先週の土曜日。
実家の片付けに向かった。
父という主のいなくなった実家。
私たちは「売る」という決断をした。
それも「更地」にするのが条件。
だから、片付けをしなくてはならない。
曽祖父の建てた家。
ほぼ100年近い歳月が経つ。
引っ越しなんてことはなかったら、
押し入れ、納戸の中はものが一杯。
父が一人暮らしをしてからは、
そのものは部屋の中にも侵食し始めていた。
片付けの中心になってくれているのは妹夫婦。
妹夫婦は暮れからお正月にかけ、
ずっと週末は実家の片付けに行ってくれている。
私たち夫婦は私が行かれる時に妹たちと合流。
ほんと、妹夫婦に甘えてしまっている。
さて、この日、台所の食器や母のものを選別した。
妹は、形見なんて大仰なものはないけれど、
孫たちにほしいものを渡したいといった。
たまたま長女に聞いた時、
「おばあちゃまの家に行くと、
いつも出してくれた格子模様のお皿が残っていたら、
それが欲しいかな」という。
このお皿は孫たちが行くと、
お正月はお餅を、普段はおかずやおやつを
入れてくれていたものだ。
祖父母の家と言ったら、これとスプーン。
母はうさぎやさる、パンダといった
動物の顔つきのスプーンを
孫が生まれるたびに用意してくれた。
そんな日常のものが孫にとっては
「祖父母の家」の象徴なんだって思わされた。
そこで、お皿はもらっていくことに。
一番よく使っていたピンクの格子柄は
既にひびが入り、残念ながら持ち帰れなかった。
だから残りの4枚を持ち帰ることに。
「Kちゃん(末娘)にはお母さんが大切にしていた
ロイヤルアルバートのオールドカントリーローズの
カップアンドソーサーはどうかしら?」(妹)
「あ、あれ、お母さん大切にしていたわよね。
それがいいと思う」と私も賛成。
末娘にはそれと決まった
(だが、この時点で、まだ本人から
直接なにがほしいかきいていなかった・・・)。
「Tちゃん(息子)はお父さんが使っていた、
RADOの時計はどうかな。
Tちゃんが言うには、この時計は昔、
お父さんとお母さんが香港に旅行した時に
買ったものらしいの。
Tちゃんは『おばあちゃんのお葬式のとき、
おじいちゃんはこれをしてたよ』っていうのよ。
だから、おじいちゃんが大事にしていた
これが欲しいって聞いているの。
だからこれにしよう」(妹)
すでに父の木刀と母の黒檀の鏡台は長女のところで
置いてもらうことになっている。
妹は「私たちがもらっても、老い先短いものね。
孫のところに置いてもらえれば
しばらくはそこでゆっくりできるわよね。
それに、なんとなく安心よね」という。
私も妹と同じ気分。
本当は位牌より父らしかったり、母らしい、
この二つのものは二人の魂が入っている感じ。
それは娘が持つべきなのかもしれない。
が、私たちはいつまでもというわけにはいかない。
だったら、この選択がいいと思ったのだ。
家に帰って、末娘に形見に何が欲しいと聞いた。
そうしたら姉と同じく、あの格子のお皿が欲しいという。
「おばあちゃまたちの家と言ったら、あのお皿よ」(末娘)
「そうか、Kちゃんもあれが欲しかったのね。
あれはAちゃんが欲しいと言っていたので、
そっちに持っていったのよ」(私)
「なら、いいよ。大丈夫。
Aちゃんの家に遊びに行ったとき出してもらうから」(末娘)
「それでね、Tおばちゃんは、
あなたにはおばあちゃまが大切にしていた、
ロイヤルアルバートはどうかっていうのよ」(私)
「え、あんまり見たことないよ。
大丈夫、私に気を使ってくれなくても」(末娘)
「そうね、おばあちゃまは大事にしていて、
子どもにはその食器を出さなかったからね」(私)
「格子のお皿が欲しかったのは、
それをみると、ばーっとおばあちゃまたちのことを
思い出せるのよね。
でも、ロイヤルアルバートは
そんな思い出がないわけだし。
だから、わたしにとっては形見にならないかな」(末娘)
なるほど、いくら祖母が大切にしていたものでも、
それは大切にされ過ぎて、
しまわれていうことの方が多かった。
だから、末娘はあまり目にしていない。
それじゃあ、形見ではないという論理。
一理ある、どころか百理あると思った私。
それにしても、私はまた間違いを犯した。
姉娘には何がいいと聞いていたのに、
妹娘には聞いていないうえに、
こちらで決めてしまった・・・。
「大丈夫。なにもなくたって、おばあちゃまのことは
ちゃんと覚えているから」(末娘)
そしてあくる日の朝・・、
「昨日、夜中に考えたんだ。
ロイヤルアルバートには思い出がないから
いらないって思ったけれど、
昨日、お父さんやお母さんといろんな話して、
これで思い出ができたわ。
だから、貰うことにした。
おばあちゃまも大切にしていたんだしね」(末娘)
と、一件落着。
私たち娘は、今、捨てることにまい進している。
ほとんど、思い出は心の中にあるものねっていいながら。
実家の片付けに向かった。
父という主のいなくなった実家。
私たちは「売る」という決断をした。
それも「更地」にするのが条件。
だから、片付けをしなくてはならない。
曽祖父の建てた家。
ほぼ100年近い歳月が経つ。
引っ越しなんてことはなかったら、
押し入れ、納戸の中はものが一杯。
父が一人暮らしをしてからは、
そのものは部屋の中にも侵食し始めていた。
片付けの中心になってくれているのは妹夫婦。
妹夫婦は暮れからお正月にかけ、
ずっと週末は実家の片付けに行ってくれている。
私たち夫婦は私が行かれる時に妹たちと合流。
ほんと、妹夫婦に甘えてしまっている。
さて、この日、台所の食器や母のものを選別した。
妹は、形見なんて大仰なものはないけれど、
孫たちにほしいものを渡したいといった。
たまたま長女に聞いた時、
「おばあちゃまの家に行くと、
いつも出してくれた格子模様のお皿が残っていたら、
それが欲しいかな」という。
このお皿は孫たちが行くと、
お正月はお餅を、普段はおかずやおやつを
入れてくれていたものだ。
祖父母の家と言ったら、これとスプーン。
母はうさぎやさる、パンダといった
動物の顔つきのスプーンを
孫が生まれるたびに用意してくれた。
そんな日常のものが孫にとっては
「祖父母の家」の象徴なんだって思わされた。
そこで、お皿はもらっていくことに。
一番よく使っていたピンクの格子柄は
既にひびが入り、残念ながら持ち帰れなかった。
だから残りの4枚を持ち帰ることに。
「Kちゃん(末娘)にはお母さんが大切にしていた
ロイヤルアルバートのオールドカントリーローズの
カップアンドソーサーはどうかしら?」(妹)
「あ、あれ、お母さん大切にしていたわよね。
それがいいと思う」と私も賛成。
末娘にはそれと決まった
(だが、この時点で、まだ本人から
直接なにがほしいかきいていなかった・・・)。
「Tちゃん(息子)はお父さんが使っていた、
RADOの時計はどうかな。
Tちゃんが言うには、この時計は昔、
お父さんとお母さんが香港に旅行した時に
買ったものらしいの。
Tちゃんは『おばあちゃんのお葬式のとき、
おじいちゃんはこれをしてたよ』っていうのよ。
だから、おじいちゃんが大事にしていた
これが欲しいって聞いているの。
だからこれにしよう」(妹)
すでに父の木刀と母の黒檀の鏡台は長女のところで
置いてもらうことになっている。
妹は「私たちがもらっても、老い先短いものね。
孫のところに置いてもらえれば
しばらくはそこでゆっくりできるわよね。
それに、なんとなく安心よね」という。
私も妹と同じ気分。
本当は位牌より父らしかったり、母らしい、
この二つのものは二人の魂が入っている感じ。
それは娘が持つべきなのかもしれない。
が、私たちはいつまでもというわけにはいかない。
だったら、この選択がいいと思ったのだ。
家に帰って、末娘に形見に何が欲しいと聞いた。
そうしたら姉と同じく、あの格子のお皿が欲しいという。
「おばあちゃまたちの家と言ったら、あのお皿よ」(末娘)
「そうか、Kちゃんもあれが欲しかったのね。
あれはAちゃんが欲しいと言っていたので、
そっちに持っていったのよ」(私)
「なら、いいよ。大丈夫。
Aちゃんの家に遊びに行ったとき出してもらうから」(末娘)
「それでね、Tおばちゃんは、
あなたにはおばあちゃまが大切にしていた、
ロイヤルアルバートはどうかっていうのよ」(私)
「え、あんまり見たことないよ。
大丈夫、私に気を使ってくれなくても」(末娘)
「そうね、おばあちゃまは大事にしていて、
子どもにはその食器を出さなかったからね」(私)
「格子のお皿が欲しかったのは、
それをみると、ばーっとおばあちゃまたちのことを
思い出せるのよね。
でも、ロイヤルアルバートは
そんな思い出がないわけだし。
だから、わたしにとっては形見にならないかな」(末娘)
なるほど、いくら祖母が大切にしていたものでも、
それは大切にされ過ぎて、
しまわれていうことの方が多かった。
だから、末娘はあまり目にしていない。
それじゃあ、形見ではないという論理。
一理ある、どころか百理あると思った私。
それにしても、私はまた間違いを犯した。
姉娘には何がいいと聞いていたのに、
妹娘には聞いていないうえに、
こちらで決めてしまった・・・。
「大丈夫。なにもなくたって、おばあちゃまのことは
ちゃんと覚えているから」(末娘)
そしてあくる日の朝・・、
「昨日、夜中に考えたんだ。
ロイヤルアルバートには思い出がないから
いらないって思ったけれど、
昨日、お父さんやお母さんといろんな話して、
これで思い出ができたわ。
だから、貰うことにした。
おばあちゃまも大切にしていたんだしね」(末娘)
と、一件落着。
私たち娘は、今、捨てることにまい進している。
ほとんど、思い出は心の中にあるものねっていいながら。