昭和二十年三月十三日 曇り 二、三直出勤
朝食後、母の骨を預かってある日暮里の寺に行った。
骨を受け取って、次男(私)、三女の疎開と一緒に郷里に埋葬するつもりである。
省線で鶯谷までは左程目立たなかったが、坂本二丁目に行くと浅草まで一望であった。金杉まで行くと日暮里、三河島一円は全部焼野原、全く震災と仝一である。
知っている道を通って行き寺の所在地は判明したが、全く骨の行方はわからない。 焼け跡を掘ってせめて壷に書いてある名前でも残っていたらと思ったが、無数の骨壷が粉々になって散乱しているばかりである。
暫く考えながら四方を見廻していると、防火用水にどうも何かかくしてあるらしくトタン板を沢山かぶせてある。 それを取り除けると母の壷がこわれてはいたが、年月と名前がはっきりしたのが出てきた。 それを近所で焼跡片付けしている人に立ち会って貰って持ち帰った。
昨夜、名古屋方面にB29が来襲、東京のようなやり方をして相当の火災が起きたと放送した。 撃墜二十二機、損害を与えたものが六十機だという。よい気味だ。
朝食後、母の骨を預かってある日暮里の寺に行った。
骨を受け取って、次男(私)、三女の疎開と一緒に郷里に埋葬するつもりである。
省線で鶯谷までは左程目立たなかったが、坂本二丁目に行くと浅草まで一望であった。金杉まで行くと日暮里、三河島一円は全部焼野原、全く震災と仝一である。
知っている道を通って行き寺の所在地は判明したが、全く骨の行方はわからない。 焼け跡を掘ってせめて壷に書いてある名前でも残っていたらと思ったが、無数の骨壷が粉々になって散乱しているばかりである。
暫く考えながら四方を見廻していると、防火用水にどうも何かかくしてあるらしくトタン板を沢山かぶせてある。 それを取り除けると母の壷がこわれてはいたが、年月と名前がはっきりしたのが出てきた。 それを近所で焼跡片付けしている人に立ち会って貰って持ち帰った。
昨夜、名古屋方面にB29が来襲、東京のようなやり方をして相当の火災が起きたと放送した。 撃墜二十二機、損害を与えたものが六十機だという。よい気味だ。