敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

敗戦直後

2009-03-23 23:16:07 | 日記 戦後編
昭和二十年八月十六日 曇り 休み

 休んでしまった。 何もする気がしない。 落胆してしまった。
 午後雑巾二枚作ったのが今日一日の大きな仕事だったかも知れない。


昭和二十年八月十七日 曇後晴 休み

 長女は出勤した。 長女が出たあと食器洗い、室内掃除、雑巾をまた二枚作った。
 午後、煙草屋に遊びに行って見ると室内を片付けて居る。 兵事に関する一切を除去しないと敵進駐の場合よくないと云う。 尚婦女子は田舎へやるのだと云う。
 成程そうだ。 物はどうでもよい。 長女が学校が休みになって一人家にいるのは彼等が来た場合、洵に物騒な話だ。 様子を見て妻の元へ送らねばなるまい。

敗戦

2009-03-14 23:45:48 | 日記 戦中編
昭和二十年八月十五日 曇 休み

 五時起床。火を燃し付けたばかり(五時十分頃)警報発令。三十分には空襲警報発令になった。 敵機動部隊から発進した艦載機である。 我特攻隊が機動部隊を攻撃したらしいが未だ近海にうろうろして居るらしい。八時十分頃一まず空襲警報解除になった。 

 朝食後下駄を一足作った。 昨日長男が来て下駄がないと云うからだ。

 十二時に重大発表があると云う。 隣家 N氏宅に行き植木の下で放送を聞いた。 
四国宣言受諾の陛下の詔勅であった。 初めて聞く陛下の御声。 しかも斯様な事を聞くとは予想だにしなかった。 あゝ戦は負けた。 今日まで勝利を確信し労苦を続けて来た。 それも全部水疱に帰した。しかも今後一層の労苦が続くかも知れない。 爆弾で焼夷弾で死亡した人々が気の毒に思ったが今となってはかえってうらやましい気がする。

 今日は二、三直出勤の予定だったがもう昼の報道を聞いて出勤する勇気もなくなった。今更勤務を精確にして見てもどうにもなるまい。

 夜、長男が帰って来た。 動員先の中島航空機が解除になりそうだと云う。 

2009-03-14 22:53:36 | 日記 戦中編
昭和二十年八月十四日 曇り  休み

 明けの昨日一日中空襲のため寝ずに居たのに夜又二回も警報が来たのでつい寝坊して休んでしまった。
 今日は長女が出勤したので二階から下を全部掃き出して雑巾がけをした。 食器を洗った後下駄作りをした。

 六時半頃第一回警報発令。 B29一機西方より帝都に入り東進して行く音が聞えた。 
 七時半頃第二回警報発令。 第一回と仝じだった。何れも曇りのため飛行機は見えなかった。
 九時頃第三回警報発令。 しかし帝都に入らず東北進して福島地方へ行ったらしかった。

 午後選択をした。一日着たきりで未だ洗濯する程汚れてはいないが昨夜蚤が出て、でも電灯をつけて探せないのでソックリ脱いで水の中に入れてしまったのである。 今日見るとシャツと猿股に十匹程居た。

 疎開先の次女から手紙が来た。

 夜十時半警報発令。敵機は福島等に入ったが其の後関東にも入ったので警報発令したものらしい。
 続いて零時半頃空襲警報発令になった。 起きて準備はしていたが銚子辺より本土に侵入せる敵機は二十五目標だと云う。 しかし帝都には入らず主として群馬方面に行ったらしい。 解除は二時半頃だったかも知れない。 
 十時半からランプを消していて、蚤に苦しめられるのも辛かった。 途中で寝巻を着替えてしまった。