林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

静先生の英語教師論をめぐって

2010年09月21日 | 英語学習
静哲人という関西大学の教授で、ちょっと有名な英語の先生がいる。この先生の書く文章については、いろいろな反応がなされる。絶賛の声も多数ある。他方、批判する人も少ないわけではない。

たとえば、こんな文章も書いている。

英語教育は英語を教えてこそで、それができていなければ他の何ができても意味がない、という私の主張あたりを指しているのかもしれない。

しかし別に限定的じゃないでしょ。英語以外を「教えてはいかん」と言っている覚えはないから。

そうでなくて、「他の何かを教えるのは、英語をきちんと教えられている人間だけがやれ」と言っているだけ。

「生きる力」でも「国際理解」でも「人権教育」も「国際平和」でも「異文化理解」でも「言語というものに対する理解」でも何でもいいけど、そんなものはスキルとしての英語をきちんと学習して、その上で余力があったら場合にのみやってもいい、というレベルの話。」

「英語教師は英語を教えるのが仕事です。単純な話です。」


あるいは、こんな文章がある。

社会も理科も国語も体育も書道も英語も、それぞれ別の分野の「各論」をうけもつことによって、全体として人間の「知、徳、体」を高めようとしているのであって、それぞれの分野が「各論」をないがしろにして一足飛びに直接「総論」の達成を求め出してはおかしい。

だから、英語力アップのために必ずしもベストではない、もしかすると弊害もかなり大きい、とわかっているのに、「思考力」に資するだろうから、と抽象的な 英文を和訳だか翻訳だかさせて喜んでいるのもおかしい。

『心技体』にも書いたが、数学の先生が、定理の証明や微分積分をきちんと教えず、「人間としてのゆたかさ」云々を言い出すのはおかしい。物理の先生が力学 の法則を中途半端にして「生徒の人間形成」を語るのはおかしい。それとまったくおなじ。英語の先生が「英語」自体をきちんと教えず、「生きる力」「人格形 成」を論じるのは、自分の仕事をはき違えている。



なるほど、英語の先生としては正論なのかもしれないですね。でも今ひとつよくわからないので、家にあった先生の昔の本『英語授業の大技・小技 』を読んでみた。この本では、先生の英語教育の具体的な日々の工夫の日々を赤裸々に綴られているのです。大変貴重な本だといえます。抽象的な教育論を展開する人ではなく、非常に真面目な熱血教師であることがわかります。NHKの基礎英語1は、木村某ではなくて、静先生だったら良いのになと思います。

また、教師としての経歴も書かれています。大妻と大妻多摩と国立高専の英語の先生だったようです。なるほど! そういう経歴の先生なのだな、と私は了解しまた。


結論的には、進学校の英語の教官、あるいは予備校の教師としては、静哲人先生は理想的なタイプの一つでといえるでしょう。しかし、非進学校や公立中学の教師に対する発言として考えるならば、静先生の議論にはほとんど説得力がありません。教育関係者から反発があるのも当然です。かなり非現実的な前提があるわけですから。。。

また、進学校の生徒に対して、静先生のような方法論だけが最善かというと、ちょっと疑問に感じます。英文の形式的側面(教科書で教える)を重視するのも一つの方法ですが、思考・内容(教科書を教える)を重視するのも、有効なアプローチであると思うからです。(後者についてはたとえば古藤の参考書が参考になります。『英文読解の正体』というものです)。

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