goo blog サービス終了のお知らせ 

敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

職場の車庫焼失。 デマの発生

2008-07-24 01:05:26 | 日記 戦中編
昭和二十年五月二十七日 晴一時雷雨 一、二、三直出勤
 
 一昨夜の焼失地域は判然としないが新宿辺がひどいと言う話だったので米を持って出勤した。東上線で池袋まで行き歩いて大久保行った。 雑司ヶ谷五丁目の先が残っていたが千登世橋まですっかり焼けていた。 学習院下の停留所右側、製薬会社の構内にB29一機撃墜されていた。 大久保一丁目のロータリーから両側が四月十三日の空襲で残ったのが すっかりなくなって居た。前田公の屋敷も車庫も電車も車庫の周囲も一切焼けていた。 其の憎い徹底したやり方に呆然とした。

 二十五日帰宅する時作業服二枚洗濯のため持ち帰ったのが焼失を免れたが、
石臼1個、毛布一枚、認印及び実印、剃刀二本、眼鏡、ハンゴー、鍋二個、「大日本歴史」二冊 等々焼失した。

 夜、鉄工場の土間に寝た。茶を飲むにも茶もやかんもない。食器を洗うにも水もない。貯水槽から手押し消化ポンプで上げて濁った水で洗うより外ない。 寝ていると風が吹き込んで寒くて目を覚ます。 夜中火を焚いてあたたまって又寝た。
 
 昼近く、車庫事務所の裏側で焼け跡を片付けて居る人々が一斉に万歳をやっている。 どうしたのかと思うと、沖縄の敵が無条件降伏したと言うデマで万歳をしている事が判った。 又出た。 此の前の空襲の前にも此のデマが出た。 同じデマでも此の種のデマはよいかも知れない。 新聞もラジオも無いと斯様なデマが飛ぶが此れが悪いデマでもあれば洵に困ったものが出来る。良いにせよ悪いにせよデマは困る。

 夕方車庫の二階から南側高台で焼け残りの木を高く積んで火を焚いているのが見えたが死者の火葬ではないかと思われる。



板橋駅等が焼失

2008-07-24 00:01:05 | 日記 戦中編
昭和二十年五月二十六日 曇時々雨 公休
 
 昨夜遅かったので八時頃まで寝ているともう警報発令。ラジオが聞こえないので情報が少しも判らない。 南の方で高射砲の音が聞こえたから敵機が入ってきたらしい。

 朝出て行った長男が省線が全部駄目だと言って池袋から引き返してきた。
都電が動いているかと見に行った長女の話では、板橋駅も焼け、九中の隣の第四小学校とその裏、元終点の板橋外科等が焼けた。憲兵隊の左横。八丁目の氷川様の本殿も焼けとの事だった。 
 都電が通っていなければ明日は弁当を持参して歩いて出勤せねばなるまい。
 夜、試みにスイッチを入れてみると電灯が来た。ラジオが聞こえる。 急に気分が明るくなった。

又、焼け残った

2008-06-23 23:00:55 | 日記 戦中編
昭和二十年五月二十五日 晴 明け

 夜十時少し過ぎ警報発令。 情報はB29数編隊南方洋上を北上中だと言う。
起きて準備をして居ると十時二十分空襲警報になった。 編隊は八丈島から列島に沿い北上、一部は房総南部より侵入した。 南から北へ進行してくるので敵機は皆頭上を通るので気味悪くて困った。 南の方。西南方に早くも火の手が上がった。
 後半の編隊は駿河湾より侵入、東進して帝都に入り同じく焼夷弾攻撃をした。
始めは南の方遠くを東進していたが、段々北に寄り 十二時過ぎ頃からは頭上を通るようになった。そして焼夷弾が光藤工場付近に落下、火災になった。 更に十丁目停留場付近、兵器廠付近等、数ヶ所に火災が起きた。
 はじめ南の風が十米くらいあって木の枝をゆすって居たが、後西風に変って十五米くらいになった。 光籐工場付近に落下した焼夷弾は全く頭上で炸裂したので風がなかったら 或いは私の家か町会事務所付近に落ちたかも知れない。 風向きが変ったのは私一個のためには洵に有難い事だった。 
 敵ははじめ焼夷弾だけだったが、十二時過ぎには爆弾も混投した。 一時に警報解除になったがその後も遠くで爆発音が沢山聞こえてきた。時限爆弾を使用したらしい。
十一時頃から電燈線が駄目になったらしくラジオが聞こえなくなった。 また当分電燈のない生活をせねばならない。
 又、有難い事に焼け残った。 いつまで残って居る事か。







近くに焼夷弾

2008-06-02 23:46:54 | 日記 戦中編
昭和二十年五月二十四日 晴 二、三直出勤

 午前一時警報発令、すっかり準備して居ると一時三十分空襲警報発令。
放送で敵数目標が駿河湾より本土に入り東北進して帝都に侵入。焼夷弾攻撃という。
南方遠くに大きな火災が起きた。 私の家の近くにも二ヶ程焼夷弾を投下したが一ヶは中板の焼け跡に落下して無事、もう一ヶは八代パン製造所の裏に落下して火災になった。 齋藤病院やアパート等が焼失した。
 今夜は随分沢山の敵機が撃墜された。 火の玉となって落下したのが十機程あった。 
 東天が白む頃警報解除になった。 情報放送に依ると二百数十機来襲したと云う。 
 
 夜、大本営発表があった。来襲敵機二百五十機、その内帝都に侵入したのが二百十機で、 撃墜二十七機、撃破三十機だと云う。
 尚、今回 荏原区、品川区、大森区等が大きく焼け、泉岳寺も焼失したと言っていた。


 

蕃茄(とまと)苗

2008-06-02 23:03:47 | 日記 戦中編
昭和二十年五月二十二日 曇時々小雨 明け
 
 帰途、中板でJ氏の妻君が焼け跡を耕している。 恭菜(ふだん草)の苗を上げようと云って二十本程持っていった。
 午後練馬のY氏の家に行き蕃茄の苗五十本分けて貰って来た。 一本二十銭であった。 新宿辺りで細いのを一本二十五銭で売ってるが飛ぶように売れる。
焼け跡や疎開跡を畑にするので苗や種が売れるので高くなった。 此処へ来た時は一本二銭位だった。 高くなったものだ。


  
 

国民学校生徒が斬り込みと報道

2008-05-22 00:10:34 | 日記 戦中編
昭和二十年五月十二日 雨後晴 二,三直出勤
  
 出勤後間もなく(十二時三十分)警報発令。西方よりB29 一機侵入、東方へ行く音が聞こえた。

 五月八日欧州戦は終わった。 日本の大詔奉戴日は独逸の歴史の終わった日である。

 慶良間諸島の国民学校生徒が先生から手榴弾を渡され斬り込みを敢行した報道を聞いて思わず泣いた。 之あるが故に日本は強いのだ。 それにしても国民学校生徒だけにあまりにも悲壮である。 人前で涙など見せる事を恥と心得ていた私も涙を止める事が出来なかった。 我々ももっと心を引き締めねばなるまい。 

ソ連軍ベルリン市に突入

2008-05-08 23:40:12 | 日記 戦中編
昭和二十年四月二十四日 晴 二、三直出勤
 
 二十日配給の米が昨日三日も遅れ、しかも朝から行列を作って昼過ぎまでかかったと言う。 その米が玄米なので今朝起きるとすぐ搗いた。 その後畑の大根の間引きを始めると間もなく情報が出た。
 八時半ごろ空襲警報発令。 敵二個編隊約三十機が静岡地区より京浜西北方に入ったと言う。 そして爆弾の炸裂音が聞こえ戸障子がびりびりと響いた。 後続編隊も伊豆半島より侵入、京浜西北、及び北部を爆撃した。

 ソ軍がベルリン市に突入したと言う。 大変な事だ。世界の動きが見ものである。

 出勤しようと思い中板駅に行くと 「省線、山手線全線不通 当分見込みなし」と書いてある。引き返し板橋区役所前からバスでお茶の水に出て、駿河台下から都電で新宿に出て出勤、十一時に出て到着が一時だった。  

2008-05-01 23:39:48 | 日記 戦中編
昭和二十年四月二十一日 晴 二、三直出勤
 
 空襲の騒ぎで桜も何もいつの間にか散ってしまった。 しかし春は春だ、庭の山吹が今を盛りと咲いている。
 疎開に行った三女が戸袋の下に植えた大根が花が咲いてきた。空襲さえなければよい気候なのだが、毎日のやうに B公と P公とが来る。

 二十日配給の米が未だ来ない。困ったものだ。

電気がついた

2008-05-01 23:25:25 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十九日 曇 明け
 
 朝から曇って南風が強くいやな日だった。
九時五十分空襲警報発令。情報は小型機十機来襲したと言う。 やがて三機ほどの
P51が飛んで来て代々木方面を爆撃して東南方に去った。
十一時頃解除になったので帰宅のため新宿駅に行ったが一杯の人、到底乗れないと思ったので都電で駿河台下に出て、お茶の水からバスで板橋区役所前まで来た。
 途中焼け跡のひどさをつくづくと見た。巣鴨の電車通りから妻の兄の家が見えていた。

 帰宅してから、庭の穴が大体出来ていたので 瀬戸物を入れて埋めた。 これで大分荷物が少なくなった。

 昨夜から電燈がついたので今日放送を聞く事が出来た。 今まで情報が入らなくて全く頼りなかった。