敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

空襲警報

2007-04-26 23:39:52 | 日記 戦中編
昭和十九年十一月一日 晴れ 明け
 十一時に帰宅、昼食後一時に空襲警報の笛が鳴った。早速妻と長女に指示をし、身支度して出勤した。 省線は止まっていて、都電で巣鴨、水道橋経由で大久保まで行った。大変な混雑で一時間以上かかった。 
 三時過ぎに空襲警報は解除になった。 放送によると敵B29一機が帝都上空に表われ、投弾はせず東南方に遁走したと言う。 明朝出勤する事に打ち合わせの上
四時半帰宅した。
 又、夜九時五十分警戒警報が発令になった。身支度をして出動した。
私とK君が泊まることにした。

昭和十九年十一月二日 晴れ 一直勤務
 昨夜の出動に引き続いて一直を勤務した。幸いにも十時五分 警報が解除になった。

神風特別攻撃隊

2007-04-26 23:00:36 | 日記 戦中編
昭和十九年十月二十九日 晴れ 明け
 昨夜、七時に海軍省から特別攻撃隊神風隊の事が公表された。
斯様な報道を聞くと、我々の日常生活が此れでよいかと振り返って見ねばならぬ。
買出し、闇、何たる事だ。 陰でやって居る中は未だ殊勝だが、この頃は公然となって来た。

日本艦隊 出撃

2007-04-21 22:04:04 | 日記 戦中編

昭和十九年十月二十五日 晴後曇 二,三直出勤
 いよいよ日本艦隊が出撃した。 そして比島東方海面で敵を猛攻中だと言う。そして其の戦果の一部が発表になったが 空母 四、巡洋艦 二、駆逐艦 一、輸送船 四、 撃沈と言う大戦果である。
 只々有難いと言う外はない。

 昭和十九年十月二十六日 晴 明け
 夕刻、又比島海面とレイテ湾の戦果が発表になった。ラジオの前に端座して聞く。 こうなるとラジオが只のラジオでないような気がする。 ラジオを拝みたいような気持ちさえする。

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     10月20日  米軍、フィリピン レイテ島に上陸
      10月23日  レイテ沖海戦 
      10月24日  戦艦武蔵沈没 (シブヤン海) 
      10月25日  神風特別攻撃隊、レイテで初攻撃
 
                                      (Wikipedia より)  


食料事情

2007-04-21 21:19:32 | 日記 戦中編
昭和十九年十月二十三日 曇 明け
 今日、野菜の配給が二円四十六銭もあった。 小松菜一把、甘藷一貫百匁、豆もやし 等である。
 六月ごろは 三日間で二十六銭位の配給に比べると 正に隔世の想いである。
夜、甘藷を厚切りにして精進揚げにして七つ位ずつ子供に配った。
 近頃は日々満腹させる事が出来るので有難い。

下駄

2007-04-21 20:50:12 | 日記 戦中編
昭和十九年十月二十一日 曇後晴 公休 
 本日の大本営の発表に依ると米兵が比島中部に上陸した。 
 小包が来た。 下駄が五足楯岡(山形県)のT君から送って来た。 
その後、葉書が来て、子供のがないから大人の分だけ送った、子供のはそのうちに送る。
 下駄は本当に有難い。