敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

米国南瓜の種、配給

2012-06-28 21:54:59 | 日記 戦後編
昭和二十一年六月十八日  晴 明け

 又、車庫で蕪と春菊の配給があった。 先日省線で来て押されて困ったので市電で来た。 水道橋から腰掛けて来たが架線の断線があり板橋郵便局前で降ろされ歩いて来た。とても暑かった。 帰宅すると長女がおはち入れを利用して酵素を用い製パンの準備をしていた。 天ぷら鍋で焼いたが良くできた。

 小麦を刈った。 トマトの外側と柿の木の下の二列を刈った。 
 
 米国から南瓜の種がきて隣組で五個配給になった。 本に依ると印度種のハッパード種で日本には北海道に早くから入り鉞(まさかり)南瓜として知られているものだ。



昭和二十一年六月十九日  曇後雨  一直出勤

 当直の朝四時頃車庫の枝豆畑に行って見ると梢の先まで無数の夜盗虫が登って来て枝や葉や実を盛んに蚕食していたので今朝(四時二十分)家の畑を見ると案の如く沢山居た。 枝に手を触れるとパラパラと地に落ちてじっとしている。 枝も地上も良く見ると三十程居た。  それから恭菜(ふだん草)を見ると之又四十程居た。

 昨日刈った小麦、 今日打ったら九合五勺しかなかった。昨日刈り取ったばかりで乾いてないので鍋で煎って長男に挽かせた。  一升四合しか粉が出なかった。
之では明朝の分の一升はあるがあと四合しかないので昼と夜のあてがない。  天候が良ければ又、刈り取る事も出来るが此の天候でゃそうもいくまい。 困ったものだ。 今掘っては可愛そうだが馬鈴薯でも掘って食べるより外あるまい。 人に取られる話が非常に多い。 人に取られるより良いかも知れない。