敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

大晦日も空襲

2007-07-29 19:25:19 | 日記 戦中編
昭和十九年十二月三十一日 晴 二、三直出勤
 夜九時四十五分頃警戒警報が発令になった。 関東西部より帝都に向かって進行していると言う情報があると間もなく敵機が来た。そして東方に焼夷弾を投下して逃走してしまった。 ほんとうに早かった。 発令後十分位でもう敵機が来たのである。 その故か東方の空が赤くなって火災が起きた。 末広町付近だと言う。 可なり焼けたらしく一時間後未だ赤かった。
大久保の操車係から車両が萬世橋に行かないと云ってきた。
 第二回は十一時五十五分頃だった。 前の火事を目標として投弾したらしい。
 第三回は四時半頃だった。 情報では二機来たらしく、又投弾したらしいが何所へ投下したか見えなかった。
 昭和十九年は空襲で暮れた。

餅搗き

2007-07-29 18:57:27 | 日記 戦中編
昭和十九年十二月三十日 晴 公休
 朝から餅搗きをした。 糯米(もちごめ)が配給六升三合。田舎から貰った米六升。 それに蜀黍(もろこし)が八升ある。 糯米と蜀黍を混ぜて搗いた。
警報が発令にならない中に終わろうと大急ぎでしたので蜀黍がよく搗けて居なかった。 幸い警報もなく午後二時頃終わった。 蜀黍のお陰で大体戦争前と仝じ位な餅が出来た。

三十五日の法要

2007-07-29 18:20:31 | 日記 戦中編
昭和十九年十二月二十九日 晴 明け
 早いものだ。 父が死んでからもう三十五日である。而し斯様な情勢では人を寄せても居られないし来てくれとも言えない。 仕方あるまい。 田舎で農繁期には葬式さえ仮にして置く事さえあるのだ。 法要を延ばすくらいは止むを得まい。
 
 夜八時半に警報が出てから十二時頃と二時頃の三回警報が発令になった。  
三回目は帝都に侵入、焼夷弾を東南方に投下して行った。不幸にも火災になった。
一般住宅ではないらしく焔が赤黒く油が燃える時のような色合いだった。工場かも知れない。
長男が学校から帰って来ての話では蔵前一丁目だという。



賞与

2007-07-29 17:27:25 | 日記 戦中編
昭和十九年十二月二十七日 晴 一直出勤
 賞与金を貰った。五百四十三円から税金 八十一円四十五銭、貯金 百十八円引かれ、残金 三百四十三円余だった。
 
 正午に警戒警報、間もなく空襲警報発令になり敵編隊が数回来た。
夕の報道に依ると来襲機数五十数機だという。 其の内十四機を撃墜し二十五機に損害を与えたと言う事であった。 私も一機が東南の空で火を噴いてのたうち廻って落ちるのを見た。 実に良い気持ちであった。 而かし残念にも味方機が二機落ちるのを見た時は何とも云えなかった。

クリスマス

2007-07-17 01:15:43 | 日記 戦中編
昭和十九年十二月二十六日 晴 明け
 帰宅後、十時半ごろ郵便局に行くと長い列。 貯金をせよの何のと言ってもあの長い列で二時間も待たされたのでは貯金もいやになってしまう。
 行列の中に立っていると女の人が、こんなにして居る中にポーと警報がなると困ると言ったら 一人の男が 今日は来ません。 クリスマスだからと言う。物知り顔の多いのには困ったものだ。
 三時の報道に昨日、我が航空隊がサイパンを攻撃したと言う大本営発表があった。昨晩来なかったのもそのためなのである。有難いことだ。

 今日の帰途、水道橋まで来ると巡査が列を作って通る。 四列縦隊の中二列に異様な服装の人が居るので良く見ると、囚徒の護送だった。自動車がないので囚人を二名づつ手首を縛り其の両側に看守がついていく。 驚いた事に其の数の多さと若い人ばかりだった。
 今若い人々が レイテで、支那大陸で、ビルマで勇戦しているのにこうした若い者の気持ちが解しかねた。

垣根の除去

2007-07-09 22:01:47 | 日記 戦中編
昭和十九年十二月十四日 晴 明け
 防空上垣根をなくした方がよいので毀すことにした。
 西隣との境の生垣は通り抜け出来るが、東隣との間は私の家の垣根があり通れないので毀した。 薪に丁度よい。
 夜中、三時に警戒警報、三時十分頃空襲警報発令になった。 身支度をして長男と長女と共に警戒した。 東南方遠くで敵機が焼夷弾を投下するのが見えた。残念だが雲が多くて敵機の所在が判明せず逃がしてしまったらしい