我が家は二世帯住宅。
私たち家族が二階で姑が一階という生活を
30年弱続けてきた。
その姑も昨年亡くなった。
その前に子どもたちは次々に巣立っていった。
飛ぶ鳥、跡を濁さず・・・・、
というのは今では死語かと思われるほど、
巣立っても、巣立っても、
我が家の「もの」は減らなかった。
この同居中、私たち家族は4年弱家を空けた。
夫の合衆国南部A市赴任に伴って、
姑を除いて、私たちも海を渡った。
そして、帰国。
持ち出した荷物よりも、
持ち帰った荷物の数の方が圧倒的に多かった。
私は姑に頭を下げて、空いている押し入れの天袋や、
使っていない部屋の押し入れを借りて何とか収納。
その後、子どもたちが一人暮らしや結婚で
家を出るたびに残していったものも、
姑を拝み倒して一階に置かせてもらっていた。
そして、その時収納されたものは、
今日の今日まで日の目を見なかった。
つまり、一番古いものは
23年間もそのままだったということ。
我が家はもうすぐ、
姑の住んでいた一階部分のリフォームする。
それまでにはなんとか整理しなくては・・。
私は嫁。
それも鬼嫁。
姑が亡くなってから、
彼女のものは少しずつ処分し始めた。
もともと整理整頓を旨とする姑は
92歳で施設に入るまで、本当に簡素な住まい方を通した。
必要最小限のものと気に入った写真。
そしてテレビとこたつ。
だから、少しずつ処分を始めたら、
わけなく姑のものは片付いた。
姑の居住部分だったのに、
気づいたら私たち夫婦の今すぐには使わないもの、
思い出の品々、そして子どもたちが残していったものの
保管倉庫と化していた。
だから姑のものが片付いても、
一階は一向に片付かなかった。
しかしリフォーム開始を1か月半後に控えて、
私たち夫婦の重い腰もついに上がった。
子どもたちのおいていった大物小物の整理。
粗大ごみの収集をしてもらう手続きをすること。
やることはいっぱいある。
テキパキやらなくてはならないのに、
23年間封印していたものをいざ解くとなると、
出てきたものを見て、
頭の中のスイッチがあちこちで入ってしまう。
1か月、2か月ならともかく、
23年間開かなくても何の不都合もなく暮らしていたのだから、
そのままポイッということでもいいはずなのに・・。
自分たちの分は後回しにして、
子どもたちがいいと言ったものをまず処分しよう、
そう考えた。
でも、子どもたちが処分していいと言っているのに、
処分をためらうものがある。
それは子どもたちがああ、あの時は一生懸命だったなと思うもの。
その一生懸命さを思い出し、思わず捨てる手が止まる。
その一つに息子の多摩川べりを歩く
耐久歩行大会のメダルがある。
息子はもう忘れているだろう。
走ったり歩いたりしながら、最後まで完歩。
最後のお汁粉が待っていたと言っていたことを思い出す。
アメリカ南部A市の日本人補習校幼稚部に通っていた娘の
ひらがな練習帳も出てきた。
やっと覚えかけた日本語が、英語に替わっていったあの日々。
娘のフルートの一本目。
アメリカの小学校には
バンド(ブラスバンド)の時間が毎日あった。
一生懸命練習して、ポジションをとる。
よく練習していたっけ。
なーんて、自分の子育ての日々が蘇る。
あの時の自分、今の自分、
色んな自分がいる。
そしてさらにその前の自分。
実家の本棚に本を入れっぱなしにしたまま、
私は結婚した。妹も。
その本棚は父の入院を期に、
今は空き家状態になった実家にそのままある。
その時の自分と今の自分。
同じ自分を生きているけれど、
あの時の自分は今の自分じゃない。
そんなことを思う片付けの一コマでした。
私たち家族が二階で姑が一階という生活を
30年弱続けてきた。
その姑も昨年亡くなった。
その前に子どもたちは次々に巣立っていった。
飛ぶ鳥、跡を濁さず・・・・、
というのは今では死語かと思われるほど、
巣立っても、巣立っても、
我が家の「もの」は減らなかった。
この同居中、私たち家族は4年弱家を空けた。
夫の合衆国南部A市赴任に伴って、
姑を除いて、私たちも海を渡った。
そして、帰国。
持ち出した荷物よりも、
持ち帰った荷物の数の方が圧倒的に多かった。
私は姑に頭を下げて、空いている押し入れの天袋や、
使っていない部屋の押し入れを借りて何とか収納。
その後、子どもたちが一人暮らしや結婚で
家を出るたびに残していったものも、
姑を拝み倒して一階に置かせてもらっていた。
そして、その時収納されたものは、
今日の今日まで日の目を見なかった。
つまり、一番古いものは
23年間もそのままだったということ。
我が家はもうすぐ、
姑の住んでいた一階部分のリフォームする。
それまでにはなんとか整理しなくては・・。
私は嫁。
それも鬼嫁。
姑が亡くなってから、
彼女のものは少しずつ処分し始めた。
もともと整理整頓を旨とする姑は
92歳で施設に入るまで、本当に簡素な住まい方を通した。
必要最小限のものと気に入った写真。
そしてテレビとこたつ。
だから、少しずつ処分を始めたら、
わけなく姑のものは片付いた。
姑の居住部分だったのに、
気づいたら私たち夫婦の今すぐには使わないもの、
思い出の品々、そして子どもたちが残していったものの
保管倉庫と化していた。
だから姑のものが片付いても、
一階は一向に片付かなかった。
しかしリフォーム開始を1か月半後に控えて、
私たち夫婦の重い腰もついに上がった。
子どもたちのおいていった大物小物の整理。
粗大ごみの収集をしてもらう手続きをすること。
やることはいっぱいある。
テキパキやらなくてはならないのに、
23年間封印していたものをいざ解くとなると、
出てきたものを見て、
頭の中のスイッチがあちこちで入ってしまう。
1か月、2か月ならともかく、
23年間開かなくても何の不都合もなく暮らしていたのだから、
そのままポイッということでもいいはずなのに・・。
自分たちの分は後回しにして、
子どもたちがいいと言ったものをまず処分しよう、
そう考えた。
でも、子どもたちが処分していいと言っているのに、
処分をためらうものがある。
それは子どもたちがああ、あの時は一生懸命だったなと思うもの。
その一生懸命さを思い出し、思わず捨てる手が止まる。
その一つに息子の多摩川べりを歩く
耐久歩行大会のメダルがある。
息子はもう忘れているだろう。
走ったり歩いたりしながら、最後まで完歩。
最後のお汁粉が待っていたと言っていたことを思い出す。
アメリカ南部A市の日本人補習校幼稚部に通っていた娘の
ひらがな練習帳も出てきた。
やっと覚えかけた日本語が、英語に替わっていったあの日々。
娘のフルートの一本目。
アメリカの小学校には
バンド(ブラスバンド)の時間が毎日あった。
一生懸命練習して、ポジションをとる。
よく練習していたっけ。
なーんて、自分の子育ての日々が蘇る。
あの時の自分、今の自分、
色んな自分がいる。
そしてさらにその前の自分。
実家の本棚に本を入れっぱなしにしたまま、
私は結婚した。妹も。
その本棚は父の入院を期に、
今は空き家状態になった実家にそのままある。
その時の自分と今の自分。
同じ自分を生きているけれど、
あの時の自分は今の自分じゃない。
そんなことを思う片付けの一コマでした。
私も二世帯住宅で、一緒に住むことになった父の遺品や彼の先祖の遺品(アルバムその他)
そして、その前に亡くなった母の遺品も一緒に引き受けました。
で、子どもたちも出て行って。。。
半端ないです(笑)
私の思い出だけは私の判断で、
簡単に処分出来そう?