敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

お寺、焼失 

2008-01-31 22:37:40 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十三日 曇り 二、三直出勤
 朝食後、母の骨を預かってある日暮里の寺に行った。
骨を受け取って、次男(私)、三女の疎開と一緒に郷里に埋葬するつもりである。
省線で鶯谷までは左程目立たなかったが、坂本二丁目に行くと浅草まで一望であった。金杉まで行くと日暮里、三河島一円は全部焼野原、全く震災と仝一である。
 知っている道を通って行き寺の所在地は判明したが、全く骨の行方はわからない。 焼け跡を掘ってせめて壷に書いてある名前でも残っていたらと思ったが、無数の骨壷が粉々になって散乱しているばかりである。
 暫く考えながら四方を見廻していると、防火用水にどうも何かかくしてあるらしくトタン板を沢山かぶせてある。 それを取り除けると母の壷がこわれてはいたが、年月と名前がはっきりしたのが出てきた。 それを近所で焼跡片付けしている人に立ち会って貰って持ち帰った。
 昨夜、名古屋方面にB29が来襲、東京のようなやり方をして相当の火災が起きたと放送した。 撃墜二十二機、損害を与えたものが六十機だという。よい気味だ。

東京大空襲 ② 

2008-01-29 00:04:16 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十日 晴 二、三直出勤
 昨夜の火事は何処だか判然しない。
妻は巣鴨の兄の家がどうかと言って出かけたが、間もなく電車に乗れないと言って帰ってきた。志村線の電車が通っているので安心し、出勤は都電で行った。
 電車に乗ると何処が焼けた、何処も焼けたと人々の話で大体判った。 肴町も可也大きく焼けているのが電車から見えた。街に被災者がポツポツ見えた。春日町まで行くと真砂坂を下って来る人々は殆ど被難者だった。水道橋もお茶の水の方から来る多くの被難者が見えた。
 都電の車庫は、柳島、錦糸堀、城東、南千住の全部、三ノ輪車庫が一部、都庁が全部、交通局が一部焼けた。 
 本所、深川、浅草等は殆ど全滅だと言う話である。 物知りの話によると被災者八十萬だと言う。相当の死傷者もあったらしく、車輌係長が柳島へ行こうとしたが、街に死体が多くて自動車では行けなかったとの話である。
 夜になっても大久保から見て東南の空が紅かった。まだ燃えているが、今晩にも敵機がくれば良い目標になって困ると思って居たが幸い来なかった。

東京大空襲

2008-01-22 00:52:06 | 日記 戦中編
昭和二十年三月九日 晴れ 一直出勤
 今日は晴れて南風が強く砂塵をまいて室内は暖かいが外は寒かった。
 夜、十時半頃飛行機の音がどうも友軍機ではないらしい。 B29の音のやうであるが方向が違うので不審に思いつつ床に入って居ると警戒警報発令になった。  身支度して防空頭巾も背負って又、床の中に入って情報を聞いていると房総東南海上に数目標ありと言う。 間もなく空襲警報発令になったので二階の戸を開くと南に火の手が上がって空が紅くなって居た。全部の家族を起こして待避させた。 敵機二機位づつ分散して南より北へそして頭上を通過して北方から東へ行く。 次から次へ二機位ずつ来ては火の手を目当てに焼夷弾を落として行く。 南から東へかけて一面の火の手、震災さながらであった。
敵機は低く飛んで火に照らされて大きく見え面憎かった。 東で一つ敵機が火の玉になって落ちるのを見た。 
盛んに高射砲を撃つ。 暫くするとあちらこちらでカンカンと破片の落ちる音が、丁度大粒の雹が屋根にあたる音のようだ。 
西の上板橋方面も焼夷弾を落とされ炎々と燃えた。
 荷物を一旦柿の木の下に運んだりしたが三時頃空襲警報解除、仝半頃警戒警報も解除になった。
 次男(十歳、私)や三女(八歳)にも二階から火事を見せた。 お前たちが田舎に行くのは(山形に疎開)うまいものや果物を食べるためではない。田舎で丈夫に育ってこの仇を討つためだと教えた。 判ったかどうか。


巣鴨車庫が被爆

2008-01-08 00:49:56 | 日記 戦中編
昭和二十年三月四日 曇 二,三直出勤
 B29が来たと言う放送だと言って起こされた。七時三十五分頃警戒警報発令、八時頃空襲警報発令になった。 
いくつもの編隊が雲上を過ぎていった。今日は曇って寒く飛行機の在りかが不明で音で見当をつけるより外なくいやな日だ。
 今日は概して北側を西から東へ行ったが一編隊が南側を通過していった。三回目に来た編隊が爆弾を投下した。 急行列車の走るような音が聞こえて間もなく東南方に四ヶ所火の手が上がった。バリバリと言う音が聞こえるのであまり遠くはあるまい。
 出勤の時。十丁目の停留場に行くと沢山の人が待っている。 警防団の人が通り掛り電車は来ませんよというので歩いて板橋駅に行って省線で出勤した。 途中で色々の話が耳に入ったので巣鴨付近だなと思い出勤すると、巣鴨の車庫事務所がやられ、一人死亡し二人重症だと言う。大塚車庫に電話が三時頃漸く通じて大体判明した。
 巣鴨車庫は、事務所外の民家に爆弾が落下して、事務所、材料庫、詰め所等の一棟が倒壊したと言う。
 尚、巣鴨市場付近、豊島中学、滝の川停留場付近、新庚申塚付近、西巣鴨停留場付近、染井天理教会付近等に落下したとの話だった。
 編隊で来た日の夜はいつも小数機で来るので今夜も戸思って居ると案の定やってきた。十二時十二分警報発令。一機ずつ分散で七機ほど来た。不思議にも照空灯の照射も高射砲の発射もせず全く寂としていた。 二機ほど頭上をぐるぐる廻っていた。数多く来たが投弾した様子もなかった。 

三月節句

2008-01-07 23:52:40 | 日記 戦中編
昭和二十年三月三日 晴 休み
 今日は三月節句で次女(十二歳)の誕生日であるが何もない。朝だけは味噌汁があったが昼は塩で食べた。
例年ならもう韮が食べられるのだが今年は芽も出ない。
 此の家に来てから節句には餅草を取ってきて、草餅を作ってやるのが例であったが、今はそんな事昔の夢だ。 休みを取ったとて下駄の修理や財布の修理をして過ごした。

冬枯れ

2008-01-03 12:13:45 | 日記 戦中編
昭和二十年二月二十七日 晴 明け
 昨日昼過ぎまで通らなかった電車が全線の隣組や警防団の努力に依って今日は全て開通した。いつもの通り水道橋乗換えで帰宅した。
 朝八時四十分頃警報発令。あまり早いので又艦載機ではないかと思ったらB29二機の侵入だった。一機は山梨から東進関東西部に入り、反転して山梨から長野南部に入り次に関東北部から北東部へ、北上して福島地区に入り又北東部に入る等可成飛び回った。二機目の行動は電車の中だったので情報は不明だったが巣鴨の市場の所まで来ると東進する敵機と高射砲の弾幕が見えた。
 
 今年の冬枯れは去年よりひどいやうだ。昨年も家には何もなく、毎日カレーで味をつけて食べていたが業務用(勤務先)には幾分配給があったと見え多少のおかずがあったが、今年は業務用にも無い。 今朝の朝食を取りに行くと御飯の上に塩を少々のせてあった。
しかも瓦斯が細いのか御飯になってない。俗に言うメッコ飯である。飯盒で煮直して食べた。
 早く暖かくなればよい。野菜がのびてくれば蔬菜には困らなくなる。しかし此の雪いつになったら無くなるのか。帰宅後井戸端の雪を片付けたが三尺以上もある。
 勝つための努力は相当つらい。しかし負ければ尚つらい。