敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

農産物不足

2009-07-31 00:34:45 | 日記 戦後編
昭和二十年九月二十六日 晴 一直出勤

 車庫農園の開墾作業日。  万能鍬持参で出勤した。 開墾とは名ばかり、
今日の場所はもう既に軍隊が一旦畑にして その後手入れをしない処だったので案外楽だった。 四人しか居なかったが六十坪程耕した。

 野菜が自由販売になるとか、どんな方法でもよい。 もっと出てくれなければ困る。 二十二日に沢あん二寸程来たきりあと何も来ない。 自由販売にするといっても品がないのだからどうするか見ものだ。 農家は居ながらにして買出し部隊に高く売れるし、 公価の枠を外しても市場で相場に左右されるより買い出しに自分の決めた値段で販売した方がよい。 だからいつまでたっても荷は出ない。
従来のように 宮城県から白菜が、静岡から人参が  どしどし入荷して買い出しに行かなくてもよい情勢ならねば、横着な近在の農家は品物を出すまい。

いろいろな品物が出始める

2009-07-30 23:59:44 | 日記 戦後編
昭和二十年九月二十三日 小雨 公休

 今日は彼岸だ。先日(六日)配給になった小豆があったので赤飯をした。
今まで佛様を風呂敷に包んで空襲の際持って逃げる準備をして其の侭にしていた。
今日取り出して飾った。 我々も空襲で苦労したが佛達も随分辛い思いをしたかもしれない。

 煙草屋の前の理髪店あとに岡製作所と云う看板が出て居る。 何を製作するか知らなかったが今日フライパンが二つ下がって居た。 煙草屋で聞くと二十円だと云う。 ニュウムで出来たものだが随分高いものだ。 ところが売れること 見ている中に 四つ、五つ売れた。
 昨日板橋駅の近くで電気ヒーターを売って居た。 コイルのピッチが大きいのであれではすぐキレるだろうと見て来たが、兎まれ軍需産業がなくなったのでいろいろな物が出てきた。 炭が一俵二十円だとか四十円だとかの闇値だ。瓦斯ストーブとか電気あんかなどもできるだろう。

労働組合もポツポツ

2009-07-17 23:48:43 | 日記 戦後編
昭和二十年九月十八日 暴風雨 二、三直出勤

 昨夜半から強くなった風は今朝益々強くなった。 しかしだんだん弱くなり夜は風も止んで月が出た。

 新聞に依るとあと三月もたてば書籍が出回るであろうと云う。 いずれ際物も沢山出るであろうが 今は辞典物だと云う。 辞典で欲しいのは大言海。 古典物では佐々木信綱の万葉集等である。 歴史物もよいのが出たら読んでみたいものだ。

 いずれは言論の自由、結社の自由の波に乗って世の中がうるさくなるであろう。
労働組合などもポツポツ芽を出してきている。  此処一年もすれば思想的にも経済的にも総ての点に於いて騒々しくなるであろう。 その頃には本も沢山出るであろう。そしたら本でも読んで心を静かにしていこう。


昭和二十年九月二十一日 曇 二、三直出勤

 仕事の都合で朝から出勤した。 十丁目停留場に行くと長い列。 引き返して中板橋駅に行くとホーム一杯の人。 三台目にようやく乗った。 都民二百五十万しか居なくなったと云うが何所へ行っても人が居る。 新宿の通りなど毎日お祭りのような人でである。 どうも斯う沢山の人が出るのか理解できない。

 長男が今晩、疎開先の田舎に出発した。

 靴一足配給になった。(二十三円五十八銭) 十年振りで靴を買った。




疎開先に永住も

2009-07-17 23:06:47 | 日記 戦後編
昭和二十年九月六日 晴 二、三直出勤

 今日は箪笥の修理や片付けなどして半日を過ごした

 疎開先の妻に手紙を出した。 転出、転入が出来るようになっても帰らずに田舎に居れ。 次女は其方で女学校を卒業させ、二男(小4)は農学校にでも入れろ。帰って来ても食糧が窮屈で可愛想だ。 のみならず八日から米軍が都内に進駐すると云う。 情報に依っては長女も送らねばならなくなるかも知れない。 しかしいつまで兄の家に居るわけにもいくまい。 三男が帰って来たと云うし その中には長男も次男も帰るであろう。その時家なり間なり借りて永住の方策を立てるよう言ってやった。


昭和二十年九月十六日 曇 明け

 第八小学校の裏の養成工宿舎に米兵が来たと云う。 隣家H氏宅の貸し間に居るE氏の家に五人来て覗いて行ったと云う。 段々物騒になって来る。