goo blog サービス終了のお知らせ 

敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

トタン板

2008-04-13 19:08:07 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十八日 晴 二、三直出勤
 
 昨夜、Aさんが四つ又の親類の裏の焼け跡にあるトタン板を差し上げるから運んだらどうかと言ってくれたので、 今朝早速朝食前に行ってトタン板を背負ってきた。 大してよい板はなかったが何かの役に立つであろう。
 
 朝食後、先日作った鉄板の七輪がどうも火が散るので中に中に筒を入れたらどうかと思って残りの鉄板で筒を作って入れ、火を燃やしてみた。 火が束になって鍋の底に行くので大分具合がよい。 それから穴のあいたニューム鍋があったので修理した。
 
 昨日、長女が学校へ行ったが、学校は全焼したと言う。 跡片付けをして夕方帰って来たと言う。
 
 
 

停電続く

2008-04-09 22:04:43 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十五日 晴 二、三直出勤
 
 昨日足に豆を四つ程出したので地下足袋を作って貰って出勤した。 幸いにも池袋からバスに乗れた。

 夜、電灯もない、ラジオもない、勿論仕事は出来ないので明日廻しにし、暗い室内で火を燃やしていた。
寝ようと思って居ると九時二十分警報発令、火を消して身支度して居ると十時頃空襲警報が発令になった。
一昨夜と仝じやうに南から北西に行き焼夷弾や時限爆弾を投下した。
南方一帯に火の手が上がった。 品川か蒲田の方ではないかと思う。
 
 十三日夜 明治神宮に投弾して全焼させたと言う。 又宮中にも投弾したらしい。 暴虐と言うか全く言葉がない。 しかし此の悲憤を思い知る時が来る事を確信する。

 新聞も十四日から来ない。 田舎の山奥に行ったようだ。

不発弾は焼夷弾だった

2008-03-30 23:42:54 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十四日 晴 一直出勤
 朝早くK君が来た。 巣鴨の妻の兄の家は路地一つで助かったとの話に安心した。 巣鴨、大塚の車庫は全焼。
 朝食後歩いて出勤した。 途中大山辺もひどく焼けていた。 妹のJ君の家に立ち寄ると無事であった。 これで皆無事である。 J君の家から池袋駅まで一面焼け野原。 駅もあとかたもなかった。 省線電車が一台線路の上に焼けて骨だけ残って居た。
 二時半頃車庫を出て帰途に就いた。 足に豆を三つほど出かして痛くて困った。
途中で東京急行バスが営業していたので乗って来た。 新宿、池袋間が二十銭である、それでも鈴なり状態であった。
 帰宅するとY氏宅の時限爆弾?を警戒した縄張りがない。 妻の話では 組長の息子が掘って見たら 焼夷弾の不発弾だったと言う。 しかも三十八本一緒になっているのが其の侭めり込んだのだという。 ああ恐ろしい事だ。若し空中で発火して散ったらこの隣組全部が一度に火事になったであろう。
 夜、電灯がつかないので早く寝た。 暫らくはローソクの生活をせねばなるまい。
 夜中一時頃又敵機が来た。 ラジオがないので何が何だか少しも分らない。
誰かが、南方洋上に数目標あり、など怒鳴る男が居た。 幸いにすぐ解除になった。 ラジオがないのでサイレンを頼りにしなければならない。 困るのはデマである。

 

我が家被弾の危機。 ルーズベルト死去。

2008-03-25 23:12:22 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十三日 晴 明け
 朝九時警戒警報発令。敵一機帝都に西方より侵入、上空で反転し西方に去った。
 三時頃 又警戒警報発令。 西方より関東に侵入、京浜北方を通過して東方に去った。
 十時半帰宅後、衣料を入れてある穴を見ると土の重みで上の板がしほって真ん中が凹んでいる。 これでは水が漏るわけだ。 一昨日持って来た子割で補強して土をかけた。 蓋の戸板にトタン板を張りつけた。

 午後常会があった。 組長が任期一年満了し新組長の選挙であった。H氏が当選した。

 常会から帰ってから鉄板で七輪作りをした。 手に豆を二つ出した。
妻が疎開片付けの勤労奉仕に行った。 午後長女と次女も行って薪を持って来た、妻も帰りに持って来て薪が大変出来た。

 ルーズベルトが死んだと言う報道があった。 よい気味だ。 戦争には変わりはないけれどよい気持ちである。

 夜十時半警報発令になった。 敵小数機房総南部に侵入せり、と言う。 三月九日の侵入方向と同一なので若しやと思って支度をして居ると十一時頃空襲警報が発令になった。 敵は一機づつ次々と侵入、 焼夷弾と爆弾を混投、四方に火の手が上がった。 頭上でいくつもの焼夷弾が炸裂した。 すぐ前の荒物屋のAさんの玄関先に落下した。しかし幸いにも消し止めた。 南町会も燃え出した。 川向こうの林の中の家、 豊島病院の左側。 愛染様と周囲一面から火が上がった。 風がなくて幸いだと思って居たら西北風さえ出てきた。 煙が、火の子が盛んに来た。
 いよいよ駄目と覚悟を決めて 生きる事が大事だからあまり物にこだわるなと言い渡した。 そして隣家A氏の子供やK氏の家族と共に長女、次女、四女、三男を避難させた。 八方のうち火の見えないのは西北方一方だから其の方向に行くように命じて 長男と妻と私だけ残った。
 ラジオは十一時頃停電して駄目になってしまった。 十二時頃H君の家に行ってみたら全員居るからというので安心した。 隣家N氏宅の荷物を搬出したりした。
 高射砲弾が敵機に命中火を吹いて落下するのがよく見えた。 今まで可也沢山高射砲の発射を見たが命中弾を見たのは初めてだ。 当たったと思う間もなく火を吹き左へよろめいたと思うと真っ逆さまに落下して林の陰に見えなくなったと思うと又、真っ直ぐに上昇し又、真っ逆さまに落ち火の手が上がった。どの辺か。

 裏のY氏宅に爆弾が落下したと組長の話であった。 不発弾か時限爆弾か不明だが屋根と天井を抜き 蒲団と床を抜いて床下に入ったとの事だった。 周辺の家は勿論私の家も危険だからというのであったが 解除と同時に家に入った。 隣のN氏の奥さんも避難してきて雑談している内に夜が明けた。

 二時半頃まで引っ切り無しに敵機が来て焼夷弾を落として行ったが、三時頃遠くのサイレンが鳴り解除になった。 商工学校屋上のサイレンは駄目になってしまった。



強制疎開

2008-03-20 00:16:38 | 日記 戦中編
昭和二十年四月十日 雨 明け
 東上線で行けば其の沿線全部、 都電で行けば其の全沿線の強制疎開、実にはげしいものだ。 理屈では疎開の必要は理解出来るが 未だ片付かない乱雑な様を見るともったいない気持ちもするし、戦争と言うはげしい変化を見ては感傷も起きる。

昭和二十年四月十一日 晴 公休
 朝七時集合、勤労奉仕に行った。
元の市電終点の疎開家屋取壊しであった。 私は角材を積み重ねる仕事を一日した。 帰りに薪に子割を二十本程持って来たが重かった。
 帰宅(四時半)後くぎ抜きをしたが、今更のように日本家屋のくぎの多いのに驚いた。

昭和二十年四月十二日 晴 二、三直出勤
 人手が足りないから今日も勤労奉仕に出てくれないかと組長が言って来たので 午後出勤であるから午前中だけなら出ますといって置いた。 そして八時頃出発、四ッ又まで行くと警戒警報発令、 直ちに解散帰宅した。
 九時半ごろ空襲警報発令。 情報は十編隊が南方洋上を北上中だという。 十時半頃家の西方を南西から北東へ数編隊が行った。 機銃の音が頭上でバリバリと音がして間もなく P51が真っ逆さまに落下して行くのが見えた。
 十一時五十六分空襲警報解除、十二時十分頃警戒警報も解除になった。 

醤油が買えた

2008-03-15 19:14:33 | 日記 戦中編
昭和二十年四月九日 曇小雨 二、三直出勤
 強制疎開除去建物取片付けの勤労奉仕が割り当てられた。十一日だと言う。公休が取れるから丁度よい。

 次女の入学式、長女の始業式で二人が行った。

 久しく醤油が買えなかったが今日ようやく買えるという通知が来た。
ほうれん草を抜き取って久し振りにひたし物を食べたが美味だった。
 
 

軍艦マーチ

2008-03-15 18:51:59 | 日記 戦中編
昭和二十年四月八日 晴后曇 明け
 帰宅後、庭に衣料を入れる穴の蓋を作った。 板がないので苦心した。
 正午頃B29一機侵入。解除になったかと思ったら零時半頃又一機来た。よく来る。
 午後穴の中に衣料を入れた。 かなり家が片付いた。
 夕方、大本営発表があった。 久し振りに海軍行進曲を聞いた。
此れで艦船撃沈破合計二百四十五隻である。 しかし尚百隻以上の機動部隊が居るという。 容易なものでない。 夜敵機は来なかった。 


大編隊襲来。 鈴木内閣発表

2008-03-11 22:29:03 | 日記 戦中編
昭和二十年四月七日 晴 二,三直出勤
 四女が二階まで来て起こしたので起きた。七時少し過ぎだった。
間もなく東海海域警戒警報だという。朝食をして居ると敵大編隊が南方洋上を北上中で八時四十分頃本土に到達する予定だと言う情報が入った。
 来たら来た時だと思って庭のほうれん草を抜いた跡に肥料を入れちしゃの植え替えをした。 五十本程植えた九時半頃空襲警報発令。 B29にP51も混じっているとの情報だった。
 十時少し過ぎ、来た来た。 家の西方遠く西南から北東へ進んで行った。
観兵式の時のように七、八十機揃って進んで行く。 制空部隊の攻撃と高射砲の攻撃に火を噴いてバラバラになって落ちるのや空中分解するのや煙の尾を引いて行くのが見えた。
 十時四十分空襲警報解除。 午後二時頃又、警報発令。 B29一機が西方より侵入、熊谷より反転又西方に行き相模湾より脱出した。午前の偵察に来たのかも知れない。

 大本営発表があった。 之で合計二百十一隻の大戦果になった。

 夜、鈴木内閣の発表があると云うので待っていたが十時半になっても発表がないのであきらめて寝てしまった。 どうせ大した者は出はしまいから期待はない。

靴の修理

2008-03-11 21:31:22 | 日記 戦中編
昭和二十年四月六日 曇 明け
 昨日と同じく曇り、時として薄日が出る位で寒かった。
朝九時頃警報発令、敵一機侵入関東西北部を通って東方海上に脱出した。
 帰途、水道橋で巣鴨行きを待ったが来ないので大塚行きに乗り省線で池袋へ、そして中板橋から帰ってきた。交通が不完全で困る。
 帰宅(十一時半)後靴の修理をした。 配給のズック靴を長男がボロボロにしたのでその底を利用し半張りと踵へ打ち付けた。 午後長女の靴も修理した。戦時下の生活は靴屋までせねばならぬ。

時限爆弾

2008-03-06 20:52:44 | 日記 戦中編
昭和二十年四月三日 晴れ後曇 二、三直出勤
 夜中十二時半頃警報発令、一時少し前空襲警報発令。一機二機と分散して伊豆方面と鹿島方面より侵入、関東北部、西部、東京等に焼夷弾、時限爆弾等を投下した。
 大久保から見て、南方、東方、東南方に火の手が上がった。西方柏木にも火災が起きた。
しかし強制疎開の空家が大半だったのは幸いだった。 省線の架空線等に損傷箇所が生じた。
発表によると約九十機だという。
時限爆弾と言うのは東京では初めてであるが気味悪いものであった。 敵機が居なくなってから爆発して一夜中窓がビンビン響いて居た。