敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

そばの配給、 警報の練習

2007-02-26 22:39:38 | 日記 戦中編
昭和十九年八月六日 曇一時雨 二,三直出勤 
 そばの配給が一人一ヶの割であると言う。十時半迄に隣組が集まって商工学校の向ふまで買いに行くのだと言う。そば一ヶと云ふても昔の半分もない。一箸はさんでズットあげればもうあとはない。それで値段は十三銭である。大変な事だ。 
 
 空襲の場合、各隣組員の中から監視人を出し敵機襲来を知らせる事になっていたが今日の回覧板によってそれが改正になった。警防団員が監視所(此の近くは養育院屋上)に居て半鐘の一点打ち及び七点連打に依って一般に知らせる事になった。そして明七日午後一時に空襲警報に入ったものとし、敵機来襲告示の練習をすると云う。

勤労動員

2007-02-20 00:04:09 | 日記 戦中編

昭和十九年七月二十九日 曇後晴 賜暇

 長女にいよいよ動員がかかった。下谷凸版に行くのだと言う。本日入所式と身体検査をした。そして検査の結果が明日判明し若し合格なら八月一日から二長町の工場へ朝七時四十分まで詰めるのだという。 今まで八時半頃家を出たのが今度は六時半には家を出ねばならぬ。 
 多くの学問をして「人」を作る事が国家の要請であるが、今は働く事が国家要請である。 今日の戦時下に於いては勤労報告隊としての動員も洵に結構である。
 長女にも斯様に話して置いた。此れに依って大東亜建設の大業に参加した事になるのである。

 

                                              

 


女学校の防空壕堀り

2007-02-19 23:35:44 | 日記 戦中編

昭和十九年七月二十八日 晴一時雨 公休 
 長女の高女で防空壕を掘るために勤労奉仕をしてくれと言うので公休を取って行った。 仕事は土工がが掘った土をバケツに入れてやると生徒がリレー式に外へ運ぶ。生徒は数が多いので其の中間に入った私達奉仕組はなかなか骨が折れた。 


馬鈴薯の配給

2007-02-19 23:03:35 | 日記 戦中編
昭和十九年七月二十五日 曇 二,三直出勤
 昨日、八百屋から馬鈴薯一貫目(一人百匁当て)配給になった。米と差し引きのでなく八百屋から配給があれば大変助かるのだがなかなかない。
 ない筈だ。 買出しに行く人の話では一貫目二円五十銭から三円五十銭だと言う。   八百屋からの配給は一貫目七十銭である。 供出がうまく行かない理由は其処にある。

グアム島

2007-02-17 21:35:37 | 日記 戦中編
昭和十九年七月二十二日 曇後雨 二、三直出勤
 五時の報道に依ると米兵が大宮島(グアム島)に二ヶ師団上陸したと大本営発表があった。来るであろうと思って居たらとうとう来た。
 爆撃と艦砲射撃を盛んにやっている。 只、不思議なのは駆逐艦が艦砲射撃をしていると言う報道である。 戦艦のような大艦なら八里も十里も遠方から撃てるであろうが、小艦では二里か三里であろう。斯様に近い、視野に入るであろう距離から撃ってくるまで近付けると言う事である。それ程飛行機も何もないのしら。それとも敵が次に目指す比島(フィリピン)に近寄るまで引き寄せると言うのか、我々素人には解せない事である。

女学校の後援会

2007-02-16 20:33:28 | 日記 戦中編
昭和十九年七月十八日 晴 一直出勤
 午後、一時暇を貰って長女の女学校の後援会に出席した。
 防空壕を作るに就いて勤労奉仕をして貰いたいとの事だった。
 終業後、事務所一同とビヤホールに行ったが サイパン島の玉砕のため開店中止だった