを国民の利害や政党政治の駆け引きと無縁の立場にいる裁判官がダメ出ししたら、選挙や議決などやる意味がなくなってしまいます。だからこそ、国会は「唯一の立法機関」(憲法41条)とされているわけです。
しかも、裁判官はそもそも国民に選ばれた人間ではないわけで、司法権の側がその気になれば、特定の思想を持った人間だけで裁判官を固めて、それに反するような国の法律を全て違憲にしてしまえるのです。
こういった点を踏まえれば、最高裁がなるべく法律を違憲にしたがらないというのは、三権分立の観点からは当然だといえます。(司法消極主義という)それを批判する人は、議会政治を否定しているのと大差はないわけです。
もっとも、だからといって、上告審の判断が出るまで、●こういう方とそのお仲間たちがデカイ面をするのが気にくわないという方もいらっしゃるでしょう。そこで、今回は、上に挙げた東京地裁の判決とは異なる「常識的な考え」というのは何か述べておきたいと思います。
このブログをご覧になっている方であればすぐ気が付くでしょうが、私は日の丸・君が代を学校で教えることは賛成です。それゆえ、今回の判決にも納得がいかない一人です。
しかし、だからといって「国旗を敬い、国歌を斉唱するのは国民として当然だ」という論理だけで押し切ろうとは思っていません。そういう考えは私も良い考えだと思うのですが、結局「良心的な」方々と平行線を辿るだけに終わってしまうからです。だから、結局水掛け論で終わってしまう。
また、国旗・国歌の強制とやらに反対してくる人間が、憲法上の権利をもちだしている以上、いくら馬鹿げた考えとは言え、その点をきちんと反論できないといけません。
ネット右翼と言われる方が、正義感からこの事件の教師や裁判官をなじる気持ちはわかりますが、もう少し冷静になって、きちんとした論拠を示さないと、この問題に関心のあまりない人々に納得してもらうのは難しいと思います。
では、私の考えを述べていく前に、今回の地裁判決をおさらいしてみましょう。前文は●こちらのリンクに判決の要旨があります。
「要旨」のくせに細かすぎるんだよ!!・・・とお思いの方のために、少しこの判決の論理についてまとめてみたいと思います。
「国旗に向かって起立したり、国歌を伴奏したりするのは、良心の自由を密接に結びついた外部的行為であり、それらは保護されるべきものである。日の丸・君が代は軍国主義を想起させるものであり、価値中立であるとは言い難いから、それに対して起立したり、伴奏をしたりするのは、思想良心の自由の侵害に当たりうる。
もっとも、このような外部的行為は、他人の人権等との衝突を避けるために、必要最小限の制約に服する。教育指導要領は法規としての性質を持つが、その内容が一方的な一定の理論や理念を教え込むようなものである場合は、教育基本法10条における「不当な支配」にあたる。上のような行為を強制するのは、「不当な支配」と言うべきであり、これの拒否を理由とした処分は違法だ」
司法試験に5回落ちて、受験生ですらない私(笑)が言うのも何ですが、この判決の重要な点はズバリ言うと、「国旗に起立・礼をしたり、国歌の伴奏するのを強制したら、思想良心の自由を侵害する」という部分と、「一方的に一定の考えを教え込むようなやり方は、教育として相応しくない」という部分です。
一つ目のポイントに付いて言うと、東京地裁は上に挙げたような行為を「思想と密接に結びついた行為」であると判断し、それを強制してはいけないという論理を展開しているということです。
しかし、仕事をしている大人の視点から見れば「なんか変だ」と思わざるをえません。
別に「教師は国旗・国歌を尊敬しろ」などと言う必要はありません。国旗や国歌を尊敬していなくても、あからさまに否定するような態度を採らなければ良いだけの話です。私も、受験制度に必ずしも全面的に賛成してはいませんが、受験を否定しません。だってそうでしょう?そういう仕事なんですから。
教員の仕事に国旗や国歌について教えるなんていう項目はない!!という人は、勉強不足です。文部省令である学習指導要領は、「国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮する」ことを明記しています。(●こちらを参照)指導要領に法的拘束力があるのは、この判決も認めています。
地裁判決は、積極的な妨害でなければいいんだ、というようなことを述べていますが、教員の立場というものをわかっていません。卒業式などの場で、国旗に向かって起立・礼をしないのを、生徒が見たらどう思うでしょうか?
もっとも、上の指導要領は平成10年に成立しているので、それ以前からいる教員は「そんなのは後から作った決まりだ」と言うかもしれませんが、それも反論になっていません。誰も、教員個人に思想を強制してはいません。心の中など覗けるわけがないのですから、国旗国歌を尊重するフリをしていればいいだけの話です。行動と思想が一致していないと生きている気がしないという、学生運動家のようなピュアな方(笑)は、教員などやめればいいのです。生活のためにやめられないなら、仕事に対して文句を言ってはいけません。
純主観的な思想に反する行為をやらなくてもいいんだ、としたら、世の中の職業の大半は成り立ちません。その最たるものが、警察官、検事や裁判官です。
「俺は自由競争を肯定している。騙される奴が悪いから、詐欺師を逮捕しない」という警官がいたらどう思いますか?凶器準備集合罪で逮捕された学生運動家を「俺も安田講堂には胸が熱くなった」などとマスコミに公言して不起訴にする検事がいたら、即刻懲戒処分でしょうね。それに、裁判官が「被告人は無期懲役。人格矯正は困難だが、私が死刑に反対だから」などと言っている裁判官がいたら、きっと裁判希望者が殺到してしまうことでしょう。(笑)
国歌の伴奏はまあ代わりがいるからいいとして、イベントの場で、君が代斉唱のとき座っていたり、 国旗に向かって起立・礼をしない教員の姿を、生徒が見たら同思うでしょうね?「尊重する態度を育てるよう配慮」するどころか、教育効果がマイナスです。
どうも、こういう運動を行っている人々や、それを支援している人々は、教員というのは、何か特別な職業であると勘違いしている人が多いように思います。「聖職者」(近頃は「生殖者」と言うべきか)という言葉がありましたが、雇い主や上司の意向は無視して、崇高な理念を教えてやろうというような、思想・良心の自由を振りかざすところに、驕り高ぶった考えがにじんでいると思うのは私だけでしょうか。
公立学校の教員は公務員であり、それ以前に社会人です。地方公務員法32条には「職務上の命令」が定められているのですから、東京都の通達はきちんと履行すべきなのです。上司の命令を聞かないで、現場に勝手に振るまうのが正義だと思っているとしたら、仕事というものをナメているということです。
では、二つ目の「一方的に一定の考えを教え込むようなやり方は、教育として相応しくない」という点についてはどうでしょうか。
はっきり言いましょう。この主張は、一見まともなことを言っているようですが、完璧に間違っています。
試しに、「教育」という語を、辞書で引いてみてください。大辞林という辞書には、
「他人に対して、意図的な働きかけを行うことで、
その人間を望ましい方向へ変化させること。」
と、定義されています。そうだとすると、教育には何らかの「意図」が必要なわけです。つまり、教育には一定の指向をもって「強制」する側面が必ず存在するのです。それがないなら、教育とは言えません。
では、公立学校でやっている教育の意図とは何なのか、この点を曖昧にしてきたことこそが、この判決に象徴されるような馬鹿げた事態を生んでいる元凶だと言っても過言ではありません。
公教育はまず「国民教育」です。そうだとすれば、国家が、自国民にこうであってほしいという価値判断を伴うのが当然です。国旗や国歌に対して否定的な人間を育てたいと思う国家は存在しません。そうでなければ、国旗や国歌を持つ意味がありません。日教組が大好きな北朝鮮にも、ちゃんと国旗や国家が存在します。(国歌は●こちら)
日の丸や君が代は軍国主義に染まっている歌だからダメだ、というのなら、そもそもどうして国旗・国歌法というものが制定されたのでしょうか。単純です。日の丸や君が代を否定する勢力が支持されていないから、多数派を取れないというだけです。それは取りも直さず、日の丸や君が代に対して、普通の国民がイデオロギー的な拒否反応を示していないことの現れです。
だいいち、民主党も社民党も共産党も、その場しのぎで政権批判をしているだけで、国旗や国歌の問題をマニフェストに載せて選挙の争点になどしていません。彼らや日教組は「国民的議論」という言葉が好きですが、選挙の度に年金だのイラクだの憲法9条だの、猫の目のように争点を変えている野党ばかりで、「国民」は一体どうやって国旗・国歌について判断すればいいんでしょうね?
国民教育が嫌なら、別に公立学校に無理をして通わなくてもいいのでは、と思います。私立に行くには金が・・・というなら、別に不登校ということで、フリースクールに通えばいいだけです。なぜ共産党や日教組の有志が、ボランティアで経営する私学校を作ってそこで自分たちのやりたいような教育を実践しないんですかね?運営資金は、それこそ「良心的な人々」のカンパで賄えばいいのです。生徒がいないなら、まず日教組教員が自分の子どもを通わせればいいだけです。それとも何ですか?「死んだ知識」や、学歴が無いと不安なんですか?(笑)
また、「一方的な理念の伝達」が許されないとしたら、論理的には、「人権尊重」だとか「男女平等」だとか、「民主主義」だとかいった、日本で現在反論がほとんど許されないような「理念」を教えることも、教育としてNGということになってしまうでしょう。「人権や平等は正当、君が代は不当」というのでしょうが、何が不当で何が正当かなどというのは、それこそ「思想・良心の自由」の問題です。
たとえば、公民の時間に民主主義や人権の歴史について教えていて、ある生徒が「先生、僕はヴァンデで30万人を虐殺し、ナポレオンという独裁者を生んだフランス革命に起源を持つ『平等』思想は間違っていると思います。」と言われたらどうするのでしょうか。そんなことはない、平等というのは真っ当な考えだと説得するのではありませんか。対話という作業こそありますが、「一方的に教え込んでいる」のは確かです。
まあ、日教組の教員の方は個性を尊重するのが大好きですから、きっとそういう発言もさぞかし真摯に対応してくれるに違いありませんが。(皮肉です)
上に挙げた議論を「なんと些末な」とお思いでしょう。しかし、「一方的な理念の伝達」を否定すれば、そういうことになるのです。「君が代反対」と「民主主義反対」とは、価値判断を抜きにすれば、論理的に全く差がありません。(注:筆者は別に民主主義や人権の「価値」を否定しているわけではない)
では、とりあえず何を教えていくかといえば、やはり国会で決まった法律に従っていくしかないでしょう。ただし、教育が重要な問題である以上、政治の場で争点にすることは必要です。文部科学省の官僚が勝手に切り盛りしていいというものではありません。
そういう意味では、教育基本法の改正は急務でしょう。このブログでも何度か主張している「利他精神の涵養」や、国民教育の正当性を明記することが必要です。「愛国心」も入れておいていいと思うのですが、連立与党を構成している某政党が激しく反対するのは目に見えているので、今回はこだわる必要はないかもしれません。(そんな政党と、安倍晋三首相のような保守主義者が連立しているのがよくわからないのだが)
今回の判決で都の処分を違法とした根拠になっている「不当な支配」という文言(同法10条)も、「以下に述べるような」という感じで、例示列挙くらいはしておくべきです。そうでないと、いかなる関与が不当なのか、全て裁判官の胸先三寸で決まってしまいます。
安倍新首相は教育改革に並々ならぬ熱意を持っているようです。教育担当の首相補佐官に、このブログでも名前を挙げた山谷えり子氏を任命したのも、その現れでしょう。文部科学大臣の伊吹文明氏も、人権擁護法案や女系天皇容認といった、在日外国人団体や社民党が賛成している政策に全て反対している人物です。
いろいろ良くない噂(大抵は中傷だが)もある安倍首相ですが、是非とも今回の判決に象徴されるような「ふぬけた公教育」を、まともな方向に向けてほしいものです。
次回は、燃料電池の話題の最終回です。ご期待ください。
私は常々「受験というのは若者に丸暗記を強制し、創造性を殺す」ということで、入試制度には疑問を抱いていました。こうして塾の講師をやっていますが、それは「子どもが好き」なのと、時間に余裕のある仕事がそれしかないからなのです。
そんな私は、塾で決められたカリキュラムの授業をやりながら、生徒たちの前で繰り返し「勉強なんて大事じゃない」「人生の価値は入った学校で決まるもんじゃない」と、自分の考えを述べています。
ところが、どうやらある日、生徒から私の発言を聞かされた保護者が、塾長さんにクレームの電話を入れてきました。それも、一人ではなく複数です。塾長さんは私に、妙な発言はしないようにと釘を差しますが、私は頑として聞きません。
とうとう、会社の人事責任者がやってきて、私をそのクラスの授業から外すと言ってきました。それに対して、私がした反論は、
「受験に向けて生徒を洗脳するのは、
ボクの思想・良心の自由に反します。
苦痛を感じたので、慰謝料をください」
みなさん、私の言っていることは、常識的に見てオッケーですか?
許されるはずがありませんよね。ところが、公立学校の教師だと、これと大して変わらない主張をしても、支援者がわんさか付いて、あまつさえ裁判で勝利してしまうようです。
国旗国歌の強制は違憲~東京地裁判決 都の教職員処分禁じる(中日新聞)
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060922/mng_____sya_____000.shtml
(以下引用)
東京都立高校などの教職員ら401人が都と都教委を相手取り、入学・卒業式で日の丸掲揚と君が代斉唱に従う義務がないことの確認と、都教委による懲戒処分の禁止を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「国歌斉唱などを強制するのは憲法が定めた思想・良心の自由を侵害する違法行為。都教委の通達や指導は、行政の教育への不当介入の排除を定めた教育基本法に違反する」と述べ、原告側全面勝訴の判決を言い渡した。
(引用以上)
「この左翼教師め!!」と叫びたい人がいるのはわかりますが、それほど熱くなる必要はありません。 今回の判決は「地方裁判所の判決」であり、裁判官が先例として参考にすべき「判例」でも何でもないのです。
司法権は馬鹿ではありません。これまでの裁判例を見ても、「良心的」な「市民」の方々が喝采するような「画期的」判決は、最終的には最高裁で常識的な結論に落ち着いています。例を挙げると、在日米軍が憲法第9条に触れると判断した「砂川事件」も、学力テストを暴力で妨害した日教組教員を正当行為として無罪にした「旭川学力テスト事件」も、郵便局のポスターに労働組合員が社会党のポスターを貼るのを処分するのは憲法違反だとした「猿払事件」も、全て下級裁判所の判断が覆されているのです。
そうなると、今回の判決も高裁、または最高裁で覆されるのはほぼ確実でしょう。
こういう最高裁の態度を「権力寄りだ」と批判する人がいますが、それは司法権というものをわかっていない証拠です。
仮に、裁判所が違憲判決を出しまくったとします。法律は、国民の代表が集まる国会でいろんな手続を経て成立しているのに、それを国民の利害や政党政治の駆け引きと無縁の立場にいる裁判官がダメ出ししたら、選挙や議決などやる意味がなくなってしまいます。だからこそ、国会は「唯一の立法機関」(憲法41条)とされているわけです。
しかも、裁判官はそもそも国民に選ばれた人間ではないわけで、司法権の側がその気になれば、特定の思想を持った人間だけで裁判官を固めて、それに反するような国の法律を全て違憲にしてしまえるのです。
こういった点を踏まえれば、最高裁がなるべく法律を違憲にしたがらないというのは、三権分立の観点からは当然だといえます。(司法消極主義という)それを批判する人は、議会政治を否定しているのと大差はないわけです。
もっとも、だからといって、上告審の判断が出るまで、●こういう方とそのお仲間たちがデカイ面をするのが気にくわないという方もいらっしゃるでしょう。そこで、今回は、上に挙げた東京地裁の判決とは異なる「常識的な考え」というのは何か述べておきたいと思います。
このブログをご覧になっている方であればすぐ気が付くでしょうが、私は日の丸・君が代を学校で教えることは賛成です。それゆえ、今回の判決にも納得がいかない一人です。
しかし、だからといって「国旗を敬い、国歌を斉唱するのは国民として当然だ」という論理だけで押し切ろうとは思っていません。そういう考えは私も良い考えだと思うのですが、結局「良心的な」方々と平行線を辿るだけに終わってしまうからです。だから、結局水掛け論で終わってしまう。
また、国旗・国歌の強制とやらに反対してくる人間が、憲法上の権利をもちだしている以上、いくら馬鹿げた考えとは言え、その点をきちんと反論できないといけません。
ネット右翼と言われる方が、正義感からこの事件の教師や裁判官をなじる気持ちはわかりますが、もう少し冷静になって、きちんとした論拠を示さないと、この問題に関心のあまりない人々に納得してもらうのは難しいと思います。
では、私の考えを述べていく前に、今回の地裁判決をおさらいしてみましょう。前文は●こちらのリンクに判決の要旨があります。
「要旨」のくせに細かすぎるんだよ!!・・・とお思いの方のために、少しこの判決の論理についてまとめてみたいと思います。
「国旗に向かって起立したり、国歌を伴奏したりするのは、良心の自由を密接に結びついた外部的行為であり、それらは保護されるべきものである。日の丸・君が代は軍国主義を想起させるものであり、価値中立であるとは言い難いから、それに対して起立したり、伴奏をしたりするのは、思想良心の自由の侵害に当たりうる。
もっとも、このような外部的行為は、他人の人権等との衝突を避けるために、必要最小限の制約に服する。教育指導要領は法規としての性質を持つが、その内容が一方的な一定の理論や理念を教え込むようなものである場合は、教育基本法10条における「不当な支配」にあたる。上のような行為を強制するのは、「不当な支配」と言うべきであり、これの拒否を理由とした処分は違法だ」
司法試験に5回落ちて、受験生ですらない私(笑)が言うのも何ですが、この判決の重要な点はズバリ言うと、「国旗に起立・礼をしたり、国歌の伴奏するのを強制したら、思想良心の自由を侵害する」という部分と、「一方的に一定の考えを教え込むようなやり方は、教育として相応しくない」という部分です。
一つ目のポイントに付いて言うと、東京地裁は上に挙げたような行為を「思想と密接に結びついた行為」であると判断し、それを強制してはいけないという論理を展開しているということです。
しかし、仕事をしている大人の視点から見れば「なんか変だ」と思わざるをえません。
別に「教師は国旗・国歌を尊敬しろ」などと言う必要はありません。国旗や国歌を尊敬していなくても、あからさまに否定するような態度を採らなければ良いだけの話です。私も、受験制度に必ずしも全面的に賛成してはいませんが、受験を否定しません。だってそうでしょう?そういう仕事なんですから。
教員の仕事に国旗や国歌について教えるなんていう項目はない!!という人は、勉強不足です。文部省令である学習指導要領は、「国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮する」ことを明記しています。(●こちらを参照)指導要領に法的拘束力があるのは、この判決も認めています。
地裁判決は、積極的な妨害でなければいいんだ、というようなことを述べていますが、教員の立場というものをわかっていません。卒業式などの場で、国旗に向かって起立・礼をしないのを、生徒が見たらどう思うでしょうか?
もっとも、上の指導要領は平成10年に成立しているので、それ以前からいる教員は「そんなのは後から作った決まりだ」と言うかもしれませんが、それも反論になっていません。誰も、教員個人に思想を強制してはいません。心の中など覗けるわけがないのですから、国旗国歌を尊重するフリをしていればいいだけの話です。行動と思想が一致していないと生きている気がしないという、学生運動家のようなピュアな方(笑)は、教員などやめればいいのです。生活のためにやめられないなら、仕事に対して文句を言ってはいけません。
純主観的な思想に反する行為をやらなくてもいいんだ、としたら、世の中の職業の大半は成り立ちません。その最たるものが、警察官、検事や裁判官です。
「俺は自由競争を肯定している。騙される奴が悪いから、詐欺師を逮捕しない」という警官がいたらどう思いますか?凶器準備集合罪で逮捕された学生運動家を「俺も安田講堂には胸が熱くなった」などとマスコミに公言して不起訴にする検事がいたら、即刻懲戒処分でしょうね。それに、裁判官が「被告人は無期懲役。人格矯正は困難だが、私が死刑に反対だから」などと言っている裁判官がいたら、きっと裁判希望者が殺到してしまうことでしょう。(笑)
国歌の伴奏はまあ代わりがいるからいいとして、イベントの場で、君が代斉唱のとき座っていたり、 国旗に向かって起立・礼をしない教員の姿を、生徒が見たら同思うでしょうね?「尊重する態度を育てるよう配慮」するどころか、教育効果がマイナスです。
どうも、こういう運動を行っている人々や、それを支援している人々は、教員というのは、何か特別な職業であると勘違いしている人が多いように思います。「聖職者」(近頃は「生殖者」と言うべきか)という言葉がありましたが、雇い主や上司の意向は無視して、崇高な理念を教えてやろうというような、思想・良心の自由を振りかざすところに、驕り高ぶった考えがにじんでいると思うのは私だけでしょうか。
公立学校の教員は公務員であり、それ以前に社会人です。地方公務員法32条には「職務上の命令」が定められているのですから、東京都の通達はきちんと履行すべきなのです。上司の命令を聞かないで、現場に勝手に振るまうのが正義だと思っているとしたら、仕事というものをナメているということです。
では、二つ目の「一方的に一定の考えを教え込むようなやり方は、教育として相応しくない」という点についてはどうでしょうか。
はっきり言いましょう。この主張は、一見まともなことを言っているようですが、完璧に間違っています。
試しに、「教育」という語を、辞書で引いてみてください。大辞林という辞書には、
「他人に対して、意図的な働きかけを行うことで、
その人間を望ましい方向へ変化させること。」
と、定義されています。そうだとすると、教育には何らかの「意図」が必要なわけです。つまり、教育には一定の指向をもって「強制」する側面が必ず存在するのです。それがないなら、教育とは言えません。
では、公立学校でやっている教育の意図とは何なのか、この点を曖昧にしてきたことこそが、この判決に象徴されるような馬鹿げた事態を生んでいる元凶だと言っても過言ではありません。
公教育はまず「国民教育」です。そうだとすれば、国家が、自国民にこうであってほしいという価値判断を伴うのが当然です。国旗や国歌に対して否定的な人間を育てたいと思う国家は存在しません。そうでなければ、国旗や国歌を持つ意味がありません。日教組が大好きな北朝鮮にも、ちゃんと国旗や国家が存在します。(国歌は●こちら)
日の丸や君が代は軍国主義に染まっている歌だからダメだ、というのなら、そもそもどうして国旗・国歌法というものが制定されたのでしょうか。単純です。日の丸や君が代を否定する勢力が支持されていないから、多数派を取れないというだけです。それは取りも直さず、日の丸や君が代に対して、普通の国民がイデオロギー的な拒否反応を示していないことの現れです。
だいいち、民主党も社民党も共産党も、その場しのぎで政権批判をしているだけで、国旗や国歌の問題をマニフェストに載せて選挙の争点になどしていません。彼らや日教組は「国民的議論」という言葉が好きですが、選挙の度に年金だのイラクだの憲法9条だの、猫の目のように争点を変えている野党ばかりで、「国民」は一体どうやって国旗・国歌について判断すればいいんでしょうね?
国民教育が嫌なら、別に公立学校に無理をして通わなくてもいいのでは、と思います。私立に行くには金が・・・というなら、別に不登校ということで、フリースクールに通えばいいだけです。なぜ共産党や日教組の有志が、ボランティアで経営する私学校を作ってそこで自分たちのやりたいような教育を実践しないんですかね?運営資金は、それこそ「良心的な人々」のカンパで賄えばいいのです。生徒がいないなら、まず日教組教員が自分の子どもを通わせればいいだけです。それとも何ですか?「死んだ知識」や、学歴が無いと不安なんですか?(笑)
また、「一方的な理念の伝達」が許されないとしたら、論理的には、「人権尊重」だとか「男女平等」だとか、「民主主義」だとかいった、日本で現在反論がほとんど許されないような「理念」を教えることも、教育としてNGということになってしまうでしょう。「人権や平等は正当、君が代は不当」というのでしょうが、何が不当で何が正当かなどというのは、それこそ「思想・良心の自由」の問題です。
たとえば、公民の時間に民主主義や人権の歴史について教えていて、ある生徒が「先生、僕はヴァンデで30万人を虐殺し、ナポレオンという独裁者を生んだフランス革命に起源を持つ『平等』思想は間違っていると思います。」と言われたらどうするのでしょうか。そんなことはない、平等というのは真っ当な考えだと説得するのではありませんか。対話という作業こそありますが、「一方的に教え込んでいる」のは確かです。
まあ、日教組の教員の方は個性を尊重するのが大好きですから、きっとそういう発言もさぞかし真摯に対応してくれるに違いありませんが。(皮肉です)
上に挙げた議論を「なんと些末な」とお思いでしょう。しかし、「一方的な理念の伝達」を否定すれば、そういうことになるのです。「君が代反対」と「民主主義反対」とは、価値判断を抜きにすれば、論理的に全く差がありません。(注:筆者は別に民主主義や人権の「価値」を否定しているわけではない)
では、とりあえず何を教えていくかといえば、やはり国会で決まった法律に従っていくしかないでしょう。ただし、教育が重要な問題である以上、政治の場で争点にすることは必要です。文部科学省の官僚が勝手に切り盛りしていいというものではありません。
そういう意味では、教育基本法の改正は急務でしょう。このブログでも何度か主張している「利他精神の涵養」や、国民教育の正当性を明記することが必要です。「愛国心」も入れておいていいと思うのですが、連立与党を構成している某政党が激しく反対するのは目に見えているので、今回はこだわる必要はないかもしれません。(そんな政党と、安倍晋三首相のような保守主義者が連立しているのがよくわからないのだが)
今回の判決で都の処分を違法とした根拠になっている「不当な支配」という文言(同法10条)も、「以下に述べるような」という感じで、例示列挙くらいはしておくべきです。そうでないと、いかなる関与が不当なのか、全て裁判官の胸先三寸で決まってしまいます。
安倍新首相は教育改革に並々ならぬ熱意を持っているようです。教育担当の首相補佐官に、このブログでも名前を挙げた山谷えり子氏を任命したのも、その現れでしょう。文部科学大臣の伊吹文明氏も、人権擁護法案や女系天皇容認といった、在日外国人団体や社民党が賛成している政策に全て反対している人物です。
いろいろ良くない噂(大抵は中傷だが)もある安倍首相ですが、是非とも今回の判決に象徴されるような「ふぬけた公教育」を、まともな方向に向けてほしいものです。
次回は、燃料電池の話題の最終回です。ご期待ください。