敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

成増飛行場 空襲

2008-10-16 23:38:45 | 日記 戦中編
昭和二十年七月十日 晴 二、三直出勤

 四時起床、炊事をした。 五時の報道中早くも警報発令になった。小型機F4U等にB29も混じって、房総及び相模湾の二方面より侵入して来た。
小型機数機が西北に見えた。 成増飛行場を攻撃したのかも知れない。

 昨日拾ってきた縄で蒲団や綿を荷造りした。 座布団ともで六個あった。

千葉、甲府が空襲

2008-10-16 22:11:50 | 日記 戦中編
昭和二十年七月六日 晴 一直出勤
 
 米が配給になった。 七日の予定が一日早く配給になった。珍しい事だ。

 大久保で昼食中(十二時半)二回目の空襲警報。 小型機 P51が八十機程、房州方面に侵入したらしい。 毎日来る。

 胡瓜を今日も五本取れ、夕食に食べた。此れでもう二十六本取れた。
昨日、勤め先での話しに 一貫目五円から六円だと言う。 公定は一円六十銭である。闇値の馬鹿らしさ、只驚くより外ない。

 夜十一時半頃警報発令。敵数目標南方、小笠原列島西側を北上中との情報である。 来るかと準備して情報を聞いていると、第一、二団は甲府に入り焼夷弾攻撃をし、 第三団は房総南部から侵入、千葉に焼夷弾攻撃をした。 二時過ぎに解除になるまで時間もあったから機数も相当来ているであろう。

 

疎開先の次女から手紙

2008-10-05 23:03:22 | 日記 戦中編
昭和二十年七月五日 曇り時々小雨 明け

 午前十一時十五分頃警報発令。 千葉、茨城地区に小型機侵入。 一部は東北方より帝都に侵入した。

 昨日、煙草の配給とラジオの修繕が出来た。 有難い事だ。
 次女から手紙が来た。 養蚕の手伝いをしているらしい。
 
 夕食後、Y君の家に行ってラジオの修理代(四十円)を払って来た。 午前中に国債貯金百五円払って来たので一日に約百五十円出てしまった。

 夜、十一時半頃警報発令、B29一機が鹿島灘から侵入、北上し福島地区に行った。

雑用

2008-10-05 22:34:41 | 日記 戦中編
昭和二十年七月三日 曇り時々小雨 公休

 一日中雑用をして暮らした。 朝食を終わってから後始末。 玉蜀黍をうでたり、昼の雑炊を作ったり、夜の御飯炊き、汁作り、等々なかなか忙しい。
 一日家に居て見て雑用の多いのに驚く。

 昨夜一時頃の警報は、西の座敷に行って隣家のラジオの情報を聞いたが又、新潟の方へ行ったらしい。
 今日、午後一時半警報発令。B一機が小田原辺から侵入したらしい。
 夜、十一時又警報発令、 相模湾から入って新潟へ行ったようだ。