敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

(続) 水街道にフスマの買出し

2012-01-18 22:46:43 | 日記 戦後編
 昼休みで事務員が手を空けて居るので話し込んで少し休んだ。 東京の食糧事情を話すと驚いて居た。女事務員が茶を入れてくれた。 暑い中を歩いたので茶がとてもうまく有難かった。 此処へ来て見て判ったが、新聞には毎日出ているのだから東京の食糧の事など知っている筈だと思っていたが少しも知らなかった。 
 ともあれ農家に入ってあたって見るより方法がないので農業会を出て横道に入り農家を一軒一軒聞いて歩いた。 いくらでもあると云う話と事実とは大違い、どこにもなかった。 そして東京の有様に同情はするが売ってくれと云う段になると何一つ売ってくれなかった。 中に一軒、馬鈴薯と筍の煮着けで茶を入れてくれた家があった。
 歩いている間にキャベツが安いと判ったのでせめてキャベツを買って帰ろうかと思って聞いてみたがそれもなかった。
 あの家行けば、と云う人があったのでその家に入ったら非常に仝情してキャベツはないがそんな気の毒なら此処に之だけ小麦粉がある。 之を二人で持って行けと云ってくれた。 八百目あった。 二人で四百目づつ分けた。 値段は一貫目百二十円。 四十八円払った。 尚 フスマは今製粉所に頼んであるから明日出るから明日取りに来いという。 一升四円との話である。 明日私は休めないが M君は休みだからもう一回来て三貫目あったら一貫目を分けて貰うことにして二時半帰路についた。
 水街道の町に入ってキャベツを一貫目(十円)買って駅に行くと三時半の汽車は運休で五時二十七分しかないと云う。 約二時間待って又 小さい貨車二乗った。 取手に近づくにつれて人が多くなった。 皆買出しである。 六時四十分の汽車(仙台発上野行き)が十分遅れて来た。 窓からではあったが思ったより楽に乗れた。 松戸で電車に乗換え帰宅は九時だった。

 (後日談 M君が翌日行ったが 復員者のお祝いがあり製粉所に行ってないので
      フスマはないと云われた)
 

水街道にフスマの買出し

2012-01-16 23:12:49 | 日記 戦後編
昭和二十一年六月十三日 晴 休み

 M君との約束でフスマの買出しに行くため休暇を取った。 朝四時に起床六時出発した。 昨夜月が笠をかぶっていて もう入梅らしいので天気を気遣っていたが大丈夫だった。
 都電で巣鴨まで行き巣鴨から省線で日暮里に行った。 約束の七時より二十分程早かった。 汽車は九時過ぎまでないらしいがともあれ一歩でも先へ行こうと云うので省線電車で松戸まで行った。 九時四十分仙台行きまで約二時間程あるので外に出て闇市を見た。 胡瓜が三本十円で東京と仝じ。 只大根が五本で八円から九円、蕪が四把十円で東京よりいくらか安いだけで大した変りはなかった。
 仙台行きの汽車は相当な混雑で二人とも窓から飛び込んだ。 取手に着くと常総線の列車が向かい側のホームに着いて居た。 我孫子までは釣りのため二度程来た事があるが一つ先の取手は初めてで 常総線も釣りをしながら河岸で眺めた事はあるが乗るのは初めてだ。 汽車は古く小さな箱で、此処も戦争の影響で荒れ放題に荒れて居た。
 田の中ばかり通るかと思っていたら丘陵地帯で松林の間が多く思ったより沿線は美しかった。 
 十時頃取手から五つ目の駅 水街道に着いた。 巾のあるちょっとした町で買い出しの人が沢山下車した。 此処からバスがあると云う話であったので駅前の常総バスに入り聞いてみると午後の三時半でなければ出ないと云う話に驚いて歩き出した。
 小貝川と云う川に架かっている田舎には珍しい程の立派な橋を渡り、左折して川沿いに歩いて行った。 美しい川、広い畑、遠近のの森、良い道、之が買出しでないとしたら良い遠足だ。  景色を見ながら約一里 福岡と云う村に着いた。 話に聞いた精米所に入ってフスマがあるかと聞くと、今ない。 向こうの農業会に行けばあると云う。 農業会事務所に入った。 矢張りなかった。
                          (つづく)