敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

父の葬儀中に空襲

2007-05-27 18:20:50 | 日記 戦中編
昭和十九年十一月二十七日 晴後曇、小雨 忌引
 二十五日に死亡した父の葬式。
 午前九時三十分頃坊さんが来て読経が始まった。十一時出棺、戸田橋(火葬場)に行った。 霊柩車のみで附随車が無い。父の妹と私だけ乗り、他は皆電車とバスで行った。 今の情勢では紋服では行かれない。折襟にゲートル巻き戦闘帽で火葬場に行った。
 待合中、又警戒警報が発令(十二時頃)になり、三十分位たって空襲警報が発令になった。 荒川の対岸に高射砲陣地があって、発砲すると茶屋の窓硝子がビリビリとひびいた。 待合の人々が慌てて居た。 茶屋では座布団を出して一枚ずつ貸してくれた。 それを頭に乗せて置いた。
 二時半頃火葬が出来たので骨を抱いて帰路についた。バスが通行しないと云う。止むを得ず戸田橋から志村坂上まで歩いて、後は電車で帰って来た。
 坂下辺まで来た時 空襲警報が解除、ついで四時頃警戒警報も解除になった。
 放送に依ると四十機位が関東、東海道、近畿地方に分散来襲盲爆したと云う。


東京に初空襲

2007-05-24 21:53:18 | 日記 戦中編
昭和十九年十一月二十四日 晴 二、三直出勤
 十一時五十分頃警戒警報発令、早速出勤準備をして昼食をしていると十二時十分頃空襲警報発令になった。
 昼食中報道で八機編隊が帝都に侵入したと言う。 都電の停留場まで行くと待避の鐘が鳴っている。漸く電車に乗ったが途中四、五回待避させられて二時間かかって出勤した。 
 巣鴨の地蔵尊の縁日で人出が多く、而も省線が停止したので其の混雑は名状できない程だった。
 後続の編隊が投弾したとか、少々の損害があったとか報道の時に言っていたが、午後三時空襲警報解除、五時二十分頃警戒警報解除になった。
 

七五三

2007-05-18 23:27:13 | 日記 戦中編
昭和十九年十一月十五日 晴れ 二,三直出勤
 出勤の途。宮詣りの人を見て気付いたが今日は七五三だった。 三男五才、四女三才の二人居たがすっかり忘れていてお詣りもしなかった。
 平和時代なら、妹の家にも居る筈だから何かと気を配って祝物でも持って行かねばならぬが、そんな心配もない。
 それにしても春日町に行くと母と子が平和時代其の侭の服飾で歩いて居る人があった。 未だ斯様なものが居るのは困ったものだ。
 今、空襲の心配は勿論だが、特別攻撃隊が日々戦果を上げて居る際、前線の人々を思うとき、如何に子が可愛いとて斯様な姿でねり歩けない筈である。
 若し空襲でも受けたら 長袖、長裾で可愛い子を護る事が出来るか。
 可愛い子を空襲も受けずに育てられるのは前線勇士のお陰ではないか。

戦況報道

2007-05-18 22:50:33 | 日記 戦中編
昭和十九年十一月八日  ~  十一日
 五時の報道の時間に又戦果発表があった。毎日五時の報道が楽しみだ。
有難い事に毎日戦果が発表になる。
 比島方面陸軍司令官が山下奉文大将だと発表になった。

 桂林と柳州が落ちた。 有難い。 
在支空軍の根拠地は大体成都だけだ。 南方線は安全になった。
 
 

 

相次ぐ警報

2007-05-06 22:37:01 | 日記 戦中編
昭和十九年十一月五日 曇後晴れ 一直出勤
 九時五十分頃警戒警報が発令になり、十時十分空襲警報が発令になった。敵機一機東海道方面に偵察に出現したと放送は言っていた。 それでも十一時十分空襲警報が、午後二時十分頃警戒警報も解除になった。

昭和十九年十一月六日 晴 二,三直出勤
 九時少し過ぎ又警戒警報の発令があった。出動しようと思って身支度してると放送が東部軍情報を伝えている。聞くと東海道方面に現れた一機はその後の調査に依ると 友軍機なる事が判明したと言う。 十一時三十分頃解除になった。

昭和十九年十一月七日 晴 明け
 午後一時警戒警報、間もなく一時十分に空襲警報になった。 東部軍情報として、敵一機帝都上空にありという。 身支度をして外に出ると西空遥か遠く飛行機雲を引いて飛んでいく一機があってそれに高射砲を打っている。 妻を呼んで指し示して見せた。大久保車庫に着いたのは二時二十分頃で、間もなく空襲警報が解除になったので帰宅した。