敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

小学校の入学式

2010-10-27 23:26:08 | 日記 戦後編
昭和二十一年四月八日 晴 二、三直出勤 

 よく晴れて暖かい日であった。 朝食後 屋根を直した。 先日の風でトタン板を一枚めくれて その後の雨が廊下の押し入れに漏って来てふとん綿を濡らしてしまった。

 今日は三男の入学式の日だ。 妻が付添で行った。 戦争前は帽子や洋服、背負鞄、靴など皆新しいのを買って貰って行くのだからどんなに楽しかったであろう。 又、学校へ行くと云う強い意識もあったし それを利用して種々なしつけの方法もあった。
 今はその一つもない。 可愛想なものだ。 背負鞄は阿佐ヶ谷駅の近くにあったが五百四十円であった。 新聞で見ると罹災者に配給になると云うが一年も持たない弱い物であろう。 次男(五年生)にカバンでも買ってやってランドセルを三男に廻そうかと思ってる。
 入学式は例年一日で中女学校は八日であったが今年は小学校が八日で中女学校は十五日だと云う。 何処から何処までサボっている気がする。 考えて見れば教科書もないのだから学校に集めて見ても仕方がないかもしれない。 
 新日本建設とか民主国家の建設とかお題目は沢山あるが何から何まで熱心さを欠いて居るような気がする。
 

(続)復員兵の安否確認

2010-10-27 23:02:22 | 日記 戦後編
昭和二十一年四月五日 晴 二、三直出勤

 五時半起床。炊事の後七時出発 巣鴨から省線に乗って稲毛に行った。稲毛着は九時だった。  高射砲学校はすぐ判った。 人々が列を作って行くのでその後をついて行った。 
 受付に行くと四番に行けと云う。其処で調べて貰うと 雪の三五二六はない。 八番に行って調べて貰って来いと云う。 八番の建物に行って本籍地を書いて出すと一時間程待たされてから名簿未着であると云う。 又四番に行って 名簿未着だと云うがいつごろ名簿が来るかと聞くと 六月頃から引揚が始まる、その時来るかも知れないと云う。 仕方がないので帰って来た。 帰宅は十二時過ぎだった。 
 その旨葉書で通知してやった。

復員兵の安否確認

2010-10-13 23:33:31 | 日記 戦後編
昭和二十一年四月一日 晴 公休
 
 私の従兄の長男の安否を聞くために久里浜に行った。 裏のK氏が其処で安否が判明すると云われ行ったのである。 東京駅八時五分発 久里浜着は十時少し過ぎだった。
 復員局人事課と云う立看板があったので入っていくと此処は海軍関係で陸軍は辻向かいの建物だと教えられた。 其処へ行くと安否は馬掘の重砲学校に行かねば判らぬと云う。 湘南電鉄に乗り湘南堀内乗換 馬堀に出た。 重砲学校は村外れでかなりの道程があった。 其処で聞くと 雪部隊 は千葉稲毛の高射砲に行かねば判明しないと云う。 尚 雪部隊はニューウギニヤでなくてブーゲンビル島だと云う。 後日稲毛に行くとして帰路についた。 途中横須賀市内の闇市を見て歩いた。 此処にも青空市場が賑やかだが値段が東京と少しも変わっていないので驚いた。 夏蜜柑(三ヶ十円)を買って来た。

 途中 横須賀に行く列車の中で台湾の台北市より引揚て来た人が居た。 妻の妹の
一家が居る板橋街の様子を聞くと。 其処は私の家族を疎開させて置いたところで台北市の郊外になるところで爆撃は受けなかったところだから生命には差支あるまいと云う。 尚出征家族の引揚は三月十日で終わった筈だからまだ来ないとすれば何かの都合で一般引揚に入ったか、または勤務の都合で徴用になって居るかのいずれかであろう。
徴用になってるとすれば短いので半年、長いので一年、それだけ遅れるとの事だった。