林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

上位校の語彙力の秘密(その1)

2012年12月18日 | 受験
中堅進学校の生徒に英文解釈を教えていると、驚くほどある種の語彙力が少ないことに気づかされる。例えば、the WestとかWesternといった言葉を知らない。ほとんど全ての中堅校の受験生は、「西」とか「西では」と訳してしまう。WESTという単語から、「近代」とか「西洋文明」といった、普遍的な性格を持つ概念を読み取ることはできないのだ。つまり、東西南北の西というふうにしか理解できないのである。

センター試験までのやさしい英語では、これでも何とかなる。しかし、やや評論文はダメだ。

たとえば次の文章を見てもらいたい。「例をあげますと、明治以降、全ての分野において、日本は西洋を唯一の物差しとして考えてきた。これが絶対的思考でしょう。それが行き詰まると、今度は西洋と東洋という二つの物差しで物事考えるようになる。となれば、これは相対的な思想ですね」 ( 出口 汪『早わかり入試頻出評論用語 』より)

ある程度の語彙力を持っていれば、けっして難しい文章ではない。しかし、「西洋」及び「東洋」という言葉を全く理解できない読者を想定してみよう。かなり厳しいはずである。ましてや、もしこれが英文であれば、ほとんど全く理解できないはずである。

問題は、彼らがWESTの言葉の意味を知らない事ではなく、日本語の「西洋文明」の意味を知らないということである。日本語でもよく分からない文章は、英語で理解できるはずがない。つまり、日本語の語彙の力が決定的に欠如しているがために、英語力向上に限界が訪れててしまうのだ。

具体的にいえば、センター試験150~60点くらいまでならば、日本語の語彙力が少なくとも何とかなる。日東駒専も受かるだろう。しかし、国公立大や明治学院や成蹊大学の英語の問題は読めなくなる。

では、どうしたら日本語の語彙力を豊かにする事ができるのだろうか。今回、神奈川の御三家に通う高校一年生の生徒の定期試験を見てみると、そのヒントが見付かったような気がした。中堅校の生徒が習得できず、上位校の生徒が簡単に習得できてしまう語彙力。その秘密を探ってみたい。(続く)

ファーバーカステルのペンシル(グリップ2011)

2012年12月14日 | 文房具と読書

11月12月になってくると当塾のような個別指導塾は俄然忙しくなってくる。大学受験生の過去問演習が本格的に始まるからだ。私でも教える方も、ちょっと時間的余裕があればいつでも過去問を解いている、そんな感じになる。受験生1人ひとり受験する大学学部が異なるので、その分問題文をたくさん読まなければならない。

さて、私は普段万年筆ばかり使う万年筆党だが、この時ばかりはペンシル使う。三菱ハイユニの鉛筆(Bか3B)やカランダッシュの芯ホルダー、あるいはぺんてるのグラフ1000(製図用シャープペンシル)を使うことも多い。しかし一番使いやすと実感しているのは、ファーバーカステルのグリップ2011である。

太めの長い三角軸でとても軽い。長時間ペンシルを握っているときにはもっとも疲れない形だといえる。芯は0.7ミリで通常の0.5ミリよりも太いが、これも特筆すべき点だと思っている。そして、最大の特徴は、滑り止めのラバーがドットになっている事だ。グリップの部分が全面ラバーで覆われていると、滑りにくく握りやすいかもしれないが、べたついてちょっと気持ち悪いという気になったことはないだろうか。その問題を、このペンシルはうまくクリアーしている。滑りにくいが、べたつかないのだ。

問題は、いわゆる高級ペンシルというわけではないのに、定価2100円とちょっと高いことである。私は以前ネットで安いものを検索してみたのだが、送料込みで安いお店はなかなか見つからなかった。しかし、ようやく見つけることができた。エンオークさんのところでは何と送料込みで1280円なのだ。すでに我が家では日本購入し、今後さらにもう1本購入する予定だ。皆さんにもお薦めしたい。



AmiVoiceSP2にテキストを読み上げてみる

2012年12月06日 | 文房具と読書
昨夜に引き続き音声認識ソフト AmiVoice SP2の認識変換です。今日は、何冊かの本を読み、それがどのくらい正確に認識されるのか調べてみました。

認識率という時、修正を全くしないでどのくらい正確に認識し適切にかな漢字変換するのかという考え方もあるだろう。しかし今回は、本を読み上げてそれを認識する企画なので、やや音声認識ソフトに甘くしていく。キーボードを使わないで簡単に修正できるのであれば、合格という見方でいきたい。

例えば、「コセイブツガク」と発音して「小生物学」と認識されたとしよう。しかし、「小」の部分をクリックすれば簡単に「古」が出るのであれば、そのことについては明示しないでおく。

というのは、ユーザー(発話者)にとってあまり馴染みのない文章を読み上げるときには、どうしても簡単には正しい変換が出にくいからである。音声認識ソフトに対してあまりに過剰な期待をかけるわけにはいかない。

最初に選んだ本は、ウォード『恐竜はなぜ鳥に進化したのか。―絶滅も進化も酸素濃度が決めた』(文春文庫)

92ページ

動物の起源がこの物語の出発点である。動物の門が最初に多様化した時期、つまりいずれかの最初の祖先動物が数多くの種類の動物[+へと]分岐していった時期のことだ。その時期について非常にかしましい論争があり、二つのはっきり異なる系列の食[←証拠]は、全く異なった見方を示している。一つの系列は、各地層から出現する化石のパターンから出てくるものであり、もう一つの系列は、県政[←現世]動物の分首都圏[←分子時計]の研究に依頼[←由来]するものである。本書では、古生物学的なられる[←あらゆる]など[←謎]の中でも最大の謎の一つ、すなわちカンブ嫌気[←リア期]大爆発において動物の体制の急激な体様化[+を]引き起こしたもの[←は]何かという疑問を解く[+て]がかりとして、それらの証拠を検討してみることにする。

最高の音声認識結果だったとは言わないが、音声認識ソフトの認識能力はかなかなレベルだったと思う。うまく認識できていない箇所というのは、音声認識ソフトの責任というよりは、発話者(私)が正確に発音できなかったように見えるからだ。

次に取り上げるのは、村上春樹×小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)の318ページである。

そのようにして、受講する生徒だ[←た]ちは、みんな朝から晩までほとんど休みなく、みっちりと鍛えられる。文字どおり音楽漬けの日々だ。でもみんな何しろ20代の若い男女(女性の方がすこしばかりを言っ[←多い])だから、忙しい中でも何とか今[←暇]を見つけてせっせと斉唱[←青春を]楽しんでいる。食事もみんなでワイワイ騒ぎながらたべる。練習が終わってから町のバーに繰り出し、盛り上がったり、リラックスしたりする。当然のことながら、いか[←いくつか]のロマンスカー[←が]生まれたりもするみたいだ。


これは速くで読んだからだろうか、ちょっと誤認率が高いような気がする。そこで別のページを読んでみる。今度は小澤征爾と村上春樹の対談の部分、192ページである。


小沢「ドライバ[←クライバー]を[←は]よく勉強する人だったし、よく曲を知っていました。でもね、トラブルを起こす人で、ベルリンでベートーベンの4番を踏んだ[←振った]時でも、やるやらない、やるやらないで毎日の[+よう]にもめていました。僕は彼としたしかったんで、その時の次第を近くで見ていたんだけど、比べ[+クライバー]はね、何とかして自分が指揮するのやめる効率[←口実]を探してるみたいに、僕の目には見えた」

村上 「小沢さんは指揮をキャンセルした事ってあります?」
小沢「今回のように病気でキャンセルした事はある。でもすこしくらい熱があっても、だいたいは我慢してエッチ予報[←やっちゃう方]です」



小澤征爾の名前は一括変換でできたが、かつてのカリスマ指揮者クライバーの名前は出てきませんでした。これは止むを得ない。単語を登録させておけばこれから問題なくなるはずです。


今度は富士ゼロックスの無料雑誌『グラフィッケーション』(2009年、165号)から赤木昭夫「南北戦争の怨念」という歴史エッセイの一部を読み上げてみる。

南北戦争当時、すでに南北の工業力の差は明らかであり、短期戦はともかく長期戦になれば南軍[+に]勝[+ち]観[←目]は無かった。南北にどれほどの工業力の差があったかは、森の郊外に残る当時の製鉄炉[+を]見れば分かる。バージニアでは、近辺の山に小さな鉄鉱石の6等[←露頭]があり、石炭も石灰責務[←石]もたくさん取れたので、それらで血[←鉄]を作り、当時の南部の首都立地問答[←リッチモンド]に船で送って逮捕[←大砲を]つくっていた。しかし、北と南値方[←の大砲]の数の差は4対1くらいと、圧倒的に来た[←北]が勝っていた。


今度はちょっと認識率が低いんじゃないかなという気がした。大砲とリッチモンドが出ないのは仕方ないとは思うが。

本や雑誌の一部を読み、それをテキスト化するというのには、まだまだハードルが高いのかもしれません。もっとも、 iPhone で簡単にスキャナできる時代ですから、本をメモ書きするのに音声認識ソフトを利用する必要性はあまり高くはないのですが。

以上。

誰にでも勧めることのできる音声認識ソフトAmiVoice SP2の登場

2012年12月05日 | 文房具と読書
AmiVoice SP USBマイク付
クリエーター情報なし
エムシーツー


AmiVoice SP の新しいバージョン AmiVoice SP2がついに、2012年11月30日に発売されました。私は、このソフトのモニター(USB マイクロフォン附属タイプ)になることができましたので、早速実験してみました。もちろんこの文章も、 AmiVoice SP2を使って書いています。

一) ヘッドフォン・マイクが素晴らしい。

私は AmiVoice Es 、 AmiVoice SP とこの音声認識ソフトのシリーズを最初から使い続けています。うち、マイクロフォンつきを購入したのは初回の AmiVoice Es の時だけですが、この時のマイクはやや質の低いものでした。しかし、今回の SP2の USB マイクロフォンは、なかなか良い感じですね。(1)音声認識の際にとくに問題になるのは、口から5センチくらいまでの距離を保ち、かつ息が直接にかからないような位置にマイクロフォンが配置されることです。この点、このヘッドフォン・ USBマイクロフォンは安定感があります。(2)ヘッドフォンマイクロフォンの最大の問題は、頭が締めつけられる事です。しかし、このヘッドフォン・マイクロフォンについてには、不快感がほとんど感じられません。ささいなことのように思われるかもしれませんが、現在の音声認識にとってはきわめて重要なことです。(3)スカイプなどへの配慮も行き届いている。

二) 認識率が旧バージョンよりも格段に良くなっている。

AmiVoice Es から AmiVoice SP へのバージョンアップの時には、認識率の向上はさほど感じられませんでした。しかし、今回の SP から SP2へのバージョンアップは違います。びっくりする程の性能アップです。

従来の音声認識も大変便利なものではありました。しかし、私のような音声認識ファンでも、不愉快な気持ちなる時もありました。けれども今回の新製品は、音声認識が実に快適です。多くのパソコンユーザーに文句無しに薦められると宣言して良いでしょう。

三)やや旧式のパソコンや、安価なマイクロでも、十分実用的に使える。

ちょっと気になるのが、パワーの落ちるパソコンで使えるのか、あるいは、附属の USBマイクがどうしても必要なのか、と言うことです。そこで試しに4年くらい前に購入した Windows XP のパソコンにもインストールしてみました。結論的にいうと、十分に使えます。

500円未満の安いマイクではどうなのか。まずは、マイクジャックに差し込むスタイルで試しました。が、残念ながら誤認識が頻発で駄目でした。そこで、そのマイクをUSBオーディオ変換アダプタを通して音声認識してみると、今度は非常によく認識してくれました。

結論的に言えば、パソコンは多少パワー不足でも大丈夫、安価なマイクロフォンも USB 接続であれば問題なし、です。ただし、音声認識の初心者であれば、ヘッドフォン・マイクロフォンつきの AmiVoice SP2を購入する事を勧めます。

四)「を」「に」「は」といった助詞や”」”を簡単に入力できる。

音声認識ソフトのちょっと厄介な点は、「を」のような助詞が抜け落ち易いことです。しかし、 従来の製品では、「を」だけを音声認識で付け加えようとしても、なかなか認識してくれませんでした。また、"「"は認識してくれても、"」"はなかなか認識してくれませんでした。しかし、今回の新製品ではそれらの問題をすべてクリアーしているようです。

以上で初日の簡単なレポートを終えたいと思います。今後は音声認識の実験結果について、いくつか書き加えていきたいと思います。例えば、本を読んでそれを音読した時にどのくらいの精度で認識してくれるのか、あるいは、 IC レコーダーを使った音声ファイルについてどのぐらいの認識率があるのかといったテーマです。

追加
五)ICレコーダーによる音声ファイルもかなり使えそう。

待ちきれなくなって深夜実験してみた。以下は、旧式パソコンに旧式ICレコーダー(七年前発売のSony ICレコーダー)という組み合わせで音声ファイル(WAVファイル)の音声認識を試みたものです。修正は無しで、そのまま載せてみました。よどみなく文が出てくるときにはかなり便利だということがわかります。(言いよどんでいるときには、音声認識率は悪くなる)。


音声認識の二つの可能性としては、0[←不要]本を読んだときに
その本の内容をメモすることが可能になるということです。
つまり、
重要な箇所について本を朗読し、
その音読音声によっては、
文字化はテキスト化することはできるならば、
適当な
%えー%ほんのノートといったものができるはずだから。
もちろんその他にも、写真にとって
島とか[←しまうとか]、
いろんな人[←やり方]とあろうかと思いますが、音声認識も一つのやり方として
参考になるはずです。



以上


学校によって英語教育はかなり違う。

2012年12月03日 | 英語学習
うちの塾には様々な私立中高一貫校や、県立高校あるいは公立一貫校の生徒が通ってくる。学校での英語教育について聞いてみると、各学校の教育方針によって多様性があると思わないわけではない。しかし、教育方針のかなりの部分は、校風というよりはむしろ学校に通う生徒の学力水準によって規定されているという印象を受ける。

良い英語教育が実施されていると思われる学校というのは、いわゆる偏差値的に上位の中高である。つまり、英語教育の王道を歩むことができるのが上位校であり、それができないのが中堅校以下だという印象を受けるのだ。何だか当たり前で当たり前すぎて申しわけないような観察なのだが、率直に言ってそうなのである。


良い英語教育というのは、まずは基礎力を重視しているということだ。いたずらに先を急がない。やさしい英文を完全に身につけるようにゆっくり進む。もちろん、なるべく落ちこぼれが出ないように、生徒全体を引き上げようとする姿勢があることが望ましい。以前、中堅校をあるいはそれ未満なのに『プログレス』や『バードランド』あるいは『ニュートレジャー』などを採用している学校があると書いた事があるが、それらの中堅校はいずれも基礎学力を軽視し、落ちこぼれが幾らでても構わないと暗に示しているのだ。

だがそれ以上に興味深く思えたのは、個々の教師に学習者へのサービス精神があるか否かという問題だった。というのは、上位校の学校の先生方は、非常に親切な補助教材を作り、それを生徒に配布していることがわかったのからある。たとえば、麻布・栄光・浅野といった中学の先生方は、非常に丁寧なプリントを生徒に配布している。とくに有り難いと思えるのは、教科書に出てくる新出語彙について丁寧でわかりやすい語彙表を配ってくれる点である。だが、私立中堅進学校では、そういう配慮は全くない。逆にわからない単語の意味を辞書で調べてこい、といった因習的な宿題が出されてしまう。英和辞典で単語の意味調べをしている暇があったら、音読筆写・暗記暗唱をすべきだと思うのだが、そういう学習者の配慮はない。むしろ、意味不明の提出課題だとか宿題が増えてしまうだけなのである。

なぜ、上位校の英語教師はわかりやすい解説を配布し、中堅校の教師はそういうサービスをしない傾向にあるのか? その本当のところは部外者の私にはわからない。だが、それが現実だ。

新しいPCを購入

2012年11月15日 | 文房具と読書
つい先日新しいパソコンを購入しました。すると何もかも処理が速くなります。もっと早く新しいパソコン購入しておけばよかったのだと後悔してしまいました。しばらくブログを書かなくなっていたのも、一つの原因としてパソコンが遅くなってしまったからなのですからね。わずかの投資を怠っただけで、やる気が減退してしまうわけです。

今まで使っていたパソコンは、4年ぐらい前に購入した Windows XP なのですが、立ち上がりが遅くて、ソフトがなかなか動き出さない。それでも使えないことはないので、何とか騙し騙し使ってきました。しかし、ウィンドウズ8が出回り始め、それが大層評判悪いOSなものですから、慌ててwindows7のPCを購入したという次第です。

高い性能を求めるならば、 Core7とメモリ8GB が良いらしいのです。しかし、そこまでは必要ないだろうということで Core 5+メモリ4GB にしました。これで4万円ぐらいです。 Core 3という選択肢もあり、これだと2万円台で購入できるのですが、もう少し性能が良いと考えました。またメモリについて言えば、必要ならば自分で後から4GB を追加して8GBにすることが可能だし、またその方が安くつきます。そんな訳で現段階では4GB で十分だと判断しました。結果的にそれでよかったのでしょう。(2万円くらいのパソコンを購入するという選択もないわけでは無かった。しかしあまり安いと、やはり結果的に損をする危険性がありそうです)。

pcは早めに買い換えるのが良し、という結論にします。



ところで、今は音声認識ソフトAmiVoice SP で書いています。ソフトは以前と同じなので、認識率に変わりありません。しかし、新しいパソコンではキビキビと動いてくれます。新しいpcに替えた甲斐があるといえます。

嬉しいお知らせがあります。

AmiVoice SP も11月30日に新しいバージョン、 AmiVoice SP 2が発売されたのです。実をいうと、今度モニターに選ばれましたので、 AmiVoice SP II の使い心地、音声認識率などについてもレポートする予定です。待ち遠しい限りです。

ハッタリ・ハシシタとイカレタ塾教師

2012年11月15日 | Weblog


神奈川県の某塾教師の人気ブログを見ていたら、無茶苦茶な話が書いてあった。そもそも、大阪市長の橋下徹がまた馬鹿げた教育改革案を言い出したということ、さらに驚いたことにはその塾教師が橋下案を支持していたことだ。これでは世も末だな、といった陳腐な言葉が浮かんでこざるを得なかった。とはいえ、しばらくたてば忘れさられてしまうような言動であろう、その記憶と記録のために書いておこう。

まず橋下の掲げた英語教育の目標。
 ( M NS 産経ニュース 2012年11月6日
>大阪市立学校で来年度の教育施策の基本方針となる「教育振興基本計画」の中間案が5日、判明した。英語教育を重視する橋下徹市長の姿勢を反映するように、中学3年で英検準1級、小学6年で同3級の取得という目標を明示。

またfnnニュースでは。


ハシシタは、以前も、大阪府の高校生に対し、TOEFL の得点を高くしろとむちゃくちゃな目標を掲げた。今度は、中三で英検準1級取得という目標である。 TOEFL で高得点というのは、アメリカの大学で教育を受けられる英語力があるという事だ。他方、英検準1級は東大合格レベルの英語力、あるいは、公立中高の英語の先生の目標とされている英語力である。

大阪市(府)の公立学校中高生は、灘校生ではない。公立中学3年で東大合格レベルの英語力を習得している状況など想定不可能である。こんな目標は目標として機能しない。


ところが参ったことに、ハシシタの教育改革のプログラムを評価する塾教師がいるのだ。敢えてそのブログを引用しようとは思わない。しかし、ベテラン塾教師が、政治家のハッタリ教育改革案に乗せられてしまうとは、本当にがっかりである。ハッタリ_ハシシタは、すぐあとで、「ちょっと目標高すぎましたか? ついつい熱意のせいで、目標高すぎましたかね、m(_ _)m」と修正してしまうかもしれない。しかし塾教師にそういう手法が許されるとは思えないのだ。

なお、その塾教師によれば、多くの私立学校は、橋下が掲げるような目標を掲げているのだそうだ。たしかにそう言われてみると、某県公立中高一貫校校長の宣伝文句とも似ていなくはない。新設校を、東大や国立大学全入させてしまう学校にしてしまうホラ噺だ。

またブログ検索してみると、横浜市青葉区の某市議会議員が橋下の英語教育を改革の取り組みを支持していることがわかった。

ああ、情けない、神奈川県の教育関係者。そんなにホラやハッタリが好きなのか! しかし、英語学習で一番必要なのは地道で退屈な日々の学習の積み重ねなんだよ。




参考

「中3で英検準1級、小6で3級」 大阪市教育計画、理数系教員に民間人特例も
2012.11.6 10:13 (1/2ページ)

大阪市教育振興基本計画(中間案)の概要

 大阪市立学校で来年度の教育施策の基本方針となる「教育振興基本計画」の中間案が5日、判明した。英語教育を重視する橋下徹市長の姿勢を反映するように、中学3年で英検準1級、小学6年で同3級の取得という目標を明示。人材が不足する理数系教員の確保策としては、教職員免許を持たない一般社会人が、現行の特例制度を利用して教壇に立てる措置を講じることも盛り込むなど、特色ある内容となっている。

 大阪市では、5月に制定された教育関連条例に基づき、市長と市教育委員が協議して教育振興基本計画案を策定することになり、現在、市教委を交えた有識者会議で中間案の策定を進めている。市長と教育委員がさらに協議して成案化し、来年2月に市議会に提出、議決を経て同計画案と教育目標が最終決定する。

 中間案では、英語の発音とつづりの規則性をルール化した学習法「フォニックス」を使った英語教育を小学1年から実施すると明示。具体的な到達目標として、小学6年で英検3級、中学3年で準1級の合格を目指すことを盛り込んだ。文部科学省によると「公立小でフォニックスを使った英語教育は全国でも聞いたことがない」という

英作文対策(1)ーー日栄社の太田千義の『自習和文英訳演習基本編』

2012年11月11日 | 教養英語
自分で添削できる 自修 和文英訳演習 基本編
クリエーター情報なし
日栄社


東海大学医学部受験生がいるので今過去問演習を行っている。この大学の記号問題はかなり簡単なので確実に世界史95%以上正解する必要がある。受験生間で差がつくとしたら、おそらく英作文である。英作文の問題としては決して難しいわけではないが、受験生の多くは自信がないはずなので、決め手となるはずだ。幸いにして当塾に通っているに通っている受験生は、過去問の英作文が最初から不思議なほどよくできている。『シリウス発展編』の例文暗唱の成果であろう。

英作文というのは、新しい英語教育では最重要課題の一つになるべきものなのだと私は考えている。日本に居ながらにしてどうやって英語を書けるようになるのか、そういうことを英語教育界の人はもう少し考えてもらいたい。私達、東大式個別ゼミが『シリウス発展編』の例文の音読暗唱を重視するのも、将来英語を書ける人を育てたいからなのである。(余談だが、ほとんど音読暗唱と筆写を怠っていたと思われる難関大学受験生を秋口に体験授業をしてみた事がある。どうやら英作文が必要なようなのだが、非常に簡単な英作文すらもほとんど全くできず、私は途方に暮れてしまった。音読トレーニングはもう少し早めに準備しておかなければいけないのである。基礎トレーニングなしに英作文はありえないんだが、基礎トレーニングは時間がかかってしまうのである)。

そんな私だから、これを好機としてアマゾンで評判が良さそうな英作文の参考書をいくつか買い集めることにした。英文解釈の参考書とは違い、英作文の参考書は1人の著者がシリーズ化して何冊も書いている場合が多いようだ。それぞれ個性的であって面白い。

たとえばケリー伊藤のイングリッシュ・ライティングのシリーズ。残念ながらこれは大学受験生向けではない。しかし、英語教師にとっては必読書だろう。教えられるところが多い。(批判すべきところも、ないわけではない)。『入門』を見ると、主語、冠詞、形容詞.不定詞といった基礎的英文法が英作文(英語を書く立場)の観点から語られている。主体的に書く立場、発信する立場になってみて、初めて分かることがいろいろあると思い知らされる。このシリーズについては、またあとで詳しく書きたい。

生徒にはどんな教材を良いのか。大矢のものも定評があるし、宮崎のも悪くはなさそうだ。だがウチの生徒には、あまり有名ではないかもしれないが、太田のシリーズの中から『基本編』を選んでみた。大学入試よく出そうな和文が選ばれ、米人講師を含め三つの訳例が書かれている。学習者は自己採点がしやすいし、また好みに合った例文を音読暗唱すれば良いので、使いやすい。1冊600円あまりとお安いのも魅力的だし、薄く、簡潔な造りであるのも、好感を覚える。(東海大医学部対策として考えれば、このシリーズの「完成編」や「自由英作文編」は不要であろう)。ただし、この問題に出てくる簡単な和文をすぐに英訳できない学習者は、もっと根本的なテキストに戻るべきであろう。『基本編』と言っても、英作文の場合は学習者を選ぶのである。











理系英語長文集として最高!(1) (『医歯薬系英単語600』という英語長文集)

2012年11月08日 | 英語学習
受験英語を教えるというのは、多くの場合ジェネラリストになると言うことではないか、そんなふうに思っている。初心者には英文法のようなものをしっかりと教えていれば良いのだが、あるレベル以上になってくると、英文法的な知識だけでは対応できなくなってくるからだ。難関大学受験準備のために長文英語テキストを読むようになると、一つ一つの英文の背景となっている様々な知識や教養が問われてくるのだ。

よく教科書「で」学ぶのかそれとも教科書「を」学ぶのかという議論がある。教科書から「形式的論理」を学ぼうとするのか、それとも教科書に書かれてある「内容」を理解するのかということだ。国語や外国語教師の最大の務めは、やはり前者の「形式的論理」を教授する事かもしれない。しかし、「形式的論理」のためだけに人は長文を読むことができない。「内容」が面白いからこそ、言葉を学びたい、本を読みたいと思うようになるからだ。結論的に言えば、教科書「で」学び教科書「を」学ぶようにしたいものだ。

そう考えると、英語や国語を教える者は、ジェネラリストにならざるを得ないと思う。要するに何でも屋だ。あまり尊敬される仕事ではないかもしれないが、必要不可欠な役割であろう。

理系大学受験生に受験英語を教えるならば、仮に文系出身だったとしてもやはり理系的教養と理系的英語に馴染んでおくべきだろう。たとえば非常に良く取り上げられるのが、進化論や脳科学のテーマだ。

また、なぜか私大医学部で非常に良く取り上げられているのが、ハチだ。これもぜひ勉強しておきたい。というのも、私の調べた限り少なくとも東京女子医科大学、東海大学(2009年)聖マリアンナ医科大学(2011年)で英文が出たからだ。(以前ブログでよく取り上げた「松島&町山のみ公開映画をみる」で放映された「コロニー」[このブログを参照してください]はぜひ見ておきた作品だ。 )

私は、そんな風に思いながら、いつも何かよい本を探している。最近では Oliver SacksのMusicophilia: Tales of Music and the Brain  という CD 本を注文してみた。残念ながらサンディー暴風雨のせいか CD がまだアメリカから届かない。

しかし、これらの諸テーマの文章を受験生に読ませることができるかというと、多くの場合ちょっと厳しい。文書が長すぎるというのも普通の受験生にとって辛いだろう。何よりも注釈や和訳がないと、読み進められないだろう。

ところが、最近良い本を町田の久美堂で見つけた。駿台予備校の船岡先生が編集した『最新 医歯薬系英単語600(入試によく出る)』という本である。一見すると単語集のようであるが、実のところ医学系の英語長文(長文と言っても、本当の長文ではなく、普通の受験生でも読めないことはないくらいの長文である、念のため)のアンソロジーとなのである。蜂の話は載っていないが、進化論からも脳科学もオリバー・サックスもジョン・レイティも話題に取り上げられている。

惜しむべきは『医歯薬系英単語600』というタイトルである。これでは医学部受験生くらいしか、この本を手に取らないのではないだろうか。理工系の生徒、あるいは文系の生徒であっても、ぜひ薦めたいような英文集なのだ。どんな風に素晴らしいのかということにしては、次回もう少し詳しく書いてみたい。

ドラゴンスピーチ11再考、最新のPCだと違う?

2012年10月20日 | 文房具と読書
ドラゴンスピーチ11に関して、このバージョンは購入する必要がないという判断をした私ではあったが、ちょっと気になる文章をアマゾンのレビューの中に見つけた。もしかすると、最新 CPUを搭載したPC だとドラゴンスピーチ11はかなりの優れものである可能性があるからだ。

さて、koga2020さんという方がドラゴンスピーチ 11 日本語版について、アマゾン上で次のようなレビューをしているのだ。


[ドラゴンスピーチ11は]CPUを効率的に使用するようで変換速度も速いです。具体的にはDualCore環境でCPU使用率がAmiVoiceが15%以下なのに対して、ドラゴンスピーチ11は65%前後で推移していました。

これには、さらに質問と答えがある。


最初の投稿: 2012/10/13 13:41:37:JST
アマゾン卑弥呼さんのコメント:
それは動作が重いともいえませんか?

koga2020さんのコメント:
表現が難しいので指摘されると思ってました^^;
結果的には引っかかりもなく非常にスムーズで早いです。
Core2Duo 2.8GH メモリ3.2GB Windows7 32bitなのですが、50文字程度を話し終えたとき
1.AmiVoiceは6秒程度(画面上で文字が変換されながら)待ってから確定されるのに対し、
2.ドラゴンスピーチ11は1~2秒でパッと確定されます。
AmiVoiceは遅い上にCPU使用率が15%以下なので、CPUを早くしても仕方ない・・・という諦めがありました。
「これに対して」という意味で、ドラゴンスピーチ11はCPUを効率よく使用しているという趣旨です。
また、音声認識をしているときに音楽や映画の再生をすることがないので、特に他に悪影響が・・・というのは今のところありません。


これは、前回引用した渡部さんのブログの感想とは正反対である。渡部さんは次のように書いている。

それ[=ドラゴンスピーチ]は変換速度の遅さである。新製品ではどうなのか期待したが、残念ながら変化はなかった。わたしのパソコンは、OSはWindowsXP SP3 で、1.2GHzのCore2 Duo CPU、メモリが約3GBである。一文を声で入力したあと、画面に文字が表示されるまで3秒くらい待たされる。先にキーを操作して手で入力してしまいたいという思いになるほどである。

まとめると次のようになる。

Core2 Duo 2.8GH メモリ3GB Windows7 32bi 「1~2秒でパッと確定されます」koga
Core2 Duo 1.2GH メモリ3GB WindowxXP 「画面に文字が表示されるまで3秒くらい待たされる」渡辺


このデータを普通に比べながら考えると、最新の高性能のパソコン使うという条件がつくならば、 AmiVoice SP よりもドラゴンスピーチ11の方がより優れているように思われる。2.8ghのCPUで65%ものリソースを使用してしまうソフトであれば、1.2ghのパソコンではうまく利用しきれないのではないかと想像できるからだ。(私はPCには不案内なので、間違った解釈かもしれません。念のため付け加えておきます)。

本当に悩ましい限りである。実をいうと私は、今新しいパソコンを買うかどうか真剣に悩んでいるからである。もし購入するならば検証できよう。しかし、そのためにはパソコン代+ドラゴンスピーチ11という二重の費用がかかってしまうのである。


ドラゴンスピーチ11

2012年10月18日 | 文房具と読書
ドラゴンスピーチは、私が長い間愛用していた音声認識ソフトであった。 IBM の ViaVoice ノーバージョン9くらいはそこそこ使えるソフトであったが、後発のドラゴンスピーチが完全に追い越し追い抜いてしまったのである。ドラゴンスピーチの6などくらいからはかなり実用的だったのだ。しかしその後ドラゴンスピーチ日本語版は長い間バージョン・アップをストップしてしまう。(英語版のドラゴンは常にバージョンアップし続けた)。たしかDragon Naturally Speaking 2005が最後だったと思う

その間、2008年には、 AmiVoice という音声入力ソフトが登場した。そして、こちらの方が使いやすかった。2010年には AmiVoice SP という新バージョンができ、私自身はほとんどドラゴンスピーチを利用しなくなっていた。稀に利用するとしたら、 IC レコーダーで録音した音声メモを文字化する時だけであった。

今から思うとドラゴンスピーチの設計姿勢の問題点があった。誤変換の修正がしにくいのだ。それが面倒くさいので、敬遠してしまったのだと思う。

このことは、 iPhone iPad iPad touch 用の音声認識音声認識ソフトにもつながっている。「 Dragon ディクテーション」(ドラゴンスピーチによる)と「音声認識 Mail 」(Amivoiceによる)とを比べると、認識率の違い以上に、修正のしやすさという点で使いやすさが大いに違うのである。音声認識Mailの圧勝である。(価格はタダみたいなものなんで、iphone等を所有している人はぜひとも試してもらいたい)。

しかし、ドラゴンスピーチは7年間の沈黙破りついに新しいバージョンのソフトを出した。ドラゴンスピーチ11日本語版である。 iPad 用の Dragon はちょっとダメダメだなと思いながらも、さすがにこれは気になる。一番安いバージョンアップだと1万円未満で入手する事ができる。またアマゾンを見ると、かなり好意的な評価が並んでいるのだ。ドラゴンスピーチを応援してあげなければいけないのではないか、という気になった。

とはいえ、ちょっと分らないことがあったので Twitter で「ドラゴンスピーチ11」と入力して検索してみると、表現よみの提唱者で音声認識の経験を積んでいる渡辺知明さんの発言が出てきた。  結論的に言うと、「それでは、どのような人にこのソフトが向いているか。結論としてこのソフトを使うのに向いているのは次のような人であろう。(1)パソコンのすべての操作を音声認識で試してみたい人 (2)音声認識ソフトの変換の精度がどんなものか試したい人 (3)文章をゆっくり考えながら音声入力をしたいという人」とのことである。これは決定的な評価であった。今回のドラゴンスピーチは、私は買わないことにした。

日本のマスメディアの検閲を目の当たりにする(日経ビジネスDigitalの場合)

2012年10月16日 | Weblog
今ネット上でひそかに話題になっているのは、日本の大手マスメディア(日経ビジネス)の自己検閲である。

「外国人ジャーナリストが驚いた日本メディアの惨状」という言葉で検索してもらいたい。2012年10月25日版の日経ビジネスDigital が出てくるかもしれないが、記事自体は削除されている事が分かるだろう。(ただし、いわゆるキャッシュに記事内容は残っている)。

これはニューヨーク・タイムズの記者がジャーナリストの大野 和基さんとともに書いた記事で、タイトルどおりまさに日本のメディアのストレートな批判となっているものなのである。ところが、日経ビジネスDigital はかなり迅速にこの記事を削除してしまったのである。(キャッシュから画像を添付しておきました。また記事テキストもブログの後半部に載せてあります)。

あまりに稚拙で露骨なやり方に唖然とする。これでは中国や韓国のメディアと変わらないではないか。

我々としては、日本や日本語のメディアだけに頼るのではなく、幅広く情報を収集してから話ならないことを痛感する。そのためにも英語力は不可欠だといえる。

もっとも、英語ができればそれで良いというわけではない。私が知っている中国人の英文記者などは、あきれるほどバイアスのかかった人だったから、このあたりも強く強調しておきたい。







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外国人ジャーナリストが驚いた日本メディアの惨状
大野 和基=ジャーナリスト
2012年10月15日版トップ
 ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏に話を聞いた。大メディアに対する同氏の批評は辛らつだ。「取材源との距離が近すぎ、監視役としての役目を果たしていない」「ダブルスタンダードで自国の暗い面は報道しない」と指摘する。
――日本社会は非常に排他的で、属さない人を排除する――と言われてきました。記者クラブもそういう排他的な文化の一つの面だと思います。どう思われますか。

ファクラー:日本のメディアを見ていて非常に興味深く思うのは、情報を独占的にコントロールしようとする記者クラブがある一方で、週刊誌とかタブロイド紙が非常に元気なことです。記者クラブは日本のメディアの保守的な面を表していると思います。週刊誌やフリーランス記者、地方紙はかなり良い仕事をしています。

――朝日新聞や日本経済新聞といった日本の大手新聞とニューヨーク・タイムズの最も大きな違いの一つは、世界中の読者に対する影響力です。世界中の人がニューヨーク・タイムズを読みますが、日本の新聞は読みません。取材先が図る便宜も異なります。例えばあなたはトモダチ作戦の時、米軍のヘリに乗る機会を最初に与えられました。

ファクラー:最初にそういう機会が与えられたのは、もちろん、私がニューヨーク・タイムズの記者だったからです。タイム誌の記者も同乗しました。同誌も世界的に影響力を持っています。確かにニューヨーク・タイムズという名前は役に立ちます。米軍はアメリカの納税者に対して、こうしたお金を使うことを正当化しなければなりませんから。

――もしあなたがニューヨーク・タイムズにいなかったら、そういう機会は来なかったでしょうね。

マーティン・ファクラー氏ニューヨーク・タイムズ東京支局長
1966年生まれ。イリノイ大学でジャーナリズム修士。ブルームバーグ、AP通信をへてニューヨーク・タイムズ東京支局。2009年2月から現職。同支局スタッフは、東日本大震災に関する報道で、ピュリッツァー賞国際報道部門の次点となった。
ファクラー:そう思います。世界的に影響力を持つメディアにいるアドバンテージです。私はこれまでブルームバーグ、AP、ウォールストリート・ジャーナル、ファーイースタン・エコノミック・レビューで仕事をしてきました。この中でニューヨーク・タイムズは取材先に対する最高のアクセスを与えてくれます。

 もちろんリスクもあります。トモダチ作戦の取材の場合、米軍の代弁者にはなりたくありませんでした。ただし、取材先と距離を置くことはジャーナリストにとって危険でもあります。情報を得られなくなる可能性と背中合わせですから。これはアメリカでも日本でも同じです。常に直面するチャレンジの一つです。

 ニューヨーク・タイムズのように名声が確立したメディアは、落とし穴や誘惑に常に注意しなければなりません。つまり、情報源との関係を維持するために批判を鈍らせるとか、トーンダウンするとか、その誘惑に負けてはいけません。

日本メディアは監視役たり得ていない

――日本のメディアはウォッチドッグ(監視役)としての機能を果たしていると思いますか。

ファクラー:彼らはそういう機能を果たすべきだという理想を持っていると思いますが、情報源とこれほど近い関係になると実行するのはかなり難しいです。

 これは記者クラブだけの問題ではありません。もっと大きな問題です。日本の大メディアは、エリートが支配している階級の中に入っているということです。東大、慶応、早稲田出身でみんなが同じバックグラウンドと価値観を持っている。みんな官僚に同情的で、彼らの側に立ってしまうのです。

 3.11の時、この面をはっきり見たと思います。本当に監視役になっていたのなら、「フクシマは大丈夫だ」「メルトダウンはない」という記事は書かなかったのではないでしょうか。もっと厳しい記事が書けたと思います。それができなかったのは、彼らが政府と距離を保っていないからです。

 大メディアは、政府と対峙することなく、国民に対峙する報道をした。私はこの点を痛烈に批判しました。大メディアが報道していたことが間違いだとわかったのは、何カ月も経ってからです。監視役としてみるなら、日本の大メディアは落第だったと思います。でも、メディアを監視役ではなく、システムの一部としてみるなら、起こるべくして起こったことだと言えるでしょう。

――日本経済新聞に対しても批判的ですね。

ファクラー:オリンパス事件のときによくわかりました。海外メディアでは、フィナンシャル・タイムズがスクープし、ニューヨーク・タイムズとウォールストリート・ジャーナルがそれに続きました。その間、日本経済新聞は何も報道しませんでした。沈黙です。

 その後、マイケル・ウッドフォード元CEOの記事が小さく出ました。ウッドフォード氏は日本の組織文化を理解することができなかったというような記事でした。まったくクレージーです。ビジネス・ジャーナリズムとして、3.11報道と同じくらいの大きな失敗でした。チャレンジする精神がまったくありませんでした。

――3.11以降、大メディアに対して国民も不信感を持ち始めました。

ファクラー:今、我々は非常に興味深い時期にいます。読者は今まで、メディアの言うことをほとんど信じていました。しかし、放射性物質の問題、SPEEDIデータの隠蔽、食料安全の問題について、国民はメディアに対して不信感を覚えたのです。国民と大メディアの間に溝が生じ始めたのです。「大メディアは国民の側に立っていない」という意識が国民の間に広がったと思います。3.11が変化の始まりでした。これほど強い不信感をみたのは初めてです。

日本の大メディアはダブルスタンダード

――人種差別に対する日本メディアのスタンスについてうかがいます。2010年にオーバーステイで逮捕されたガーナ人男性が、飛行機で強制送還しようとしたところ暴れたので、入国管理局の職員が集団で、手錠を使って縛り上げ無理やり飛行機に乗せました。その後、このガーナ人男性が機内で死亡した。この事件について、日本の大メディアが人種差別として報道しなかったことを指摘されています。
 また東電のOLが1997年に殺された事件がありました。犯人とされたネパール人はやっと最近釈放され、ネパールに強制送還されました。これも人種差別でしょうか?

ファクラー:どの社会も偏見を持っています。日本だけに限ったことではありません。問題はメディアです。メディアがそういう観点から報道しないのです。国民の意識を変えようとする努力がまったく見られません。こういう人種的偏見をなくすには、国民の意識を変えることが重要です。

 日本のメディアはダブルスタンダードに陥っています。人種偏見に基づく事件が、海外で起きた場合は報じるのに、自国で起きた場合は報じません。海外で起きた出来事にも、日本国内で起きた事件にも、同じ尺度を当てはめるべきです。日本のメディアは、ひょっとしたら、みずからがダブルスタンダードであることを意識していないのかもしれません。本来は日本社会の暗い面も報道するべきですが、それを隠す傾向にあります。

 もっと自分の足で取材して、調査報道をやってほしいと思います。貧困問題も同じです。日本の貧困問題は深刻です。こういう面をきちんと報道しないのはジャーナリズムの機能不全です。

――日本のメディアについて、特に変わってほしいと思うのはどの面ですか。

ファクラー:メディアのスタンスですね。大メディアは、本当の意味で監視役の役割を果たすべき時が来ています。日本にいる人は、もっと正確な情報を知る必要があります。今メディアがやっていることは明治時代から変わっていません。日本社会全体にチャレンジするような、代替メディアも生まれていません。能力はあるのに、とても残念なことです。

 3.11以降、非常に良い仕事をした日本のメディアもあると思います。「東京新聞」です。政府と距離を置いて批判的な記事を書いていました。地方新聞では「河北新報」です。同紙は政府や東電側ではなく被災者の立場から報道しました。震災記録300日にわたるその記録は『悲から生をつむぐ』という本にまとめられています。地方新聞でもネットを使えばグローバルなメディアになります。「地方」というのは関係なくなってきます。

良いジャーナリストの条件とは

――ジャーナリストの心構えについて、“a good journalist needs a sense of moral outrage”(良いジャーナリストには正義感――悪に対する人間的な怒り――が必要)と主張されています。これが最も重要な要素でしょうか。

ファクラー:個人的なレベルではそう思います。ジャーナリストは社会のためにやる仕事です。銀行家になってお金儲けするのとは違います。社会を良くしたいからする仕事です。ジャーナリストは少し理想主義者であると同時に、シニカルである必要があります。

――そして、取材対象と適切な距離を保つことですね。

ファクラー:これは本当に重要なことです。9.11のあとアメリカでは、メディアが愛国主義的になり、ブッシュ政権を批判しなくなりました。その結果、イラク戦争に関わる政策ついて十分な批判ができませんでした。イラク戦争をとめることができず、戦争の動機についても十分疑問を呈することができませんでした。

――それでもジャーナリストは、人脈を作り続けないといけません。

ファクラー:理想的に言えば、尊敬されることが大事です。良い情報を得るために、自分を売らなければならないのであれば、そのような情報源の存在は忘れた方がいいです。日本はジャーナリズムの倫理を少し変えた方がいいと思います。その方が尊敬されるようになる。長い目でみれば、フレンドリーな関係を作ることよりも、尊敬されるようになることが重要です。

コクヨの0.9mmと1.3mmのペンシルーー勉強に役立つ道具と文房具(1)

2012年10月12日 | 文房具と読書
英語や算数・数学の勉強をする時には、力を込めてガシガシ書ける筆記具が良い。太くて滑らかで速書きできるものだ。

シャープ・ペンシルならば、ぜひとも太字のものを選びたい。日本で普及している0.5mmではなく、0.7mm、0.9mmあるいは1.3mmや1.4mmを使ってみてはどうだろうか。Bから3Bを入れると、力を入れてなくてもスラスラ書けてしまうのだ。1.3mmの芯などというとちょっと驚いてしまう人もいるだろう。が、そんなに心配する必要はない。英語の例文を書いたり、数学の計算をしたりする分には、十分に実用的な太さだからである。

小中高生にまず最初に勧めたいペンシルは、コクヨから最近発売された0.9mmと1.3mmのものだ。キャンパスジュニアペンシルとかという名称で売られている。最初は小学生用として売りだしたようだが、中高生や大人であっても全然気にする必要はない。大人の愛用者が続出して、ちょっと渋い色の鉛筆シャープというのも発売されているのである。

値段が安いのに、握ったグリップ感じがとても良い。軸色も選べるし、デザインも素敵だ。
近くの文房具屋さんでは売っていないという人にはとても嬉しいお知らせがある。アマゾンの通販では2012年10月現在、送料格安のものが売られているのだ。なんと送料90円の激安価格である。試しに購入する価値があると断言しておこう。

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代数よりも確率や統計学が役に立つ! TEDとNYT(Opinion)より

2012年07月31日 | 教養英語




Arthur Benjamin: Teach statistics before calculus!はTEDの番組
だが、英語のリスニングの練習として、E高の1年生に聴かせたプレゼン番組である。だが、英語のお勉強としてのみしておくにはあまりにももったいない内容なので、ちょっと紹介したい。

Arthur Benjaminは数学マジックというすごい計算を暗算で解いてしまうという数学者なのだが、その彼が現代の数学教育を批判する。微積分のような数学(日本で言えば数学2B以上と私は解釈するが。。。)を学んでも、ほとんどの市民はその数学的教育を実生活で活かすことが出来ない。しかし、確率と統計を学ぶことは、実生活の上でずっと役に立つはずだ、というのである。

私は至極共感する。市民的教養として求められている数学は、微積分やベクトル・三角関数などではない。そういった数学は実生活でほとんど不要だからである。これに対して、確率や統計の基礎的リテラシー能力は絶えず求められる。たとえば、保険に加入するとき、偏差値の意味を理解するとき、ギャンブルや勝負事をするときを考えてみればよい。

詳しくはTEDの番組を見てもらいたい。和訳はないが、英語のスクリプトならば簡単に入手可能だ。もちろん英語でプレゼンを聞いてもらっても良い。


さて、さらに興味深いのは、Arthur Benjaminのような見解は、日本ではともかく、より多くの人に共有されているということだった。2012年7月28日付のNew York TimesにはIs Algebra Necessary? というOpinion(In the Opinion Pages Andrew Hacker writes, “Making mathematics mandatory prevents us from discovering and developing young talent.”)が出ていて、大いに注目されている。この意見記事を読むと、アメリカでは、数学が必修になっているために、あまりにも多くの生徒がドロップアウトしてしまうようだ。それは才能のむだ使いではないかと筆写は考えている。また、TEDのArthur Benjamin同様に、この書き手Andrew Hackerも、統計学のほうが重要だと説いている。

実に興味深いではないか。おそらく他にも同調者がいるはずだ。ちょっと調べたくなってくる。また、日本人としても、この問題を考えてみたいではないか。




A TYPICAL American school day finds some six million high school students and two million college freshmen struggling with algebra. In both high school and college, all too many students are expected to fail. Why do we subject American students to this ordeal? I’ve found myself moving toward the strong view that we shouldn’t.
My question extends beyond algebra and applies more broadly to the usual mathematics sequence, from geometry through calculus. State regents and legislators ― and much of the public ― take it as self-evident that every young person should be made to master polynomial functions and parametric equations.
There are many defenses of algebra and the virtue of learning it. Most of them sound reasonable on first hearing; many of them I once accepted. But the more I examine them, the clearer it seems that they are largely or wholly wrong ― unsupported by research or evidence, or based on wishful logic. (I’m not talking about quantitative skills, critical for informed citizenship and personal finance, but a very different ballgame.)
This debate matters. Making mathematics mandatory prevents us from discovering and developing young talent. In the interest of maintaining rigor, we’re actually depleting our pool of brainpower. I say this as a writer and social scientist whose work relies heavily on the use of numbers. My aim is not to spare students from a difficult subject, but to call attention to the real problems we are causing by misdirecting precious resources.
The toll mathematics takes begins early. To our nation’s shame, one in four ninth graders fail to finish high school. In South Carolina, 34 percent fell away in 2008-9, according to national data released last year; for Nevada, it was 45 percent. Most of the educators I’ve talked with cite algebra as the major academic reason.
Shirley Bagwell, a longtime Tennessee teacher, warns that “to expect all students to master algebra will cause more students to drop out.” For those who stay in school, there are often “exit exams,” almost all of which contain an algebra component. In Oklahoma, 33 percent failed to pass last year, as did 35 percent in West Virginia.
Algebra is an onerous stumbling block for all kinds of students: disadvantaged and affluent, black and white. In New Mexico, 43 percent of white students fell below “proficient,” along with 39 percent in Tennessee. Even well-endowed schools have otherwise talented students who are impeded by algebra, to say nothing of calculus and trigonometry.
California’s two university systems, for instance, consider applications only from students who have taken three years of mathematics and in that way exclude many applicants who might excel in fields like art or history. Community college students face an equally prohibitive mathematics wall. A study of two-year schools found that fewer than a quarter of their entrants passed the algebra classes they were required to take.
“There are students taking these courses three, four, five times,” says Barbara Bonham of Appalachian State University. While some ultimately pass, she adds, “many drop out.”
Another dropout statistic should cause equal chagrin. Of all who embark on higher education, only 58 percent end up with bachelor’s degrees. The main impediment to graduation: freshman math. The City University of New York, where I have taught since 1971, found that 57 percent of its students didn’t pass its mandated algebra course. The depressing conclusion of a faculty report: “failing math at all levels affects retention more than any other academic factor.” A national sample of transcripts found mathematics had twice as many F’s and D’s compared as other subjects.
Nor will just passing grades suffice. Many colleges seek to raise their status by setting a high mathematics bar. Hence, they look for 700 on the math section of the SAT, a height attained in 2009 by only 9 percent of men and 4 percent of women. And it’s not just Ivy League colleges that do this: at schools like Vanderbilt, Rice and Washington University in St. Louis, applicants had best be legacies or athletes if they have scored less than 700 on their math SATs.
It’s true that students in Finland, South Korea and Canada score better on mathematics tests. But it’s their perseverance, not their classroom algebra, that fits them for demanding jobs.
Nor is it clear that the math we learn in the classroom has any relation to the quantitative reasoning we need on the job. John P. Smith III, an educational psychologist at Michigan State University who has studied math education, has found that “mathematical reasoning in workplaces differs markedly from the algorithms taught in school.” Even in jobs that rely on so-called STEM credentials ― science, technology, engineering, math ― considerable training occurs after hiring, including the kinds of computations that will be required. Toyota, for example, recently chose to locate a plant in a remote Mississippi county, even though its schools are far from stellar. It works with a nearby community college, which has tailored classes in “machine tool mathematics.”
That sort of collaboration has long undergirded German apprenticeship programs. I fully concur that high-tech knowledge is needed to sustain an advanced industrial economy. But we’re deluding ourselves if we believe the solution is largely academic.
A skeptic might argue that, even if our current mathematics education discourages large numbers of students, math itself isn’t to blame. Isn’t this discipline a critical part of education, providing quantitative tools and honing conceptual abilities that are indispensable ― especially in our high tech age? In fact, we hear it argued that we have a shortage of graduates with STEM credentials.
Of course, people should learn basic numerical skills: decimals, ratios and estimating, sharpened by a good grounding in arithmetic. But a definitive analysis by the Georgetown Center on Education and the Workforce forecasts that in the decade ahead a mere 5 percent of entry-level workers will need to be proficient in algebra or above. And if there is a shortage of STEM graduates, an equally crucial issue is how many available positions there are for men and women with these skills. A January 2012 analysis from the Georgetown center found 7.5 percent unemployment for engineering graduates and 8.2 percent among computer scientists.
Peter Braunfeld of the University of Illinois tells his students, “Our civilization would collapse without mathematics.” He’s absolutely right.
Algebraic algorithms underpin animated movies, investment strategies and airline ticket prices. And we need people to understand how those things work and to advance our frontiers.
Quantitative literacy clearly is useful in weighing all manner of public policies, from the Affordable Care Act, to the costs and benefits of environmental regulation, to the impact of climate change. Being able to detect and identify ideology at work behind the numbers is of obvious use. Ours is fast becoming a statistical age, which raises the bar for informed citizenship. What is needed is not textbook formulas but greater understanding of where various numbers come from, and what they actually convey.
What of the claim that mathematics sharpens our minds and makes us more intellectually adept as individuals and a citizen body? It’s true that mathematics requires mental exertion. But there’s no evidence that being able to prove (x² + y²)² = (x² - y²)² + (2xy)² leads to more credible political opinions or social analysis.
Many of those who struggled through a traditional math regimen feel that doing so annealed their character. This may or may not speak to the fact that institutions and occupations often install prerequisites just to look rigorous ― hardly a rational justification for maintaining so many mathematics mandates. Certification programs for veterinary technicians require algebra, although none of the graduates I’ve met have ever used it in diagnosing or treating their patients. Medical schools like Harvard and Johns Hopkins demand calculus of all their applicants, even if it doesn’t figure in the clinical curriculum, let alone in subsequent practice. Mathematics is used as a hoop, a badge, a totem to impress outsiders and elevate a profession’s status.
It’s not hard to understand why Caltech and M.I.T. want everyone to be proficient in mathematics. But it’s not easy to see why potential poets and philosophers face a lofty mathematics bar. Demanding algebra across the board actually skews a student body, not necessarily for the better.
I WANT to end on a positive note. Mathematics, both pure and applied, is integral to our civilization, whether the realm is aesthetic or electronic. But for most adults, it is more feared or revered than understood. It’s clear that requiring algebra for everyone has not increased our appreciation of a calling someone once called “the poetry of the universe.” (How many college graduates remember what Fermat’s dilemma was all about?)
Instead of investing so much of our academic energy in a subject that blocks further attainment for much of our population, I propose that we start thinking about alternatives. Thus mathematics teachers at every level could create exciting courses in what I call “citizen statistics.” This would not be a backdoor version of algebra, as in the Advanced Placement syllabus. Nor would it focus on equations used by scholars when they write for one another. Instead, it would familiarize students with the kinds of numbers that describe and delineate our personal and public lives.
It could, for example, teach students how the Consumer Price Index is computed, what is included and how each item in the index is weighted ― and include discussion about which items should be included and what weights they should be given.
This need not involve dumbing down. Researching the reliability of numbers can be as demanding as geometry. More and more colleges are requiring courses in “quantitative reasoning.” In fact, we should be starting that in kindergarten.
I hope that mathematics departments can also create courses in the history and philosophy of their discipline, as well as its applications in early cultures. Why not mathematics in art and music ― even poetry ― along with its role in assorted sciences? The aim would be to treat mathematics as a liberal art, making it as accessible and welcoming as sculpture or ballet. If we rethink how the discipline is conceived, word will get around and math enrollments are bound to rise. It can only help. Of the 1.7 million bachelor’s degrees awarded in 2010, only 15,396 ― less than 1 percent ― were in mathematics.
I’ve observed a host of high school and college classes, from Michigan to Mississippi, and have been impressed by conscientious teaching and dutiful students. I’ll grant that with an outpouring of resources, we could reclaim many dropouts and help them get through quadratic equations. But that would misuse teaching talent and student effort. It would be far better to reduce, not expand, the mathematics we ask young people to imbibe. (That said, I do not advocate vocational tracks for students considered, almost always unfairly, as less studious.)
Yes, young people should learn to read and write and do long division, whether they want to or not. But there is no reason to force them to grasp vectorial angles and discontinuous functions. Think of math as a huge boulder we make everyone pull, without assessing what all this pain achieves. So why require it, without alternatives or exceptions? Thus far I haven’t found a compelling answer.
Andrew Hacker is an emeritus professor of political science at Queens College, City University of New York, and a co-author of “Higher Education? How Colleges Are Wasting Our Money and Failing Our Kids ― and What We Can Do About It.”


NHK英語講座の音声ソフト2012年度版 (高梨IT製作所)

2012年06月29日 | 教養英語
以前、NHK英語講座の音声を無料でダウンロードできるソフトの紹介をしたことがある。基礎英語やビジネス英語などのNHKのラジオ講座の音声をmp3にしてパソコンにダウンロードものだ。(ただし一週間遅れで取り込むことになる)。


高梨IT製作所が提供しているNHKラジオ語学番組キャプチャーツールである。

実はしばらくNHK講座のことを離れていて私は知らなかったのであるが、2012年度版が改訂されて発表されていた。これがないと2012年のラジオ講座をダウンロードできないので緊急に紹介しておく。

一応無料でダウンロードして使用することが出来るが、やはり高梨IT製作所にお金を払って使うべきだろう。


再度紹介の機会を設けたいが、今日はここまで。