敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

昭和19年1月6日、16日、20日の日記から

2006-11-29 21:17:29 | 日記 戦中編
昭和十九年一月6日 晴 二,三直出勤
 H君から豆腐からを沢山貰って来た。お昼のおかずに、葱とゴボウと人参でも沢山入れて美味しく作ってくれ、お正月だから、といって妻に渡した。何もない。せめて、おからいりでも美味しくと云うのが戦時下のお正月である。斯様なことを書き付けたが後になって斯様な事が夢の様な過去の物語になる時期が必ず来るのである。

昭和十九年一月十六日 晴 明け
 今日は正月の十六日であるが、餅はさて置いて米さえなくなった。仕方がないので五合位の米に、5合位の菜豆(インゲン豆)を入れ「あん」の様につぶして、ゆるい粥を作ってすすった。十九日が配給だというが十九日まではすすっても足りないであろう。

昭和十九年一月二十日 晴 明け
 妻の母が、帰る(山形)に就いて土産として、煙草「あやめ」五個を差し上げたが、洵に少ない土産である。昨夜一夜泊ってもお粥の馳走しかない。気の毒ではあるが仕方がない。この戦争の苦しみは永久に忘れまい。

***********************

   物不足、食料不足の生活苦の中、感心するのは辛抱強く、しかもお上に対する グチが全く無い事である。云えないことでもあろうが、米国憎しと、戦争には負けるはずが無いと信じきってるように感じる。
 何時ごろ 戦争の行方に 「?」 付くのか読み進めたい。



昭和19年1月2日の日記から

2006-11-23 00:22:29 | 日記 戦中編
昭和十九年一月二日 晴 公休
 朝食後、今日は朝から風呂屋があると云うので行って見た、風呂は昨年病院から出て来た後、十四 五日頃か。家で沸かして入ったきり未だ入らなかった。燃料がないので風呂屋へ行かねばならないのだが何だか行きつけないので億劫にして居て行かなかった。風呂にも入らず頭も刈らずにお正月を迎えてしまった。戦時下の正月である。 前線に正月なし。 と看板が立って居るが。私も前線の正月をしてしまった。

**************
  
 この頃の戦況は 前年の
  5月29日   アッツ島 玉砕 
  10月21日   明治神宮外苑で出陣学徒壮行式    etc.
(Wikipedia より)
  
  

昭和19年1月1日の日記から

2006-11-20 01:08:09 | 日記 戦中編

昭和19年1月1日 私は8歳 小学2年生、家族は祖父、両親、兄1、姉2、弟1、妹2、の10人家族で東京都板橋区に住む。父は都電の車庫に勤務(昼夜三交代)、一人で一家を支えていた。

 私がこの日記をブログにし始めた理由は、
① 父はこの日記を後世読んでもらうことを意識して書いているように思えること、      ② 近頃の世の中は、近隣の国々の脅威を理由に国内をあおっている様におもえ、せめて戦中を知る者として多少でもこの 右カーブのブレーキの一助にでもとの思い   ③ 

 

 *********************************

 

昭和十九年一月一日 晴曇交々 明け。
 午前九時国民奉祝の時間に合して事務所一同国歌を奉唱して心から奉祝した。それから一同打揃って営業所に行き新年の挨拶をした。(中略)何所へ行っても手紙用の紙がない。日記帳は今まで数多く出たが今年は統制され買えない。と云う方が正確である。仕方がないので広告用紙の裏に斯様に印刷して日記帳や手紙に使う事にした。惜し気なく使い心配なしに書けて洵によい具合である。