敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

妻と子供三人疎開

2008-08-21 23:59:08 | 日記 戦中編
昭和二十年六月二十日 曇 休み

 妻と子供三人(次女十二歳、三男五才、4女三才)が妻の実家に疎開のため昼食後、長男を上野へやって置いた。 そして私が五時に交代した。 八時頃皆が来た。 長女も送りに来た。 列は随分長く続いていた。 
 十時十分発の十五分前に改札が始まってホームに行くと 行けども行けどももう一杯である。 中に一両が全くあいている。 誰の悪戯かドアーの鍵が中から掛けてある。 横窓をこじ開けて飛び込んでドアーを空けてやった。 お陰で四人腰掛けられた。 長女と帰宅したのは十一時だった。
 
 此れで小さい五人の子供は居なくなった。蒲団だけで五梱、衣類も三個持って行った。 此の後、丸通から荷が出せれば又少なくなる。
 空襲も上陸もいつでもよい。 不便ではあるが気強くなった。 


常盤台駅付近に爆弾、更に疎開決意

2008-08-16 20:47:38 | 日記 戦中編
昭和二十年六月十日 曇後晴 一直出勤
 
 朝食中(六時十分頃)もう情報が入り関東海面警戒警報だと言う。
出勤しようとして居た長男を休ませた。
 
 七時頃空襲警報発令、 B29 数編隊南方洋上を北上中だという。
駿河湾から逐次侵入して雲上を4回西から東へしかも真上を通過して行った。
五編隊目が東から西へ進行して来て頭上に来た時、爆弾の落下音が聞こえたので皆で伏せた。 炸裂音がしたので起きて見ると真西の上板橋辺に黒煙が上がっていた。その後三編隊が通過した。

 九時半頃警報が解除になったので出した蒲団などを入れるように言い付けて出勤した。 中板橋まで行ったが電車が来ない。池袋まで歩いた。道連れになった男の話では 爆弾が落ちたのは常盤台駅の西側の民家で、其の爆風で架空線が損傷しているから電車が来ないのだとの事だった。

 川越街道を池袋に向かって歩いて行く途中、後方からリヤカーやオート三輪で運ばれて行く負傷者がいくつか私達を追い越して行った。

 議会で沖縄の戦況は我に不利だと陸海軍大臣が説明した。

 斯様に度々来るのでは子供が可愛そうだ。 妻に子供を連れて田舎へ行けと言った。
 
 
 

ビラ

2008-08-06 23:56:46 | 日記 戦中編
昭和二十年五月三十日 晴 一直出勤

 一旦帰宅して昼食後、雇員の給料を渡すために又出勤した。
中板橋まで行くと(十二時)警報が発令になった。 目白まで行くと敵機は見えなかったが無数のビラが空に舞っていた。 敵が撒いたものだとすぐ思った。
 新大久保で下車して焼跡を行くと向こうから来た男が 「もっとないか」という。 知らないがどんなものかと言って持っているのを見せて貰った。
 片面に墨で絵が書いてあった。 岩の上に家があり、岩から下がっている綱に人が下がって居る。 其の裏に文があった。 日本は今、困難に直面している。其の困難は軍閥の誤った政策のためだ。 と言うような愚かしい事が書いてあった。
 自転車で青山学院内の交通局まで給料を取りに行ったが 二十五日夜の被害の広さに驚いた。 帰宅時に新宿から乗車したがホームがひどく焼かれていた。