敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

種甘藷 (苗を取った後のさつま芋)

2011-10-07 14:22:04 | 日記 戦後編
昭和二十一年六月六日 晴時々雨 明け

 ビール一本、 酢の素一本職場で配給になった。隣家N宅に少し上げたら悦んで居た。
毎日朝から夜まで三度々湯のような雑炊ばかり。 従って大根も蕪菁もなくなった。
隣家から今日も大根を三本程貰った。 もう食糧遅配も十五日以上になった。 いつになったら米が来るか。 暗いものだ。

昭和二十一年六月七日 晴 一直出勤

 三時半に目が覚めて四時半に床を出てしまった。 そして瓦斯に火をつけて昨日準備した蕗を煮た。
蕗は先日取ったが醤油がないので糸を取って干して置いた。 すっかり乾いて少量になったので昨日又、  処々を見つけ廻って取ったが限りある屋敷内にはそうあるわけもない。仕方ないので「つわぶき」を取って きたり筍を取ってきたりして混ぜてようやく小鍋一杯にした。 つわぶきは十年程前 友人が食べて居るの を見た。 先日新聞にも食べられると出て居たが未だ食べて見なかった。 皮が剥きにくいが丹念に剥いて 今朝煮て一本食べて見るとなかなか美味い。 食べ物がなくなると何でも食べるし、食べられるものだ。  之も戦争による一つの収穫?である。

 種甘藷の残りを一貫目二十三円七十銭で売りに来たのを買ったと云う。 そして今夜汁に入れて御飯の代
わりに食べた。 食べられると云うだけで味は少しもない。
昨年十一月中十二 三日甘藷で過ごした事があったが 種甘藷では一日も堪えられないかもしれない。

昭和二十一年六月八日 晴 二、三直出勤

 蕃茄と茄子の間に蒔いた小松菜の成育はよいが地のみが多くて困るので灰を撒いてやった。
次女が友人から紫色の美しい豆を貰って来たので尺五菜豆の内側に播いた。
妻が蕃茄の畑の周囲に手なし菜豆を撒いた。
朝食後、裏の井戸端に針金で南瓜の棚を作ってやった。

 もう今日で十八日米も粉も来ない。 松笠(マッカーサー)声明で共産党の食糧デモもなくなったし、あ
きらめたのか誰一人不平を言う人もなくなった。 兎まれ此処まで来ればもう餓死はすまい。 麥も食えるし馬鈴薯ももうすぐだ。

昭和二十一年六月九日 晴 明け

 朝から晴れて南風やや強く暑いほどだった。 帰宅(十時)後蕃茄、胡瓜等に撒水してやった。

 配給所は扉を閉じて居た。 手持ちの米は一粒もなくなった。

 種甘藷を買ったと云うのでそれを蒸して食った。 ろくなものを食べないから腹の具合が悪くて困る。
昨日四回下痢した。 次男と三男も下痢して居るらしい。