敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

卵の値段

2011-06-08 23:56:05 | 日記 戦後編

昭和二十一年五月二十八日 曇 明け

 帰宅後(十時)蕃茄(トマト)の苗が来たので堆肥を入れて植えた。

 此処に引き移って来た頃(昭和八年)卵が百匁(六又は七ヶ)十三銭、五十銭持って行って四百匁も買えた。 今は幾分下がったが一ヶ三円五十銭である。

 官吏の増俸が七月からだと云う。 それまで餓死しなければよいが。 都従組で一人百円の突破手当を要求しているが考慮すると云う。 何事によらず下の苦が判らないからだ。

 午後理髪に行った(三円四十銭)帰途入浴(五十銭)して頭を洗って来た。

 朝は雑炊、昼は饅頭を五ヶ、恭菜(ふだん草)を入れて焼いたものである。夜も雑炊。 栄養失調も無理がない。

 金の煙管を売ろうと思って依頼してきた。 碁盤も売ってしまおう。 いらぬものは何でも売って生きて行かねばなるまい。

 旧街道の方の配給所で米を配給して居た。 此処の配給所でもやってるらしい。
米だけでなく何でもよいから切れずに入ればよい。 しかしとぎれとぎれでである。
今月に入ってから五日に二十二キロ、二十一日に八キロ 二十五日に八キロの粉と乾パン一袋づつ。 一か月の予定の約半分である。
 政府の要人は何を食べて居るのか。未だに此の飢餓に対して手を打って居ない。
買い出し黙認などと云う声明をしたかと思うと。 今月一杯で来月からは在来通り取り締まるなどと今日の新聞に出て居る。 結局は種々な声明を出すことは無能と無策を国民の前にさらけ出しているだけだ。