敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

名古屋城が焼かれる

2008-05-24 23:51:47 | 日記 戦中編
昭和二十年5月十五日 曇後雨 二、三直出勤
 
 夜九時の放送で名古屋城がB29に焼かれたという。 十四日の四百機来襲の時である。
古代文化も何もない米国の奴等には何の価値もないが、吾々に取っては重要な古代文化の記念物なのである。

国民学校生徒が斬り込みと報道

2008-05-22 00:10:34 | 日記 戦中編
昭和二十年五月十二日 雨後晴 二,三直出勤
  
 出勤後間もなく(十二時三十分)警報発令。西方よりB29 一機侵入、東方へ行く音が聞こえた。

 五月八日欧州戦は終わった。 日本の大詔奉戴日は独逸の歴史の終わった日である。

 慶良間諸島の国民学校生徒が先生から手榴弾を渡され斬り込みを敢行した報道を聞いて思わず泣いた。 之あるが故に日本は強いのだ。 それにしても国民学校生徒だけにあまりにも悲壮である。 人前で涙など見せる事を恥と心得ていた私も涙を止める事が出来なかった。 我々ももっと心を引き締めねばなるまい。 

ソ連軍ベルリン市に突入

2008-05-08 23:40:12 | 日記 戦中編
昭和二十年四月二十四日 晴 二、三直出勤
 
 二十日配給の米が昨日三日も遅れ、しかも朝から行列を作って昼過ぎまでかかったと言う。 その米が玄米なので今朝起きるとすぐ搗いた。 その後畑の大根の間引きを始めると間もなく情報が出た。
 八時半ごろ空襲警報発令。 敵二個編隊約三十機が静岡地区より京浜西北方に入ったと言う。 そして爆弾の炸裂音が聞こえ戸障子がびりびりと響いた。 後続編隊も伊豆半島より侵入、京浜西北、及び北部を爆撃した。

 ソ軍がベルリン市に突入したと言う。 大変な事だ。世界の動きが見ものである。

 出勤しようと思い中板駅に行くと 「省線、山手線全線不通 当分見込みなし」と書いてある。引き返し板橋区役所前からバスでお茶の水に出て、駿河台下から都電で新宿に出て出勤、十一時に出て到着が一時だった。  

2008-05-01 23:39:48 | 日記 戦中編
昭和二十年四月二十一日 晴 二、三直出勤
 
 空襲の騒ぎで桜も何もいつの間にか散ってしまった。 しかし春は春だ、庭の山吹が今を盛りと咲いている。
 疎開に行った三女が戸袋の下に植えた大根が花が咲いてきた。空襲さえなければよい気候なのだが、毎日のやうに B公と P公とが来る。

 二十日配給の米が未だ来ない。困ったものだ。

電気がついた

2008-05-01 23:25:25 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十九日 曇 明け
 
 朝から曇って南風が強くいやな日だった。
九時五十分空襲警報発令。情報は小型機十機来襲したと言う。 やがて三機ほどの
P51が飛んで来て代々木方面を爆撃して東南方に去った。
十一時頃解除になったので帰宅のため新宿駅に行ったが一杯の人、到底乗れないと思ったので都電で駿河台下に出て、お茶の水からバスで板橋区役所前まで来た。
 途中焼け跡のひどさをつくづくと見た。巣鴨の電車通りから妻の兄の家が見えていた。

 帰宅してから、庭の穴が大体出来ていたので 瀬戸物を入れて埋めた。 これで大分荷物が少なくなった。

 昨夜から電燈がついたので今日放送を聞く事が出来た。 今まで情報が入らなくて全く頼りなかった。