敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

大戦果発表

2007-03-29 21:10:15 | 日記 戦中編
昭和十九年十月十五日 晴 一直出勤
 今日も晴れてよい日。殊に又大戦果が発表になったので尚更よい日だった。
 台湾沖で航空母艦 七隻撃沈し其の他二十二隻をやっつけた。 何たる大戦果だ。 只々有難いと言うより以外にない。

台湾に空襲

2007-03-29 20:58:22 | 日記 戦中編
昭和十九年十月十四日 晴 明け
 一昨日 台湾に空襲があった。 延べ 千百機だという。
 妻の妹が居るがどうした事か。 夫が出征して居るし子供は大勢で、而も皆小さい。さぞかし心細意事であろう。 気の毒に堪えないがどうにもならない。
 昨日に引続き、今日も又戦果の発表があった。 敵機動部隊に可なりの痛手をおはせた。 有難いことだ。

通勤難

2007-03-23 22:01:33 | 日記 戦中編
昭和十九年十月六日 雨 一直出勤
 八時に帰宅すると 勤労動員に行ってる長女が今食事を始めたばかりで居る。
 五時に工場(秋葉原)を出て電車に乗れないで帰着まで三時間かかったと云いながら泣いている。 夜の八時まで何も食べないで 雨の降る街の中に乗れない電車を見送っている その辛さは思うても余りある。 而も空腹を抱えて漸く帰着しても満腹するだけ食べられるわけではないし可愛そうなものだ。
 通勤のために斯様に骨が折れては国の為もさる事ながら身体の問題である。
国の為には致し方もないが限度がある。 明日から休めと命令した。

グアム島、テニヤン島の玉砕発表

2007-03-18 17:34:14 | 日記 戦中編

昭和十九年十月二日 雨後曇、明け 
 大宮島(グアム島)、テニヤン両島の我守備隊が又全員戦死との事が昨日発表になった。 
 末次大将の談話が新聞に出ていたが、必ず攻勢転移の時が来るからそれまで国民は軍を信頼して一路増産に勉めなければならないと云う。
 それは判って居るが戦士者と島に残って軍と協力した人々が洵に気の毒に堪えない。 攻勢転移の期が一日も早からん事を祈る。
 今夜は月見であるが戦時下の事とて団子一つない。 裏で取れた栗が役五百匁程あったのでゆでて皆に分けてやった。 一人六ヶ宛分けられた。


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     テニヤン島は 8月2日、 グアム島は 8月11日に玉砕 (wikipedia より)

 

 

                                   


馬鈴薯の配給

2007-03-10 00:00:25 | 日記 戦中編
昭和十九年九月二十六日 曇時々小雨 賜暇
 馬鈴薯の配給(四十瓩)があった。夜は御飯代わりに食べた。
 薯を御飯代わりに三年は食べなければならない、などと 北海道の移民の話を子供の頃聞かされて、北海道は大変な所だと思って居たが 今は東京で御飯の代わりに食べるようになった。 実においしかった。

 今自由経済時代の物の豊富な安い時が遠い夢の様に思い出されるが、戦争に勝って日本が構想する 大東亜が実現すれば 自由経済にはならないが、幾分でも物が多くなった時は 今の戦時下の生活が夢の様に想い出話の種になるだろう。
 いつの世にも我々は希望を持って目下の苦しみに堪えねばならぬ。

内職

2007-03-09 23:08:50 | 日記 戦中編
昭和十九年九月十八日 晴 明け
 帰宅前に電車の電動機の分解の内職?をして来た。業者に請負わせて休止車から使用可能の部品を外して疎開させる事にしたのだが人手がなくてなかなか片付かない。帰る人達が残って仕事をし、請負価格を貰うと云うのだ。はかどらないから協力してくれと云うので、三人一組で電動機二個を分解して(十八円)帰宅した。