日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

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「好き」という言葉の罠

2005年05月31日 00時05分55秒 | 社会と教育
小学6年生の受験クラスの社会科は、5月になると
「歴史」分野が終わり、新しく「政治」という分野に入ります。

その時期になると、必ず子供から出てくる反応があるんですね。

「歴史は面白かったけど、政治ってつまんないから好きじゃない」

私は、こういう意見を真に受けて、「政治って大切なんだよ」という
学校の教科書にありがちな応答はしません。
ああ、また出たか、と私は思わず苦笑するくらいです。
あとは、まあ中身で勝負すればいいだろう、そう思っています。

「社会(特に歴史)が好き」というお子さんは、結構たくさん
いますよね。私もそうでした。
中学1年生なのに、毎週発刊される「朝日世界の歴史」という
うすい本を、父に頼んで講読させてもらっていたくらいです。

しかし、「好きだからやる」という論理には、大いに疑問を
感じてしまいます。
別に、これは入試には他にもいろいろな科目があるから、という
みみっちい動機からではありません。

そもそも、人間が物事を学ぶのに、「好き・嫌い」を基軸に
するべきなのでしょうか。

まず、理解しておかないと行けないのは、「好き・嫌い」というのは
100%自分を中心にした価値判断です。
自分の中だけで完結してしまうものなので、他人に対して説明したり
納得してもらう必要がないからです。

そして、現代の社会では、何かを選ぶ段階で、この「好き・嫌い」に
対して、非常に大きな比重が置かれています。
一番よくある例は、職業に関する物です。
「好きじゃなければ、仕事じゃない」とか、「好きを、仕事に」とか、
そういうキャッチコピーをよく見かけますよね。あれです。

この根底にあるのは、「わがまま」を肯定する、戦後型の価値観だと
言うことができます。

ここでいう「わがまま」とは、自分自身の言動を、社会的な需要ではなく
自分の内部にある欲求に従わせようとすることを言います。
だから、「わがまま」=悪である、というつもりはありません。
「僕は将来宇宙飛行士になりたい」という男の子に対して、
「おまえはわがままなやつだな」と叱る人は誰もいませんよね。

むしろ、現代的な文脈からは、この「わがまま」はむしろ良いものです。
例えば、親が造り酒屋なのだが、親の期待に応えて家業を継がず、
東京に出てミュージシャンになる夢を追う、というと、
なんか格好いいですよね。
今までのブログの内容から、私は夢や理想に対して否定的だと思う
人が多いかも知れませんが、むしろ肯定的な方です。

このわがままの、最も典型的な現れが「好きなものだけすればいい」
という発想です。

発明王エジソンがあれだけ偉大な発明ができたのはなぜか?
それは、彼が発明することが大好きだったからだ。それを証拠に、
エジソンは下らない反復学習ばかり押しつけてくる公立学校に
行かなかったじゃないか。
学校教育がいかに型にはめた教育をしているか、わかるだろう?
だから、嫌いな事なんてやらなくてもいいんだよ!
好きなことにこだわって、その道を極めて、
誰にも負けないオンリーワンになればいいんだよ!

・・・書いていて腹が煮えくり返ってきました(笑)
私は、「嘘」や「無責任」を書くのが何よりも嫌いだからです。

よく考えてみてください。

社会にある職業や役割は、果たして、
「好かれる仕事」だけで成り立っているのでしょうか?

職業というのは、そもそも必要だから存在しているわけです。
(いわゆる「やくざ」というのも、非合法の問題解決を
必要としている個人や企業がいるから存在している)
そのような社会では、働かなくても利益を生み出せるもの
(例えば土地や多額の株式投資)を持っていない限り、
自分の能力を職業にあてはめることで、収入を得るしか
ありません。

その時、我々は、相手の要求に応じて、自分をコントロールする
必要が出てきます。
たとえば、決められた予算内でパーティーの料理を作ってほしいと
言われたら、その通りにしなければなりません。
(言うことをきかなければ、次から仕事が回ってこない)
どんな個性を持っていても、相手に応じた自己コントロールは
必要になります。
こういうことを、私は「個性の社会化」と呼んでいます。

つまり、どんなに珍しい、極端に言えば「世界に一つだけの」個性を
持っていたとしても、社会の需要に合わなければ、生きていく
上で何の役にも立たないのです。

もう何度も書いているので、「いい加減にしろ」と言われそうですが、
仕事をする前から好きで好きでたまらない理想の職業に就ける
人間など、おそらく世界の総人口の5%もいないでしょう。
みんなに好かれる職業(例えば芸能人)は、高いレベルの能力が
要求されるうえ、そういった能力は努力をすれば誰でも
身に付くというものではないからです。

そんな中で、「好きを仕事に」などと言い続けていたら、
どんなことが起こるのでしょうか?

もう、結論は出ています。
「ニート」や「ひきこもり」や「パラサイト・シングル」です。

自分の好きなことだけを選んでいけば、社会に出られなくなる
のが、当たり前なのです。
嫌いなものを食べもせず、面倒な手伝いをやらず、
こわい説教も受けずに育てば、他者の要求に応えるような
姿勢が身に付くはずがありません。

価値観を変えなければダメなのです。
大切なのは、「好きな仕事を選ぶ」ことではなく
「選んだ仕事を好きになる」ということなのではないでしょうか?

「結果への足し算」「結果からの引き算」

2005年05月23日 01時00分55秒 | 子供の教育
この前、ある生徒(小6)の親御さんと面談
する機会がありました。

お父さんが面談にいらっしゃっていたので、
いろいろ話をさせていただきました。
どうも本人が結果にきちんと結びつく努力を
せず、勉強そのものに満足してしまっている
ことが不満なようです。

しかし、本音は別のところにあったらしく、
面談の終盤に差し掛かったところで、
こんなことをおっしゃいました。

「先生、4年生の頃から通わせているんです
から、ここはひとつなんとか学力を伸ばして
いただいて、○○中には合格させてくださる
ようお願いできませんか」

要約すれば、
「お金を出した分、ちゃんと受からせてほしい」
ということなのでしょう。

もちろん、私は合格させるつもりなので、
最大限の努力をさせていただく、と伝え、
具体的な方向性を示し、その面談は終わりました。

さて、考えてみてください。

私は、この後「この子を必ず受からせよう!」
と決意を固めたでしょうか?

正直に言うと、
私はそんな気に少しもなれませんでした。

もちろん、やるべきことをやれば結果を出す
可能性を「高める」自信はあります。
しかし、それと同時に、
あと1、2回のテストで成績が上がらなかったら
何を言われるか、そういうマイナス面が
どうしても頭をよぎってしまうのです。
さらに踏み込んで言うと、こちらのやっている
ことが信頼されていないのだな、と、
いささか不愉快な気分にもなりました。

そのお父さんは、こういうことを私に伝えれば、
私が「やばい、受からせないと!」と思って
より一層のサービスを提供するようになると
思っているのでしょうか?

これは別に自分が努力したくないから言っている
というのではありませんが、
塾の先生に対してああしてくれ、こうしてくれ、
というプレッシャーをかけてくる家庭の子供が、
親御さんの期待通りの結果を出すことは
ほとんどありません。
普通なら、要求をすればそれに応える形で
目標に近づいていくはずなのですが、
どうしてそうなってしまうのでしょう。

子供が手抜きをせず、塾の指導が間違ったもので
ないとしたら、何かしらの形で子供は必ず進歩
しています。
それを一つ一つ、評価してあげるべきです。
このことを、私は「結果への足し算」と呼んでいます。

逆に、何でも結果から逆算して今の状態を
捉えていく姿勢は、「結果からの引き算」とでも
いうべきでしょうか。
このような姿勢のよくないところは、結果が
出るまではどんな努力も「ゼロ」になってしまう
可能性があることです。

文化祭・体育祭シーズンも終わり、受験まであと3ヶ月。
模試の成績がいまいち振るわない。

「結果からの引き算」ばかりしてきた子供は、
この事態をどう捉えるのでしょうか?

それでも、「受かりたい!がんばる!」と思えばいい?

そう思った方に逆にうかがいたいのですが、
子供ってそんなに「ポジティブ」で「タフ」なものですか?
自分のやってきた努力がいまだにゼロなんですよ?
それでも、まだがんばろうと思えるというあなたは、
自分がそれで成功したから相手もできるはずだと
思っているだけなんじゃないですか?

「結果への足し算」というのは、一見悠長なやり方に
見えますが、思いがけない事態に陥ったときに、
努力を継続しやすいのです。
あとは、早いうちから余裕のある計画を立てて、
それに従って一歩一歩進んでいけば、
きっと良い結果に結びつくでしょう。
そうでなくても、第2、第3の目標を達成することが
できる可能性が高いです。
そうすれば、「やってよかった」「努力すれば報われる」
という気持ちを持ちやすいのです。

これに対して、「結果からの引き算」は、結果が出なければ
全てが無になるわけですから、順調に物事が進まなくなった
とき、そこで挫折してしまう危険が高いのです。
そうでなくても、いつも現状に対して不満を持つことになる
わけですから、努力を継続すること自体が難しい状況でも
あるのです。

どちらがいいか、みなさんにはもうお分かりですよね?

「結果を出せばいい」というビョーキ

2005年05月15日 22時46分10秒 | 生き方・人間関係
この前、授業が終わって職員室で机の上を
片づけていたときのことです。

真後ろにいる先生(文系)と、その受け持ちの生徒が
何か話しています。どうやら、今度漢字検定が
あるので、その勉強方法についてのようです。

「他の塾に行ってる子が持ってるプリントがあってー」
その女子生徒が、友達から借りてきたらしいプリントを
取り出して、その先生に見せました。
私が振り返って見ると、なんのことはない、普通の
プリント2枚です。
そして、その女の子が言った言葉が、

「その(プリントを作った他の塾の)先生が、これを
 全部暗記すれば絶対合格できるってー」

だから、あんたもそういう教材を作ってくださいよ、
というような趣旨のことを彼女は言ったと思うのですが、
私は、どうも釈然としません。

上の言葉、どう思われますか?

実は、この言葉、かなり問題が多いのです。

私は、他の塾の先生の作った教材そのものに
いちゃもんをつけるわけではありません。
その先生が、添えた言葉が問題なのです。

「○○を完全に暗記すれば、必ず××できる」
というのは、ふたつの「無責任」によって
支えられています。

ひとつは、
「他にあれこれやらせるのも面倒だから、これを
やらせて済ませてしまおう」という、
「供給側の無責任」です。

そして、もう一つは、
「自分でいろいろ工夫するのも面倒だから、これを
覚えるだけで済ませてしまおう」という、
「受け手の無責任」です。

どんなことでもそうですが、これさえやっておけば
100%大丈夫、という教材や講座や方法論
というものは、絶対にありません。
だから、今自分に足りないものは何か、それを
埋めるために何をしたらいいのか、少しずつ軌道修正
しながら、目標に向かっていくしかないのです。

このことと、優先順位をつけて物事を片づけるというのは
まったく次元の異なる話です。
ほとんど白紙のことを勉強するとき、いきなり分厚い
参考書を隅から隅まで読んで理解しようとするでしょうか。
その場合は、まず記憶の幹になるようなものを作るため、
薄く、基本事項を網羅しているような問題集を
やる方がいいのです。

上に出てくる漢字検定のプリントの先生も、
「まず、これをきちんと繰り返しやって覚えてから、
 まだ時間に余裕があれば、違うものをやる」
という言い方をすべきなのです。

だって、漢字検定の目的は、それを通じて
漢字を覚えることでしょう??
検定に受かったけれど漢字は知らない、というのでは
何の意味もないんじゃありませんか?

それなのに、何でもかんでも「これを完全に覚えれば
受かる」などと言ってしまい、また、言われた側も
それにすがってしまうのは、
過程はどうでもいいから、結果を出せばいいんだ
という考えが頭の中を支配しているからではないですか?

○○を完全に暗記すれば必ず××できる、というのは
勉強でも何でもありません。
何度も書いているので「しつこいです」と言われてしまい
そうですが、理解力や事務処理能力といった
能力を身につけるためにするのが勉強です。
そういう能力を付けようと思って勉強した方が
絶対に受かりやすいのです。

私が教えている子供でも「それって入試に出ますか」
ということをやたらと訊いてくるのがいたります。
もちろん、そういう事項を教材にしているのですが、
教えられたものがそのまま入試に出てこないと
物を覚える気が起きない、という子供は
将来どんな人間になるのか心配になります。
そういう人間は直に結果が返ってくることしか
やりたがらないので、思い通りの結果が出てこないと
すぐに物事を投げ出してしまう可能性が高いからです。

教える側の人間も、安易な結果主義に走ってはいけません。
結果を出す、というのは、教育の目的ではないのです。
なにかの漫画で、学校の先生が

「はいー、この応用問題チェックー、テストに出るぞー」

と言っているコマがあったのですが、
こんなことを言わなければ知識や学問体系を教えることが
できない人は、教師として失格だと私は思います。

塾の先生も、事の性質上、「○○によく出る」などと
言ってしまいがちですが、本当は少し遠回りになるくらいの
勉強をさせる方が、本人のためにも、合格のためにも
いいことが多いのです。
それどころか、何も考えないで、とにかく、「出るぞ」
と言っている先生も結構多いです。
「よく出る」を連発する塾講師には要注意です(笑)。


業務用に使用されている塩の大半は、塩化ナトリウムが
100%近い、いわゆる精製塩なのだそうです。
海水のミネラルがほどんどないのですから、身体にいいわけが
ありません。それにも関わらず、精製塩が使われるのは、
「塩の味がして、安い」からに他なりません。

結果主義も、これと同じことなのです。

とにかく、覚えておいて点が取れさえすればいい、という
勉強は、精製塩と同じように味気なく、つまらないものでしょう。
よしんば、それで結果が出たとしても、苦労して達成したという
ある種の充実感は伴いません。
結果を出そうとしたことが、かえって中身を伴わないという
馬鹿げた事態が起こってしまうのです。

塩ならまだ洒落で済むところがありますが、
人間の生き方がこれでは困ります。
自然塩も、いろんな混ざり物があって初めて、精製塩にない
味わいというのが生まれるのではありませんか。

「最小限の努力で、無駄なく、スマートに結果を出そう」
などと言うのはもうやめにして、
「結果が出るまでの苦労をとことん味わえ」と
言ってやれるようになりたいものですね。
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「仲間がいる」ということ

2005年05月13日 00時13分54秒 | 生き方・人間関係
自分の指示したことをやってこない生徒がいると
私はすぐに頭に血が昇る方です。

人間は思い通りにならない、確かにそうです。

しかし、自分が伝えたい、と思っていることを、
ないがしろにされているように感じ、憤りや
もの悲しさを感じてしまう・・・・
そんな経験は、大人ならば誰しも一度はしたことが
あるでしょう。
私も、せっかくその生徒のためを思っていろいろ
やっているのに、恩を徒で返すような行動に
出られることもあります。
こちらが努力しても、相手がそれを汲み取ろうと
してくれないことは、もっと沢山あります。

どうしたら、そんな「ずれ」を避けられるんでしょうね?

結論から言ってしまえば、
「ずれ」を完全になくす方法は、ありません。

上のような「分かってもらえない辛さ」は、人と
人がコミュニケーションを図る際に、絶対に
生じるのです。
(もちろん、頻度は少なくできる)
これが嫌なら、もう人と会話をしない、接しない
そうするほかありません。
でも、なんかそれも変ですよね。

「ずれ」を100%を避けることはできないのですが
そこから生じる辛さや苦しみを、比較的短時間で
終わらせる方法なら、ひとつだけあります。

それは、「人に話してしまう」ということです。

私が恵まれているなと思うのは、職場が文系理系で
ペアを組んで指導に当たれるということです。
例えば、良くないことが授業であったとき、
「今日○○が嘗めた口を利いてきたので、怒鳴ってやった」
などと、授業後に相方に洩らすことができる、
それだけでどんなに楽になるかわかりません。

精神性疾患のため、2003年度に病気休職した全国の
公立学校教員は、過去最多の3194人もいたそうです。
(昨年12月11日の朝日新聞朝刊より)

もちろん、教師になる人間自体がひ弱になってきているとか
今の学校における問題点は過去のそれよりもはるかに
複雑化しているとか、いろいろな要因はあるでしょう。
それでも、私は教師が追いつめられてしまうのは、
ちょっとした日々の不満を話してしまえる
「仲間がいない」ことが原因だと確信しています。

小中学校の担任制度は、ある子供集団に複数の大人が
関わるということをしていません。
これは、すごく残念なことです。
いろいろな目で見れば、子供のいい面が発見できる・・・
などと、きれいごとを言うつもりはありません。
複数の大人が子供たちを見ることになる一番の利点は
悩みを共有できることです。
「話してしまう」ことができる仲間がいれば、
相手や自分のことを冷静に捉え直すこともできます。

教える立場の人間が、ひとりぼっちで問題と向き合う
ことを避けることができる、これこそが
「セーフティネット」というやつではありませんかね。

歌手の「チャゲ&飛鳥」が長続きしている理由は、一人が
調子が悪くても、もう一人がカバーするという関係が
しっかりできているからだ、と言います。
あんなの、どっちか一人にしてコーラスは雇えば
済むじゃないか、とか思う人もいるかも知れませんが、
飛鳥はチャゲがいなければ、チャゲは飛鳥がいなければ
どこかでダメになっていたかも知れません。

仲間と支え合う、というのは、問題が生じたときに
破綻せずに済むための、もっとも良い方法なのです。

30人学級も結構ですが、ホームルームなど先生が
二人いてもいいんじゃないですかね?
ゆとりだの学力低下だの学級崩壊だの言う前に、
先生が孤立しがちな職務分掌を変えた方がいいと
思いませんか?

みなさんも、仲間を持つようにしてください。
ネット上でもいいのですが、できれば
目の前で話ができる仲間を、です。


そういう意味で、日本人の旦那さんは、もっと
奥さんがたの「仲間」になってあげてほしい
ですね。(もちろん、その逆も言えます)
夫婦がお互いを仲間だと思えるなら、子供は絶対に
歪まないはずです。
そのためには、すかさず「言ってしまう」ことです。
そして、それを「聞いてやる」、たったこれだけ
ですよ。

これを見た旦那様がた、身近な仲間を大切にして
あげてくださいね(大切にしているかたは、さらに)
妻のいない私からの、ちょっとしたやっかみです(笑)
コメント (1)

「日々是勉強」の中で想うこと

2005年05月05日 23時59分53秒 | 生き方・人間関係
いやはや、まったくタイトル通りの状況です(^o^;)


実は、わたくし「受験生」なのです。
もちろん、高校・大学受験ではありませんが・・・。

毎年母の日に、マークシートの試験がある資格試験・・・といえば
分かる方にはわかりますかね?
最後の仕上げということで、連休中はもう勉強一色という
わけです。
去年と一昨年は5月の方にかなり時間をかけてきたので、
「もう大丈夫だ」と言える状態で本番に臨めたのですが、
今年は正直焦りを感じております。

ここ1週間くらいで、「これでは受からない」と思ったり、
もう大丈夫だろうと気持ちが上向きになったり、
精神的に安定しているとは言えませんね。
おそらく、自信のない受験生というのは、こういう気持ちに
なるんだろうな、と、身をもって実感しています。
来年の2月には、もう少し優しい言葉をかけてやれそうかも?

私は、

「努力していない奴が悪い」

という言葉に、何か他人への共感を欠いているような、
鼻につくものを感じることがあります。

最近よく分かったのですが、それは、うまくいかない、
どうしようもない状況を経験したことがなかったり、
あったとしても、そういう経験を忘れてしまうことから
くるのでしょう。
こればかりは、頭でわかっていても難しいものですね。
「腹に沁みる」という言葉がぴったりくる、そんな
ものだと思います。

「苦労は買ってでもしろ」という言葉は、
他人への共感の幅を増やすという面で一番大切な
側面を、多少オーバーではありますがよく言い当てている
そんな気がします。

子供に対しても、そんな気持ちを忘れずにいたいものです。


では、試験勉強に戻ります。
また少しの間、さようなら