敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

「米ソに対し日本が和平交渉中」 のデマ

2009-02-27 00:06:27 | 日記 戦中編
昭和二十年八月十三日 晴のち雨  明け

 昨夜は蒸し暑く風がないので蚊が多くてなかなか眠れなかった。
五時半頃警報で起こされた。間もなく空襲警報になった。裏の町会事務所の情報に依ると敵艦載機らしき数目標銚子辺りに侵入せりと云う。 間もなく敵機の音、高射砲の音が聞こえたが敵機は見えなかった。 省線は来襲警報で動かないらしく、いくら事務所から見ていても通らない。 都電で飯田橋に出て水道橋まで徒歩。そして志村行きで帰宅した。 十丁目で下車したとき警報解除(十時五分)になった。
  
 帰宅後、下駄作りを始めると間もなく(十一時頃)又空襲警報が出た。 眠かったが寝ても居られないので下駄作りを続けた。 夕方まで長女のと私の一足づつ出来た。 夜、長女が鼻緒を作ってくれたので下駄にすげた。 明日からはける。
 五時五分空襲警報解除。

 巷間、米ソに対して日本が和平交渉中だと云うデマが飛んで居る。 不愉快な事だ。 ソに対して満州を渡してソの仲裁を乞うと云うような話だが満州で流した血が皆無駄になってしまうではないか。 降伏よりは玉砕がよいではないか。

 夜、十二時頃と二時頃の二回警報発令があった。

 



新爆弾に対する警戒

2009-02-26 22:39:28 | 日記 戦中編
昭和二十年八月十一日 晴 休み

 昨夜半警報が一回あったが時間も情報も不明だった。 又、何時頃か降雨があったが今日は晴れて暑い日だった。 Y君がラジオを見に来た。直してくると言って持って行った。 十一時半頃警報発令になったので隣家のN宅に情報を聴きに行くとすぐ解除になった。 午後少し眠った。 間もなく警報が出たが聴きにも行かなかった。
 
 起きて馬鈴薯を掘った。 随分作が悪く十貫位と思ったが五,六貫しかあるまい。 それでも一貫目六円とか八円と言ってるから五円にしても三十五円だ。
 
 野菜の配給ですと隣で言うので行くと、今日は割合多いですという。 見ると赤っぽい胡瓜が二本 蕃茄が一ヶ、計三十三銭だった。

 夜八時頃第一回警報発令。 八時半解除、蚊帳に入って蚤取りをしてもう寝ようと電気を消すと同時に警報発令。 間もなく空襲警報発令になった。 ラジオがないのでN氏宅に行き情報を聴いていた。 六機来て一機は伊豆北部から反転して南方洋上に出て 三機は茨城北部から侵入福島、新潟の方へ行った。 二機は銚子辺から侵入西北進し高崎、秩父辺から甲州に入って南下した。 十一時頃解除になったので安心し、帰宅床に入った。 十一時半頃か又新たなる一機侵入し空襲警報になった。 隣のNさんが呼ぶので行くと、京浜地区警戒を要すと云う情報だと云う。 裏の待避壕にトタンと戸板をかけて準備したが幸いにも帝都には入らず京浜西南から南下した。
 新型爆弾に対する警戒のための頻々たる空襲警報らしい。
 



 

昼間の空爆

2009-02-19 23:01:31 | 日記 戦中編
昭和二十年八月十日 晴 明け

 朝六時二十分警報発令。 敵機動部隊よりの小型機の主力が福島地区に入ったと言う。 七時四十分空襲警報発令。 何処かで高射砲の音が聞こえて来たので一昨日のように省線が動かないといけないので市電で帰宅した。

 帰宅後間もなく B29の編隊が本土に侵入したと云う。 長女と待避壕に居ると西から八機づつの編隊が三ヶ程来た。 そして丁度頭上に来た時、爆弾の落下音が物凄くするので伏せた。 家が揺れて硝子戸がビリビリ震えた。 出て見ると東北方の空に黒煙が上がって居た。 志村か赤羽方面かも知れない。 
 六月十日以来の昼間の大編隊空襲であった。 十一時空襲警報解除、十一時半警戒警報も解除になった。

 夕方H君のところに金敷を返してきてかえる途中 長野地区警戒警報発令という情報を聞きながら帰宅間もなく高射砲の音がする。 見ると警報発令と同時にもう
B29一機が進入していた。 頭上を西から東へ去った。

 二階がひどい埃だったので掃除をしたが蚤が沢山居るので驚いた。 足に這い上がってくるのを五、六匹取った。

ソ聯宣戦布告

2009-02-19 22:36:14 | 日記 戦中編
昭和二十年八月九日 晴 二、三直出勤

 朝、七時早くも第一回警報発令。 敵機動部隊から発進した小型機が福島、山形、宮城、岩手、新潟等に少数づつ入ったので関東地区も警報を出したのだ。
 八時半頃第二回警報発令。 B29一機、八王子、川越等を経て東方に退去した。

 夕方、大久保営業所に行くと 日ソ開戦の話をしていたので信じられなかったが、 七時の報道で大本営発表があったので真実だった事が判った。 ソ聯から九日午前零時を期して宣戦布告をして来た。 そしてソ満国境で軍事行動を起こした。 時局いよいよ重大である。





焼夷弾の重しを拾って来る

2009-02-10 17:37:50 | 日記 戦中編
昭和二十年八月七日 晴  二、三直出勤 

 八時半早くも警報発令。 B29一機進入して来た。しかし三十分位で解除になった。 第2回は、十時三十分警報発令、三十二分には空襲警報になった。B29が相模湾及び房総半島より各一機侵入、 続いてP51 一編隊三十六機が相模湾より東北進氏三浦半島に入ったと言う。 早めに昼食して出勤したがなかなか電車が来ない。 中板橋に居る中に(十一時五十五分)空襲警報解除になった。

 夕方、杉並のG君の所に行った。 そのとき交番の後方の空き地に焼夷弾の重しがあったので、豆つぶし具に丁度よいので持って来た。 今はH君から借りたのを使っているが重くて出し入れに不自由だ。


昭和二十年八月八日 晴 明け

 昨日の焼夷弾の重しを持って来て豆つぶしをしたが具合がよい。

 午後三時五十五分頃警報発令、五分もたたない中、空襲になった。
そして大型編隊が家の北側を西南から北東へ行った。 五時空襲警報解除になった。
 夜、蚤取りをして居ると十一時五分頃 警報発令。 B29二機、房総南端から進入したが帝都に入らず京浜西南から伊豆方面に行って南方に去った。 
  

製粉機を借りて豆粉を作る

2009-02-10 16:50:08 | 日記 戦中編
昭和二十年八月六日 晴 明け

 七時四十分頃早くも警戒警報発令。 情報は不明だが時間が早いから小型のP公だと思って居るうち八時に空襲警報発令になった。 帰途東大久保を歩いて居る中情報を口頭伝達しているのを聞いたら矢張り小型機で第一波は、相模湾より侵入。
P51およそ三十機だという。 新大久保駅に来ると、待避発令中だとて電車も動かないし、ホームにも入れなかった。 九時半待避解除。 ようやく電車に乗って池袋に来た頃遠くのサイレンが聞こえて空襲警報解除になった(九時四十分)
 
 夜、隣家 A氏宅の製粉機を借りて来て豆粉を作った。 約五合程作るのに二時間程かかった。

 午前一時頃警報発令。B29一機ッ西方より帝都に侵入東進して姿が見えなくなった。 そこでラジオを切って床に入ると又、高射砲の音がする。出て見るとさっき東に行ったのが引き返して来たのか東方から西進するB29一機が見えた。 しかし何れも投弾下様子はなかった。