日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

ヤンキー先生・・・

2005年04月22日 10時23分38秒 | その他
現在横浜市の教育委員をなさっている
義家弘介(よしいえ ひろゆき)先生・・・といって
知らない人はいないでしょうね。
全国から不登校や荒れている生徒が集まってくる
北海道の私立高校で、社会の先生をしていた頃の話は
「ヤンキー母校に帰る」というドラマにも
なったほど有名です。

実は、義家先生は私と同じ塾講師をやっていたことが
あるのです。
教員志望の塾の先生は結構多いです。
今の私の職場にも、7月に教員採用試験を受けようと
している人がいますしね・・・。


義家先生について思うことは幾つかあります。

一つは、彼のような異色の人材が、教育委員に就任したり
教師1年生に講演を行ったり出来るようになったとは、
日本の教育業界も変化したのだなぁ、ということです。

なにしろ、義家先生は以前、ヤクザのベンツをたたき壊す
ような「武勇伝」を残したほどの「不良」生徒だったのです。
私といえば、物に当たるというときでも、
「これは自分の物だよな」といちいち確認しないと安心して
当たり散らせない(笑)ような人間です。
ものすごいエネルギーの持ち主ですよね・・・。

公教育が期待しているような人物とはとても思えないのですが
挫折した生徒を蘇らせたという実績が認められたのですね。
こういう人が表に出てくるということは、とても
いいことだと思います。

次に思うのは、やはり教師に必要なのは人間性だと
いうことです。

自分でも嫌になるくらい月並みな言葉ですが、本当にそうです。
子供に「昔こんなことがあった」というエピソードを
語ることができないような生き方をしている
人に、教師になってほしくはない、というのが私の実感です。

バイク事故で瀕死の重傷を負ったとき、恩師の先生が病院に
駆けつけてくれて、命を救われたという話は、とても
いい話ですね。義家先生が教師になろうというきっかけに
なった出来事ですが、人は人に支えられて生かされている
ということをよく伝えていると思います。

事故や失敗は、人生においては「イレギュラー」な出来事です。
しかし、そんな出来事が多いほど、話す種が増えるわけですから
教師はイレギュラーな人がやったほうがいいに
決まっていますね。
子供も、話せることが大学受験と教員採用試験の合格体験だけ
だというつまらない人間には教わりたいと思わないでしょうね。


しかし、私が一番強調したい点は、義家先生がことあるごとに
講演でも口にしていることです。
それは、「教師はプロでなくてはならない」ということです。

まず、教える科目について、生徒より知らないというのは話に
なりません。私が受け持った生徒で、

「バブル崩壊まで高度成長期が続いた」

などと教えている社会の先生に3年間習った子がいました。
(一応指摘しておきますが、国民総生産が10%前後
成長していく「高度成長期」は、1973年の石油ショックで
終わっています)

しかも、それを生徒がだれも指摘せず、影であれこれ
言われている・・・というのを聞いて、私は怒りや呆れるのを
通り越して、その先生が可愛そうになりました。

まあ、韓国や中国について、気味が悪くなるくらい
「相手の立場を考えた」記述が続いている教科書で
教えさせられる先生たちは、ある意味みんな「かわいそう」
ともいえますが・・・。

それに、何かを教えるということに、ムキになれない
人間はダメです。
義家先生の授業風景などドキュメントでながすと、
「みんな授業をよく聞いているなぁ」と思うでしょう。
そうではないのです。あれは、義家先生がうまく
「聞かせている」のです。

予習をきちんとやってくる
(これすらきちんとやっていない教員はごまんといます!)
というのは当然として、
話し方、メリハリ、聞いていない生徒への対応のしかた等に
その先生の腕や、熱意が出てくるのです。

ただ何となく「うるさいなぁ」で、何となく形だけの
注意をする・・・これでは、生徒も先生も不幸になる
だけですね。
自分の仕事にプライドを持つのは、大人として
当然だと思うのですが、どうでしょう?

義家先生は、自分で言うだけあって、番組等で見ていても
発言や立ち振る舞いに「隙がない」ですね。
お手本にするには、もってこいの先生です。


ただ、義家先生は、教育業界の中で言えば「偏差値70」
の先生です。そこを忘れてはいけません。

念のために言うと、偏差値というのは相対的な実力を測る数値で、
50が平均ということを表しています。
70というのは、学校で言うと「東大法学部」レベルです。
親御さんや生徒のみんなも、義家先生を見て、
「こういう先生がいたらいいなぁ」という願望を持つと思います。
しかし、実際あそこまで徹底している先生は、なかなか
いないものです。
人生や夢というものを、真正面から訴えても嘘臭い感じが
しない、というのは、それだけすごい人物だということです。

義家先生のような先生でないと習いたくない!というのは、

「僕は長谷川京子か松島菜々子じゃないと付き合いたくない!」

とか言っている若い男の子みたいなものです。(笑)
実現不可能な夢や理想は、求めてはいけません。

私たちに今必要なのは、
偏差値50の先生でもしっかりと実行できるプログラムを
用意することではないでしょうか。
子供と目を合わせられない、あいさつを自分から出来ない
ような先生は、人間としての偏差値が「不合格圏内」なので
さっさとお引き取り願うとして、
普通にやっている先生が少し努力して報われるような
教育の仕組みを作ることです。

たとえば、明治大学の三沢直子教授が、教育制度を
「3-6-3」にしよう、ということを提言されています。
今の6歳と12歳を同じカテゴリに入れて教育するという
のは無茶だということは何となくわかりますよね?
そこで、初めの「3」年間では、社会生活の基本となる
動作(あいさつや口のききかた)を身につけさせ、
その後の「6」年間でいわゆる初等・中等教育を行えばいい
というものです。
家庭で社会生活に通じる教育が出来ていないのが今の
日本の現状なので(なぜそうなのかは、別の機会に述べます)
それを時代に合った形で再編するということです。

上のような提言にこそ、私たちはもっと熱心に
耳を傾けるべきなのです。
「ヤンキー先生」の大活躍は、それはそれで素晴らしいのですが、
教師たるものみな義家先生のようであれ、というのは、
野球少年はみんなイチローのようにプレーできなくては
野球をやっている意味がない、というのと同じです。
天才に頼っていてはダメです。
社会の仕組みに着目しなければダメなのです。

義家先生がこれほどクローズアップされるのは、
それだけ日本の教育制度が疲弊しているということの現れ
でしょうね。仕組みがダメだから、ヒーロー的な
人物に夢を託してしまっているという・・・。

義家先生が、「自民党をぶっ壊す」と言いながら、いまだに
その権力基盤にしがみついている誰かさんと同じような
運命にならないことを祈りたいです。
まあ、知性や人間性において、例の彼とは大きく違うので
そんな心配は無用でしょうが・・・。

義家先生には、お役所勤めという立場になっても、
スマートに暴れ回ってもらいたいです。
義家先生、がんばってね!!

なぜ「勉強」は嫌われる?(その2)

2005年04月13日 12時26分04秒 | 勉強について
私はラーメンが本当に好きで、遠くまで食べに行くことが
よくあります。
福島県の喜多方というところも有名ですが、関東近県なら
何と言っても栃木の「佐野ラーメン」でしょう。

佐野に行くのは今回が3度目です。1度目は失敗、
2度目はやや成功、そして今回は入念に下調べして出陣。

写真は1軒目の「おぐら屋」のものです。
佐野市街から北西に少し行った場所にあるお店です。
店の外の駐車場には県外ナンバーがいっぱいでした。
チャーシュー麺を頼んだのですが、これがおいしい!!
味はさっぱりしています。麺は本物の手打ちでもちもちです。

2軒目は、「とかの」という人気のある店に行きました。
佐野駅の近くで行列している店なので、すぐに分かります。
味は、おぐら屋に比べると少し塩辛い、麺も硬めです。
こちらも充分においしいのですが、
私としては、軍配はおぐら屋に上げたいですね。
(「とかの」に行くまでにかなり時間が経っている上
朝を抜いているので、ハンデはないと思いますが・・・)


さて、勉強をしたくない人には、単純に
「努力をするのが嫌だ」という人もかなり多いのだと思います。
私が担当する生徒にも、そういうことを明示、黙示に訴える
やつが結構います。

こう言うときに、大人としてはどう接するべきなのでしょうね?


まず、自分自身が「なぜ努力をするのか」
明確に知っておくことだと思います。

ここで大切なのは、
「自分のやりたいことや夢を実現するため」
という、よくあるいいわけを持ち出さないことです。
なぜかというと、「自分のやりたいこと」というのは、学校の
勉強とあまり関係がないことが多いからです。

子供に聞くと、特に中学生などは「夢がない」という答えが
返ってくることが多いです。
(最近は馬鹿らしくて聞いていませんが)
当たり前だと思います。
Jリーガーになるとか、パイロットになるとかいう夢が
実現不可能だということは、どんな子供でも中学生に
なるころにはわかることだからです。
あっても、恥ずかしくて言えないということもあるでしょうね。
だから、そういう側面に訴えかけようとしても、
勉強とうまく結びつかないということが多い。

また、「受験があるから」というのも、問題があります。

中3の2学期であれば、少しは言ってみてもいいと思います。
しかし、いつもいつも受験の存在で子供を脅すのは、
やり方としてはかなりダメな部類に入ります。
子供としては、「受かればいいんだろ」とか、
「他の子はまだやっていないから」という風に、言い逃れが
いくらでも出来てしまうのです。

それに、我々のように職業として受験指導をしている人間は
失敗例を沢山知っていますから、今の君の様子だとこうなる
ということを具体的に話せます。
しかし、普通の親御さんはどうでしょうね?
きっと自分の受験を思いだしつつ、
冷や汗もので言葉をひねり出すのがやっとと思います。

一番いいのは、私が再三述べているように、
「受験を通じて獲得するものが今後の生活には必要だ」
という主張だと思います。
復習すると、理解力・事務処理能力、持続力でしたね。


そして、子供に対してねばり強く働きかけることも大事です。
前にも言いましたが、1回言って直ったら奇跡です。
3回4回でも早すぎるくらいです。せいぜい10回、
10回で少しは変化が見えてきます。
それに、一度うまく行っても少し立つとまた・・・
ということがあると思いますから、
何かの節目(通知表を持ってきたりとか、テストの後)
でもう一度話をしてみるというのは大切です。
気の長い話ですが、子供と付き合うというのは
そういうことです。
「何度言ってもわからないなんてあんたは・・・」
などと言うのは、死ぬまでとっておくべきセリフです。

ただし、ここで大人が
「自分は何かよくないことをしているのではないか?」
などと思ったら負けです。
子供はそういう大人の自信の欠如を直感的に感じる天才です。
「ガキになめられてたまるか」という気持ちを持たなくては
いけません。


そんな面倒なことをなぜしなくてはならないのか、という
疑問はもっともです。
しかし、そもそも仕事をして社会生活を営むことは
かなり面倒なことなのです。
あいさつや言葉遣いもそうですし、うまく行かないときの
対処の仕方、我慢の仕方、トラブルの事後処理・・・
面倒なことはいっぱいあります。
それに対応できるだけの心の準備をさせることが、
親御さんや教育機関の役目だと私は思います。

よく、日本の学生は教えられたことは良くできるが、
想像力や自己主張が足りない、という
「もっともらしい」主張をする人たちがいますよね。
だから、受験的な勉強なんてやめて、ディベートだとか
フィールドワークの発表みたいな、もっと知的で、
創造的なことをやれ、と。

私に言わせてもらえば、そんな知的で創造的な
ことこそ、世の中に出て何の役に立つのか疑問です。
まさか、上司に給料や仕事内容のことでディベートを
挑んだりしろ、とでもいうのでしょうか(笑)

そんなことより、人が話をしているときはきちんと
聴くとか、言われたことは期限内にやるとか、
そういうことの方がよほど大事なのではありませんか?
今の学校は、そういうことすら放棄しているのです。
話もろくに聞けない子供に「創造的な」ことなど
できるわけがありません。
社会生活は芸能活動やスポーツではないのです。
やることは、「基本」でいいのです。

創造性や自主性を尊重するという親御さんも
いらっしゃると思いますが、
当たり前のことができてこその自主性なのだと
いうことを是非知っておいてください。
どうも、華やかで創造的なことだけが「仕事」で
地道にコツコツやることが馬鹿馬鹿しいという風潮が
あるようですが、実際の社会にある仕事は
ほとんどが地道な仕事です。
それに耐えうるような準備をさせるのが重要です。

私は、子供がノーベル賞を獲っても、人に
あいさつも出来ず、共同研究者をないがしろにして
自分の功績ばかり評価されたがるような大人だったら、
怒鳴り(殴り)つけて、考えを改めるよう命じるつもりです。
そんなことを言えるのは、親だけです。
親御さんというのは、親というだけで、実はすごい存在なのです。


みんなが勉強を好きになるとは思いませんが、
すくなくとも「これはやっておかないとだめだ」と
思う人が増えれば、嬉しいことです。
私も、自分のできることからコツコツ精進してまいります。それでは

なぜ「勉強」は嫌われる?(その1)

2005年04月07日 10時24分06秒 | 勉強について
理屈っぽい話ばかりでは書いている方も疲れる
ので、ちょっと画像など載せてみました。

日曜日、非常に天気が良かったので、バイクで
栃木県の足利市に行ってきました。
森高千里が歌っていた曲に、「渡良瀬橋」という
のがありました(最近、松浦亜弥がカバーしました)が
渡良瀬橋というのは、実在するんですね。
上のはその時の写真です。
「どうせ、渡良瀬川にかかってる橋だからってんで
適当に作ったんだろー」と思っていましたが、
大間違いでしたね。恥ずかしい限りです。

帰りに隣町の佐野市に行って、名物のラーメンを食べて
帰りました。2軒寄りましたが、おいしかったです。
その画像はまた次回アップいたします。


さて、今回もあまり穏やかなテーマではありませんね。
しかも、2回続きです・・・。しかし、避けては通れない
ところなので、是非お付き合いください。

前回も述べましたが、勉強の利点は、社会に出てから
どんな職業でも必要とされる「理解力」や「事務処理能力」
「持続力」を子供が身につけるのに最も適していることです。
それが必要かどうかは、議論の余地はありません。
「そんなもん要らない」という(中学時代の私のような)人は
ただの天の邪鬼です。

問題は、なぜ必要なのにも関わらず、勉強を好きだという
人間がほとんどいないのか、という事です。
これには、二つの側面があると思われます。


まず、一つは、「学校の勉強が役に立たない」ということです。

「関数や方程式が社会に出て何の役に立つのか」とか、
「英語を知らなくても私は日本人だから困らない」とかいう
よくある弁解を思い浮かべてください。
これらの言い分は、なかなかいい点を突いています。

実用性という観点から言えば、小中学校で教える各科目は
覚えたからと言って収入や地位につながるような
要素はありません。
しかし、特に初等・中等教育の勉強は、その科目の知識
そのものを修得としているわけではありません。
理解力や事務処理能力といった、後々つぶしが利く
能力を、その科目を通じて身につけることです。
これは、前回詳しく述べたとおりです。

しかも、国数英理社というのは、どの学問でも出発点に
なっている「基礎知識」です。もし、何らかの形で
もっと進んだ勉強が必要になったとき、その勉強で
つかんだ自信や方法論は、応用できる可能性が
高いのです。
算数が得意なら、簿記が得意になる可能性が高いという
のがその例です。


はい、わかっていますよ。おそらくここで、こういう
反論が出てくるに決まっていますね。

「自分が好きなものを仕事にすればいいのであって、
そのために役に立たないものをやる必要はない」

子供はよく口にしますね。もっとも、最近は大人でも
こういう考えの人がたくさんいますが・・・。

これに反撃するのは簡単です。
好きなものを仕事にするときでも、勉強を通じて
(この「通じて」というところがポイントです!!)
身につけるものがなければ、仕事として成り立たない
ということです。

それに、夢が実現しなかった場合のことを考えて
いないというのもまずいですね。
「自分は事故らないから平気平気♪」と、任意保険に
入らずに車を運転しているのと同じで、
向こう見ずにも程があります。
事故を起こしてから泣かれても、助けようがありません。

そうは言っても、私は現行の学校教育に間違いがない
などとは決して思ってはいません。
しかし、学校や先生に対して向けられる批判の多くは、
正直言って「的外れ」だとも思っています。

勉強の中身が面白くないとか、実社会で役に立たない
とか、そもそも学校の勉強など不要だとかいった
批判をしても、あまり意味がないのです。
勉強を通じて理解力や事務処理能力を身につけるという
勉強本来の目的が失われているという点を
批判すべきなのです。

私は、塾で教えながら、
「自分がやっていることは、非生産的で無意味な作業
の押しつけだ」などと考えていた時期がありました。

しかし、何のことはない、
そうやって自分に言い聞かせれば、結果が出なくても
いいわけができるから、そっちの方が楽なだけです。
「自分は子供に強制などしたくない」というような
理由でも付ければ、もっともらしく聞こえますが、
勉強をさせることから逃げていただけです。

だいいち、自分の子供時代を振り返ってみてください。
(「現役」の生徒さんは、今現在の自分でいいです)
教師に「やれ」と言われないで、
自分で進んで九九を覚えましたか?
漢字を自分から好きこのんで練習して覚えていましたか?

私は、教育を行う以上、強制というのは避けられない
ことだと信じています。
しかし、それは同時に、「意味のある強制」でなくては
ならないとも思っています。
勉強する目的は、社会に出てからどこへ行っても
恥をかかないような能力をつけることです。
この目的を達成できないような授業のやり方や、
宿題の出し方はすべきではないということです。

そう言うと、「おまえは入試という目的があるから
そんな気楽なことを言っていられるんだ」と言われる
かもしれませんが、学校の勉強には
私が前回に述べたような立派な目的があるのです。
実は、入試の勉強も、遠回りのように見えますが、
結局は理解力、事務処理能力、持続力をつければ
よいというのは、普通の学校の勉強と同じなのです。

親も、教師も、なぜ、それをちゃんと示さないのでしょうね?
恥ずかしいことなど何もないはずでしょう?

それが自信を持って言えないというのは、
自分でもどこかで「勉強なんてしなくてもいい」と
思っているからではありませんか?
そうすれば、子供のふてくされた顔を見なくてすむし、
「物わかりのいい」大人だと思われそうだからじゃないですか?

勉強に意味があるということは、よくわかった・・・
それでも、勉強したくない、という人はいるはずです。
それは、勉強が嫌われるもう一つの側面、すなわち、
「できるなら苦労をしたくない」という心理が働いているから
です。

これは、ただ努力しろ、と言えば済むような問題では
ありません。この問題については、また次回詳しく述べます。





勉強する意味がわからない人に

2005年04月07日 10時10分12秒 | 勉強について
勉強の目的を考える前に、こんなことを考えてみます。

どうして、さんざん学校教育や不毛な受験勉強の弊害が
指摘されているのに、それがいまだに人間を選別する
手段として用いられているのでしょうか?

勉強ができないという自覚のある人には申し訳ないのですが、
それは、勉強が出来る人間の方が、そうでない人間よりも
ある集団や組織の中で力を伸ばす可能性があるからです。


現在社会にある職業の多くは、「理解」と「事務処理」
それに、「一定の持続力」基礎として成り立っているものが
ほとんどだということは、重要なことです。

たとえば、上司からの命令や、客からの注文があれば、
その内容を間違いなく理解しなくてはならない。
それは、たとえ芸能人であっても、スポーツ選手であっても
市役所職員であっても変わらないでしょう。
理解するというのは、「言うことをはいはい聞く」という
ことではありませんよ。
相手は何をしてもらいたがっているのかということを
認識することです。
これが「理解」という側面です。

また、上のような要求があったとき、間違いなく仕事を
しなければ、意味がないのはおわかりでしょう。
時間や期限を守れないようなデザイナーに、仕事を頼む
馬鹿はいません。一度仕事を頼まれたら、望むように
それを仕上げる手際の良さ、素早さが必要なのです。
これが、「事務処理」の側面です。

それに、ある職業を勤めるというのは、同じことの
繰り返しですから、一度だけうまくいってもだめです。
同じレベルのことを実行し続けなければならないのです。
スポーツでも、その集団の中で、飛び抜けて上手でもなく、
天才的なひらめきがあるわけでもないのに
レギュラーでプレーし続けている選手
(日本代表でいうと、福西や中澤)
がいます。
そういった選手は、いつも同じようなことが
できるんですね。だから、使う側としても有り難い。
だから、「持続力」は必要なのです。


つまり、ある職業を滞りなく遂行するためには、
人の話を間違いなく理解し、
それをその通り実行し続ける作業が、どうしても
必要になってくるのです。


もっとも、それを純粋に身につけるということは、
大変なことでしょう。
「何が事務処理か」などと考えて、それを身につけようと
している人などいないはずです。

ところが、勉強をするという行為には、それらの要素が
全て含まれているのです。
テストがあったとすると、そのテストに合格するためには
どの程度の学力が必要なのかをまず理解しなくてはなり
ません。
そして、それに合わせて勉強を間違いなく実行し
続けなければ、いい結果が出ない。
(たまに、そんなことをしなくても合格できる場合があり
ますが、そういうケースは「受かってしまった」場合と
して区別すべきだと私は思います)

もちろん、社会で必要とされることは多岐に渡るため、
受験勉強さえしていれば優秀な人間になれるという
保証はありません。
しかし、勉強でやったことを仕事に「応用」すれば、
なんとなくやるよりも絶対に効率が良くなり、
仕事の質は上がるのです。

だから、勉強がきちんとできるという人は、実際に仕事を
させてみてもうまく出来ることが多いのです。
うまくできないというのは、いろいろ原因があると
思うのですが、ほんとうにきちんと勉強して(教育を受けて)
いないというのがほとんどだと思います。
(この点は、後で詳しく述べます)

もちろん、創造的な仕事ができるかどうかは別です。
はっきり言いますが、世の中の仕事の80%以上は、
想像力がなくても、失敗から学ぶことで着実にものに
できる仕事です。
みんなが芸能人だとか作家になる必要はないのです。

「夢を持たなくては行けない」というのは、
みんなに大人物になれ、という思想を強要しているように
思いませんか。
言っている本人は何にも考えないで言っていることが
ほとんどでしょうが、私にはそう聞こえてならないのです。

そんなことより、私は、「社会に出てから何をやるに
しても人の迷惑にならないような能力を付けろ」という
ほうが正しいことだと思います。
夢や希望通りの職業に就くのは大変なことだし、
それがうまく行かなかった場合、「つぶしが利く」人間に
なることが大切です。


ヨハン・クライフというオランダ人の元サッカー選手を
ご存じですか?
本題からそれるので詳しく述べませんが、ほんとうにすごい
サッカー選手でした。

彼が、バルセロナというスペインの強豪クラブ
(あの鶏みたいな顔の「ロナウジーニョ」がいるところです。
夏にまた来日するみたいですね)で監督をしていたときのこと。
下部組織にいる若い子たちに、よく言っていたことがあります。
クライフのことだから、
「偉大な選手になれるように日々研鑽しなさい」
とか言ったのかと思うでしょう?

ところが、クライフは、子供たちに必ず

「サッカーも大事だけど、勉強もしっかりやっておきなさい」

と言っていたのだそうです。
理由をきけば単純で、サッカー選手は努力に関わらず怪我や
巡り合わせで成功できないことが多いから、ということでした。

20世紀最高のフットボーラーと言われるクライフがですよ?
「夢のために努力しろ」という言葉が、いかに無責任か
わかるでしょう!?

勉強が大切なのは、理解力、事務処理能力、持続力を
子供が(←ここが重要!)身につけるのに一番良い方法だからなのです。
だから、今でも学力試験による選抜が生き残っているのです。


それでも、勉強が嫌いでしかたがない、という人や、
受験教育は間違っているという人もいらっしゃるでしょう。
何のことはない、私も中学校の頃そう思っていた「張本人」です。

私は、今なら中学時代の私に対して、おそらく反論の
余地のない主張をすることができるような気がしています。


そこで、次回は、なぜ勉強が非難されるのかという点を扱って
みたいと思います。



「さあ 夢をつかまえよう!」

2005年04月05日 00時28分22秒 | 社会と教育
タイトルを見て、何かと思われた方もいるかも
しれませんね。
これは、あるサイトに出ていた茨城にある私立中学の
リンクバナーにある言葉そのまんまです。


どうして中学校が上のような言葉を「宣伝文句」にするのでしょうか。

「夢をつかまえよう」という言葉の真の意味は、おそらく、
中学校に入学し、きちんと勉強して学力をつけ、希望する大学に
入学することで夢を実現できる機会を手に入れようということ
なのでしょう。


しかし、私は、上のような理屈が受験生に対してどれだけの
リアリティーを持っているか、かなり疑問に思っています。

私は今でこそ塾講師をやっていますが、中学高校の頃は、
30歳くらいには国際派のジャーナリストになっているという
「予定」を立てていました(笑)。
それというのも、私の父が落合信彦という作家が大好きで、
彼の著作の話を私によくしていたからです。
落合氏は、父と同じ東京の下町で裕福でない家庭に生まれ、
フルブライト奨学生としてアメリカに留学、オイルビジネスの
世界を経て国際ジャーナリストに転身した方です。
私も彼のような生き方に憧れ、アメリカに留学したいと
思っていました。

ところが、今の私は塾講師をやっています。
実は、本当にやりたいことがないわけではないのですが、
(残念ながら国際ジャーナリストではありませんが・・・)
自活していかなければいけない以上、簡単に仕事を
やめるわけにはいきません。
本当に自分がやりたいことをやれない自分は「負け組」なの
ではないか、などと、ここ数年かなり深く悩みました。

こんな私だからこそ、子供たちに受験について話すとき
必ず心がけていることがあります。それは、
「ある学校に入れば、夢や希望が実現できる」などと
口が裂けても言わない、ということです。


そもそも、日本の学校教育は、子供たちに、
「夢は努力すれば必ず叶う」とか「頑張ればなりたい自分になれる」
などと吹聴しすぎなのではないでしょうか。

夢や希望を実現できた人というのは、正直なところかなり
恵まれた人間であると言うことは間違いありません。
たとえば、それは才能であったり、それを育んだ家庭環境であったり、
夢を目指して何かをする経済的余裕であったり、
時には、時代の流れであったりします。
こういったものが、「努力すれば必ず」得られるものでしょうか?

また、ある程度恵まれていて夢への挑戦権があったとしても、
そこには同じ目標を目指す者との競争が必ずあります。
努力すれば確かに勝つ確率を上げることはできますが、
必ず勝てるとは限りません。
神話のトロイを発掘したシュリーマンは、それまでに築いてきた
財産を全てトロイのために費やしましたが、もし彼がそれを
実現できなかったり、誰かに先を越されていたりすれば、
彼はただの無一文のドイツ人で終わっていたはずです。

つまり、夢を実現するというのは、
そもそもある一定の条件が備わらなければできないことであり、
もし仮に条件を満たしていても、かなりの危険や犠牲を伴うものなのです。


そのようなリスクは、現代の日本では以前とは比べ者にならないくらい
大きくなっているように私は思います。

高度成長期を生きてきた人々は、「努力すれば夢や希望は実現できる」
という言葉に、ある程度リアリティーを感じていたはずです。
なぜなら、その頃は高学歴の人間がそれほど多くなく、
既存の業種に参加するにしても、新しい分野を開拓するにしても、
それほど激しい競争には晒されずに済んだからです。

ところが、現代は「低成長」「ボーダーレス」「グローバル」な
時代になってしまってします。
企業は利益を出すためにリストラに余念がなく、
さらに安い中国製品や外資系企業と競争するために、個人が
能力をつけて育つのを待つ余裕がなくなっています。
その一方で、高度な産業化が進んだせいで、新しい分野を
開拓しようにも、求められるアイディアや能力が高度成長の頃と
比べものにならないくらい高レベルなものになっています。

要するに、今の時代は、高度成長期やその少し後の時代をを
生きてきた親御さんたちの若い頃より、夢を簡単に実現できない時代なのです。


それにも関わらず、大人がつい子供に対して、「夢を持とう」と
言ってしまうのは、勉強という苦行をなんとか正当化したいと
思っているからではないでしょうか。


勉強や教育は、ある目的を達成するための手段に過ぎません。
しかし、その目的とは、決して「夢の実現」ではないのです。


次回は、そのへんについて詳しく述べていきたいと思います。
勉強の目的について悩んでいる生徒の皆さんや、
それを見て更に悩んでしまっている保護者の皆さんには、
必ず何かの役に立てると思います。
是非ともご覧ください。それではまた・・・


新学期に行くならこんな塾(その2)

2005年04月04日 01時10分56秒 | 塾・仕事関係
もうすっかり春ですねー。外はただ今春の嵐・・・。


さて、前回の続きです。実際に塾に見学に行ったときの
チェックポイントを紹介しておきます。


まず、校舎に入ってすぐにわかる「ダメな塾」の
見分け方があります。
それは、「タバコ」です。

タバコが体に良くないことは、誰でも知っていることと
思います。
しかも、匂いも非喫煙者にはあまり愉快なものではありません。
(子供は非喫煙者のはずです・・・)
それにもかかわらず、タバコを吸うことが許容されている
塾は、客商売としての自覚がそもそもありません。

なお、大手の塾のほとんどが校舎内では原則禁煙にしている
のが現状です。それにも関わらずタバコの匂いがしたら・・・
その塾(校舎)はお勧めできないですね。

その他はどうでしょう。
「書類が乱雑に積んである」というのは、あまり参考になり
ません。塾の仕事は教材その他の書籍・書類をたくさん使う
ので、一般企業に比べてどうしても書類を積むことが
多くなります。
(私個人としては、不要な紙までとにかく取っておくという
のは、要領がよくないことだとは思いますが)
また、「教室が薄汚れている」というのも、悪い塾とは
一概に言い切れないところがあります。
新規に開校した校舎はきれいなのが当たり前ですし、
古い校舎はその点はどうしても見劣りします。
ここは、あまりこだわらなくていいでしょう。


職員室に生徒がいる場合もあるでしょうが、そのときの
様子も参考になります。
以下のポイントに複数個当てはまるなら、「要注意」です。

①生徒がうるさくしていても(責任者以外の)
 先生が注意しようとしない

②先生が(じゃれあい・ふざけあいとして)生徒を叩く仕草
 などを頻繁に見せる

③職員室内で生徒が平気で飲食している

④先生が生徒に(こんにちは・さようなら等)
 あいさつをしない

⑤生徒が複数いるのに活気がない

①②③があてはまる塾は、おそらく生徒に対して指導力を
発揮できていない可能性が高いです。いったん生徒が
騒ぎ出すと、授業の収集がつかなくなるのが目に浮かびます。

④⑤は、先生が生徒に対してきちんとアプローチをしていない
可能性が高いです。つき合いも事務的な対応に終始するでしょう。
塾(や学校)で勉強する意味は、講師が相手の顔色等を見て
修正を繰り返すことができたり、講義で足りないところを発問や
個別の対応でカバーできることにあります。
生徒と付き合えない先生が多い塾に行くのは、高いのに
巻き戻して再生が出来ないビデオ教材を買っているようなものです。


実際に担当者と相談する段階になった場合はどうでしょう。
ここは、実はその塾の姿勢が顕著に現れる点です。

責任者やそれとおぼしき人物が強引であるとか、何らかの
圧力をかけてくるような気配がある場合は、その後の
つき合いも一方的に押し切られることが多くなるのです。
私の知り合いが、某大手塾に話をききに行ったとき
カウンターに座った途端に、何人かの社員に囲まれてしまった
という経験をしました。こちらから聞いていないのにいろいろ
質問を受け、危うく入塾するという言質をとられそうになった
らしいです。
こういう塾は、夏期講習や単科講座の「営業」も相当熱心に
(要不要抜きに)やってくるおそれがあります。

次に、教育内容についての話が、あまりにも理想的である場合は
要注意です。
親御さんからすれば、塾内のテストで偏差値が上昇し、学校の
定期テスト対策もぬかりなく行い、わからないときは徹底して
教えてくれて第一志望に合格させてくれる塾がいいのかもしれませんが、
そのような塾は、まずありません。だいたいは、定期テスト等の
学校の成績関連(内申)対策か、受験指導か、どちかかが優れて
いるのが普通です。
これは、人的物的資源が限られている以上、やむを得ないことです。
それにも関わらず「何でもやります」という塾は、お客に対して
不誠実極まりないといえるでしょう。

それよりも、「できることはここまで」ということをはっきり
言う塾の方が信頼できます。


さらに、チェックした方がいいのは「クラスの人数」です。
塾は人を集めてこそ経営が成り立つので、本音ではひと教室に
沢山の生徒を詰め込むようにしたいはずです。
もちろん、そうなると教えている人間は個々の生徒の把握が
難しくなります。それに、生徒も質問などがしづらいでしょう。

私が埼玉にいたとき、有名な中学受験の塾から生徒が移って
きたので、話を聞いたところ、その塾の大宮校はひとクラス
40人もいたそうです。これでは予備校と変わらないですよね。
だいたい、文系・理系の担当がそれぞれいたとして、
管理できる限界の人数は30人でしょう。
少なければ少ないほどいい、というわけでもなく、
適性人数としては、15~22、3人程度だと思います。
(あまりにも人数が少ないと、今度は良い子から学べる
という塾の良さを発揮できなくなる恐れがあります)

もっとも、新規に開校した校舎は、人数が少ないのが当たり前
なので、初年度はよかったものの、次は・・・ということが
よくあります。また、担当も新規開校ということで、平均値より
熱心に指導しがちです。
上のような点は、割り引いて見た方がいいです。


あとは、「展望」をきちんと示してくれるかどうか、これは
かなり大きいです。

これは特に中学生の場合がそうなのですが、塾に入って
しばらくすると、部活動や本人自身のやる気のなさによって、
塾が本来予定しているような家庭学習などをこなせなくなって
くる場合が多いです。
そんなとき、まず何をすればよいのか。どの程度までは
目をつむればよいのか。また、塾としてはどのように働き
かけるのか。そういった点をきちんと説明してくれる塾は、
本人がやめそうな状況になっても誠実な対応が期待できる
でしょう。
その担当者自身が授業を担当しているクラスを例にとって
具体的に話してくれる場合も期待できます。

逆に、うまく行った場合の話ばかりするようでは
信用が出来ません。私の経験から言えば、1年間塾に通えば
問題点が(複数)生じるのが普通なのです。それを予め
話せないようでは、脳天気にも程があります。

できる先生というのは、先々の見通しを立てて仕事をしている
ものです。それを教室の責任者が示せないとなると、
行き当たりばったりの運営になっている可能性が高いと
いえます。
そういう塾は「やめたい」と言い出してから、
逆に過剰なまでのサービスをしてくるでしょうね。もちろん
問題の根っこはそれ以前の対応にあるのですが・・・。


以上のポイントは、大手の塾の場合、校舎校舎
(というより、そこの責任者)によって違うのが実情です。

ぜひとも、実際に足を運んで確かめてみてください。