妻は胃ろう  手抜かり 老老介護

2007年、56歳の時アルツハイマー病と診断される。
2018年1月、胃瘻造設手術。

介護再開

2021-11-30 09:59:37 | 在宅介護

いよいよ明日は妻が戻って来る。

3ヶ月ぶりの在宅介護が始まる。

退院から1ヶ月経つが一度も妻に会っていない。

事業所が遠方にあり、迷路みたいな場所にあるらしいので

運転に自信がない俺はなかなか行く気にならなかった。

娘達は入院中も何回か様子を見に行って、写真や動画を撮ってきてくれた。

 

会ったとき、妻はどんな顔をするだろうか。

  「お帰り」  俺が言うのも変かな。

  「ごめんな」 これが本当の気持ちかな。

 

在宅になったことで、ショートステイより妻の状態が悪くなったと

言われないようにしなくては。

ただケアマネさんからはくれぐれも 「頑張りすぎないように」と

クギを刺されている。

今回の入院で、一番の被害者は妻なんだから、

また同じような失敗をしないようにとも言われた。

 

「無理するな」、「無理するな」

念仏のように唱えることにしよう。

 

 

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気になった患者さん

2021-11-25 12:19:01 | 大動脈解離で入院(リハビリ専門病院編)

同じ病棟に認知症の患者さんもいたがその症状は様々で

何人かはナースセンターの目の前の談話室に集められて、

そこで食事も摂ったりしていた。

 

ちょっと困った患者さんがいた。

90歳近いと思われる彼は、大きな声で「おーい」と叫び続けるのだ。

看護師さんも手を焼いてるようで、車椅子の彼をナースセンターの中に入れて

2、3人の看護師さんが気を配っていた。

大声が出ると、「なーに」、「はーい」と返事をすると、その時は静かになるが、

看護師さんだって自分の仕事があるのでいつも構っていられない。

すぐまた「おーい」が始まる。

看護師さんは90歳前後の彼を「殿(との)」と呼んでいた。

「おーい」がまるで殿様が家来を呼んでるようだというのだ。

あの年代の男性は家でも「おーい」と呼んで今まで生きてきたんだろうねと

噂していた。

日中はまだ看護師さんたちの声やなんかに紛れてそれほど気にならないが

夕食が済んで静かになった病棟に「おーい」が響き渡るとイライラした。

おそらく俺だけじゃなく病棟の全員が 「看護師さん、何とかしてよ」と

思ったはずだが、誰一人文句を言う人はいなかったみたいだ。

やがて消灯間近の8:30頃になると「おーい」が止んで静かになった。

なぜそうなるのか不思議だったが、おそらく看護師さんにも

秘策があったのかもしれない。

 

もう一人、気になった患者さんがいた。

各病室のドアには小さいホワイトボードが付いていた。

担当看護師の名前を書くためのものだったようだが、どこの病室も

何も書いていなくて真っ白のままだった。

ところがその個室のホワイトボードには

 

   「まだ かろうじて 生きてますよ」 と書かれていた。

 

看護師さんに訊くと、本人が書いたのだという。

達筆ではなかったが下手というほどでもなかった。

ここの病棟には重体の患者さんはいないはずだがどんな人だろう。

それとなく看護師さんに探りをいれてみたが教えてくれなかった。

 

たまたま通りかかって、掃除のおばさんがドアを開けたときに

覗き見したが、背の高い男性の後ろ姿が見えただけで顔は分らなかった。

結局、退院まで正体不明の謎の人物のままだった。

 

☆ケアマネさんから連絡があった。

 妻がいよいよ12月1日に戻ってくることが決った。

 デイを1回増やして週2回にしてもらうほかは大体入院前と同じだ。

 3ヶ月振りの介護だが、嬉しさが4、不安が6といったところか。

 自分の身体が心配なのと介護の中身を忘れていないかも不安だ。

 パット交換、オムツ交換、胃瘻の手当、吸引器の操作、口腔ケア、

 チューブの消毒、車椅子とベッドの移乗、体位交換、

 褥瘡対策等々不安だらけだが、みんなに助けて貰いながらやるしかない・・。

 

 

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3人の忘れられないリハビリさん

2021-11-23 10:04:43 | 大動脈解離で入院(リハビリ専門病院編)

入院して最初にリハビリを担当してもらったのが、

理学療法士のSさんと作業療法士のTさんだった。

トータルでもこのお二人の回数が一番多かった。

 

患者のリハビリの様子は、パソコンで管理され、主治医や看護師さんも

目を通していたようだった。

俺が退院するときのカンファレンスで意見を述べたのが

このSさんとTさんだった。

 

俺の入院の目的が妻の介護が出来るようになる体力を回復することだと

伝えていたので、筋トレ中の雑談でもそのことが話題になった。

そうすると、お二人の家族のことなども少しだが知るようになった。

 

Sさんは20代後半か30代前半の独身男性。

指導は俺の体力のギリギリのところを設定してくるので

いつも汗びっしょりだった。

Sさんはちょっと意地悪というか俺をからかうようなところもあった。

 

2階にあるトレーニングルームはエレベーターを下りてちょっと奥まった

場所にあった。

俺は方向音痴のところがあって、帰りにSさんは俺を先に歩かせて、

迷ってキョロキョロしているのを見てニヤニヤしていた。

 

ある時は、例の100から7を引いていく計算をさせられたが間違ってばかりだった。

Sさんはそれもニヤニヤしながら黙って聞いていた。

 

またある時は、Sさんの学校の後輩で妻と体型が似て小柄なY さんを実験台にして

車椅子からベッドへの移乗訓練もした。

若い女性のYさんを抱きかかえるのは申し訳なかった。

俺の血圧をチェックするとちょっと高めだったらしい。

そのことをSさんは冷やかした。

 

Tさんは30代後半?の主婦。3人の子供さんのお母さん。

Tさんも俺が退院したあとのことを考慮したメニューを組んでくれた。

何回か、トレーニングルームを出て、病院の裏の駐車場を

Tさんとウォーキングした。

久し振りの外気は少し冷たかった。

Tさんと退院後の介護生活についていろいろ話しをした。

 

Sさん、Tさん、Yさん、記憶に残るお三方でした。

 

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無理しないように

2021-11-21 07:45:07 | 大動脈解離で入院(リハビリ専門病院編)

 リハビリ病院には100人余の理学療法士(PT)と作業療法士(OT)が

 在籍していた。

 PTさんは紺色、OTさんは白色のシャツだったが、割合からすると

 PTさんが8割以上の感じだった。

 

 平日は午前午後1回、土曜は午前のみ、日曜は休みだった。

 毎回担当は特に決まってなくて毎朝、その日の担当リハビリさんが病室に来て、

 「○○さん、今日は11:00からです」 と開始時間を知らせてくれる。 

 その時間が来ると病室まで迎えに来て、

 トレーニングルームで30ほど汗を流した後、また病室まで送ってくれる。

 

 入院中、大体40人ほどのリハビリさんの指導を受けたが、顔と名前を覚えたのは

 3人だけだった。

 その想い出については後日。

 

 最初、大きなマシンを動かした時は

 治りかけた胸骨がまたバラバラにならないか心配だった。

 つい、頑張ってしまう。

 リハビリさんと一緒に 「1、2、3・・」と声を出してトライするのだが、

 10回毎に休んで血圧をチェックしてくれた。

 特にメニューが決っているわけではなく、そのときに空いているマシンを

 使ったり、廊下でスクワットやつま先立ちをやったりした。

 

 トレーニングルームはいろんな病棟から集まった大勢の患者さんと

 リハビリさんでいつも活気に溢れていた。

 

 ☆入院中も退院後も、具合はどうですかと尋ねられると

  「無理をしなければ特に痛みも無く、大丈夫です」と答えているが、

  どうも正確ではない。

 

  やはり手術前とはどこか違うのだ。

  「痛み」というほどではないが何か違和感が胸に残っている。

  「ピリッ」でも「チクッ」でもないが、うまく表現できない。

  まだ完治していないということだろう。

 

  力仕事に不安がある。

  再び血管が破裂するのではないかという不安がある。

  しかし、それも運良く助けてもらった命を大事にしろという

  戒めと思うことにしている。

 

 

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日赤からリハビリ専門病院へ

2021-11-19 09:25:54 | 大動脈解離で入院(リハビリ専門病院編)

日赤からリハビリ専門病院に転院する日、

看護師さんが病室に来て、紙袋3つほどの荷物をワゴンに入れてくれた。

忙しく動き回っている看護師さんたちに改めて挨拶する時間もなく

エレベータに乗った。

 

1階のロビーに行くと長女夫婦が待っていた。

看護師さんにお礼を言い、荷物を受け取って入院費用の精算を済ませた。

 

いよいよ三つ目の病院、「リハビリ病院」に着いた。

俺の入る病棟は、「在宅復帰に向けた準備を整える」ための病棟で

入院期間は最長で60日だという。

 

先の震災の後、耐震設計による改修工事を行ったということで

新しい建物だった。

 

私の病室は4人部屋だったが、皆さんベッド周りのカーテンを閉めて

横になっていた。

トイレは部屋を出てすぐ近くにあった。

 

看護師さんとの会話から、どうやら俺以外の3人は糖尿病の患者さんらしかった。

車椅子の方が二人、もう一人の方は自分で歩いていた。

皆さん俺と近い年齢のようだった。

 

トイレの隣に洗面所があって、大きな鏡の前に5~6人ほど座ることができた。

そこにはコインランドリーが2台置いてあった。

これは有り難かった。

わざわざ娘に遠方から着替えを届けに来て貰わなくてもよかった。

 

最初、トレーニングルームを見たときはびっくりした。

まるで大きなスポーツジムのようだった。

 

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日赤からも転院

2021-11-17 17:06:18 | 大動脈解離で入院(日赤編)

相部屋で困ったのは、オシッコが近いので夜間に何回もトイレに行くことだった。

足音がしないようにこっそり歩くが、病室内のトイレのため

どうしても「流す音」が 響いてしまう。

皆さん俺より年配の方ばかりだったが、夜中に起きるのは俺だけだった。

 

トレーニングルームでの20分の自転車漕ぎと自主トレの廊下歩きを続けて

半月ほど経ったころ、先生からリハビリ専門病院へ転院の打診があった。

そういう専門病院があることを知らなかったが、もっと体力の回復が

必要と考え、転院することにした。

 

医大では術後は下帯だったのを覚えているが、いつパンツに切り替わったか

覚えていない。

日赤では肌着の着替えを娘に届けてもらった。

遠方から1日ががりで仕事を休んで来るので申し訳なかった。

 

シャワーは男女で曜日が決っていて(週2)、新しい病衣やタオルを

病室に持って来てくれた。

大きなシャワー室の真ん中にカーテンの仕切りがあり、

介助が必要な方と自分一人で出来る方とに別れていた。

医大では一人用のシャワー室を使ったことは覚えているが、

タオルや曜日がどうだったかは記憶にない。

 

医大での出来事(病室、食事、トイレ、テレビ、着替えなど)については、

痛みや苦しさが強かったせいか、あまり細かいことを覚えていない。

 

もともと物覚えが悪かったが、コロナ禍でみんなマスク顔なので

医師も看護師さんの顔も一人も思い出せない。

 

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医大から日赤へ転院

2021-11-15 10:57:31 | 大動脈解離で入院(日赤編)

 

医大での手術から2週間余り経つ頃には一人で安全に歩けるようになり、

トイレもシャワーもナースコール無しで自由に動いていいという

お墨付きが出た。

 

そして主治医から退院の話しがあり、日赤に転院することになった。

 

長女夫婦が迎えに来て、その車に乗って日赤に着いた。

医大では個室だったが、日赤は4人部屋だった。

相部屋は気が重かったが仕方がない。

 

切断した胸骨を護るため医大から継続してバストベルトを着けていたが、

治療としては、高血圧の薬とリハビリの二つだった。

 

日赤のリハビリ担当は看護師さんだった。

俺の担当は、俺が救急車で日赤に運ばれて来た時に

対応してくれたチームの看護師さんで俺のことを覚えていた。

 

午前中にトレーニングルームで自転車漕ぎを20分するのが日課だった。

 

早く退院して妻を介護できる身体を取り戻すのが目的だったから

リハビリの時間以外にも病棟の廊下を歩き回って自主トレに励んだ。

 

 

☆ パソコンの調子が思わしくなく、投稿画面をすぐ開くことが出来ない。

  あちこちいじくり回して運が良ければこの画面が開く、といった感じだ。

 

  退院してもう2週間になるが、まだ妻を引き受けられていない。

  ケアマネ、ヘルパー、訪看、リハビリさん等との面談が明日開かれ、

  そこで意見が交わされ、皆さんの支援態勢が整い次第、

  妻の在宅介護がが再開することになる・・・・。  

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胸のつかえが取れる

2021-11-08 21:57:18 | 大動脈解離で入院(医大編)

胸腔に入れられていた3本のチューブが1日に1本ずつ抜かれ、

全部抜かれたときは、文字通り胸のつかえが取れて

呼吸が楽になった。

 

その頃から歩行や車輪を回したりするリハビリが始まった。

すぐ息切れしたが、今思えば、この早めのリハビリが後々の回復に

大いに役立った気がする。

 

CTスキャン室でエコー検査があった。

若い女性の検査員が二人いて、

一人が横になった俺のお腹をあちこち押した。

狭い部屋は三人で密室状態だった。

こともあろうか、オナラが出た。

ごまかしがきかないと思ったが一応、「オナラしました?」と訊くと、

「しましたね」と二人が笑った。

密室だったので、どちらかの顔面を直撃したかもしれない。

部屋を出るときもう一度謝った。

 

☆退院直後の私を案じて交代で泊まっていた娘達も

 1週間が経ってそれぞれの家庭に帰っていった。

 さすがに夜はちょっと不安だ。

 

 退院時6㎏減っていた体重が1㎏リバウンドしている。

 気を付けよう。

 テレビを観ながら寝っ転がってお菓子を食べるという

 悪習にだけは戻ってはならない。

 

 

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排尿、排便に苦労する

2021-11-07 08:50:43 | 大動脈解離で入院(医大編)

 

たぶん術後1~2日後だと思うが、ワンフロアから個室に移された。

とはいってもワンフロアに隣接した病室で

身体にはいろんな監視装置のチューブが付いていた。

異常があると警告音がピンポンピンポンと鳴りっぱなしで

すぐ看護師さんがやってくる。

 

俺は胸にベルトを巻かれていて相変わらず腹と胸が苦しい。

眠れずに睡眠薬を処方して貰ったこともある。

看護師さん達は「眠剤」と言っていた。

 

この時期苦労したのは、排尿、排便だった。

ベッドに横になったまま容器をあてがって用を足すのは

馴れないことだったので大変だった。

手術から10日ほど経った頃、ベッドの横に腰掛けて出来るようになったので

大分楽になった。

 

☆ 手術前に医師から長女に説明があって、100枚近い書類がある。

  簡単にいえば、手術はするが成功するとは限らず、死ぬ可能性が

  十分あるがそれでもいいか、という同意書だった。

  何枚かに長女のサインがしてある。

 

  次女の話では、親戚に連絡するとき、泣いていたという。

  長女には、妻(母親)のこと、自分の仕事や子供達のことなど、

  大変な想いをさせてしまった。

 

  妻は現在もショートステイでお世話になっている。

  

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野戦病院のよう

2021-11-06 16:51:09 | 大動脈解離で入院(医大編)

手術後、目が覚めた。

何日後か何時間後か分らない。

 

さらに、

記憶が飛んでいるので、今、自分がどういう状況にあるのか

すぐには理解できなかった。

 

周囲の様子を伺うと、そこは病室ではなく、

大きなワンフロアにベッドがいっぱい並んでいて、

医師や看護師が忙しそうに動き回っていた。

 

どうやら、手術を終えたばかりの患者が手術室から

ここに集められている感じだった。

何となく、映画で観た野戦病院みたいな雰囲気。

CICUというらしい。

 

ただただ胸や腹が苦しかった。

深呼吸が出来ない。

後で聞くと、胸骨を切断し血管の一部を人工血管に交換しているという。

そのため、出血を外に出すため(?)腹の中に管が3本入れられていた。

 

CICUには新生児もいた。

赤ちゃんの泣き声が響いている。

看護婦さんが赤ちゃんを抱っこしながらあやしている。

 

赤ちゃんの無事を祈った。

 

☆ 2ヶ月の入院の内訳は、手術をした医大に半月、

 そこから日赤に転院して半月、さらにリハビリ専門病院で1ヶ月

 トレーニングしてやっと退院。

 

 初めての長期入院。

 病院が違えば、看護師も違う、食事も違う。

 それぞれに想い出がある。

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