敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

運動靴の配給

2012-12-05 21:02:54 | 日記 戦後編
昭和二十一年六月二十日 曇後晴 二、三直出勤

 十米もあろうか、南風が吹いて黒雲が飛んで時々パラパラと雨を持って来た。 しかしやがて雲を吹き払って暑い日になった。
 
昨夜、長男に小麦を挽かせたら約一升三合程の粉が取れた。 それを今朝蒸しパンにして食べ残りを夜の弁当にしたらもうなくなった。 昼からの食べ物がないので馬鈴薯を掘った。 八百匁しかなかった。 前回と合わせて一貫三百匁しか出来なかった。 芽植えと云うのをやったのだが矢張り具合が悪かった。 しれを枝豆と甘藍とを煮て昼に食べる事にした。しかし其の後の分がないので小麦を刈った。 之から麦打ち、製粉して食べなければならぬと云うのだから忙しい。 
先日から子供等に好天の日は顔を洗った水一杯づつ各自胡瓜,茄子,蕃茄等にかけるように命じておいた。

子供等三名に運動靴が配給になった。 文数に依って多少値段が違うが九円から十一円位である。 配給は安い。 闇市では七、八十円で売っている。 三男(六歳)などは始めて貰う靴にとてもうれしそうである。

配給所に小麦粉が入ったと云う。 荷が入るようなら配給が来る見込みがる。仝じ不安の中にも幾分明るい心持がする。


昭和二十一年六月二十一日 晴 明け

 帰宅(九時半)後麦打ちをした。昨日刈り取った分全部打ってから吹いてみると一斗もあるかと思ったら六升五合余りしかなかった。 坂道と柿木の下が残っているが二升あれば上々であろう。 全部合計しても一斗にならないのでは洵に落胆した。 而ももう既に三升程食べていてあと三升五合。 今晩と明日でなくなってしまう。 小麦粉が配給所に入ったと云うが未だ配給して居ない。 明日は配給予定日だが近頃は予定日も何もあてにならない。 心細い話だ。

本月の収入千八百余円。 支出二千余円。一か月の間に二千円の支出は初めてである。 昭和十六年四月から一年で二千三百円であった。 而もその間母が三十日、 妻が十日入院、その後母の葬儀と相当な臨時支出があってだ。 それが一カ月の費用とは只ただあきれる外ない。 

 昨日の都聯の要求は全部拒否されて今日から争議に入った。

胡瓜の大きくなるのが早いのに驚く。 二,三日前に指先大だったのが今日は径一寸、長さ五寸程になっている。 井戸端の南瓜がとうとう網棚に届いて横に一尺程這っていた。 雌花も四、五見えてきた。 毎朝 胡瓜,茄子、南瓜、蕃茄等一巡して見る楽しさは知る人ぞ知る事だ。