2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

ワルキューレ

2008-02-24 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  2ヶ月ぶりの更新である。あまりに心をかき乱されることが多く、今まで、もう全く何ひとつ書く気が起こらなかった。ようやく少しだけ気持ちに余裕が生まれたので、更新という前向きな意欲がわいてきた。

  二期会の公演で「ワルキューレ」を見た(2月20日)。ジョエル・ローウェルスというベルギー人の演出、指揮は飯森泰次郎である。数年前に日生劇場でみた飯森の「パルシファル」が素晴らしかったので、今回も大いに期待して出かけた。

  夜の6時に始まり、10時半に終わるという長丁場ながら、私は大いに楽しんだ。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「さまよえるオランダ人」に続く二期会のワグナー公演だが、各公演の演出が面白い上に、歌手や演奏家の水準も一様に高く、二期会という団体の不断の努力には頭が下がる。ただ、どの公演をとってもオーケストラのスタミナ不足は目立つところで、歌手の力量が日を追って伸びているのにオーケストラが足を引っ張る場面が少なからずある。オペラ座のピットに入るオーケストラは、ワグナーを弾ききり、吹ききる体力を鍛えなおすべきだと思う。

  ジョエル・ローウェルスの舞台は、ヴィーラント・ワグナーにはじまる新バイロイト様式とは異なり、いささか説明過剰ともいえる演出が施されていた。パトリス・シェローがバイロイトで試みたように、時代設定の中に近代から現代までの様ざまなファクターを投げ込んで、そこに現代が抱える諸問題を投影するというほど大掛かりなものではなく、父親の横暴と娘の自立という家庭内のごたごたを根本に置きつつ、ワグナーのスコアに寄り添って、音楽ドラマとしての面白さを前面に打ち出したものだった。

  彼の演出でこのオペラを見ていると、神々と人間たちが欲にまみれて運命に翻弄されていく中で、ブリュンヒルデだけが自らの意志で運命を切り拓いていく存在に見える。自立する現代の女性そのものである。

  公演日から数日経ってつらつらと考えていると、ワグナーの「血」のこだわりについて、考えるようになった。神々の長、ヴォータンと人間の女性との間に生まれた兄妹がジークムントとジークリンデである。一方、ヴォータンには智の神エルダとの間に9人の娘がおり、この9人の集団はワルキューレと呼ばれている。この中のひとりがブリュンヒルデである。いずれにしても、ジークムント、ジークリンデ、ワルキューレ9人娘は異母兄妹ということになる。

  一方、「ワルキューレ」には出番がないが、しきりと“世界を救済する英雄”というビジョンで語られるのがジークフリート。「ワルキューレ」の続編である「ジークフリート」の主人公である。父ヴォータンに逆らった罰として炎に包まれた岩山に眠るブリュンヒルデを救出するのが、他ならぬこの英雄ジークフリートである。彼らはやがて結ばれることとなる。

  よく考えてみると、ジークフリートは、ジークムントとジークリンデの息子である。これは、近親婚によって生まれた子供であり、ヴォータンにとっては孫にあたる。ヴォータンの孫であるジークフリートが救出したのは、これまたヴォータンの娘であるブリュンヒルデ。やがて二人は結ばれるわけだが、今度は娘と孫が結ばれるという近親相姦の極致が描かれるのである。

  ワグナーの楽劇「ニーベルングの指環」は、序夜「ラインの黄金」、第一夜「ワルキューレ」、第二夜「ジークフリート」、第三夜「神々の黄昏」という具合に構成されていて、すべてを見るのに4日間かかるという大作である。

  これら4作の中でも、とくに人気が高いのが第一夜の「ワルキューレ」で、今回の二期会のように単独で上演される機会が多い。四夜全てに登場するものの、主役というよりは常に一歩引いたところにいるのが神々の長・ヴォータンである。もともと、すべての事件が彼の世界支配の欲望から出ているものなのだが、彼自身は旅人に姿を変えたりして、傍観者的立場に立っている。

  何かと忙しくさせられるのが英雄ジークフリートとブリュンヒルデ。ジークフリートは第三夜で大活躍するが、第四夜では殺されてしまう。ブリュンヒルデは第二夜につづいて第三夜の終盤で登場し、第四夜、大詰めの場面で「ブリュンヒルデの自己犠牲」という長丁場のアリアを歌い、自爆テロさながらに炎の中に飛び込んで行き、人間も神も、この世の何もかもが燃え尽きるのである。

  というわけで、この話の中心的な人物というか目立つ存在は、ジークフリートとブリュンヒルデなのだが、このふたりともヴォータンのDNAが脈々と流れている。何ともドロドロした近親模様だが、ワグナーの聖地(メッカ)バイロイトを主宰しているのも、ワグナー直系の孫である。

  話は複雑になるが、ワグナー自身の子供もジークフリートという名前である。奥さんはコジマといい、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローからの略奪婚である。ちなみにコジマの父親は、作曲家であり大ピアニストのフランツ・リスト。

  ワグナーの死後、彼が自身の楽劇を上演するための理想の劇場として建設したバイロイト歌劇場を継いだのが、このジークフリートである。その後、ワグナー好きのヒットラーが何度も当地に足を運ぶなどいろいろあって、第二次大戦後しばらくは歌劇場が閉鎖された。これを再建したのが、ヴィーラントとウォルフガングの兄弟。ワグナーの孫である。

  ナチスの悪印象を払拭することもあって、ヴィーラントは極度に抽象化した舞台を演出し、戦後の新しいバイロイト再建に成功する。実務家のウォルフガングは芸術家である兄を助けていた。やがて、ヴィーラントは過労死し、ウォルフガングが演出面も手がけるようになる。そして現在、ウォルフガングは90歳になろうとしている。このところ毎年、後継者の話題が囁かれるが、はっきりとは決まっていない。情報によると、ウォルフガングは後妻の娘であるカタリーナを後継に推している。ところが、財団は前妻の娘、エーファ(これはマイスタージンガーのヒロインの名前だ!)を推し、他にヴィーラント系列のニーケが後継に名乗りを上げている。

  世界支配と血の継続を描いた「ニーベルングの指環」は、ワグナー家のゴタゴタそのもののようだ。私はそんなことを考えながら、今回のジョエル・ローウェルスが演出した舞台のことを思い出していた。

  「ワルキューレ」の冒頭、たけり狂う嵐の情景がオーケストラによって描き出されている。舞台の上には岩に腰掛けた杖を持つ老人のシルエットが。これはヴォータンである。そして、舞台の上では妖怪のような生き物と女の子が遊んでいる。やがてヴォータンは女の子と手をつなぐ。妖怪はパントマイムを演じる。女の子はジークリンデか?

  「ワルキューレ」の大詰め、岩山にブリュンヒルデを寝かせ、火の神ローゲに命じて岩山を炎で囲む場面。ここで、冒頭の妖怪はローゲだったことが分かる。そして、ブリュンヒルデがつかの間舞台から姿を消すと、入れ替わりに冒頭の場面でローゲと遊んでいた女の子が現れる。天上からはローゲによる火の粉がふりそそぎ、女の子とローゲは冒頭と同じように楽しく踊る。ここで、この女の子が子供のころのブリュンヒルデであることが分かる。

  冒頭と終幕をうまくつないで、ヴォータンとブリュンヒルデの、父と娘の情愛、確執、別離を象徴的にえがいた名演出である。同時に、舞台の上で手を繋いで屹立している老人と少女のシルエットが、ウォルフガング・ワグナーとカタリーナ・ワグナーに二重写しとなった。

  そんなことを考えていたのだが、「ワルキューレ」を見た二日後の朝日新聞に加藤周一の「現代と神話」というコラムが載った。「ワルキューレ」で考えさせられた神々と人間というテーマが出ていたので、ますます気になって、とうとうこの週末は「ニーベルングの指環」の出自をたどる大読書大会になってしまった。中世ドイツの物語、北欧の神話…、台本と音楽を一人で担っているリヒャルト・ワグナーの巨大性に感嘆しつつ、ゲルマン民族の「血」について考えさせられてしまった。

  ところで、ウォルフガング・ワグナーには、カタリーナのほかにゴットフリートという男の子がいる。この人は、勘当同然で野に下っているようだ。「ワグナーと人種差別問題=ワグナーの反ユダヤ主義・今日に至るまでの矛盾と一貫性」というワグナー王朝にまっこうから挑む恐ろしい本を書いている。学位論文のテーマがワグナー嫌いのブレヒトとワイルだったというのだから、筋金入りである。

  ウォルフガングの実の息子でありながら、聖地バイロイトには出入り禁止となっているゴットフリートだが、今はイタリア人と結婚してルーマニアの孤児の里親となって暮らしている。彼もまた、リヒャルト・ワグナーの血を受け継いだ人間である。

(写真は、若き日のヴィーラントとウォルフガング=手前)
  

  
  

  

  

  
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