里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

男達の大和(2)

2006年01月15日 | 歴 史
[映画を見た感想]

辺見じゅん(原作者)さんは
「戦争をテーマにすると ”反戦映画になっているか?”と議論になるが、反戦は言葉で
 語る事ではない」
「この作品には紛れも無く戦争に対するきちっとした回答が出ている」
 と話されているらしい。

確かに、
約15歳の少年達まで戦争に動員した事や護衛の戦闘機も無く、しかも片道の燃料だけ
で沖縄の米軍艦船と戦闘を交え、その後陸へ乗り上げてなお戦えと言う命令は戦争の理
不尽さを表しているし、
最後に出撃する時の家族との別れ、特に大和の最期の戦闘シーンは人間や艦体が到る
所で吹き飛ぶほど悲惨で涙を誘い、こんな戦争をしたい者はとても居ないと思わせる程
だった。

しかし、一方で
日本の朝鮮併合や中国侵略がアメリカの禁輸(当時石油、鉄、機械の2/3~3/4を依存)
を呼び、それが戦争の原因になった事は一言述べただけで、沖縄に迫った米軍から日本
を守る事だけが強調されている点については少し疑問が残った。

しかも、生き残ったかつての年少兵は
「死にぞこなって60年悶々として生きて来たが、今ようやく生きる意味がわかった」
と言うだけで、何が分ったのか言わず、何をするのかも話さない。

誰だって自分の国が外国から一方的に攻められたとしたら、愛する人や友人を守る為に
は自分の命をかけても戦うだろう。 だが、その情緒的な思いが、最期に臨んで大尉が
「戦争と言うものは有利な武器を持たなければ勝てない」
「時代遅れの戦艦や精神主義では勝てない」
「もはや日本が救われるのは敗れて目覚めるしかない」
と訓示した事と合わせて変に捻じ曲げられてしまうと、
「今度は勝てる武器で(侵略戦争を)戦おう」 と言う事にもなりかねない。

わが国も最近、憲法9条改訂だの、国を守る気概を持てだの、外国への派兵だの、様々
なきな臭い議論が本格的になって来たが、又ぞろかつての暗い時代に逆戻りしないよう
に心して掛かるとしよう。

男達の大和(1)

2006年01月15日 | 歴 史
先日息子が 「映画でも見に行ったら!」 とチケットをくれた。
見ると”男達の大和”だ。 今、広島県では尾道のロケ地(実物大の大和あり)、
呉の大和ミュージアム( 1/10 モデルの大和あり)が人気なのだそうだ。

映画は、二つの点で印象的だった。
一つは、若者を主人公にした点である。
これまでの映画では、例えば”連合艦隊司令長官、山本五十六”と言ったように上官を主
役にする事が多かったけれど、この映画では海軍特別年少兵(注)を主役に、彼等の面倒
を直接見る下士官を配し、彼等若者があの戦争をどのように考え、どのように戦ったか
を描いた事である。

もう一つは、ストーリーの導入とその後の展開の仕方が巧妙な点である。
先ず最初に、枕崎に訳あり気な一人の若い女性が訪れ、
「枕崎西方200kmまで船を出して欲しい」と懇願するのだが、誰もが「危険だから」
と言って引け受けない。
その中で訳あり気な老漁師が、女性が「大和下士官の娘」と名乗った事から引き受け、バ
イク欲しさにバイトで乗り組んだ15歳の若い漁師と一緒に、”明日香丸”と言う小さな
おんぼろ漁船で出航する所から物語が始まる。

やがて老人の脳裏に、かつて海軍特別年少兵であった60年前の記憶が鮮烈に蘇って
来、場面が一転してその記憶の世界へタイムスリップし、その年少兵達が大和に着任す
る場面に変わる。

そして、年少兵達は激しい訓練の後、昭和19年レイテ沖海戦に出撃し壊滅的な打撃を
受け帰国、昭和20年3月敗色濃厚な中、護衛の戦闘機も無く片道だけの燃料を積み、
沖縄防衛の為に最後の出撃をし、枕崎西方200km地点で米軍艦載機の猛攻撃を受け
沈没。

一方の漁船もその地点に到達し、やがて物語りは大団円を迎える。

女性は、「お義父さん帰りたかった大和よ」 と持参した遺骨を散骨するが、養父は、この
老人のかつての上官(下士官)で奇跡的に生き長らえたものの、その事を悔いその罪滅
ぼしの為に戦後十数人の孤児を育てたのだ。

老人は、
「大和で仲間と死を共に出来ず、60年間悶々と生きて来たが、今やっと生きる意味が分
 かった」 と叫ぶ。
老人も、かつて沈没しかかった大和で「最後まで一緒に戦う」と主張したが入れられず、そ
の上官達が海に放り出してくれたお陰で助かるが、帰国して見ると
「戦争が済んだら船を買って一緒に漁師をしよう」「名前は明日香丸と付けよう」
と話していた幼馴染の彼女は原爆で死亡しており、すっかり生きる意味を見失っていたのだ。

15歳の少年は、船内での会話から同年齢の少年達のかつての凄まじい経験を聞き、何
かに目覚めて力強く舵を握り帰途に着き、終幕。

若者達の家族を守ろうとしたひたむきな気持ちや女達との別れはさすがに涙を誘い、トレ
ーにポプコーンと飲み物のカップを載せ人前を傍若無人に往来きしていた若い観客から
もすすり泣きが聞こえる程だったので、一見の価値はあった。

(注)海軍特別年少兵
   1942年、中堅幹部養成の為に、満14歳の少年を志願によって採用開始。
   当初は3年間の基礎訓練後、海軍兵学校に学ばせる予定であったが、戦局の悪化
   に伴い、1年半で実戦に送り出した。
   1942年~1945年の4回募集され、11200人が教育を受け1期生は1944年
   (昭和19年)に実戦に投入され、約1/3 が戦死したと言う。