敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

空襲のその後、 他

2007-09-21 23:25:03 | 日記 戦中編
昭和二十年一月二十八日 晴 明け
 今朝、昨日の空爆で共同印刷が損害を受けたと言う話があった。帰りの車中で人々が騒ぐので車窓から見ると、指ヶ谷町の停留場の先に一個落下し家が二,三倒壊していた。待避壕に埋められた人でもあるのか破壊した家の一隅を一生懸命掘って居るのが見られた。 被害を受けた人々は気の毒である。
 
 誰やらが勤め先で、二十七日は大空襲がある日だ。十一月二十七日、十二月二十七日、一月二十七日と三月続いて編隊で昼間来た、と云う人が居た。そういえばそうかも知れないがそれは偶然の附合であろう。
 昨日あんなに来たのだから今日は来まいとか、午後はあぶないが午前は大丈夫だろうとか、二十七日は危ない日だが二十八日は来た事がないとか種々自分で都合の良い考えをして決めてかかるところに危険がある。戦争の事だ。ましてや敵の行動など判る筈もない。

 又野菜の配給が少なくなった。昨日は白菜一株の何分の一か。二十八銭、その前は二十三銭だ。どうして食べるのかと思うほどだ。大根などを作って冬の準備をしたにもかかわらず野菜の不足期が来た。準備をしてさえ不足なのだから準備のない家では思うだに気の毒で、買出しに行くのもあながち悪いともいえない。戦時下だ、少しは我慢をせねばなるまい。
我が家では、昨日の昼は御飯に配給のソースをかけて食べて出て行った。夜は菜豆を入れて御飯を炊き塩で食べた。今日の昼も粥に塩をかけて食べた。御産婦のようだと云って笑いながら食べた。
 
 二十七日来襲の際の戦果が発表になった。 二十二機撃墜、他の大半に損害を与えたとの事である。 
我方も自爆未帰還十二機だと言う。 雲の上で見えなかったが音で聞いて居ても攻撃は今までになく烈しいやうだった。機関砲の射ち交う音が豆を煎るようだった。
二十三日に名古屋に来て大きな損害を受け、又二十七日大きな損害を受けた。それでも来る。兎に角物量には感心するものがある。 しかしいくら物量があったとて来る毎に大きな損害を受けているから当然我方の勝ちになる。勝利を確信して夜の来襲で寒いの位我慢しなければなるまい。


銀座が空爆

2007-09-10 22:17:31 | 日記 戦中編
昭和二十年一月二十七日 晴、曇 二、三直出勤
 昨日、火鉢を防火用水槽にしたが、水が浸み出し一夜で約一寸程減っていた。
矢張り火鉢は火鉢で、瓶ではないのかも知れない。

午後一時半頃、新宿車庫に行くため花園神社付近を歩行中警戒警報発令になった。
敵は五編隊に別れ総計七十機程静岡方面から帝都に侵入、雲上より盲爆して行った。
雲が低くて空が少しも見えず、雲上で機砲を射ち交ふ音、敵機の発動機の音、友軍機の急上昇の音、等が交錯して聞こえ洵に無気味だった。
 間もなく、新宿の十一系統、新宿 築地間の運行が止まった。銀座の変電所が爆砕したと言う話が伝わって来た。
夜になって交通局車両係のA君から電話があり、銀座四丁目、数寄屋橋間が殆んど焼けてしまった事、変電所は無事であるが基電線がやられたために運行が止まっている事、有楽町に三個落下し待避中の人々が多数死傷。 トラック五台で運搬している事、等々の大体の被害状況が判明した。
 二十三日に名古屋方面に七十機来襲し、その六十三機を撃墜破され、四日置いて又、七十機来襲である。 
物の量にはたしかにあきれる。

防火用水

2007-09-10 21:26:15 | 日記 戦中編
昭和二十年一月二十六日 晴 公休
 寒い朝だった。被いをして置いたのに井戸が凍ってしまった。
蜀黍(もろこし)のからを燃やしてやうやく水が出た。
 茶の間にあった火鉢の灰を捨て二階に持って行って防火用水槽にした。そしてバケツ一つをその上に置いた。
今まではバケツを置いていたのだが、一つでは八升位の水しか入らない。火鉢はバケツで四杯入れて未だ余分がある。
 午後、又バケツの修繕をした。一個底が抜けたのがあったので、底を新しく作って入れた。先日から度々修理したのでバケツの数が増えた。用いたら必ず用水槽の板の上に置くように話しておいた。 水の所へ駆け寄ってもバケツがないと云うやうでは困る。
必ずあるように習慣をつけて置かねばならね。 斯うしておけば敵機も何でもない。