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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)4月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月02日 | 冨岡寅吉日記

四月一日 火曜 晴
籠(主)
父は早く起きて東京に手達*した。朝食して松の木を引切った。終ってから祖母さんと田の麦の作をきりに行った。午後まき割りをして皆割り切った。餅つきをした。
*出立。4月7日より代々木練兵場・馬事公園で興亜馬事大会が開かれ、根岸宇平・内田桑作・小林新平の馬が出場した。

四月二日 水曜 晴
祖父さんと根岸へ竹をかつぎに行った。持って来て将軍沢へ使に行って来て鎌形の家へ行った。明日は本家の礼参り*である。午前中はしまだ作りをした。午後本家へ行って辻札はりをした**。しまだ作りをした。
*本家の富岡作次の無事帰還の礼参り。
**出征兵士の武運長久を願って、「遠州奥山半僧坊大権現祈武運長久出征兵士○○○○」と印刷した短冊状の紙を竹串にはり三本辻に立てることがおこなわれていたが、この場合は帰還の御礼。千本旗。

四月三日 木曜 晴
中島源之、内田定夫の二君が産業の戦仕*となる為工場に行くのを見送った。家へ来て実行組合の総会に出席した。ちゃうど正午であった。昼食して魚を突きに行って色々の魚を突いて来た。
*戦士。

四月四日 金曜 晴・暖イ日
籠(主)
今日は吉沢三郎君が会社*に出達**するのを見送った。西***などが大蔵へ来た。しまだ作りをした。午前五明の叔母さん****が来た。みやを子守りして斉藤の家へ行った。昼食して又しまだを作り始めた。チンドン屋が通った。父より手紙が来て皆で大笑ひした。発信斉藤三郎 受信東京父より
*横須賀海軍工廠。
**出立。
***西孝三。同級生。
****筆者の母の従姉妹。

四月五日 土曜 雨
籠(主)
米ぬかの様な雨が降って居た。道ぶしんは延びである。藁を侵して*しまだ作りを始めた。休み休みしたのでいくつも出来なかった。ふり将基**をして遊んだ。隆次につけペンを買ってやったりした。山下君から便りが来た。しまだ作りをした。(丁寧)
*浸して。
**将棋。

四月六日 日曜 晴後雨
籠(主)
今朝も昨日の様に雨賀落千天伊多。今日毛道無新が出来そうもない。山下君に便りを出した。藁をすぐってしまだ作りをした。昼食して麦を刈りに行って来て小切った。馬料を切った。夕方もしまだ作りをした。発信山下三郎 受信父より

四月七日 月曜 晴・小雨
籠(主) 大口さらい*
今日の天気は昨日の天気とすっかり反対でからりと晴れ渡って居た。区長さん**が堀浚ひの事を言ひに来た。清治さん***と一所に行った。堀の両端はいばた****が取り囲み土でうづまって居た。ジョレンでほじくった。午後車の後押しをした(五十銭)
*鎌形石代の堰から取水している水路の堀さらい。
**富岡茂八。
***村田清治。
****いばら。

四月八日 火曜 晴
籠(主)
昨日のつかれをやゝおちついた。藁をしみした*。畠に行き麦を刈って来た。しまだ編みをした。馬の飼料の藁を小切ったりした。午後松山に行って来たが教科書はなかった。以上 受信斉藤三郎、吉沢三郎
*藁を水でぬらすこと。

四月九日 水曜 雨
籠(主)
空は曇って居た。薄陽(うすび)も漏れたりした。もう父は大宮を出発した頃だらう。しまだ作りもあきてきてしまった。でも一つ出来上がった。みやをのせる車の製造に取りかゝった。輪が一つ割れてしまった。夜父は帰って来て革靴をもらった。受信中島源之
陸軍大学生三笠宮武蔵嵐山駅下車。

四月十日 木曜 曇
入学式 宣誓ヲ読ム
山下、金井、野村、根岸、西の五君は立川に出達した*。根岸呉服店で戦闘帽を買ったり青年学校服を買った。全部で二十円が十銭欠けた。午後三時学校で入学式が行われた。本科一年の級長となった。夕方暗くまで学校にいた。雨も降る。
*山下昭二、金井仲次郎、野村修彦、根岸直次、西孝三の五名。立川飛行機株式会社入社。

四月十一日 金曜 晴
種の播種(ウリ、エンゲン、トウモロコシ)
朝食して菅谷の駅前の叔母さんの家へ行き鍛冶屋に行った。竹割りの中間に行った。家へ来てしまだ作りをした。一つ出来上がった。二つ目も後少しである。午後苗代田を耕ひに行った。馬も一生懸命にした。さつま畠の藁ひきや色々の種を播く。発信内田実
吉田手白神社例祭。

四月十二日 土曜 晴
今日は召集日である。支度をして村田君の家へ行き学校に向かった。八時に集合した。そして行軍の話をした。ゲートルの巻き方や不動の姿勢、敬礼等を教練した。午前はこれで終り、午後長島先生*から話を聞いたりした。
*長島統司。1940年(昭和15)3月~1942年(昭和17)3月勤務。

四月十三日 日曜 雨後曇
世間には霧がまいて居た。朝食をして菅谷に行った。長屋の鍛冶屋*に行き松山に行って帽子のキ章をかって来た。いも出しをした。午後田に行き肥ちらしをした。少し雨が降り出し大降りとなった。皆から便りが来た。受信内田実、金井、野村、根岸、山下
*唐子村の江森鍛冶屋。
大蔵榛名講金井親治他二名代参。

四月十四日 月曜 雨・曇
青年団の入団式である。支度をして向徳寺に行った。敬老会もあり茶菓が出た。約四時間であった。午後一時玉川の二本木座に活動のあるのを見に行った。高山(こうやま)の家*の御祝儀であった。大蔵の祭典**であった。受信吉沢三郎、栗原守男***
*玉川村の親戚。
**ハルギトウ(春祈祷)。五穀豊穣を祈る。
***同学年。ヂーゼル株式会社勤務。

四月十五日 火曜 晴
起きてこまいかき*をした。間切れをした*。九時頃支度をして学校に行った。多時間遊んで始まった。玉ぐしを上げた。家へ来ると正午である。父と麦の間にさといもを植ゑたりして、麦をつけて遠山の水車に行って来た。菅谷の家のソウ式**
*土壁を作るとき、補強のために竹を割ったものを縦横に入れ、細縄でまく。まぎれはその竹をうつこと。
**山岸ツメ。1852年(嘉永5)生まれ。

四月十六日 水曜 曇
今朝も小間いかきをした。早朝飯して煤掃きを始めた。八時頃皆出し来た。午前中になから*終った。とてもきれいになった。昼食して駅前の叔母さんの家へ兎を持って行った。立つ小間への竹を入れた。全部くばり切った。
*だいたい。

四月十七日 木曜 晴
籠(主)
小間いかきを始めた。今日は立つのをかくのである。とても手がいたい。して見ると容易でないが面白いもので良く出来た。午后一時頃本家の叔父が来て手伝ってくれた。父は菅谷の根岸宇平さんの家にお客に行った。立つはかき切った。

四月十八日 金曜 曇

今日は青年学校の行軍である。早く起き支度をして校庭に集まった。菅谷発六時三〇分で奈良奈シ*で休んだ。赤浜**でも休止した。釜伏山に着いたのが〇・十分頃であった。昼食して下り玉淀にて一時間遊んだ。鉢形より(十七銭)電車に乗って帰って来た。つかれた。
*八和田村奈良梨。
**男衾村赤浜。

四月十九日 土曜 晴
籠(主)
昨日の痛みも稍なをった。そしてゲートルを巻いた。みやを子守った。父と前の畠のほつくり返しをした。そして鍛冶屋*の桑畠にも行った。午后父、祖母、守平等と田の大麦の作切りに行った。大麦は皆切り終った。ちゃうど夕方までかゝった。受信山下昭二、松山支部二名 発信斉藤三郎
*金井示夫方。
大蔵で春季清潔法実施。

四月二十日 日曜 晴・暑い
起きて馬の湯を湧かしたりした。農の支度をして父と守と畠に行きけづりこみやほつくりかえしをした。十時頃休んで西原に麦の作切りに行てとても腹がへった。午后湯水をくんだ。西畠は終り前の鍛冶屋の麦畠も切り終った。明日は松山に講習があるので行く。受信関口三郎*
*同学年。ヂーゼル株式会社勤務。

四月二十一日 月曜 曇
栽桑講習
今日は栽培桑講習に行くので早起きをした。それはうそである。桑のしばってあるのをほどいた。支度をして自転車で松山養蚕取締所に行った。松本さんと荒籾技師の訓話があり、岩澤さんの話で桑のことがあった。上の家でラヂヲを聞いた。受信栗原友造*
*同学年。

四月二十二日 火曜 雨
籠(主)
支度をして唐子の坂で村田指導員殿*に合った。松山まで一所に行った。今日も一番早かった。七時三十五分であった。九時に始まり今日は中山技師の訓話があり橦木(つぎき)につき話した。あと一人の日とは蚕品種に就いて説明した。橦木の練習をした。発信栗原友造
*青年学校指導員。陸軍伍長。1915年(大正4)生まれ。

四月二十三日 水曜 曇
籠(主)
小雨がちらついて居た。新しい家のこまいかきをした。横をかく*のは指がいたい。朝食して始めた。雨は降る。それに風がは入ってはだに寒くかんずる。仕事はどしどしとはかどる。父君は俵編みをした。午后は母君と一所にかいた。夕方父もかいた。
*こまいかきで横の竹を入れること。

四月二十四日 木曜 晴
籠(主)
学校生徒の遠足だ。守は釜山神社に行ぐのである。まきは吉見の百穴だ。隆次は嵐山だ。自分はたきぎをはこんだ。木間いかきをした。
昼休みに玉川の燈電*に行って来た。地蔵様**に行って来た。祖母さんはワラビをとりにいった。受信斉藤三郎
*現在の玉川村商工会の場所にあった。
**新教地蔵。

四月二十五日 金曜 晴
籠(主)
祖母さんは山にわらびを取りに行った。父と本じん畠にほつくりかえしに行き桑をほどした。わきの高台も終った。十時十五分に黙祷を捧げた。昼食してこまいかきを始めた。大方かき切った。夕方枯枝にふたをした*。
*談:雨よけのため。
靖国神社臨時大祭

四月二十六日 土曜 晴
明日新聞配達の回ランが来た。今日は教練である。八時には集合した。全員三十七名である。体操は基本体操をした。脚手頭等十三種である。行進もした。菅谷の市中を走足行進をした。少しつかれた。午后学科は初雁先生と杉山先生の話があった。以上。
福田村葬執行。

四月二十七日 日曜 晴
斉藤の家*兎をかけてもらった。
新聞配達だ。早く起きて支度をした。忍田政治君**が新聞を持って来た。東日九部、朝日三十一部都合四十部である。配達する時間はいくらでもない。朝食して少しこまいかきをして守平と二人で馬小屋の肥出しをした。約半日かゝってしまった。午后父と田の作切りをした。
*斉藤三郎方。
**二学年上。

四月二十八日 月曜 曇
籠(主)
起きてこまいかきをした。もう終った。父君と田の作切りに行った。(なつかしい)学校のチク音機のラッパの音がとても良くきこえる。鐘もなり家に来て昼食した。午后は一人で田に行き堆肥を麦の間にちらかした。これも終りけこみもした。兄弟で兎の草摘みをし、たいへんつんだ。以上
宮前村葬執行。

四月二十九日 火曜 雨後曇
籠(主)
今日は菅谷青年団の結成式がある。基本体操を少しした。天長節の式典が始まった。午前十時に青少年団の結成式が始り副団長の訓辞があった。金井柳作さんの祝辞があった。山下周治さん*の帰還をむかえた。発信吉野廣一(ひろいち)
*山下周平。1939年(昭和14)5月応召。
天長節祝賀式並菅谷村青少年団結成式。吉沢三省入団祈願祭八幡神社で執行。

四月三十日 水曜 晴
霧が一面に野山を包んで居た。小麦をうすでひいた。桑原のほつかえしをした。このめや蚕道具を洗ひに行った。こうじやさんが来てこうじを寝かした。午後田に行ってけこみをした。作切りをして休み時遠足が通った。祖母さんが来て止作切りが終った。以上
菅谷村常会開催。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)5月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月01日 | 冨岡寅吉日記

五月一日 木曜 晴・風
籠(主)
ラッパの音が聞えて神社参拝をした。川に父とむしろ洗ひに行って五十一枚洗った。土引きをして先傳ひ*をした。十車以上運んだ。昼食して遠山の水車に麺を持ちに行って来たりした。
*手伝い。
七郷村経済更生記念連合常会開催。午後からは体育大会開催。

五月二日 金曜 晴
籠(主)
起きてすぐ自転車で遠山水車に行った。朝食して砂運びの入れ手をした。枝つみをして半日かゝった。父もまき割りをし自分は馬の飼料の藁や豆の木を切ったりした。まきまるきもした。受信大野角蔵、野村修彦

五月三日 土曜 曇
籠(主)
山下周吉さんの礼参りである。僕の組は七人で、(富岡良治、富岡理*、〃〃寅**、野口***、金井****、山下*****、長沢******北の方に行った。氷川神社に始め行き川島、菅谷、平沢、志賀、杉山から合計十一社廻って松山に出て平七さんにおごってもらった。田の肥引きをした。
*富岡理昌。
**寅吉。筆者。

***野口由次郎。一九一九(大正八)年生まれ。
****金井亀二。一九一九(大正八)年生まれ。
*****山下丑造。
******長沢平七。

五月四日 日曜 雨
蚕の発生
起きると雨が降って居た。父はみのを作くった。自分はしまだ編みを始めた。一つ出来上がって大休みをして勅諭を奉読した。午后又始めた。幾山か編んだ。休み頃樽と箱を持って川に洗ひものに行って魚を十一匹だけ釣った。受信山岸良之助

五月五日 月曜 晴
近所の家々に鯉のぼりが空を泳ひで居る。十一時頃松山に行って乾暖計やサンザーシ*を買って来た。午后農士学校に行って国民学校児童の相撲や農学校生徒の取組を見たりして来た**。
*蚕座紙。
**農士学校開校記念式挙行。

五月六日 火曜 晴
起きて草刈りに行くと誰かがもう刈って居た。一籠刈って家へ来たら朝日も大部高くなって居た。朝食してみやの乗る車の輪をなほした。しまだ作りもした。竹割りの練習をしたが良く割れない。午后松山に行って蚕座紙を買って来た。発信山岸良之助 受信吉野廣一、山下三郎

五月7日 水曜 晴
今朝は捨手場下(土地の名)と言ふ所へ草刈りに行った。昨朝より早く一つぱいになった。父と祖父三人で苗代田に行き二度耕ひをして水を入れ二人でかいた。自分は志賀にザマを持って行った。松山に行きブヒルマ*のぬのをかって来た。(一円六〇銭。)甘藷を植えた。受信富岡作次
*ブルマー。

五月八日 木曜 晴
一人で西原に草刈りに行った。一籠刈って来て岩殿に行く支度をした。未だ二時間も間がある。川島淀吉さんにつれられて岩殿に着いて昼食をした。ゴマをたいた。オショウ香をした。娘達十数人と坂戸に向かってシャカ様に参拝*して来た。
*坂戸町永源寺。

五月九日 金曜 曇
父と二人で草刈りに行った。家へ来て朝食して田にもみをまきに行った。一籠草を刈った。新物置きの廻りをかたづけたりした。前の田の土を父とモッコで運んで畠の土とまぜた*。こまいかきもした。夕方将軍沢へ守と籠を持って行った(三ツ四円二十銭)。発信富岡作次 受信富岡豊作、富岡ウシ三
*談:壁土につかうため。

五月十日 土曜 晴後曇
少し雨が降って居た。今日は青年学校の召集日である。下唐子の岡部登生三(とうぞう)砂官*が新物置きの壁をぬりに来る。検査が終る時分雨は止み雲は薄くなった。午前中少し教練をした。午后は家へ来て砂管の手伝ひをした。土の運搬であった。以上 受信吉野栄一
*左官。

五月十一日 日曜 晴
野辺の草ももう少くなった。一籠刈って来た。大工さんが家を起こしてくれた。朝食して父と自転車で遠山の水車に費用*に行った。茄子苗を移植した。父はまき割りであった。自分はそれをまるったりした。吉野君に合った。車の仕事のまき割終
*日傭(ひよう)取り。

五月十二日 月曜 半晴
中島街道に父と草刈りに行った。今朝はたいへんあった。家へ来て灰をふるって苗代に行ってそれを種の上にふった。家へ来て養蚕の道具を川に洗ひに行った。昼食して今度は籠を持って行った。一車洗って二車目を行ってすだれを洗って来た。夕方竹割りをした。以上

五月十三日 火曜 雨
今朝は県道の両端で草刈りをした。朝食してしまだ編みを始めた。五山ばかり編んで目籠作りに移った。腰を立てるのがむづかしい。でもなから出来た。午后はビクを作くる支度をした。骨を幾本かうっかいてしまった。でも出来上がった。夕方しまだ編一つ。以上 受信金子常吉

五月十四日 水曜 晴
今朝は土手の端で草刈りをした。今日は菅谷のバーの開墾の手伝ひである。父と山下光(みつ)平さん*と小林元(げん)一郎さんと野辺さんと自分五人で旧宅地の開墾を始めた。仕事はとてもはかどって昼食までに半分たひらげた。午后度々休んだ。でも暗くならない中に終った。石はとても多かった。発信金子常吉**
*山下光太郎。
**筆者の叔父。

五月十五日 木曜 晴
昨日の朝と同じ様にとても身にしむる程寒く草を刈ると手がかじかんだ。草も少なくなった。父は遠山水車に手伝ひに行った。みやはいね三人で自転車で苗代の水引きに行った。子守りをした。まき割をするとじき昼となった。五明の叔母が通りがけに家に寄った。

五月十六日 金曜 晴
土手で草刈りをした。今朝はとても遅そかった。家へ来て父と馬小屋の肥出しをした。吉野明さんが来てバケツ等なほしてくれた。間があるので砂管に用ひる土はこびもした。午后も続けた。終ってみやを子守りした。夕方竹割りをした。以上

五月十七日 土曜 雨
今日は教練であるが雨である。村田君*は休んだ。午前学科をした。勅諭等であった。十一時より校長先生の話があった。検査の事に就いて。午后服部先生が戦陣訓を教へてくれた。三時二十三分の下りの電車で菅谷の中島さんのイ骨がかえった。
*村田清治。

五月十八日 日曜 曇
新聞配達だ。支度をして持って来て配達した。日は一部大かった。朝日は少なかった。早く終って朝食して守と二人で草刈りに行った。目かいを編んだ。しまだ編みもした。午后一枚終った。五山ばかり二つ目を編んだ。家のおっかい棒をはづした。

五月十九日 月曜 晴
根岸に行くととても草が多くあって刈り良かった。今日は唐子の砂管が来る。早く帰って来た。そして支度をした。帰し壁であるので手間がとれなかった。午前の中に西側と北側とを塗った。午后早く全体が終った。主屋の壁の傷を塗りなほした。甘藷苗を切った。以上

五月二十日 火曜 晴・夕立
籠(主)
今朝は根岸河原の土手で草を刈った。早く出来た。朝食して甘藷の苗をは切った。一切終って苗代に行ってヒヘ抜きをした。とても多くあった。もう昼である。午后菅谷の樫ノ木に行き石灰を買って来た。一カン(七〇銭)。物置きを片づけ、甘藷の苗を植ゑた。以上 受信芝辻十三
川島で市野川流水式。

五月二十一日 水曜 晴
籠(主)
草は大変有ったがよもぎににた木の枯れたのが多いので刈りにくかった。杉ナがとても多い。朝食して子守りがけて苗代の水加減を見に行った。家へ来て背戸の道端の木を片づけた。蚕を縁台に出した。午后頭の毛ば刈りをして縁台出しを続けた。終ってからゴミ運びをした。以上 受信小川町大工

五月二十二日 木曜 晴
今日は召集日である。早く草を刈って支度をした。山下君と一所に行った。基本体操や駆足であっ。午前九時より一ぺい分列*をした。午后一時より中島富蔵さんの村葬**が始り二時半頃終った。家へ来てすだれ編みをした。受信吉沢三郎
*閲兵分列。
**中島富義。四月二十六日習志野陸軍病院に於て戦病死。菅谷国民学校で村葬執行。

五月二十三日 金曜 晴・夜雨
起きると雨がどしゃどしゃ降って来た。父と大蔵河原に草刈りに行った。全身が良くぬれた。雨は次第に止んで薄陽がもれた。桑切りをして前の物置きの庇におろしを少々作くった。蚕をうすくした*。休み頃おろしは終って苗代のひゑ抜きをした。夜夕立雨が降った。発信吉沢三郎
*蚕が大きくなったので過密にならぬよう蚕座をふやすこと

五月二十四日 土曜 曇・夜雨
耕地に草刈りに行った。良くほきて居た。一籠刈って来た。みやを子守りながら根岸の小澤君*の家へ行った。来てしまだ織りをした。昼となり昼食した。興味が有って面白い。成澤力造さんの家へも行った。空から雨が降って来た。二百二十二織った。夜は良く雨が降る。
*小澤長介。同級生。

五月二十五日 日曜 小雨
今日も雨だ。長く降り続くと雨も良くない。大堀端で草を刈った。多く有った。しまだ作りを始めた。昼前に百二〇作った。根岸へ砂糖*を買ひに行った。(一円三十五銭)祖父さんはブッタイ**を作る竹を割った。午后しまだを作り前日合計四百幾十箇作くった。夕方しまだを編んだ。以上
*談:根岸の根岸シン商店。
昭和十六年五月二十三日 菅谷村役場
(菅谷川島ヲ除ク)区長殿
五月分家庭用砂糖配給ニ関スル件
五月分一般家庭用砂糖入荷致候ニ付明五月二十四日ヨリ既定ノ方法ニ依リ配給所ヨリ引取リ方御手配相煩度此段及御通知候也

**魚をとる道具。

五月二十六日 月曜 曇・夜雨
籠(主)
父と大堀端へ草刈りに行った。金井廣吉さんの家へしまだ作りに行くので機械*を持って行った。三手で縄でしばった。少しゆるかった。藁でしばると良く出来た。昼食して休み始めた。百以上は織れるだらう。夕方雨が降り出して本降りとなる。以上
*島田折器。機械を使ったまぶしは一回限りの使い捨て。

五月二十七日 火曜 曇
祖父さんと昨朝の所へ草刈りに行った。早く出来た。空模様は大部良好である。帰る頃は良かった。家に着くと小雨が降り出した。三人で魚取りに行った。取らない。石灰の配給があった。午后すだれ編みをした。一つ編んだ。夕方は曇り。雨なし。以上

五月二十八日 水曜 中曇・雨後晴
籠(主)
西原で草刈りをした。少し雨が降った。父は平沢へ行った。しまだ作りをした。祖母さんと桑切りに行った。曇って居たが雨が又降った。午后苗代に行った。魚取りをした。夕立が出た。大雨となり二重にニジが出た。紅しまだが出来上がった。天気良好となる

五月二十九日 木曜 晴・曇
籠(主)
起きると晴れ渡って居た。父と耕地へ草刈りに行った。少し霧がまいた。使をして田に行き堆肥を運搬した。麦に引きこんだ。午后菅谷に使に行った。父は馬の鉄はりに行った。桑作りをした。畠の桑切りや甘藷植ゑをした。明日は豆腐屋*。受信芝辻十三
*小林元一郎方の屋号。

五月三十日 金曜 晴
籠(主)
河原の土手で草刈りをした。今日は小林元一郎さんの家に費用に行く。朝食して支度をして行った。作入れで陸稲まきであった。終ると昼となり午后菅谷に使に行った。帰りしまだ織りを始めて三、四十位織って夕方菅谷に行った。以上
菅谷村常会開催(議題:慰問袋ノ件、作付統制ノ件、砂糖配給ニ関スル件、米穀ニ関スル件他)。

五月三十一日 土曜 晴
今日は馬の検査*である。父は早く起き支度をして松山に行った。自分は蚕の桑呉れをした。学校に行くのを間ちがへた。朝食して桑切りに行った。桑を作る時小指をけづった。桑の皮むきをした。午后桑を呉れて苗代に見に行って来た。夕方桑切りに行った。弟妹は蛍取りに行った。以上
*松山町で軍馬検定実施。
6月9日まで十日間大蔵向徳寺で農繁季節保育所開設(養蚕期。申込数は1歳から3歳15名、4歳から8歳61名)。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)6月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月31日 | 冨岡寅吉日記

六月一日 日曜 晴
籠(主)
根岸の下河原に草刈りに行った。少し曇天模様である。朝食して桑切りに行った。西原のアゼを切った。前の畠の桑切りもした。午前の中に蚕の裏取り始めた。午后になって終った。夕方桑こしらへ。以上

六月二日 月曜 晴・夕立
蚕の桑呉れをした。朝食して鎌形中島の小林民蔵さんの家へ蚕の手伝ひに行った。八人も居たので仕事ははかどる。十時休みをした。午后又始めた。庭を拾った。夕立が起り雷が鳴った。雨は本降りになりそうだ。家へ帰る時とても大降りがした。以上
昭和十六年六月二日 菅谷村長岩沢弥市
各区長殿
謹啓
 去ル五月八日北支ニ奮戦中戦死セラレシ故陸軍上等兵中島久六郎氏ノ公報ニ本日接シ候間御部内一般ニ周知セシメ哀悼ノ意ヲ表セシメラレ度
 此段及御通知候也

六月三日 火曜 晴
早く起きて蚕の桑呉れをした。父と県道端の畠の桑切りをした。中島街道端の桑も切った。二度目は父一人。支度をして富岡七之助殿の家へ蚕上げの手伝ひに行った。(十時頃)午后又始めた。二階だけは終って下の廻りびろひ*を始めた。夕方桑呉れをした。以上
*談:蚕座のまわりを廻ってみながら、ひきったものだけをとる。

六月四日 水曜 晴
父は草刈りに行った。早く仕度をして富岡七之助様方の蚕上げの手伝ひに行った。今日は早くから蚕の運搬だ。二階へ上ったり下りたりが忙がしい。今日は十数人であった。午后からは三、四人減った。運搬が忙しい。休み頃終った。家の蚕がしきり始めたのでもどって来た。以上

六月五日 木曜 曇・夜雨
今日は家の蚕上げだ。田にブンズを取りに行った。鎌形の叔母と幸ちゃん、菅谷の木こりの叔母さん、富岡七之助さんと、すみさんの五人が手伝ひに来て呉れた。主屋の縁台は先口を皆拾った。午后蚕沙運びをした。夕方新物置の蚕もしきりとなった。家の廻りを片づけた。

六月六日 金曜 雨後晴
蚕の上蔟 豆台風
起きると雨が降って居た。本降りである。今日も上蔟である。朝食して止んで居ると鎌形の叔母さんが来た。始めて少し立つと菅谷の叔母さんも来た。(二人)今日は四人である。午后早く始めて早く終る様にした。夕方にならぬ中に雨は止み陽がさした。以上

六月七日 土曜 晴・台風
昨日の豆台風もおさまらず少し吹いて居た。父と耕地へ草刈りに行った。家へ来て蚕沙を片づけたり甘藷の苗を切った。馬小屋の肥取りをした。午后甘藷を植ゑた。麦刈りを始めた。とても刈りづらかった。(豆台風)半分位は刈ったであらう。以上

六月八日 日曜 晴・台風止
新聞配達だ。早く仕度をしたが持って来なかった。朝日二十九、日日九、合計三十八部だ。守と父は草刈りに行った。朝食して前の麦畠の麦刈りをした。午前に終って午后田に行った。何処も倒れて居て刈りにくい。田も半分以上刈った。雲雀の巣がある。以上

六月九日 月曜 晴
麦刈り
耕地へ草刈りに行った。草は今多くある。朝食して麦刈りにいった。陽は登った。とても暑い。田は刈り切った。束をまるって居るとお寺の鐘が「ボン」と鳴った。荷を付けて昼に上がった。午后前畠の麦上げをした。こぼれたのが多い。田の麦も半分以上上げた。以上 受信金井仲次郎

六月十日 火曜 晴
時の紀念日
草も大部ほきて来た*。一人で刈って来た。朝食して田に行った。一連上げて支度をして遠山水車に行った。麺二〇本ト粉二〆を持って来た。酒の配給**があった。(一円十〇銭)午后前畠の作入れをした。麦のほ拾いもした。以上
*のびる。成長する。
**昭和十六年六月六日 菅谷村長
区長殿
清酒特別配給ニ関スル件
今般農林業ニ従事スル者ノ季節的需要ニ対シ左記ニ依リ清酒特別配給致候ニ付貴区内隣組長ヲシテ配給券受領ノ為当役場ニ出頭相成様御取計願度此段及候頼申候也

一、配給券受領 六月九日午前八時ヨリ午后四時マデ
一、現品配給日 六月十日午前九時ヨリ午后四時マデ
一、配給場所 大字千手堂関根國太郎商店
一、受給資格 農林業ヲ営ム者全戸 但シ酒類販売業者ヲ除ク
一、配給数量 一戸ニ付五合

六月十一日 水曜 雨
繭かき
父と耕地へ行った。朝食して松山に行って隆次がくつといねが靴を買って来た。みやを子守った。今日は繭かきだ。菅谷から来て呉れた。午後も子守ったり繭かきをした。雨降りである。だいたい三十一貫かけた。以上

六月十二日 木曜 雨
繭かき
朝も雨だ。草刈りには行かれない。馬の湯をわかした。朝食して繭かきを始めた。みやを子守った。午后も子守った。寝た時は繭かきをした。学校が帰る迄子守りした。夕方かいて終った。父は役場に行った。僕の帽子を買って来た。(一円二〇銭)四十九貫あった。(繭) 発信金井仲次郎 受信富岡暉三

六月十三日 金曜 雨

父と大蔵河原へ草刈りに行った。しとしとと雨が降って居た。朝食して繭の毛ば取りをした。自分はブランコをかけてみやを子守りした。遊びにも行った。午后は父の手伝ひをした。本繭は三十九貫、外約八貫。以上
菅谷神社で応召兵根岸三郎武運長久祈願祭。

六月十四日 土曜 曇
一人で中河原へ草刈りに行った。父と祖父は繭を持って植木山の荷受所へ行った。コノメをくづした。父は菅谷に行って馬料を持って来た。午后家の廻りを片づけた。父、祖母、三人で前の畠と本ジン畠のけづりこみをした。草がとても多い。

六月十五日 日曜 曇・小雨
耕地で草を買った。大部少くなった。朝食して苗代を見に行った。畠のけづりこみをした。雨がちらちらやって来た。午后サンノウ前に行った。祖父さんは繭の乾サウに行った。畠は後一枚である。以上
応召兵菅谷根岸三郎東部第七部隊九時二十二分出発。

六月十六日 月曜 雨
鎌がとても切れなくなった。耕地で一籠刈った。今日は麦こきである。八時頃、山下傳次郎さんが来た*。今日はあまり雨も降らないらしい。約三時間と五〇分かゝって午后一時頃終った。それから村田さんの家へ行った。四時間二十五分、夕方早く終った。以上
*談:石油発動機を持って来た。

六月十七日 火曜 曇
草刈りは毎朝の仕事である。昨日の麦はたきの麦からをはこんだ。横町(よこまち)の山に皆積んだ。休んで前の畠のほつくりかえしをした。みやを子守りした。午后父は肥料を持ちに行った。祖父さんと道をなほしたりした。受信根岸直次、金井仲次郎

六月十八日 水曜 曇
今日は隠居の中*の麦こきだ。朝作くりにほし物出しをした。朝食して喜作さんの家へ行った。五時間で終った。午后父と前々畠のほつかえしに行った。祖父さんも行った。夕方、雨降りになってしまった。以上 発信根岸、金井 受信芝辻十三
*隠居の家。富岡喜作方。

六月十九日 木曜 雨
朝の中は雨も降りそうもなかった。只曇って居た。少し雨模様となり霧の様な雨が降り出した。今日はほつかえしである。午前は体が少し変であった。午后祖父さんと三人でしたので忽一枚終り休みをしてから前畠をした。祖父さんは高坂へオンガー*をなほしに行った。
*談:牛馬用のすき。

六月二十日 金曜 雨
籠(主)
草刈り時分は大雨であった。着物はびしょぬれとなった。朝食してみやを子守りした。しまだ作くりを始めて午前に一つ出来上がった。午后一つ出来上りわきの畠のけづりこみにほつかえしをした。

六月二十一日 土曜 曇
籠(主)
雨は降らないらしい。霧が一面にまいて居た。草を刈り家へ来て田に行った。父は馬方で肥運搬をした。それを田に散らかした。(大麦後)昼前に二ダン運んだ。馬が田に寝た。午後五ダン。車で四籠運んだ(大田)馬小屋の肥出しをした。以上

六月二十二日 日曜 曇
草は良くほきて居た。早く刈って来た。支度をしてオンガーをかついで田に行った。父は馬を引いて行き、自分は鼻取りをした。朝の中は涼しかったが昼近くなるにしたがい暑くなった。馬は良く仕事をした。午后麦刈りをした。(八十一タバ)〔畠小麦タバ(八十タバ)〕

六月二十三日 月曜 曇
父は根岸の土手に草刈りに行った。朝食して田に行った。昨日の続き耕かした。祖父さんは□がいを改しに行った。西原の小麦刈りをした。守は害虫駆除である。午后六人で刈ったので終った。前畠の麦刈りをした。(百十二タバ)以上 受信山下昭二

六月二十四日 火曜 曇
草は河原?良くほきて居た。鎌の先をかいた。朝食して前畠のカッパ抜きを始めた。国民学校生徒の勤労奉仕団が前の小麦を刈った。午后麦刈りだ。祖父さんは菅谷へ馬の鉄はりに行った*。畠の小麦は刈り終った。畠(小麦タバ百三十五タバ)(計畠三百二十八タバ)
*談:菅谷に男衾村の大久保高則が月2回蹄鉄はりに来ていた。

六月二十五日 水曜 晴
曇勝ちの天候も晴天となった。
今日は昨日の朝よりも草が良くほきて居た。早く刈って来て朝食した。ほしもの出しをした。田麦刈りだ。源作さんの家の田は二枚終り大田を一行刈った。午后父と束運搬をした。大田*を半分刈った。(百三十八タバ) 田〔小麦百三十八タバ〕 
*談:木の宮(大蔵の字)にあった田。

六月二十六日 木曜 曇・小雨
昨日の天気も今日は一変して朝曇って居る。草を刈って居ると雨が少し降った。朝食後も雨だ。田があいたのでそこを耕ひに行った。午后陽はもれなかった。甘藷の切かけをして田に行き麦刈りをした。車の後押しした。(五二タバ) 田(小麦束五二タバ)
警防団紀念日。

六月二十七日 金曜 小雨
馬耕
何時もの所へ草刈りにいった。サイレンが鳴る頃はタテ下である。田が一枚あいたので今日も馬耕だ。今日は中から耕やした。馬は良くオンガーを引く。麦扱き(四十束) 受信野村修彦
菅谷村常会開催。

六月二十八日 土曜 雨
麦扱き
足が水むしの為草刈りは中止だ。朝食してみやを子守ったりした。午前中麦扱きの手伝ひをした。午后みやと遊びに行った。約一時間一ソ作りもした。夕方始めたが六十五束作くった。今日は八十一束麦を扱いた。二階に上げる。 発信野村修彦

六月二十九日 日曜 曇
麦刈
祖父さんと父は草刈りに行った。今朝は新聞配達だ。三十八部。朝模様は良好だった。麦ふるきをした。午後少し日の光かさした。父は金井廣吉さんに助に行った。昼食して田に麦刈りに行った。今日も六人である。(五十タバ)

六月三十日 月曜 晴後曇
根岸の土手の最下で草を刈った。良くほきてゐる。何時の様に曇って居るので麦は良くかわかない。麦刈りをした。馬に四ダン、車に一ダがけだった。(五十束)。午前十時から喜作様方の麦刈りの手伝。(祖父)父と母は本家。以上 畠田小麦束合計六四八束(残束五二八束)足踏み扱*百二〇束
*足踏みの脱穀器。輪転器。ガーコンガーコンとも言った。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)7月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月30日 | 冨岡寅吉日記

七月一日 火曜 晴
馬耕
大蔵河原の中で草刈りをした。一所に八人であった。今日は馬耕である。鼻取りをした。馬は昨日の□で良く働いた。新田である。(六畝中)(七畝中)(三畝中)(一畝外)午后車へめんを持ちに行った。
7月10日まで10日間、大蔵向徳寺で農繁季節保育所開設(田植期)。

七月二日 水曜 晴
脱穀
起きると時季にに山下傳次郎さんが来て呉れた。今日は小麦の脱穀である。前六時頃始めた。二時間して休んだ(三〇分)昼休み四十分。隠居の家より四人。午后三時半に終った。(八時間十五分)麦からを物置に積んだ。父は柴田藤五郎さん方へ以上

七月三日 木曜 曇
脱穀
早く起きた。隠居の中の麦の脱穀である。三時間して休んだ。後二時間して昼となった。午后二時間位した。束運搬をした。約(七時間と十五分)正期の時計は三時半。前の畠のカッパ抜きをした。田の水がかったので*田かきに行った。二枚荒かき**をした。以上
*談:田の水がいっぱいになったので。
**田植えの前の最初の田掻。

七月四日 金曜 晴
田植始る
朝作りに田のくろをつけた。新田の堀さらいもあった。朝食して上代(あげしろ*)をかいた。二枚上げて近江**の苗取りをした。二枚に植ゑた。柴田藤五郎さん方のきぬさん***が来た。柴田さん方の田のあらくれをした。三かわと二かわ、家の田も三枚した。(一日きぬさん。半日りとさん****。)以上 受信柴田美作氏
*田植え前の最後の田掻(たかき)。
**稲の品種
***柴田藤五郎妻。
****藤縄りと。きぬの母。

七月五日 土曜 晴・一時曇
早朝より田に行った。暑の為頭痛を起し家に帰った。田に行き、鼻取りを少々して家で休んだ。隆次も身体不良。母も暑気の為休み。柴田様方より四人来た。午后田に行かずに寝て起きたりした。学校は始まる。(半日。きぬ、りと、とら*、あきさん**。四名 午后藤五郎さん方。)三人行く
*藤縄とら。きぬの妹。
**柴田あき。きぬの娘。筆者より二学年上。

七月六日 日曜 晴・後曇
朝寝坊をした。体不良の為、田に行かない。昼前は家に母と一所に居た。午后母は田に行った。守が鼻取りをした。干物をかえした。夕方休み頃田に行き大田を半分以上植ゑた。小麦俵(外九俵半)(良二俵)(藤五郎、きぬ、あきさん。一日)

七月七日 月曜 晴
田植
道の端で草刈りをした。朝作りにくろつけをした。車から田植に来た。本家からも来た。一反五畝位植ゑた。午后少し馬の鼻取りをした田植ゑをした。以上(柴田方、二人、午后三人)(車二人)

七月八日 火曜 曇
水車の二人は家にとまった。今日は田植は終るらしい。午前中苗取りをしたり植ゑたりした。午后馬の鼻取りをした。苗代の稲を皆むしった。六時頃終った。早終である。夕方小麦を俵にした。小麦俵(八俵)(遠山水車二人、昨日より。もと、みち)

七月九日 水曜 曇
農士学校前の河原に草刈りに行った。祖父さんに助けてもらった。三人で草刈りをした。朝食して父と馬小屋の肥出しをした。午前前畠の甘藷の切掛けをした。草むしりもした。夜活動を見に旧校庭に行った。

七月十日 木曜 曇
朝は少し雨が落ちて居た。祖父さんと草刈りに行った。朝食して縄ないをした。一ぼと十ヒロなった。甘藷の草むしりをした。午后いもあらいをした。祖父さんは畠山に行った。山下明さんに召集令下る*。
*東部七三部隊応召。

七月十一日 金曜 雨
大雨であった。草刈りに行かない。藁をすぐってしまだ作りを始めた。本家に行って遊んだり子守りしたりした。午后一箇作り上がった。一山編みかけた。夕方雨は止んだ。明日は学校。

七月十二日 土曜 雨
起きると、今日も雨が降って居た。青年学校の召集日である。支度をして学校に行った。未だ早い。新井署長殿*の訓話が約一時間半あった。各々所持品を見せた。午前中、伏射をした。午后初雁先生が学科。
*小川警察署長。

七月十三日 日曜 曇
川の水も大部ふいた。根岸の土手で草刈りをした。しまだ編みを少しした。顔を祖父さんにそってもらった。午后青年団の桑原掃除である。ラッパが鳴って畠に行った。茶菓子三十銭分呉れた。甘藷の切掛。(大蔵青年団〃則団員ニシテ未青年者ハ煙草ヲスワヌ事*)
*日記帳末の補遺欄によれば大蔵青年団団則は、「団員ニシテ未成年者ハ煙草ヲ吸ハヌ事。役員ニ見ツカリタル者ハ支部ニ一円寄付スル事」となっている。

七月十四日 月曜 曇
天皇様
唐子の土手で草刈りをした。朝食しておかりや作くりに出かけた。林*をするブタイ作りもした。約半日かゝった。又木も立てた。家の廻りを片づけたりした。午后花こさいや燈ろうはりをした。今夜は天皇様**である。
*囃子。
**天王様。

七月十五日 火曜 晴・夜雨
天皇様
何時もより遅く起きた。赤飯をたく火もしをした。庭の掃除もした。松山に行き飛行機のプロペラーを買って来た。(三十六銭)午后天皇様をもんだ。タイコはたきを練習した。

七月十六日 水曜 雨
農休み
今朝はまんぢゅう*である。父は遠山の水車にとまった。飛行機を飛ばしたりして見た。下の方へ遊びに行った。午后昼寝をした。約一時間、山下君と一所に歩いた。竹本屋で五目をした。(始めて)
談:天王様なので粒あんの重曹を入れてふくらました饅頭を作くった。

七月十七日 木曜 雨
農休み
父と大蔵河原に草刈りに行った。今日も雨だ。午前中しまだ編みをした。一つ作り上げた。飛行機を作り上げた。午後遊びに出かけた。安養寺で皆と遊んだ。花火を上げた。

七月十八日 金曜 曇
耕地に草刈りに行った。雨は止んで居た。柴田アキさんと学校へ桑の皮を持って行った。十貫四百匁桑畠に追肥をした。午后畠に行く時かいが鳴った。御かり屋片づけに行った。西原の陸稲の草むしり等。

七月十九日 土曜 曇
召集日
起きると曇って居た。道端で草刈りをした。柴田恭平さんと学校に行った。もう始まって居た。教室で普通学科の教科書を販売した。教練でネウチ、ヒザウチの姿勢をした。午后服部先生と鎌形校長さんの話。

七月二十日 日曜 雨
大雨だ。草刈りは中止した。御飯をにた。朝食してしまだ編みに移った。一つ編み上げた。午前中二時作り編んだ。午后一つ作り上げてみやを子守りしながらお寺の方*へ遊びに行った。 受信清水岩三、兼子常吉
*談:安養寺だろう。

七月二十一日 月曜 雨
ヤスリ工場へ行を始めた。
新聞配達だ。早く起きて支度をした。今日は早かった。五十四部である。今日から松山の山下ヤスリ工場へ行くので野口由次郎さんの家へ行った。工場の仕事は簡単である。七時半に始り五時半に終った。(休み二時間)産業体操、ラジオ第一、二、三体操をした。

七月二十二日 火曜 雨・午后嵐
起きると又雨だ。井戸水は後一週間で上に出そうだ*。今日の午后は大嵐**だそうだ。午前中は何も仕事をしなかった。雨はどんどん降る。午后しまだ編みをした。二つ作り上げた。風が出だして嵐となった。月田橋は急である。 受信富岡作次、吉沢三郎
*談:井戸の水位が上がった。
**この日の豪雨は各地に水害をもたらした。24日付の『東京日日新聞』埼玉版には次の記事がある。「……比企の惨状 比企郡各河川は連雨による増水に加へて廿二日午後来の猛烈な吹き降りで荒川、越辺、入間、都畿の各河川は急激な増水を見、午後三時には各河川も報告水位を突破、同六時には警戒報告水位に達し濁流は渦を巻いて堤を叩き物凄い相貌を現し松山土木出張所では同七時各河川沿岸町村に氾濫の虞ありと警告を発すると共に郡下警察署と協力、町村警防団をはじめ沿岸民と□□必死の防水作業を行ったが廿三日午前零時頃より各河川の危険は刻々増大し豪雨を冒して水魔と戦ひ防水団の活動は壮絶を極めたが各河川最高水位の午前二時都畿川高坂早俣堤防十米、入間川三保谷釘無堤防五十米は遂に大音響とともに決壊水魔の蹂躙するところとなり川島領六ケ村浸水家屋五百戸、高坂村浸水家屋六十戸を出し……」。

七月二十三日 水曜 曇後晴
起きると雨は止み庭の水も良く引いて居た。野口君の家*へ行った。松山に行き着いたのが七時二〇分だった。今日も八本けづった。午後休みにせんべいをくれた。家へ来て馬小屋の肥出しをした。
*野口由次郎方。1919年(大正8)生まれ。山下ヤスリ工場に務めていた。

七月二十四日 木曜 晴
今日は一人で松山に行った。一時間も早かった。半日で終った。昨日の続きを仕上げた。家へ来て昼食した。今日は小麦の検査である。三時。 俵 等外 俵大麦四等二俵受けた。草むしりをした。 受信吉沢三郎

七月二十五日 金曜 半曇・晴
朝の中は曇って居た。雨も降って来た。青年学校の召集日である。午前八時に始った。研究科の生徒が三人来て号令をかけたり模範を現わした。午后学科で下田、簾藤、初雁の三先生の教授があった。

七月二十六日 土曜 雨
祖父さまと耕地へ草刈りに行った。田に水を引いた。朝食して遠山水車に行った。もっこ作りをした。近所の人も来た。もっこを五つこしらへた。昼食して雨が降って来たので家へ帰って来た。それからは昼寝をして起きた。以後は遊んだ。以上

七月二十七日 日曜 半晴
今朝も草刈りに行った。タテをする時は良くほきて居た。朝食して母と菅谷の発動機(精米所)に米と麦を持って行った。午后湯かいこみをした。小林力ク三さんの家のスミチャンの御サウ式。しまだ編みを始めたら雨ふるかな。 発信吉沢三郎、富岡健治、斉藤三郎、山下三郎、杉山敏行
菅谷村常会開催(議題:武運長久祈願祭ニ関スル件、隣組ソノ他ニ依ル共同作業励行ノ件、臨時清潔法施行ニ関スル件、夏季ニ於ケル不急不生産的団体ソノ他旅行自粛ニ関スル件、初秋蚕増産ニ関シ指導員ニ協力ノ件、国民貯蓄組合法実施ニ関スル件等)。

七月二十八日 月曜 晴
草刈りに行った。草も少なくなった。でも山草をして来た。朝食して乾物出しをした。本人畠*の甘藷の切掛けをした。午后雨少し降った。大豆の作切りもした。夕方馬の運動、田の水引き等。以上 (受信山岸良之助)
*談:本陣畠。鎌形の長島佐吉方(屋号:本陣)から借りていた小作の畠。
八和田国民学校校庭校で八和田・菅谷・七郷村の簡閲点呼実施。

七月二十九日 火曜 曇・一時雨
前の畠の端で草刈りをした。草も大変に少くなった。朝食してしまだ作りをした。雨が少し降った。午后雨も止んで西原に陸稲の作切りに三人で行った終らぬ中に雨が降り出した。休んでしまだ作りをした。 受信山岸良之助 発信大野角蔵、栗原守男、金井仲次郎

七月三十日 水曜 雨
隠居の家から田押し車をかりて来た。父と先植の田を押した。大田を半分すると鐘が鳴り午となった。午后、新田に行った。後五畝位で終るのであるが急用の為、家へ帰った。夜もち作りをした。 発信山岸良之助 受信富岡健治

七月三十一日 木曜 雨後晴
馬の徴発である。前二時に起きて支度をした。前三時に家を出発した。前四時頃唐子を出発。もう明るくなった。午后が馬体検査であった。輓馬であった。かかくは(五百五十円*)であった。小澤角太郎さん(六百五十円)、遠山水車**(五百九〇円)以上 五頭
*富岡林造。「友号」
**兼子六平。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)8月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月28日 | 冨岡寅吉日記

八月一日 金曜 曇
夕べは腸が痛かった。馬は徴発の為合格して軍隊へ行った。朝の仲は霧が一面にかゝってゐた。しまだ編みを始めた。今日は一日ぶらぶらして居た。子供は魚釣りに行った。 受信斉藤三郎、金井小市、兼子常吉

八月二日 土曜 曇
朝は普通に起きた。勝手先を少しした。今日も曇天である。止草を持って田に水引きに行った。十一時頃菅谷に使に行って石灰や薬品を買って来た。午后しまだ編みをしたり甘藷のつるかえしをした。以上 受信栗原守男

八月三日 日曜 曇後雨
弟と道端で草刈りをした。半分刈った。金井猶次郎さんが馬を引いて来て呉れた。田に行って水引きをしたり田ころがしをした。十一時頃家へ来た。午后乾物出しをした。さと芋に堆肥を出した。夕方雨大降となる。 受信根岸直次
防空監視哨訓練実施。

八月四日 月曜 曇
青年学校の召集日である。支度をして菅谷のいづみやでパンツを買った。(八〇銭)八時に始りかけ足をした。伏うちの形などした。午后学科で初雁先生が伊勢参宮の所を教へた。二時服部先生の話。家へ来て長島佐吉さんへ小作を持って行った。以上 受信金井仲次郎

八月五日 火曜 曇一時晴
今日は青年団の勤労奉仕である。七時に神社に集合した。山下明さん宅へ成澤君、村田君の三名で奉仕した。畠の草むしりである。午前中。午后セメント*持ちに行った。車の後押しに行った。馬小屋の肥出し。 受信山下三郎君
*談:物置を作るための代用セメント。

八月六日 水曜 晴
前の方で草刈りをした。朝食して田の水引きに行った。十一時迄居た。あまりからなかった。午后昼休みに行ったら良くかゝった。麦から乾しをしたりまるった。夜酒飲みがあった。(三人*) 内田実 富岡暉三 根岸宇平 富岡喜作 富岡軍造[欄外落書]
*談:根岸宇平、富岡喜作、富岡軍造の三人。

八月七日 木曜 晴
体力検査なので早く支度をして菅谷に行き自転車のパンクをはってもらった。午前八時に始った。身長、体重、胸囲、眼、等をして中食となった。午后、注射と、口、眼を医師が見た。夕方馬に乗り川に行った。 受信野村修彦

八月八日 金曜 曇
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。草も少くなった。朝食して麦からほしを始めた。前畠に行きかつぱがえしをした。水車のおこうちゃん*が使に来た。午后畠を耕やして夕方川乗りに行った。 受信芝辻十三
*兼子こう。

八月九日 土曜 曇
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。少しほき始めた。桑切り等もした。田に水引きに行き十一時頃帰って来た。支度をして自転車で小川に行った。今日は全体の終るまで校内で待って居た。五時十分前に終った*。夕方桑切りをした。
*八月七日・九日の国民体力検査の会場は小川国民学校だった。

八月十日 日曜 曇後雨
田の草取り
今朝も祖父さんと草刈りに行った。夕べはしばいを見に行った。田の草取りなので除草機を持って田に行った。午前に大田を取った。午后電球を取りかえに行った。田に行き田の草取りをした。夕方夕立となり雨が降り出した。

八月十一日 月曜 小雨後曇
金井さんの馬は昨日の夕方売ってしまった。今朝は草刈りに行かない。朝食して田の草取りに行った。午前中一反三セ取った。午后又田に行き七畝を取り止んだ。後七畝である。五時頃は全体が終った。夕方子守り。

八月十二日 火曜 曇
耕地の方へ草刈りに行った。少くなった。朝食して父は畠山へ馬引きに行った。しまだ編みをした。一つ作り上げた。午后かゝしを作くりとうもろこし畠に立てた。父は馬を引いて来た。

八月十三日 水曜 曇・シウ雨*
新聞配達
新聞配達だ。早く起き配達した。少し子守りをした。朝食して前々畠の桑すぐりをした。サゝギに鳥よけをした。父と菜と大根を播いた。午后菅谷の根岸宇平方より猫の子をもらって来た。夕立となる。
*驟雨

八月十四日 木曜 曇後雨
召集日
教練の召集日だ。支度をして友の家へ行った。今日も八時に始まった。菅谷神社境内で伝令及銃剣術の形をした。今日は午前中だけだ。このつぎは二十三日が召集日だ。午后は雨降りとなった。桑すぐりをした。以上 受信清水岩三

八月十五日 金曜 半曇・雨
朝の中は蚕の桑呉れをした。父は草刈りに行った。朝食してサンノウ前の桑畠をすぐった。午前中大変すぐった。午后もすぐりをした。時々雨が降った。蚕の桑呉れをした。
特別防空訓練開始(八月三十一日まで)。

八月十六日 土曜 晴
桑摘み
今朝は草刈りに行った。気持ちが良かった。朝食して桑すぐりに行った。一枚終って草むしりや麦からほしをした。午后草むしりをして休んで草摘みに行き夕方まで摘んだ。(米を一俵買った。)以上

八月十七日 日曜 晴
草もほきて来た。一籠刈って来た。今日は朝から桑摘みをした。十時休みをして又桑を摘みをした。午后川に行き水泳をして来た。蚕に桑を呉れた。サンノウ前の桑を摘んだ。夕方守は置針を置いた。?(ママ)かゝるらしい。以上

八月十八日 月曜 晴
蚕の上蔟
今朝は早く一籠刈れた。母とあぜ木の桑*を摘んだ。蚕の廻り拾ひをした。休んで居る中に蚕も良く熟した。午后二時頃終った。蚕糞を甘藷に施した。父と川へ乗りにいった。子馬
*談:あぜに植えてある桑の木。

八月十九日 火曜 曇
草もほきて居る。父はカンシ哨*に行った。朝食してゐん居の家へ蚕の上蔟の手伝ひに行った。午前中少しして午后も少しした。夕方蚕砂**を畠にはこんだ。馬の川乗りに行った。
*防空監視哨。
**蚕沙。蚕糞。

八月二十日 水曜 曇ノチ雨
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。麦から等乾した。父と前畠の草むしりをした。中食して遠山の水車へメンを持ちに行った。雷雨の為車で止んで居たが止まらない。落雷が多かったらしい。夜はとまってしまった。
[欄外]砂糖の配給*
*砂糖の配給は二十一日にあった。

八月二十一日 木曜 曇後雨
草刈りはしない。朝食して自転で家へ帰った。菅谷に行って色々の使をした。ヒサエンや菜種を買って来た。釣竿も買った。(六〇銭一本)午后草むしり一作。雨が降りむしろを持ちに河原へ行った。馬の川乗りに行った。

八月二十二日 金曜 曇
耕地で草刈りをした。たくさん刈った。守と菅谷の精米所へ小麦を持って行き米を持って来た。むしろ等ほした。中食して馬を引き出した。馬見*がいく人も来た。祖父さんと陸稲の草むしりに行く。以上
*談:馬を見に来た人。

八月二十三日 土曜 雨
支度は何時も早く出来た。柴田君*等と学校に向かった。今日も雨降りだ。午前中少し雨合ひもあった。教練銃剣術の形、午后学科杉山先生の教授、珠算、長島先生、郷土。校長先生の話ヒミツ。以上
*柴田恭平。五学年上。

八月二十四日 日曜 曇
草も大部少くなった。父は監視消に努めに行った。繭くり*をした。約十四貫、午后少しした。本家へ機械**をかした。むしろをしょいに行った。上の家(かみのうち***)で休んだ。馬の川乗り。 受信清水岩三
*繭のけばとり。
**けばとり器。
***金井廣吉方。

八月二十五日 月曜 晴
今日は繭の出荷で一人で草刈りに行った。父は監視消である。七時頃帰って来た。松山に使にゐって隆次のズボント靴とを買って笛*を刈った。(二本一円十銭)午後馬を出した。馬くろうに五〇銭もらった。馬の川乗りに行った。
*談:横笛だった。

八月二十六日 火曜 晴
草も大部少くなった。父と一所に行った。朝の中麦からほしをした。サンノウ前の畠の草むしりに行った。午後麦からをまるき物置きに積んだ。ほすのも終った。草むしりを始めた。川乗りに行った。笛練習。

八月二十七日 水曜 小雨
父と草刈りに行った。草を刈る最中大雨が約三〇分降った。びしょぬれになった。藁すぐりを半日して笛のけいこをした。上手になったらしい。祖父さんもした。柴田藤五郎様方よりとうもろこし木*をもらう。
*談:馬の飼料にする。

八月二十八日 木曜 晴
五明の病人死ス
今朝は一人で草刈りに行った。土手で刈った。守平と長島水車へ大麦を一俵余持って行った。祖父さんと前畠の小豆もぎをした。約(カラマシ)二斗。午后馬を出し桑畠の草むしりをした。畠耕いもした。以上

八月二十九日 金曜 曇
土手で草刈りをした。何時もよりおそかった。七タヤなのでまんじう*の朝食だ。祖父さんと菅谷のてつやへ馬の足のてつぶちに行った。午后笛の練習。皆と遊んだ。以上
*たなばた饅頭。

八月三十日 土曜 曇後雨
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。父は監視消である。八時頃帰って来た。甘藷の蔓かえしに行って菜*の真くい虫を即じした。午后も同じ。祖父さんは竹割りをした。夕方雨模様となって来た。でも一枚の畠が終った。以上
*談:結球白菜か。

八月三十一日 日曜 雨
召集日
召集日だ。早く支度をして村田君の家へ行った。未だ早かった。雨天の為学科をした。毒瓦斯について。考査もした。午后下田先生の話。蚕について。戸口先生と簾藤先生の学科が二時間あった。笛の練習をした。以上


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)9月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月27日 | 冨岡寅吉日記

九月一日 月曜 曇
蚕の発生
父と根岸の土手へ草刈りに行った。草も少くなった。前庭の堆肥の積かえに取りかゝった。半日しても未だ終らない。昼休みに青年団の桑原の草掃除をした。約一時間。又堆肥の積かえをした。馬の運動

九月二日 火曜 晴
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。天ずいの耕地草を刈った。父と前畠の畠耕ひをした。午前は畠を片づけただけである。午后耕がやして休んでから大根を播いた。二所播いた。夕方馬に乗った。 受信蚕業取締所、山岸良之助

九月三日 水曜 晴
父と根岸河原へ草刈りに行った。前畠の菜の真食い虫をひろった。小豆もぎをした。午后金井廣吉さんの家へ麻の皮むきの手伝ひに行った。麻の皮むきも面白いものだ。夕方までしたが、後三作となった。以上

九月四日 木曜 半晴
金井廣吉さん方の手伝
草刈りをしないで新聞配達をして金井廣吉さんの家へ手伝ひに行った。あさの皮むきである。午后も同じ。大根をまく整地をした。今日より盆である。

九月五日 金曜 半晴
栽桑講習だ。早く支度をして松山に行った。一時間も間があった。荒籾技師、新井技師、中山技師の話があった。半日で終った。夜あそびに行った。

九月六日 土曜 晴
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。風があったのでつゆはなく刈りにくかった*。朝食して将軍沢に使に行った。午后昼寝を二時間位した。みやを子守りした。笛のれんしうをした。少し夕立っぽい。
談:草は濡れていたほうが、鎌で刈りやすい。

九月七日 日曜 晴
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。盆の十六日である。斉藤君の家へ行った。午后斉藤君の家へ行き静御前の本を見た。鎌形の吉野君と高二の吉野君と二人*が遊びに来た。友達帰舎する。
*吉野勇作と吉野次郎。

九月八日 月曜 晴
今朝も耕地へ行った。早く出来た。藁すぐりをした。父と小豆こぎに行った。さゝぎももいだ。もうお昼である。小豆もぎを少しして湯かいこみをして守と川へ魚取りに行き二十数匹釣った。今日はヒッチギヂン様*である。以上
*唐子村上唐子の七鬼神。

九月九日 火曜 晴
小豆もぎ。
草刈りは毎朝で有るからもう述べない。草を干した。今日も小豆もぎをした。祖父さんは俵の外俵編である。午后昼休みをしてとうもろこしを取りに行った。

九月十日 水曜 雨
英霊帰る。
朝になると急に頭が痛くなった。朝食してすぐ床に就いた。半日寝た。午后も寝た。今日は一日何もしないで寝て居た。夕方鎌形の中島久六郎さんの英霊還る*。
*甲府聯隊より中島久六郎遺骨帰還。

九月十一日 木曜 小雨
今日も気持が悪いので家で休んで居た。午前中将軍沢の叔母さんが来た。午后子守りをしながら遊びに行った。夕方は気持も良くなった。明日は夜間演習でまき二本に米二合を持参するのである。

九月十二日 金曜 曇
病気全快せずのんきに遊んで居た。小豆もぎをした。午后三時頃支度をして学校へ向かった。四時に集合した。河原へ来て米二合をにた。二人で一つの半合*。西澤君と二人、十時頃終った。今度の召集日は十月四日である。午前八時
*飯盒。

九月十三日 土曜 曇
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。父と藁すぐりをした。約二ハ。午后野村三郎様方へ行き縄ないをした*。二タバと少し明日も同じ。以上
*談:大蔵第一農事実行組合の縄ない器が保管されていた。

九月十四日 日曜 小雨
田の近辺で草刈りをした。朝食して三郎さんの家へ行き縄ないをした。午前中二タマ。午後祖父さんは馬に乗って菅谷のてつ屋へ行った。ナワは三タマなった。以上 受信富岡暉三

九月十五日 月曜 雨
朝はとても早く草刈りに行った。祖父さんに刈る手伝ひをした。蚕のウラ取りをして縁台出しをした。午後水戸黄門の小説を見たりした。常会である。足中*を一足こしらった。とうもろこしを取りに行った。
*足中草履。
九月十日菅谷村大字志賀元広野を菅谷村大字川島と改称することが県より許可され十五日より施行した。

九月十六日 火曜 曇
夕べ父は畠山より馬を引いて来た。栗毛で三才ヤセて居るがをとなしい。草刈りは中止した。祖母さんと桑摘みをした。午後も同じ。今晩はス訪様である。川乗りに行った。以上 受信富岡作次

九月十七日 水曜 雨
草刈りに行かないで蚕に桑を呉れた。祖父さんや父が藁仕事をするので藁打ちの手伝ひをした。九時頃遊びに出だした。金井円二君と安養寺で遊んだ。午后も同じ所で遊び三時頃大勢集った。今日はお諏訪様である。

九月十八日 木曜 雨
今日も雨だ。蚕に蚕[桑]呉れをした。午前中しまだ作りをした。祖父さんがかいばのかんまわす棒を作くった。午後桑摘みをしたり湯かいこみをした。みやを子守り乍らお寺へ遊びに行った。夕方馬の運動をした。以上
満州事変十周年記念日。

九月十九日 金曜 曇
石拾ヒ(半日)
父は草刈りに行った。朝食して蚕に桑呉れをした。みやを子守りした。しまだ編みもした。午後は石拾ひだ。十二人位で農士学校前の河原で拾った。馬の運動をした。元気になった。 受信斉藤国平

九月二十日 土曜 晴
石拾ひ(一日) 馬運動
石拾いなので支度をして成澤君の家*へ行った。未だ早かった。今日も十二人だ。午後は十三人になった。昼休みに堀をほした。千手堂橋の上で拾った。雨が少し降った。ニジも出た。
*成澤勝次方。四学年上。

九月二十一日 日曜 晴
日食 石拾い(一日)
成澤君の家へ行った。未だ早かった。千手堂橋の上の河原へ行くと大澤さん*もすぐ来た。ちょくちょく休んだ。午後日食を見た。ガラスでは良く見えた。明日は月田橋の方である。
*大澤宇平。石張り職人。

九月二十二日 月曜 晴
石拾ひ(一日)
今日も石拾ひだ。月田橋の下の方で拾った。とても面白い。昼食はとくにおいしい。午后七時三〇分より九時四〇分まで夜間召集で先生の話。ラジオ常会があった。
菅谷村常会開催。

九月二十三日 火曜 曇
石拾ひ(一日)
今日も石拾い。月田橋の上より上へ上へと杉山の河原*へ行った。菅谷の木村さんも来た。夕方早じまいで馬に少し乗った。以上
*現在の冨岡進一方前の河原。
秋季皇霊祭執行。

九月二十四日 水曜 曇・小雨
石拾ひ(一日)
石拾ひで杉山で昼前だけ拾った。午後月田橋の下で拾ったり川の瀬を強くした。夕方雨が降って来て早くしまった。

九月二十五日 木曜 曇
石拾ひ(半日)
朝の中は雨が降って居た。石拾ひは中止だ。足中を一足作くった。桑摘みや桑呉れをした。午后石拾ひに行った。自動車へ石を積んだり下したりした。明日は新聞配達である。セメントの石を家へ持って来た。

九月二十六日 金曜 曇・午晴
石拾い(一日) 今日で一週間
朝の中は曇っていたが次第次第に良くなった。石拾いもしたがトロ*の線路をまくら木にはりつけた。自動車に石を上げたりした。月田橋も大変上に上がった。夜間召集に行った。
*トロッコ。

九月二十七日 土曜 晴
工事(一日)
月田橋の下の仕事場へ行った。もう皆居た。レールはりをした。川の中にクヰ打ちである。四人で舟に乗りて作業した。午後成澤君は居ないので外(二君)合計六名にてクヰ打ちをした。

九月二十八日 日曜 曇
工事(一日)
朝の空模様はあまり良好でなかった。みの傘を持って河原に行った。今日は瀬さらいである。午後栗取り等した。魚を一合位取った。夕方雨が降った。蚕の桑呉れ。

九月二十九日 月曜 雨
工事(休み)
朝は雨だ。工事には行かない。ロビンソンクルーソーの本を読んだ。足中を二足作り上げたら午となった。午後桑呉れをして桑摘みに行った。夕方馬乗りをした。以上

九月三十日 火曜 小雨
朝の中は大雨であった。山下君の家へ行った。るすであった。金井一郎さん*の家へ行き一所に工事に行った。もう始まって居た。キリン**で月田橋を上げるのである。大工の叔父さんと正ちゃんも居た。今夜は召集日である。(蔬菜の事)
*四学年上。
**ジャッキ。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)10月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月26日 | 冨岡寅吉日記

十月一日 水曜 雨
半分蚕の上蔟
今日は蚕の上蔟である。もう良くひきってゐる。しまだ作りの手伝ひをした。午前中で終った。成澤君の家へ行った。青年学校の本をかりた。

十月二日 木曜 晴・大風
今朝は朝日焼けであった。でも天気は大丈夫らしい。今日も蚕の上蔟である。午前中に終る予定だ。午頃、大風が起こった。午後松山に行ってシャツ、パンツを買って来た。(四円以上)こくそ片づけ。

十月三日 金曜 晴
体力證検定予行演習
朝から学校だ。村田君の家へ行った。幾人かで学校に行った。別に様はないのであった。〇時半より会始した。走幅飛(三米二十六)、百米(17・6秒)懸垂(七回)手[榴]弾(二十三米)の結果であった。終は大部暗くなってしまった。

十月四日 土曜 曇
工事
今日は工事に行った。ランプ箱*等運んだ。穴の中にセメントをつめるのである。自分は水運び**である。午後も同じで夕方早く終った。明日は十五夜なりけり
*チアスター箱。本来はランプ油の缶を入れる箱。砂利等の運搬に使う。
**談:セメントをこねるための水。

十月五日 日曜 晴
工事(一人)
月田橋の工事
十五夜である。
菅谷国民学校で乳幼児体力審査(1940年年4月1日より1941年6月30日までに生まれた者)実施(受診児童111人。結果は、良30人、普通32人、要注意49人)。

十月六日 月曜 晴
一日工事
会計一金五円六拾銭也
夜は高田憲太郎へ行った*。三〇銭
*談:玉川村の二本木座の芝居見物。
菅谷村一戸一口増加簡易保険打合会・区長会開催。

十月七日 火曜 晴
体力證検定 馬の運動
朝の中は雨が降ってゐて検定**はだめらしい。でも学校に行くともう支度がしてあった。予行演習の日とダイタイ同じであった。振替用紙をもらった。
*菅谷国民学校校庭で松山部会・菅谷部会の体力章検定指導講習会・模範検定会実施。

十月八日 水曜 曇
工事
月田橋の工事へ行った。未だ早かった。栗の実を拾った。瀬ざらいであった。午后セメント計りをした。牛が自動車を引いた。始めて見た事実である。
福田村葬執行。

十月九日 木曜 晴・風
兎をかけた。二回 工事
月田橋三号の工事場へ行った。鉄線籠こわしであった。こ廻り*にしたので三時頃終った。斉藤の家で兎をかけてもらった。以上
*談:こまわり。指定された作業を分担して、早く出来ればそこで仕事をお終いにできる。

十月十日 金曜 晴
今日は朝より快い天気であった。川の瀬さらいである。川の中に入るのも少し冷くなった。一日瀬さらいをした。明日は青年団の競技会である。

十月十一日 土曜 晴天
青年団の競技会
青年団の競技会である。支度をして友達の家へ行った。七時半の予定だが一時間もおそく始めた。第五分団*が一等であった。四分団二等。三分団三等、二分団四等、一分団五等であった。十月十一日前振替をたのんだ。九十銭也
*談:青年団の分団は、第1分団(菅谷)、第2分団(川島・志賀)、第3分団(平沢・千手堂・遠山)、第4分団(鎌形)、第5分団(大蔵・根岸・将軍沢)だった。

十月十二日 日曜 晴
工事一人
月田橋工事場へ行った。父は監視消へ出勤した。石拾ひであった。ウナギが出た。午后ジャ籠をつぶした。以上
防空演習開始。

十月十三日 月曜 曇
工事
朝少し雨が降って居た。工事に行くともう吉川さん*が来て居た。根岸三号の工事場である。土を片づけて平にした。鉄線籠を片づけてスッコ**で砂利をさらった。以上
*工事を請け負っていた関中組の監督。
**スコップ。
鎌形八幡神社例祭。

十月十四日 火曜 半晴
工事一人
今朝も雨が降った。みの傘で工事へ行った。線路をすゑ着けた。夕方雨が降り出し工事は早く終った。馬を買入れた。内金五円也

十月十五日 水曜 晴
昨夜回文が廻って来た。今日は教練召集日である。午前八時に学校に行った。今度の召集日は二十二日〇時、二十五日午前八時より午前中。である。夕方小雨が降り出した。以上

十月十六日 木曜 晴
工事トロ押し、一日 合計十二円七十四銭也
今日は工事だ。朝からとろ押しをした。野村宇平君*と一所に押した。ぐ合のよいとろである。会計十二円七十四銭也であった。夜上唐子のしばい見に行った。三〇銭
*四学年上。

十月十七日 金曜 半晴
肥料の配給
朝から肥料持ちである。菅谷信用組合の倉庫に行った。新藤武治さんの妻さんと二車(ふたっくるま)持って来た。「硫酸アンモニア。大日本一六過燐酸。臨時配合肥料四号乙。エッサン。石灰窒素。豆粕。ほしか。」等の肥料配給。
菅谷神社例祭。神嘗祭に付、全国民午前十時に一斉に伊勢神宮遥拝の指示あり。七郷村民体育大会挙行。

十月十八日 土曜 雨
工事五分
根岸三号の工事場へ行った。今日もトロ押しである。半日に十台位しか押さなかった。野村君と一しょにした。午后は家へ来た。金井治平様方で陸稲をついてもらった。九斗で一円三十五銭である。
靖国神社臨時大祭。全国民、天皇親拝に合わせ午前十時十五分黙祷の指示あり。

十月十九日 日曜 晴
工事一人
新聞配達だ。早く起きて支度をした。一時間も待つと忍田政治君が来た。四十五部配達した。根岸三号の工事場に行った。今日もトロ押しである。始めの中はばつたをした*。野村君と一所にした。午后は人数も多くふゑた。以上
*談:車輪がレールからはずれる。脱線。
古里兵執神社秋季例祭執行。

十月二十日 月曜 晴
工事一人
朝から晴れて居て気持ちの良い日である。根岸三号の工事場へ行った。今日もトロ押しである。忍田君と一所に押した。トロの具合がとても良い。一日仕事をして夜は観音様*の境内で行われた映画を拝見した。以上
*根岸の観音様。

十月二十一日 火曜 晴・風
御九日
御九日である。朝作りに菅谷の家へ使に行った。朝食してキリンをかりに行って来た。家で笛を吹いた。午后川で魚突きに行って水の中へつっぱいってしまった*。柴田恭平君と空気銃を持って遊びに行った。
*談:ジャカゴの間にいる魚を突きに行って川におっこってしまった。
大蔵神社大祭。

十月二十二日 水曜 曇
故中島久六郎伍長・故内田熊太郎二等兵両君の村葬*
早朝めしで祖父さんと鎌形の長島一郎さんの家へ竹切りに行った。(四寸一束、五寸二束、六寸、七寸、友に**一束。)を車に積んで家へ運んだ。杉も五本買った。正后学校に行って左記の二名の村葬があった。家の廻りの片づけをした。竹一束 一円八〇銭也。杉五本 五円也。
*午後1時より菅谷国民学校校庭で仏式で、故陸軍伍長中島久六郎・故陸軍二等兵内田熊太郎菅谷村葬執行。
**共に。

十月二十三日 木曜 晴
大蔵橋工事に出席
祖父さんと鎌形へ杉の木を持ちに行った。むかいが来た。今日は橋かけの用意をするのである。学校林に松の木を引きに行った。午后は松枝を引きに行って十五タバ持って来た。父は監視哨。

十月二十四日 金曜 晴

朝作りに甘藷のつるを切った。朝食して桑の株の間にコンニャクの玉を植ゑる支度をした。八時頃父は監視哨より帰家した。西原の畠に堆肥出しをした。午前中五車引いた。前畠へも五車小荷で運んで、休んで畠を耕し始めた。以上 受信清水岩三

十月二十五日 土曜 晴
召集日 畠
午前八時ヨリ教練召集日である。村田君と学校に向った。査閲の練習を半日した。午后堀さらいをした。母と前畠を耕した。夕方馬運動。
防空訓練終了。

十月二十六日 日曜 晴

朝の中は雨が降ってゐた。手帳を買ったりして記入した。九時頃畠耕ひに行った。一人で少し耕った。母と一しょにした。午后守も畠に出て堆肥入れをした。今日はとても能率が上った。馬の手入れ。以上
大蔵で秋季清潔法施行。

十月二十七日 月曜 晴
畠 夜間召集
今日も畠耕いである。三人で畠に行った。風があってとても涼しい。午后も同じ所をした。夕方早くしまって馬の手入れをした。今夜は夜間召集である。午后七時(十九時)である。以上(杉山先生、校長先生)

十月二十八日 火曜 晴
畠 夜間召集 下田先生
畠耕ひ。前畠ののこってゐるところを耕った。午后休みをしてサンノウ前の桑をこいだ。後の畠を耕った。夜間召集日である。(下田先生)以上

十月二十九日 水曜 晴
夜間召集
父はお役で大蔵橋の工事へ出頭した。母と畠を整地した。午后遠山の水車へ麺*を持ちに行き五〇本**持って来た。夜間召集である。(服部先生)
*ほしうどん。
*談:本は束。一束が百匁だったと思う。
タイヤ配給実施。
この日の『東京日日新聞』埼玉版の記事。「お嬢さんの改札掛 東上線に嵐山駅 国民皆労の興亜精神に燃えるお嬢さん達が東上線改札口に現はれ同線初の女子駅員として颯爽と改札口にほゝゑましい朗景を描いてゐる、廿八日朝武蔵嵐山駅勤務の畑初音さん(一七)は川越駅に十日ばかり前に採用され一通りの訓練を終へて事務見習に配置されハイカー連の乗降多い同駅でテキパキと改札や□□一列励行の指導に好い駅員となってゐる」

十月三十日 木曜 晴
畠 夜間召集
畠耕ひである。ヤクシ様であった。
菅谷村常会開催。

十月三十一日 金曜 晴
畠 夜間召集日
畠耕いである。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)11月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月25日 | 冨岡寅吉日記

十一月一日 土曜 晴
畠 夜間召集 早起会始る
畠耕ひ。今日より青年団の早起会*が始まった。夜間召集、下田、長島先生
*1941年5月に向徳寺住職より時宗宗務院宛に出された「社会事業経営報告書」には1912年(大正元)年4月15日に創立された「男女青少年団修養会」として「農繁騎ヲ除キ毎月一回」、組織は「男十四才ヨリ満三十才マデ 女十四才ヨリ結婚マデ」、現況として「男女会員四十三名毎年十一月中は早天参拝午前四時起床実行」とある。

十一月二日 日曜 晴

早起き会に行ってお茶をわかした。西原に畠耕ひに行った。午前中耕ひ切り後を整地した。午后砂利を引くのでその支度をして河原に行った。一車引き馬を利用した。四車合計十八パコ

十一月三日 月曜 晴
馬で砂利、砂を引く
午前七時より教練が始まった。約二時間に亙った。九時には明治節の式典をした。終りて国民体操をした。午后玉川村一ト市に行って服を持って来た。以上

十一月四日 火曜 晴

前の方の畠の甘藷堀りをした。一本の苗に一本位しかなって居ない。夜間召集である。(服部先生)

十一月五日 水曜 晴

昨日の畠の甘藷堀りをした。夕方早終ひで夜間学科に行った。(下田先生。校長先生。)

十一月六日 木曜 曇

村田君が来た。早起き会に出頭した。甘藷床さらいをした。一日中甘藷堀り。夜間学科。
午前八時より菅谷国民学校校庭で菅谷村警防団査閲実施。

十一月七日 金曜 晴

朝は風があり寒気がさした。午前八時より学科があった。長島先生、服部先生より二時間あった。午后甘藷堀りをした。

十一月八日 土曜 曇

甘藷堀にも半日で終った。午后甘藷の切干しを切った。ラッカセイ、芋等を掘った。以上 受信柴田美作
学生勤労奉仕隊来る。「農家は奉仕隊を大歓迎 比企中等校勤労 比企郡農会では去る七、八日の両日郡下男女中等学校生徒の増産勤労奉仕に生徒並に農家の感想を募集次期勤労への効果達成の資料としたが、農家側は全面的に感謝と労力不足克服への強力なる労働部隊として大歓迎であり、生徒感想には食糧生産への労力と忍苦□□による感銘が大部分を占め、また農作勤労に対し農家側が単なる日雇勤労の態度を以て臨むが如きことあることも指摘し、これが是正要望もあった」(『東京日日新聞』埼玉版12月5日)

十一月九日 日曜 半晴
麦の播種
前畠に畦を作り大麦を播種した。金肥料を約六貫目ほどこした。サンノウ前に四貫くれた。(午后)休み迄に終った。夕方整地した。 受信富岡作次

十一月十日 月曜 曇
麦まき
小麦二十七号を畠へ播種した。肥料引きや押したりした。夜間学科。下田・長島先生。

十一月十一日 火曜 半晴
麦播種
半日稲刈りをしてもちだけ刈った。午后西原に麦を播種した。落花生もとった。畦作りをした。陸は終(あと)三畝で終るのである。

十一月十二日 水曜 晴
稲刈
今日は晴天だ。陸畠の麦蒔きも終って田の稲刈りに行った。近江を刈った。夜間学科。

十一月十三日 木曜 雨
朝から雨だ。夜間召集にはちゃうちんを持って行った。夜は大雨だ。朝少し雨が降った。

十一月十四日 金曜 晴
桑畠
朝少し雨が降った。父は松山に指導員の事で行った。午后桑しばりをした。読方の考査があった。

十一月十五日 土曜 晴
竹切り
今日も父は松山行き*である。
祖父さんと鎌形へ砂運び竹切りに行って一日切った。枝はらいをして手が痛い。夜間学科 杉山先生。 羊毛
*この日は、比企郡保護馬鍛錬会が松山箭弓グラウンドで行なわれた。
菅谷村常会開催。

十一月十六日 日曜 晴
竹引き
祖父さんと、鎌形の長島さんの家*へ竹引きに行った。束まるきである。竹をそいでまるった。合計四十二束 〔二〇ガラ(十五本~二〇本マルキ)十束〕一円二〇銭、一円八〇銭〕出た。二〇束、薮よりかつき出した。夕方八束引いて来た。以上
*長島一郎方。

十一月十七日 月曜 晴
朝から良天気である。
祖父さんと竹引きをした。肥料配給。特殊化成肥料、大日本一六過燐酸、臨時配合肥料四号甲、ショウ石、硫安、麻の実。千代田化成肥料、等配給になった。

十一月十八日 火曜 雨
学科査閲
祖父さんと鎌形より竹を二車運んだ。十時休みをして稲刈りに行った。午后支度をして学校に行った。時計屋*に依った。停車場通りの家へも行った。三時より学科査閲である。夜は少し休んだ。
*菅谷の内田時計店。

十一月十九日 水曜 晴
夜間召集

十一月二十日 木曜 晴
夜間召集

十一月二十一日 金曜 曇
夜間召集

十一月二十二日 土曜 雨
稲の脱穀
朝から雨だ。父と稲の脱穀をした。午后油の配給持ち*に行った。松山にも使に行った。豆電気を買った。七〇銭
*食用油配給(7、8、9月分)が菅谷関根清一商店であった。

十一月二十三日 日曜 晴

父と昨日脱穀した稲を篩った。早く終り藁くびりをした。守とそれを山に運んだ。もう山も栗毛色になった。天気は薄曇である。風は少しあったが午后休んだ。田のぶっさくりをした。桑畠のほっくり返しもした。
菅谷神社新嘗祭。

十一月二十四日 月曜 曇

毎日同じ様に天気が悪ひ。教練召集日である。午前七時会始である。もう始まって居た。不動の姿勢や挙手の礼等があった。午后は畠の堀くり返しをした。今日は万能にたかってやりづらい。以上

十一月二十五日 火曜 曇
午后畠
早起会には雨が止んで居た。朝食頃は小雨であった。祖父さんが目かいを作る手伝ひをした。午后目かい、目籠の運搬をした。庭畠の桑しばりをした。明日は青年学校召集日。

十一月二十六日 水曜 晴
査閲の予行演習
今日は教練の査閲予行演習である。八時迄に学校に行った。午后宮前学校に向かった。道はとても悪くひどかった。校庭は二段になって居た。不動ノ姿勢、行進をした。分列などもした。夕方はかなり寒を感じた。

十一月二十七日 木曜 晴
昭和十六年度教練科査閲
五時に起床した。いそいで支度をして村田君の家へ行った。十一月とは行っても未だ寒くない。(菅谷校出発)宮前校〃庭に集合した。査閲官殿を迎えた。本科一年は良好と言われた。十三時頃終り十四時半頃菅谷校庭に帰校した。以上

十一月二十八日 金曜 曇
醤油しぼり
毎日同じ様な天気である。早朝より毛呂の醤油しぼり殿が来て下さった。その手伝ひをした。父ともみを唐箕であほったりした。午后藁片づけや俵をこしらへてサン俵をゆい漬けた*。今夜はトウカン夜である。
*藁を円形に編んだものを俵の上下に蓋をするために付ける。

十一月二十九日 土曜 曇
田 入営兵送別会
朝食して田に行った。見ると掛稲の馬が良くたふれて居た。六畝の田のぶっさくりをした。十一時頃終って刈干しの稲をかえした。午后二時頃菅谷校に向かった。今日は入営兵士の送別会である。笛を吹いたが良く出来なかった。以上

十一月三十日 日曜 曇

十一月ももう今日限りとなった。後一月でお正月である。未だ麦蒔きも終らない。耕地に行って六畝の田に種を下し堆肥を散らした。午后稲かえしをした。山下さんの田にも蒔いた。ブンヅウの種も蒔いた。夕方は大部良い天気となった。以上
郷社八幡神社新嘗祭。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)12月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年08月24日 | 冨岡寅吉日記

十二月一日 月曜 晴
未だ麦蒔きも終らない。田に行き稲上げをした。午后稲上げをした。馬でつけたりした。車でも引いた。下唐子の左官屋様が来て下された。以上
防火デー施行。

十二月二日 火曜 晴
早朝より上天気である。朝は大霜である。河原に行き砂を持って来た。金井久子さん*が手伝ひに来た。午后富岡タマさん**がきて下さった。三時より入営兵士の送別会があるので神社に行った。山下君、柴田君の二名***である。午后七時に終った。以上
*金井廣吉の娘。
**富岡喜作妻。
***山下一(五学年上)と柴田恭平。
市ノ川改修工事起工式。

十二月三日 水曜 曇
今日も金井久子さんと富岡たまさんの二名が手伝いに来てくれた。リヤカーをかりて肥引き等した。稲上げ。午后稲を上げて作を切って種を下した。土かけはとてもらくであった。久子さんは半日で帰った。空は曇って居て雨が降りそうだ。

十二月四日 木曜 曇
夕べは雨が降った。だが今朝は曇ってゐた。田麦蒔きの種は下しきった。今日は土かけである。家人中三人で振りかけた。正午頃畠山の馬苦労さんが来て呉れた。(五百円)午后父は鉄のつめかいに行った。後七畝位で終る。
菅谷村区長会。

十二月五日 金曜 半晴
馬の健康検査
今日は軍用保護馬健康検査である。父は早朝より支度をして松山のグランドへ行った*。麦の土かけをした。六畝の田は鳥に大部拾われた。午后少しして蒔切りとなった。掛稲や刈干の稲上げをした。今日は風も朝から吹いてチリ飛ばし等。
*午前七時三十分より松山町箭弓グランドで軍用保護馬健康検査実施。

十二月六日 土曜 晴
今日は掛稲の材料片づけである。早く行って稲束まるきをした。午前中で片づけるのは終った。母は麦田のかゝし案山子をつけた。午后菜取りをした。とても良いのがあった。大根引きもした。竹切りの手伝ひもした。以上
玉川村葬執行。

十二月七日 日曜 晴
祖父さんと昨日切った竹を持ちに行った。九タバ出来た。(一タバ一円四〇銭)富岡茂八方ヨリ、山下昭夫君方ヨリ竹六タバ(二円)で買った。向徳寺ヨリ猛宗竹四本(一円)喜作方より土臼をかりて米をひいた。小澤角太郎方へツキ**にたのんだ。
*米搗き。精米。
菅谷村区長農事実行組合長協議会。

十二月八日 月曜 晴
午前十一時五十八分英米ニ対シ戦線ヲ布告ス*。
今日は甘藷の乾燥の出荷日である。父と車を引いて嵐山駅に行った。石油を五合買った。二〇銭であった。小澤角太郎さん方で米をついてもらった。籠を二つ藤縄さん方へ打った。四円五〇銭。十一時頃稲の脱穀をした。午后二時頃監視哨の呼集があった。以上
*宣戦布告。
「一、午前十一時米国英国ニ対シ宣戦布告ノ詔書渙発。二、防空監視哨午前時配備完了。三、午前十一時十五分防空令接信[小川警察署長より防空実施開始命令を受ける]。四、午後五時警戒警報発令。 ◎コノ日午前十一時渙発ノ報告ハ正午ヨリ放送アリ。今日ノ感激ハ村民否国民ノ不滅ニ記念スベキナリ。」(菅谷村役場『昭和十六年度 当宿直日誌』)

十二月九日 火曜 曇
朝の中は曇って居た。今日は晴天にはなりそうもない。柴田恭平君は入営するのである。藁運びをして午后稲脱穀を始めた。菅谷へ木ノ葉籠を持って行った。田島重太郎*。濱野小十**。字内に一つ。二円。夜は灯火管制である。以上
*菅谷の屋根職。
**菅谷の木挽き。
入営兵出発。現役志賀水野喜二・鎌形小林光三・大蔵柴田恭平東部第八部隊、現役小林近造東部第十六部隊。

十二月十日 水曜 曇
朝の中は曇天であったが、雨が降って来た。今日は稲の脱穀である。今日はセン一だけは終るだらう。今日は栽桑講習のわけであるがツ合上行げない。三時休み迄に十パのこして終り。夕方藁ニウかけを始めた。祖父さんは籠作りである。以上

[十二月十一日 木曜 晴 ★頁なし]
[十二月十二日 金曜 晴 ★頁なし]

十二月十三日 土曜 晴
教練召集日 農休み
朝はとても寒い。戦線の大詔を校長先生が奉読した。鬼鎮神社に行き、武運長久を祈った。千手堂河原で戦闘演習をした。午前中限であった。合成酒の配給があった。麦の作切りをした。以上
午後一時より宣戦の詔書奉戴臨時菅谷村常会開催。

十二月十四日 日曜 晴
農休み
朝食して松山へ行ったが買いたい物がなかった。針金を買って来た。百〆(二十五銭)弓を作って見た。午后遊びに出た。新藤文太郎、金井宣久、大澤知助君等が僕の家へ来た。皇軍ショウギをした。以上

十二月十五日 月曜 雪
農休み 金井梅次様方御不幸*
四時頃起きて庭の物を取りこんだ。朝になって見ると雪である。今日が初雪だ。学校生徒はさぞつらい事だらう。家で「青校」を読んで居た。隆次君と皇軍将基をして見た。隆次も強くなった。金井梅次様方の御不幸である。夜は星がサンサンと輝りかゞやいた。
*金井卯之治。1867年(慶応3)生まれ。
郷社八幡神社に於いて宣戦奉告戦勝祈願祭執行。

十二月十六日 火曜 晴
臨時農休み
庭は一面の雪だ。支度をして稲の脱穀に取りかゝった。半日した。午后配給品の分配である。家へは数ノ子。佃煮。セッケン。半紙。手袋。等が分配された。今日も農休みである。下の方へ行って遊んだ。新藤文太郎君等と遊んだ。以上
菅谷神社に於いて戦勝祈願祭執行。

十二月十七日 水曜 晴
朝は晴天である。稲の脱穀の支度をしたが山下庫次郎さん*が来て魚取りに行く事にした。八時頃川に行った。弁当持参で行った。昼食を嵐山で喰べた。遠山のトッ着き迄行って一貫匁余あって半分わけてもらった。稲の脱穀は終った。未だ麦も生える。
*山下和十郎の父。

十二月十八日 木曜 晴
父監視哨勤務
父は監視哨勤務乃為早朝ヨリ支度をして場所に出家った。自分は鎌形水車に荷車を引いて行った。四十五銭。母と稲の塵飛ばしをした。藁くびり等もした。植木山の長島さんの家へ籠を持って行った。午后田に行き麦の作切りをした。

十二月十九日 金曜 晴
大霜である。庭のくび片づけをした。畠の藁運びをして居る中に庭もとけた。干物を出して田に作切りに行った。昨日の続が切り終ると家へ来た。もう一時であった。昼食して又田に行った。夕方早くしまって干物のもみを取り込んだ。明日は召集日。

十二月二十日 土曜 曇
召集日
教練召集日だ。新藤君の家へ行った。内田武夫君*も来た。今日の出席率はとても悪かった。総員四〇名現在員十九名。菅谷校を出発して時計店の前より駆け始めた。そして松山箭弓神社迄駆けた。参拝して帰り石橋を通った。午后田に行き作切りをした。
*内田敏夫。一学年上。
大政翼賛会埼玉県支部主催大詔奉戴必勝推進員大会が大宮公園球場で開催される。

十二月二十一日 日曜 曇
庭には霜が降りたが小霜だ。田の作切りである。今日は終るかどうか。祖父三は柴田藤五郎方より通常鍬*をかりて来て切った。午后も行った。空は薄曇であったが良く曇った。田の作切りは終った。父は馬運動に出た。以上
談:さく切り鍬か。

十二月二十二日 月曜 曇
新聞配達である。夕べより降り続いた雨が未だ降って居た。将軍沢の吉沢君が持って来た。雨や止んで自転車で配達して廻った。父と稲の押農*をして唐箕で煽った。馬小屋の肥出しをした。藁にうがけをした。
*収納。

十二月二十三日 火曜 晴
山下傳次郎さんをたのんで籾すり
晴天だ。干物を出した。菅谷へ使に行って来た。菓子の配給*を受けて来た。前畠の堀返しをした。終りて油面(子字)の畠も終して昼食した。畠の作切りをした。山下傳次郎さんが来て呉れて稲の籾すりをした。以上
*昭和十六年十二月廿日
菅谷村役場
各区長殿
菓子配給方依頼通知ノ件
標記ノ件小川食料品組合菓子部ヨリ依頼通知有之候条各家庭ニ回達□成度此段及御通知候也

一、配給月日 十二月二十二日ヨリ十二月二十六日マデ 五日間
一、一人当 金拾銭宛
一、配給場所 菅谷岡松屋
一、配給残品アルトキハ二十七日ヨリ自由配給ヲ為ス 以上

十二月二十四日 水曜 晴
父監視哨勤務
山下庫次郎さんと魚取りに行くのである。支度をして家へ行って二瀬よりをひ上げた*。今日はだんと取れなかった。どんどん上って小倉迄行き玉川村和田に出て下った。普通位はあったろう。根岸の小澤角太郎方へ米を持ちに行った。以上
*追い上げた。
宮前村葬執行。

十二月二十五日 木曜 晴
金井廣吉さん方へいへ*返へしに行くので支度をして一所に畠へ行った。桑原の堀返へしである。とても楽であった。午后も同じ事。祖父さんは成澤力造様方へ籠作りに行った。以上
*ゆい。
菅谷村年末臨時村常会開催。

十二月二十六日 金曜 雨
寝て居る中にに雨の降る音がした。朝食して草履作りをした。守と二人で物置きでした。昼前に二足作くった。未だ下手だ。午后半分作くった。湯かいこみをした。根岸へもち米持ちに行った。

十二月二十七日 土曜 晴
今日は郡下横断駅伝競争*である。唐子に行き帰って来て小澤、岡本、根岸君**等と松山に行きセン手の後援をした。菅谷は四番であったが二番になり終点は六番となった。祖父さんと向徳寺より竹引きをした。
*比企郡下青年学校対抗駅伝競走。『東京日日新聞』埼玉版(12月28日)には次の記事がある。
「玉川村に栄冠 比企郡青校六十キロ継走 比企郡体協主催、郡下青年校六十キロ継走大会は廿七日午前十時伊草村国民校起点に菅谷、小川、大川[ママ 大河]を経て松山町箭弓神社決勝点で挙行され、参加十四校百十二名番外参加、松中一組八名の百廿名は高原の寒風を衝いて青年の意気も高からに力走、午後一時三分第一着玉川(最終走者青年校五年大野周三君)組がゴールに入り一分廿秒を経て松山組がこれに次ぎ一組の棄権なくゴールに入り、高山体協会長より優勝組玉川に箭弓神社寄贈の優勝神旗の授与あって同二時終了した。成績左の通り 一位玉川(三時間三分)、二位松山、三位大河、四位七郷、五位菅谷、番外参加松中は最終走者中島登志雄君(五年生)で青年校一位に二分遅れてゴール入りをした。参加青年校は玉川、竹沢、唐子、南吉見、松山、大河、伊草、七郷、高坂、福田、菅谷、小見野、中山、小川、番外松中」
**小澤長介、岡本七五三、根岸秋治。同学年。

十二月二十八日 日曜 晴
祖父さんは将軍沢へ行く
酒の配給*である。冨岡軍造方のをたのまれて全部で三升持って来た。一升二円十九銭であった。前の山の木の葉はきをした。午后将軍沢の奥へ行って木の葉をはいて来て菅谷の精米所へ粉持ちに行って来た。以上
*昭和十六年十二月廿六日 菅谷村長岩澤弥市
大字区長殿
新春用清酒配給ニ関スル件
首題ノ件ニ関シ別紙配給券交付候条区域内各戸ヘ御配付方願上候尚期日配給所等ハ左記表ノ通ニ候ヘバ御諒承被下度右及御願候也

一、配給期日 十二月廿八日 自午前九時至午後四時ノ間
一、配給場所 千手堂関根國太郎商店
期日ニハ必ズ現品御引取完了セラレル様申添ヘ候

十二月二十九日 月曜 晴
大霜だ。庭。畠。屋根。皆真白である。父と将軍沢の向ふ山へ木の葉はきに行った。霜でひどかった。半日で家へ来て午后桑園の堀返しをした。今少しで終る。明日は父監視哨勤務である。以上

十二月三十日 火曜 晴
父監視哨勤務
夕べの風で庭の霜は大変に少い。風が冷たい。早朝食し喜作さん家へ籾摺りの手伝ひに行くので支度をしてすぐ行った。金井元吉方の機械で約一時間半した。(十五俵)後片づけもした。今日は正月の持ちつきである。以上

十二月三十一日 水曜 晴
山下の叔父さんが来た。今日は魚取りに行くのである。九時頃川に行き何時もの所を上った。嵐山の下では三百匁も取れた。夕方おそくまで居た。たいへんに取れた。以上
よいか今年のしめくゝり 以上
昭和十六年十二月廿九日 菅谷村長岩澤弥市
各寺院(教会)殿
除夜ノ撞鐘ニ関スル件
時期国防上除夜ノ鐘及此レニ類スル音響等ニ関シテハ防空警(通)報ト混同スル怖レアルヲ以テ此レカ撞鐘ヲ禁止サレ候ニ付慣例アル寺院(教会)ニ有リテハ右事項諒知ノ上壇信徒及関係者等ヘ可然御布達有之候□令ニ依リ此段及通牒候也


冨岡寅吉日記 昭和17年1月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月25日 | 冨岡寅吉日記

富岡寅吉日記    一九四二(昭和十七)年

一月一日 木曜 晴
四方拝式典参加召集日
教練召集日だ。今日は四方拝挙式参加である。八時頃出発した。九時に式は始り校長先生の話があった。
国民学校生徒下組*の天神講である。家が宿で守平以下八名であった。午后新藤君の家で遊び子守り等もした。
色々の工場へ行ってゐる人達も皆来て愉快である。
夜になり山下三三男君山下昭二君等と玉川二本木座に行き花房芳子一行のしばゐを見た。木戸四〇銭であった。   以上
[豫記]十日午后一時学科召集日 十七日教練召集日午前八時ヨリ午后学科
[発信]富岡二三郎
*大蔵は上・下・堀ノ内の三組に分かれており、その下組。

一月二日 金曜 半晴
天神講の者は朝早くから神社にお参りし家で楽しげに遊んで居た。昨日とはちがって大部風がある。凧上げには強すぎる風だ。
扇凧を仕上げたが良く上がらない。戸口君*が凧をかりた。とても良く飛上り愉快であった。弓で凧を射たが駄目である。
街の方へ遊びに行った。午后二時頃地方長官殿や県の役の方々の人が乗馬にて大蔵を菅谷の方へ通過せられた。
金井正次(しょうじ)君の庭で友達と子供見たいな遊びをした。父は夕方遠山の水車にお客に行った。
*戸口愛作。

一月三日 土曜 晴
山下庫次郎さんが朝早晩に来た。今日も魚取りである。富岡理昌、新藤嘉助の四名で根岸の下より始めた。風がとても冷めたい。でも魚は大部取れる。大きなのが二匹居た。何時もの道もどんどん上へ行った。
普通よりも大多く取れるであらう。一時頃嵐山に行き着いた。二貫匁近くもあった。
東京人に三円分売った。五拾銭もらった。魚も幾百匹か配けて呉れた。昼食を二時にした。
遊びに行くと金井君、山下君、等が居て金井君と羽つきをした。興味があった。隆次とメンチ*をした。これも又興味があった。遠山行きのお客は帰って来た。吉澤君に合った。   以上
*めんこ。

一月四日 日曜 晴
朝食して籠の中にトタンとバケツを入れて平沢の吉野廣一君の家へ使に行って色々と御馳走になって来た。十時頃より稲の籾摺りであるから早く帰った。十一時に始めた。金井治平方の機械である。山下彌一方のも一所である。
中食をした。幾俵もある見込みがない。
自分は籾の入れてをした。大蔵時計*で四時迄かゝった。
すぐ支度を取りかえて植木山の御地蔵様に行った。参詣してかまぼこ**を五十銭買った。   以上。
今年は年賀状が見えない。
*談:当時は時間にルーズで大蔵の時計は三十分位すすんでいた。
**談:中にあんこの入った大判焼き・今川焼きの類。

一月五日 月曜 晴
父監視哨勤務
父は監視哨勤務で早朝より支度をして勤務場に行った。馬のゑさを切った。
自分は昨日頼みに行ったバケツ等を持ちに行った。もう良く出来てゐた。
家へ来ると十時過ぎて居た。菅谷の薬部でみやこ染を買った。(海老茶)二十八銭
昼食してアラヌカつめを始めた。
十五俵ばかりつめた。凧の骨を作くった。杉山の叔父さん*が来て繭を持って行った。凧は出来上り朝風号と名付けた。今晩は村の常会で祖父様が出席した。   以上
[受信]野村収一
*新井力造。筆者の祖父の弟。

一月六日 火曜 晴
父は不在である。朝作くりに馬の食糧を切った。父は早く監視哨から帰って来た。そして米俵の外俵かけをした。
自分は竹割りの手伝ひをした。始めの中はちっとも出来なかった。でも少しは割れる様になった。
昼食をして木の葉はきに行く支度をした。山に行く道は此の間よりも道はずっと良くなり坂道などはよかった。
家へ来て父は馬に乗った。川から帰って来て自分が乗った。馬は威勢が良い。   以上

一月七日 水曜 曇
起きると曇天である。意外に霜が多ひ。父はリヤカーをかりて遠山の水車へだんご物*を持って行った。某は志賀(字名)まで行った。求める品は品切れであった。
家の近所で遊んだ。菅谷の根岸宇平さん濱野小十さんが家へ寄った。二人共別用。午后竹割りを少しして見たがうまく出来ない。弓を持って山に遊びに行った。
新藤君の家で大勢遊びヘウタン鬼事等して面白かった。
日はとっぷりと暮れて家へもどった。一昨日よりすいふろ**を桶屋にたのみ未だ作くらない。
七草も終った。
*粉にするくず米。
**風呂桶。

一月八日 木曜 晴
祖父さんは将軍沢へ籠作りに行った。朝早く菅谷の根岸宗平さんが来た。
車を支度して峠の山へ行った。車を引いて行ったので暖くいや暑くなった。
午前中ぶっぱらいをした。もう午近くなった。
風は木々の梢でうなめいてゐる。大蔵の昼の鐘*か聞えて昼食した。
少し草を刈り木乃葉をはき始めると守平が来て手伝だった。早く出来上り家へ来た。大根の首切りをした。
夕方暗くなった畠山の博労の悴の小市氏が休暇にて寸時来た。父は役場に用があり早く行った。が未だこない。
今日は大詔奉戴日である。   以上
[豫記]興亜奉公日(一日)を廃し毎月八日を大詔奉戴日と定む。
*談:向徳寺の鐘。

一月九日 金曜 晴
夕べ成澤君が青年学校の廻文を持って来た。今日は菅谷村の入営兵士を送るのである。
午前八時迄に校庭集合である。校庭には誰もゐない。嵐山駅に行った。大勢である。
家へ帰ってくると九時半であった。支度をして峠の山に向かった。家の者も着いた所であった。山で昼食をした。昼前に十二束まるった。午后も同じ事をした。
三時頃から帰荷をはいた。まだ日があるのでまるくのをはいた。全部で四十輪まるき我家へもどった。祖父さんは将軍沢へ籠作り。
元気良く 我が家を居ゐづる 入営兵。   以上
入営兵出発。菅谷大沢利助東部第六十二部隊、鎌形杉田光義東部第八部隊、菅谷関根久松・平沢村田治夫東部六部隊、根岸小沢庚市・鎌形吉野友治・鎌形杉田富造東部第十二部隊、鎌形小峰卯平東部第七十六部隊、志賀高瀬酉吉東部第七十七部隊、鎌形鯨井佐市・志賀清水留吉横須賀海兵団。

一月十日 土曜 晴
学科召集日
は馬で昨日まるった木の葉つけである。自分は支度をして長島水車へ大麦を持って行った。そして米ぬかを買って来た。(五〇銭)
十時頃帰って来て木の葉束ほどしをし馬糧を切った。馬は二ダン*、山に行った。
今日は十三時より学科である。内田君が来て呉れた。新藤君三人と学校に向かった。時間確守でなかった。服部先生が戦線**の詔勅を謹解した。校長先生の話が少しあった。
家へ来て玉川へ耳にかぶせる物を買った。(三十五)桑原の堀返へしをした。
祖父さんは籠屋、将軍沢へ
[豫記]召集日 午前中藁細工 十六日持参品 藁。鼻緒たて。木鋏   以上
*二駄。二回。
**宣戦。

一月十一日 日曜 曇天
父監視哨勤務
朝は空一面に雲である。山下の小父さんが来た。朝食して魚取りに行った。月田橋の下の方より追ひ始めて大きいのが取れた。三日の日よりも始めの中は多く取れない。雲がからりと晴れた。冷めたい北風が吹く。千手堂前で一網大へん入った。
どんどん嵐山(あらしやま)前さして行った。何時もの様に逆手を呉れた。是又多大の収穫があった。その上でも同じ位は入った。細い橋まで戻り又のぼり帰りに一網ぶち終りにした。一貫〆以上悠にあるだらう。二時に帰家した。
魚を串にさした。七十本近くもあった。みやを背におぶい遊びに行った。夕方まで良く遊んだ。祖父さんは将軍沢へ籠屋。
[豫記]明日は新聞配達

一月十二日 月曜 曇
朝食って自転車で遠山の水車へメンの注文に行って来た。すぐ山へ行った。じきに昼になった。昼食して少し仕事をすると母が来た。ぶっぱらいをしたり木の葉をはいたりした。
帰荷をはいて後をまるくのをはいた。二十束はいしてしまひにした。空はどんどんと雲が厚くなり家へ来るともう雨が降って来た。
祖父さんは家で籠作りをした。畠山の博労さんが来た。   以上
今度は監視哨は夕方(交替)であるそうだ。

一月十三日 火曜 本晴
早朝めしで山に木の葉はきに行った。父がマッチを忘れて村田指導員*殿に十本もらった。夕べ雪が霜と見違える程しか降らない。祖父さんが馬で木の葉をつけて呉れた。午前中二段**つけて午後も二段つけた。
自分は二時頃しまって来た。自転車で遠山水車に粉持ちに行った。全部出来て居たが一斗ばかり持って来た。
木の葉束ほどしをして籠を持って行った。
清水岩三さんがお便りを下さって色々とかいてあった。   以上
[受信]清水岩三
*村田福次。青年学校教練指導員。
**駄。

一月十四日 水曜 晴
餅つきである。自分は一番おそく起きた。山下の小父さんが来た。今日も魚取りである。支度をして庫さんの家へ行った。大ガケより追って行った。何時もの様に取れた。学校橋の上杉山の下に鮎が数匹居た。その中三匹は網で取った。小魚は何時も程取れない。
鎌形の川へ上って行った。八幡様の上で鮎を一匹合計四匹取った。玉川村和田前の所まで行き、何時もの貫数位取った。嵐山の方に廻り之又多大の収穫があった。合計は自分が小父さんの手伝ひを始めて以来首位である。家へ来て串にさした。七十串は悠にあった。
今日は馬の飼料が配合*になって午后父が持ちに行った。   以上
[発信]清水岩三
[受信]山下豊作
*配給。

一月十五日 木曜 晴
馬の鍛練
父は馬の鍛練で早朝より多忙の様子であった。
新藤、野口、岡野、野村宇平君の総計五人で比企郡平村の山王様に自転にて出発した。
青年団の自転車預り場にあづけた。(十銭)
もう道が混雑になった。馬も何十頭ともなく畠の中、校庭に繋ないであった。
マトウ*と言ふものを始めて見た。三時頃帰家した。磁石を買って来た。
今日は兎を出すので家では四頭三貫〆あったそうである。(夜)守平と碁目をした。
内田武夫君などと遊んだ。面白くなかった。父は午后用で畠山の博労の家へ行った。   以上
*流鏑馬。

一月十六日 金曜 晴
藁を持って学校に行った。下田先生に合って話を聞くと今日は召集日ではなく明日午前八時より教練で十時より学科で草履作りである。
青年団の総会なのですぐ向徳寺に行った。支部長副支部長をかえたり、役員の取りかえである。支部長は富岡良治さん、副は村田福次さんである。外役員は山下廣雄さん、富岡理昌さん、山下正さん、金井亀二さんである。茶碗を二ツ(二十二銭)呉れた。午前中に総会は終り中食して菅谷に使に行った。父は遠山へ行った。
松山に行き鼻病治療器を買った。(二円五〇銭)行って来て友達と面白く遊んだ。
明日は教練と草履作り。   以上

一月十七日 土曜 晴
父監視哨勤務
教練の支度をして学校に向かった。門の百米前まで行くと「集合」の号令がかゝった。いそいで校庭には入った。十時迄教練をした。
少し休んで草履作りである。各組に分れ一組八人である。県の視学員殿に視察してもらった。思ふ様には出来なかった。
十二時頃終り一足出来上がった。帰宅してすぐ昼食して遠山水車へ麺を持ちに行き廣吉さんの自転車を借りて行った。廣吉方のお客様に(五〇銭)もらった。
支度を取り替えて前の山に甘藷の枯れたツルを祖父さんと運んだ。
風がとても冷めたい。   以上

一月十八日 日曜 晴
父は早朝に鎌形の杉田安藝家(あきいえ)さんの家へ行って来た。車に油を呉れたり支度をしたりした。
山に行き掃き始めると下木切りの人が四人来た。将軍沢の人達である。日曜日なので守平も行った。早くの中は風もなかったが強い風が吹き出した。昼前に一段掃いて馬がつけた。
午后二段掃き馬が運んだ。今日は何時もと違って風が冷めたく身がひえる。
早く上り荷を作くって家へかえった。
平沢の内田桑作様が用があって家へ来た。(一金十円也)   以上

一月十九日 月曜 晴
二日前の朝に比べると霜は少い。山に行き焚火をどんどんして暖まった。根刈りを始めた。
祖父さんも行き四人で働らいた。昼近くなると遠くの方で風の吹く音がする。
昼前に三段まるけた。今日掃く所は木がこんでゐて木の葉がたまる。
午后は風となった。坂が風に逆らってゐるので掃きずらい。ヒッカタ*(鳥の名)が仕事をする前へ来て自分をからかってゐる。
今日は五段掃いたので場所が広くあいた。家へ来て幾何もたたぬ中に鎌形の杉田吉造さんが馬の話にて来た。   以上
[発信]山岸良之助
[受信]吉野廣一
*ショウビタキ。ヒッヒッヒカタカタと鳴く。シベリヤからやって来る冬鳥。

一月二十日 火曜 晴
火の番である。
支度をして山に行った。今朝は父がマッチを忘れて母が岡本君*の家で借りて来た。もうマキ作りの人達は山に居た。あたらしてもらった。
根刈りである。もう大部場所を掃いた。でも見渡すと未だ広いものである。
太陽が南に来た。昼近くなったのである。マキ作りの人々が昼を喰べ始めた。自分達も昼食した。
今日は昭和拾六年度の米の検査である。
祖父さんは半日其乃方に係かった。午后は馬方である。三段つけた。
 某は三時に家へ来て支度をして遠山の水車へ藤縄様の麺を持ちに行き五拾本持って来た。今夜は夜番**である。   以上
*岡本七五三。
**談:夜警。火の番で、一晩に四軒ずつが当番で金棒をついて字内をまわる。

一月二十一日 水曜 晴
夕べ夜番でおそく寝たのでおそく起きた。朝食前金井組合長の家へ蜜柑が配給になったので持ちに行った。十四箇(五十六銭)
青年学校の廻文が来た。別に関係のない事である。峠の山にゐって根刈りを始めた。
父は馬の用事が出来菅谷の根岸宇平さんの家来き博労の証人となりに行った。
祖父さんは馬で木の葉をつけて呉れた。
昼前に二段つけて午后三段計四段つけた。帰りに車を引いて来た。
始めてなので困難と思ったらそうでなかった。ノコギリを買った。(六円)   以上
宇平さんの家では馬が博労になった。

一月二十二日 木曜 晴
朝は曇天で雨か何か降りそうである。父は車を引いて山へ行った。その後を行った。
祖父さんは馬方である。朝食してすぐ山に行き一段つけ昼前に二段つけた。
父と母、三人で木の葉を掃いた。父は束まるきである。昼前三段掃いた。
午后一段つけ二段。三段目には父と交替した。父は監視哨に行く為早く帰宅した。
祖父さんはのこりぶっぱらひをしたりタバまるきをした。四輪まるき上がり荷をつけて山を出発した。もう日が落ちかゝった。
家へくるととっぷりと日は暮れた。木の葉タバほどしである。物置きが一ぱいになった。   以上
[豫記]二十六日午前八時青年団で道路に砂利行きである。

一月二十三日 金曜 晴
父監視哨
朝の中風があった。祖父さんは鎌形へ使に行った。米の銭である。某は飼料の藁、甘藷蔓を切った。祖父さんはすぐに帰って来た。
五時半頃車を引いて峠の山に向かった。空には少し雲があった。飛行機が妙たる音を出して飛んだ。昨日五輪まるき午前中一段掃いた。
もう空の雲も晴れ日光が良くあたる。静かなので大蔵の昼を知らす大鐘がはっきりと聞えた。三やの中食は真にうまいものである。
全部で二十三タハまるけた。余は一日中根刈りである。皆一つ場*に出した。
帰り荷も掃き日の没するを待ち家へ戻った。将軍沢の下より祖父と替り車を引いて来た。とてもあつく汗が出まくった。
[豫記]二十四日学科召集 後一時普通学科
*一ケ所。

一月二十四日 土曜 晴
どうも朝になると起きるのがオックウでならぬ。でも起されるとすぐ飛び起きる。今日は(午後一時)十三時より学科があるので山には行かない。父と母は早く行った。祖父さんも馬方である。某は馬の飼糧である藁を切った。木の葉タバほどしをしたり、根刈りまるきもした。昼前馬は二段つけた。
中食後菅谷の鐡屋へ馬の蹄鉄に祖父さんが行った。新藤(文)君内田君三名と国民校に向かった。職員室で埼玉郷土読本を販売した。
普通学科は簾藤先生で数学グラフの所を教えて呉れた。色々と話が脱線して面白い。
夕方砂糖の配給に行った。四斤
父は十八時より監視哨に行った。   以上
[豫記]三十日召集日。埼玉郷土読本ヲ求ム。
[受信]富岡守平へ内田實先生

一月二十五日 日曜 晴
今朝は少し腸がいたかった。父が車を引いて行った。山に行き根刈りを始めた。守平も行った。もう西の方も少ししかなので早く終った。
祖父さんは米ツキに行った。(金井治平さんの家)
十時頃木の葉のうすくのこしてあった所へいった。少しすると大蔵の鐘が鳴った。まきこしらへの人達と一所に昼食をした。ダンゴもやいて喰った。七ツ位喰った。午后馬が来た。
昨日四輪掃いておいて今日は計三段掃いた。馬は三段つけた。あがり荷を掃き日の没すると同時に帰途についた。父は将軍沢監視哨員の家に用事がありよったので車を引っぱって来た。デキ物がとてもいたい。   以上

一月二十六日 月曜 晴
青年団員の砂引き
今日は青年団員が区内での道路へ砂を散らすのである。支度をして村田君*の家へ行った。ランプ箱を持って行った。河原に行ってから村田君の牛車の助手をした。牛は金井好吉さん方の牛である。山下丑三君も牛方である。
十時に乾燥場(旧)で休んだ。午前中に五車道路に散らした。
昼食して堀ノ内方へ行った。今度は村田君の家の牛である。体格は普通の牛よりずっと大きい。助手は愉快であった。
三時に富岡支部長の宅にて休みをした。甘藷、白菜、等茶菓子も出た。蜜柑も出た。
今日も一日つとまりにけり   以上
[豫記]三十日藁草履作り 二十六日青年団の砂利引き 道路へ
[発信]新藤純平**
*村田清治。
**新藤文太郎の兄。

一月二十七日 火曜 晴風
昨日の夕方の模様では今日は天気が変ると思ったら空模様はなをって日光が出、風が吹き始めた。今日で一町五反の山も掃き終るのである。三人で行き掃いた。一段掃くとあがり荷がないので木の葉山へ行って二籠掃いて来た。
家へ来ると〇、四〇分頃であった。祖父さんは家で籠作りである。
父は午后から掃いたくづぎを馬でつけた。出き物がいたいので仕事が出来ない。
祖父さんの籠作くり手伝ひをした。ふちをまく竹を細かくしたのである。
川島定吉さんの家へ籠を持って行った。

一月二十八日 水曜 晴
四、五日前は春先の様な天気だったが此の頃は又晩冬の気候となり霜がたいへんおりて居た。父と木の葉山へ行った。
一車位掃くのは手間取れない。方々の家で未だ山仕事である。家へ来て見ると十一時である。
祖父さんは金井柳作さんの家へ小作の事で行った。正午に帰って来た。五俵七升の所四割負けの三俵で良いのである。午后母と田麦を踏みに行った。上の田麦は皆踏み終った。
父は枝を分けに行った。四時頃峠の山に行き一車将軍沢まで出し、二車一ぺんに家へ運んだ。二十パつけて来て背戸の山に積んで居いた。
出来物がパンクして今日は痛みが抜けた。   以上

一月二十九日 木曜 晴
鎌形中島ノ小林孝太郎君ノ祖父死ス*
霜が降りて居て冷めたい。将軍沢の忍田君の主人が馬を引いて来た。可あいらしい馬である。
父と麸(ふすま)を持ちに行った。山より三車出し二車分(三十二輪)家へ持って来た。将軍沢に居る中、昼の鐘が鳴り出した。
昼食して祖父さんのこしらへた印籠**とショイ籠とを車につけて行った。
山より二車出し二車を一つにして持って来た。
次を行く時は十六時半頃であり、山に着いた時はもう日が没しかゝって居た。
未だ分けないでまるったのが百輪近く有るのである。枝をつむ場所へ到着すると日はすっかり没して電燈が輝やいて居る。   以上
[豫記]明日は召集日 十三時ヨリ
*小林民造。一八七〇(明治三)年生まれ。
**印籠かご。

一月三十日 金曜 晴
今日も買った枝を持ちに行った。忍田君、福島賢次さんの家でも来て居た。
今日は三十タバづつ分けられる。母も行った。
十五輪つけ出して岡本七五三君の家で十時休みをしお茶をもらって呑んだ。もう一車(ひとっくるま)将軍沢に出して置いた。
昼食して出してあるのを持って来た。全部分け切った。百十五輪分けられた。(一輪十八銭、二拾円七〇銭)
父は遠山の水車へ麺の代りを持って行った。
自分は馬の飼料の甘藷蔓、藁を小切った。草履を一足作くった。
今日は鎌形の家の祖父さんの御葬式である。   以上
[豫記]今日の召集日変更 明日午后一時

一月三十一日 土曜 晴
父と木の葉掃きに行った。一車掃くのはいくらもかゝらない。
昼食して学校に行った。長島先生、杉山先生が教へた。
下田先生より相生座の割引券を呉れた。山下中島君*等と小川迄見に行った。面白くなかった。   以上
*山下和十郎と中島運竝。


冨岡寅吉日記 昭和17年2月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月24日 | 冨岡寅吉日記

二月一日 日曜 初雪
県下駅伝競争
空は灰色に曇ってゐる。支度をして登校した。大部寒い。同級生諸君と坂戸の方へ出かけた。高坂まで行くと小雪が降り始めた。皆の心中が変り其の所から松山へ行った。もう雪がひどくなった。吉見を通り南吉見村久保田迄行った。道に大へんつもった。東吉見~松山間をはしる人は千手堂の瀬山君*である。十幾番かであった。
松山まで行く中に十一番となった。青年学校では一番とかである。
雪はどんどん降る。自転車から二度落下した。
祖父さんの熊手こしらへの手伝ひをした。縄ないも少しした。   以上
[受信]清水岩三 富岡健治
*瀬山芳治。

二月二日 月曜 曇
雪が三〇センチ近くつもった。
ラッパが鳴り青年団の雪掃きである。今年の初雪だ。足がとても冷めたい。
帰って来たのは九時過ぎである。朝食した。鳥を執るブッツブシを作くって見た。なわないも始めた。
午后目籠を作った。良く出来た。
十一時に祖父さんは小川へ籠職の事について行った。
モチを置いてほうじろを一匹取った。
夜になって祖父さんは帰って来た。建設青年の復習問題が正解した。
[発信]富岡健治
[受信]建設青年

二月三日 火曜 曇
節分
晴天になりそうもない。曇天である。
十時頃松山へ行った。ゆわし*はなかったが、蜜柑とナシを買って来た。
昼食して支度した。
みやを背負って川島の鬼鎮神社へ行った。福引きで六等と外であった。
早く帰って来て金井屋でおでんを喰った。うまかった。
福は内 福ハ内   以上
[受信]斉藤三郎
*鰯。

二月四日 水曜 半晴
祖父さんは熊手作りである。
父と馬小屋の肥出しをした。未だ雪が消えない。木の葉肥で出しづらかった。
終ってから桑の木を切った。祖父さんは鎌形の家へ墓参りに行った。
植木山の鋸屋へ鋸なをしに行った。
昼食して桑の木切りをした。
夕方熊手曲げである。
夜、晩食後までかゝった。   以上
[発信]斉藤三郎

二月五日 木曜 晴
支度をして中島の工事、二瀬に行った。十四、五人しか来ない。
もっこかつぎである。羽尾の小久保君と組んだ。
始めの中はなれないので上手に行かなかった。
十時休みをするとじきに昼である

三時休みをして間もなく日は山の影になって終となる。   以上
[豫記]中島の工事出始め

二月六日 金曜 曇
二瀬の工事場へ行った。成澤君も見えた。忍田君と笊*かつぎをした。
十時頃石かつぎであった。今日は親方も見えた。
昼食して手ぐりで石を運んで川の中に入れた。
歐文社に懸賞問題を出した。
明日は召集日である。
夜大東亜戦争の写真の見本を青年団の役員の者が持って来て注文した。   以上
[豫記]明日保護馬の健康検査
[発信]歐文社
*畚(もっこ)。

二月七日 土曜 晴
青年学校教練、学科の召集日である。天気は快晴で霜でひどい。
三年以下召集日である。竹槍を持って大蔵の河原で基本体操をした。十三種おぼえるのがなかなか骨である。戦闘教練である散兵をした。これは愉快であった。
午后普通学科で服部先生の教授であった。続けて二時間した。
今日は菅谷村商業報国会員が旧校舎に集った。前九時より松山のグランドにて保護馬の健康検査である。   以上

二月八日 日曜 晴
二瀬の工事場へ行く支度をして出た。百米行くと根岸の戦友が追ひ着いた。今朝はあまりに寒い。工事場迄かけ足で行った。暖くなった。
十時休み迄もっこの中へ砂利入れをした。氷って居るので腕に強く答へる。
十時頃忍田君ともっこかつぎをした。午后も同じ事をした。途中で根岸貞次君と変って入れ方をした。
昼休み、三時休みは長かった。
終にするのも日のある中であった。父は遠山の車へ馬引きに行った。
小川方面の馬は今日健康検査である。   以上
[豫記]明日は入営兵士を送る。

二月九日 月曜 晴
起きて支度をして待ってゐるとラッパが鳴った。今日は山下一(かず)君の入営*である。朝は寒い。自転車で行った。尚更寒かった。菅谷村より二人入営した**。朝食して鎌形の工事場へ行った。未だ始まった所だ。九時十分前である。
今日は受取り仕事である。氷ってゐて砂利を入れるのは骨である。忍田君ともっこかつぎをした。今日は皆一生懸命である。十時休み前一時間の中に大変進んだ。
三時近くにもう方がついた。家へ帰ると三時廿分であった。風呂かえこみや甘藷蔓切りをした。
父はまき山切りを始めた。   以上
*一九四三(昭和十八)年四月十日戦死。
**他に遠山川端哲男入営。

二月十日 火曜 晴
鎌形の工事場へ行った。今朝はとても早かった。今日は石拾ひである。農士学校の前の河原で拾った。
此の仕事は楽である。
午后も同じ事をした。七郷村から内田、大澤、鈴木、等と言ふ青年が見えた。二十近い青年である。
明日は学校である。そして下の帳場*へ行くのであるわいな。
*根岸の帳場。

二月十一日 水曜 
紀元節 下流三号
紀元節祝賀式に青年学校生徒も参加するのである。今朝は特別に大霜の様だ。
支度をして新藤君の家へ行った。内田君も居た。学校に行くと未だ幾人もゐなかった。中島君に頼んだ振替の證書がとゞいた。
九時に式が始まり校長先生が色々と時局と重大なる話をした。
早く式が終り昼食して根岸の工事場へ行った。内田森吉君ともっこかつぎをした。
上の帳場と同じ仕事である。明日はトロ押しらしい。
夜は空が曇天と化した。   以上

二月十二日 木曜 曇
根岸下流三号の工事場へ行った。早かった。雪が霜の様に少し降ってゐた。総人数は三〇名以上ゐるだらう。下の方でもっこかつぎをした。忍田君としたがまだなれぬので水中に足を入れた。休後、忍田君が牛方なので其の助手をした。三車で昼となった。
祖母さんは神戸へ使に行った。
午后もっこかつぎであった。羽尾の人とした。
祖父さんは籠を作り売りに行った。   以上

二月十三日 金曜 晴・風
下流三号の工事場へ行った。今日は人員が少し減った。下のトロ線から三台トロを運んだ。上のトロ線にかけた。羽尾の赤沼と下唐子の潮田(うしおだ)君と三人で初トロを押し始めた。
具合の好いトロである。十時休みをした。十台押し、昼までに八台、計十八台、押した。
午后三時休み末に同じ位の者であった。
其れからは風が強くなり橋の上などは寒かった。
今日は日光の落ち切れる中に終りにした。
父と母は木の葉掃きに行った。一日で終った。
明日は学校也。   以上
[豫記]特別 午后は近日希なる大風

二月十四日 土曜 晴
下流三号場へ行った。昨日より遅かった。
牛車引きの助手である。青鳥の人の車の助手をした。休み前に十台引いた。休みは部屋でした。牛が車を引いて逃げ出した。
今日は半日で家へ来て支度をして学校へ向かった。新藤君等と一しょに行った。
菅谷、嵐山駅通りの荷受所で武道大会がある。見学である。あまり面白くなかった。
鎌形の吉野君*も剣を持って戦かった。残念乍負であった。
岡松屋で菓子を少し買って持って来た。馬は蹄鉄に行った。   以上
*吉野勇作。一学年上。

二月十五日 日曜 雪後曇
寝てゐる中に弟妹が騒いでゐる。雪の吹ってゐる様な嬉しそうな である。起きて見ると面方(あたり)が真白である。今日は工事も休みだ。
守と碁目をした。守平も少しは敵となれる腕とあった。十一時頃草履作くりを始めた。
大きな奴を一足作り出した。半足分作くると昼となった。十時頃、いねとまきは金井柳作方へ孫様の帯解*でお客に呼ばわれた。
いねもこの祝をして産土神に参拝した。
遠山水車のもっちゃん**(人名)が床上の祝を持って来た。一時より神社々務所にて常会があった。自分が出席した。
夕方熊手曲げをした。十五本。   以上
*七五三。
**兼子もと。

二月十六日 月曜 晴
寝てゐる中にラッパが鳴った。青年団の雪掃きである。村田君の家へ行った。そして河原の方へ掃いて行き団員に合った。今朝は六人切りで学校迄行った。家へ来ると八時半頃であった。朝食して三号の工事場へ行った。大変来てゐた。
トロ押しである。青鳥の小野澤君と始めた。休み前忍田君もは入り三人で押した。
十時休みをし、幾台か押すと昼である。自転車で行ったので家へ昼喰ひに来た。
今日は会計である。休みに三号の会計は終った。工事が終ってから、大澤右(う)平さんの家で鎌形の会計を與一*方より受取った。計拾貳円八拾銭。   以上
*中島與一。

二月十七日 火曜 晴
今朝は何時もより三〇分早く起きた。□□守は今日、七郷の学校へ査閲見学に行くので早く行った。自分には通知がないので下流三号の工事場へ行った。早かった。
新聞にはでかでかと星港陥落と記るしてあった。家々で今日も国旗がなびく。
河原の雪はすっかりとけた。
もっこかつぎを少ししてもっこに石を入れたり砂利を入れたりした。
工事はトロ押しや石張りである。
今日は学校に行くのだそうだが行かなかった。   以上

二月十八日 水曜 晴
宗ちゃん*と一所に行った。昨日より早かった。部屋であたった。忍田君は牛方である。
小屋へ火をもした。人ずうが少い。潮田君、西田君と三人でトロ押しをした。
休み頃大蔵神社で万才の声が聞えた。シンガポール陥落の祝ひである。今日も家々の国旗へ大国旗がひらめく。
昼食して一日中トロ押しである。夕方、空に雲が大く出て来た。
明日は上岡のかんのん様である。青年団の三十三社
[豫記]明日は青年団員の三十三社である。
*川島宗作。

二月十九日 木曜 曇後晴
下流三号の工事場へ行った。今日は青年団の三十三社参りなので父が代りに行った。
今朝は普通に工事場へ行った。トロ押しである。潮田君、西田君の三名で押した。
十時休みにさつまいもを喰った。今日は二瀬からも人夫が来た。休みも短かく昼休みも短かかった。
潮田君に甘藷のかんそうをもらった。
夕方になりもっこかつぎで川の中におっこった。身体が良くぬれた。未だ力が無いからしょうがない。
上岡のかんのん様で馬の絵まを買ってきた。

二月二十日 金曜 晴風
新聞配達なので早朝より支度をして配達函に行って見るともう来てゐた。日日八部、報知一部、朝日四十四部、計五十三部であった。今朝は餅をついた。
宗ちゃんを呼んで行った。朝は寒い。トロ押しである。潮田君等と押した。
十時休みも近く、昼休みも近かゝった。根岸の観音様へ昼休みに行った。十銭つかった。三時休みもみぢかい。
夕方そうとうおそくまでやった。二十銭増であった。   以上

二月二十一日 土曜 晴天
下流三号の工事合計六人ト六十銭
早く起きた。今日は一時間早く工事場へ行くのである。小屋に行くともう親方は来てゐた。
日光があたってから仕事を始めた。朝の中もっこに砂利入れをした。休み前トロ押しをした。休み頃県から検査員が来た。無事に通った。
昼まで少しトロ押しをした。昼食後もトロ押しである。西田君と押した。
今日は朝から静かで一日中風がなく良い日であった。
昭和十七年第貳拾壱回菅谷蚕業組合通常総会があった。
今日も二十銭増分。

二月二十二日 日曜 半晴
支度をして鎌形二瀬の工事場に行った。熊さんが一人来てゐた。皆の集まるのはなかなかゆっくりであった。
神戸の杉田君ともっこかつぎをした。二十人位人夫は居る。
九時頃半鐘が鳴った。唐子村方面から煙が上った。上唐子の北である。
十時休みをして昼迄もっこをかついだ。
昨日とちがって今日は休みがゆっくりである。
父は山仕事に行った。   以上

二月二十三日 月曜 晴
地下足袋の配給一足。特配一足。一円六十五銭
昨日は日傘であり月傘であった。今朝は曇天であった。何時もより早く仕事に取りかゝった。杉田君ともっこかつぎをした。目つぶしをしたりうめつぼをした。
十時休み前になると空の雲は消えて快晴の天気となった。
昼食休みに角力をやった。皆強い。
今日は身体がだるっこく春らしくなって来た。三時休みをすると間もなく日光が没してしま。熊手曲げの手伝ひをした。夜金井義雄さんが地下足袋を持って来た。一月分の配給である。一足特配があった。   以上

二月二十四日 火曜 雪
起きると曇天であった。春雨が糸の様に細くちらついてゐる。朝食近くになると少し雨量が増して来た。二瀬の工事場へ行って見た。親方も来た。
十時頃迄に十七、八人集った。雨は雪と変化した。工事は中止である。帰りには田野が真白になった。家へ来てぶっつぶしを作くった。
早く弁当を喰った。学校生徒も早く帰って来た。雪はどんどん降る。山下彌一方で十一文の地下足袋と家の十半の地下足袋とを取り替えてもらった。
四時頃隆次がぶつつぶしてほゝじろを一匹取った。山下丑造君が青年学校の用事で来客した。軍人援護会へ五銭寄付した。   以上
[豫記]二十八日学科召集午后一時ヨリ 普通学科考査 低学年 杉山先生

二月二十五日 水曜 晴
雪中行軍
早く起きて雪掃きの支度をして県道を下へ行き学校道へ行った。団員が河原を掃いていた。根岸の青年団員も同じ仕事に来た。帰りに団費で菓子を喰った。十五人で四円
仕事に取りかゝると非常召集があった。文殊様*へ行くのである。早速支度をした。
学校に行くと幾人も居ない。欠席者が多い。普通科、本科一年は合計九名であった。
十時半頃出発した。文殊様の近くで弁当を喰った。あまり面白くなかった。
雪中行軍なので足はびしょぬれとなった。今度の召集日は二十八日午后一時ヨリ。行軍から帰ってくると日は暮れてしまった。   以上
*現江南町野原の文殊様。

二月二十六日 木曜 雪
工事へ行かふと思って支度をした。すると雪が降り始めた。工事へは行かないで江戸三国志*を読んだりしまだ編みをした。
引きわんなーも作くってある。幾度か引いたが逃げられた。
昼食后堆肥の上にもちを置き仕事をしてゐると、ひはが三匹かゝった。
隆次が帰って来てから引きわんなーで五匹取り計八匹となった。
夕方それを料った。焼いて喰ってうまかった。
「山下つねさんが夕べ死んだ**。」
明日葬ひである。  以上
*談:大蔵青年団の支部長が保管していた文庫の本だったと思う。
**山下津祢。一八七七(明治十)年生まれ。

二月二十七日 金曜 小雨曇
朝の中霧雨が降ってゐた。工事の支度をして箕野を持って工事場へ行った。高倉が一人来てゐて早かった。
神戸の小林ともっこかつぎをした。十時休みをしてそれから昼近くなって大雨が降って来た。
昼食をしてゐる中に小雨となり午后の仕事に取り懸った。昼前と同じ仕事である。
其の中に空も晴れて小春日和の良好乃天気となった。
三時休みをした。日は塩山の頭上に向かって没み始めた。五時過ぎると塩山の中腹に没してしまった。今日も一日力とまった。   以上

二月二十八日 土曜 晴
計九人半 二〇銭増三日
支度をして鎌形の工事場へ行った。早朝早かった。江戸三国志を読んだ。其の中に幾人が集り仕事に取り懸った。神戸の小川君ともっこかつぎをした。十時休みをした。
江戸三国志を取り出して見た。
午前中は十時休みをした。正午となったので半日で家へ帰って来た。
訓練服を来た学校に向かった。未だ早かった。
第一時 珠算の考査 杉山先生
第二時 講読 氷川清話 初雁先生
四時頃、家へ帰った。
今日は野口民吉方の御祝儀である。   以上


冨岡寅吉日記 昭和17年3月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月23日 | 冨岡寅吉日記

三月一日 日曜 晴
国民学校生徒は神社参拝に行った。今日もよい天気になりそうだ。朝はもうぬるんで来た。野山は霞である。
二瀬に行くと高倉と宇平さんが居た。
仕事を始めて居ると下流から応援隊が来た。潮田、小野澤等も来た。十時休みの時に神戸の連中は上流の田黒分の工事場へ引越しした。金井一郎君ともっこかつぎをした。
正午に会計をもらった。拾五円八拾銭もらった。午后も金井君とかついだ。
川の水が大変ふゑた。一日中金井君ともっこかつぎをした。父は遠山の水車に使に行った。   以上
[豫記]今度召集日。三月七日午后一時ヨリ 学科の考査   以上

三月二日 月曜 雨
空は曇天である。支度をして二瀬の工事場へ行った。中河原より原場へしばをもっこで運んだ。金井一郎君にかついだ。休み頃になると雨がちらついて来た。
昼を喰ふ頃は大雨となった。少し小降となり又降りだした。
四時半頃工事は中止した。忍田君が家へよって行った。   以上

三月三日 火曜 曇
今日より田黒入会へ行くのである。
夜は風であった。起きると少し吹いてゐた。二瀬へ行った。
今日は上へ行くのである。田黒の近所へ行って葉がら*かつぎを半日した。
午后からは二瀬の片づけをした連中が来て人数も増した。
三時休みをしてからもっこに砂利の入れ手をした。
明日も工事場はこっちである。   以上
*建設材。三~六年生の四~五メートル位の雑木の枝をうったものを枝(し)がら、枝がついたものを葉(は)がらといい、束ねてつかう。

三月四日 水曜 晴
今日は良い天気になるらしい。
支度をして県道に出ると安さん*と根岸の連が来た。成澤君は車を引いて玉川の方へ開墾に行った。
工事はまだ始まらなかった。金井君ともっこかつぎをした。
午后根岸貞次君とした。其の中に親方が来て水中仕事に取りかゝった。
川をとめるのである。形を取り其の上へ砂利をかついだ。
帰りには県道に出て駆歩で帰って来た。   以上
[豫記]七日召集日午后一時ヨリ学科召集ナリ
*野口安一。

三月五日 木曜 小雨
今朝工事に行く時分は雨は降って居なかったがみのを持って行った。上の親方と一所に原場へ行った。今日は下の穴へ埋つぼをするのである。
始めの中入れ手をしたが根岸貞次君とかついだ。金井菊次君と面白い遊びをした。
午前中は雨も見えなかったが昼食をする時分雨が降り出した。
今日は一日中もっこかつぎであった。
雨はじわりじわりと半日中降り続いた。
十八日馬の品評会
二十一日鍛練馬競馬   以上

三月六日 金曜 雨後晴
今日も曇天で今にも雨が降りそうである。
自転車に乗って工事場へ行った。まだ早かった。少し経つと雨が降り出した。
親方も来た。雨は大降となった。小屋で休んでゐると雨も止み仕事を始めた。
十時休みをした。思いがけない良い日になって暖たかい。忍田君ともっこかつぎをした。
半日で家へ来た。
支度をして山下三郎君と松山町の箭弓様へ行った。とてもにぎやかであった。
あまり面白くわなかった。五時頃松山を出かけた。   以上

三月七日 土曜 雲田
支度をして県道に出ると根岸の連中が来た。自転車をころがして植木山から乗って行った。何だか空は曇ってゐて雨が降って来そうである。十時休みをすまで根岸貞次君とかついだ。
休みからこまはりが始った。金井一郎君と替って入れ手をした。
十一時頃こまわりも終って家へ来た。
学校に行く支度で自転車で行った。中島君等がゐた。
第一時牛車の後押しであった。
第二時修身及公民科の考査 長島先生。時間が始まる頃雨が降り出し帰ってくる中降ってゐた。   以上
[豫記]今度召集日 十三日前八時半迄に学校集合 箭弓グランドで振興週間   以上

三月八日 日曜 晴
根岸の連中と田黒入会に行った。こまわりである。
七人で始めた。今日ははかどるかも知れない。
正午迄にはだいぶはかどった。
二時半頃には終った。早く家へ来てゆかいこみをした。
夜山下君等と軍人援護の夕の活動を見に行った。
野中大佐の話は身にしみた。   以上

三月九日 月曜 半晴
支度をして温ってゐると根岸君が一人来た。落花生を喰いながら行った。昨夜の活動は実によかった。野中大佐の話は実に身にしみた。
今日はこまはりであった。
ツる*で砂利をほった。七人で始めた。
子休(こやすみ**)をして始めた。十時休みをした。
早く終りそうもない。
昼食して休んで始めた。どしどしと仕事をした。
三時頃迄には終り、分取りをする***ので休んでから取り懸った。
夕方遅くなって帰って来た。明日は新聞配達である。
二瀬に行くのである。   以上
*鶴嘴。
**小休止。
***分担のところを決める。

三月十日 火曜 晴
新聞配達なので早く起きた。将軍沢の叔父さんであった。
くばり切って朝食して二瀬の工事の手なほしに行った。どうも今日は身ぶるぶるして寒かった。十時休みをしてひまをもらって来た。
家へ来て寝てしまった。
少し風気が出たらしい。   以上

三月十一日 水曜 晴
今朝は遅く起きた。
風気も良くなったが食は、は入らない。
ぶらりぶらりと遊んでゐた。
昼食してからゆかこいみをした。
馬の飼料も切った。(干草を)
父は昨夜遠山に廻り今日も帰って来ない。腹痛が出来たのだそうだ。   以上

三月十二日 木曜 晴
根岸茂雄君*と一しょに行った。植木山の坂の上で親方が抜いて行った。
今朝は早かった。今日もこまわりである。床(とこ)さらいだ。なんだかぬけそうでぬけぬ**こまわりだった。
十時休みをし少しした。
昼休み
三時頃には形がついた。分取りを始めた。貞(てい)さん***ともっこかつぎをした。
三〇銭の分増しであった。   以上
*根岸茂夫。二学年上。
**終りそうで終らない。
***根岸貞次。

三月十三日 金曜 晴
今日は学校に行くわけであるが工事に行く支度をして待ってゐると根岸二名が来た。
皆はこまわりであったが自分は上用*をした。始めの中しがら運びをした。
野口安ちゃんとジャッカチ**で綱引きをした。
午后少しやり
もっこかつぎをした。
今日のこまわりの者は喰ひ込んだらしい。でも五〇銭の増(まし)であった。   以上
[豫記]明日召集日午后一時ヨリ学科ナリ   以上
*常傭か。日給て決められて時間働くこと。
**瀬さらい。

三月十四日 土曜 曇
自転車で工事へ行った。安やんと上用ででジャッカチをした。
半日で帰って来て学校に行った。
第一時 服部先生 考査
第二時 簾藤先生 数学
をして家へ来て兎を売りに行った。   以上

三月十五日 日曜 小雨
起きて見ると雨が降ってゐて工事の支度はしないでゐた。神戸の連中が幾人か通ったので支度をして自転車で行った。清水と金井一郎、金井菊次さんがゐた。巳之さん*も来た。しんちゃんの家から鉄びんをかりて来た。親方が来た。こまわりを受取った。巳之さんと始めた。雨がいくらか降ってゐる。箕野、笠で仕事をした。
こまわりもどんどんはかどった。十時休みをしないでした。昼休みに五目をした。
二時半頃迄には終った。小屋で温って家へ来た。四時にならなかった。
湯の下をもしたりした。   以上
[豫記]二十日召集日 学科
*関口巳之吉。

三月十六日 月曜 雨後晴
雨だ。今日は工事は休みである。二、三日前の天候に比らべるととても寒い。
藁すぐりをした。少しして祖父さんが半笊を作り始めたの中を編んだ。
昼迄には編み上がらなかった。祖父さんは圓(まる)ショウギを一組作り上げた。
半笊を編み上げて祖父さんがふちをまいた。
湯かい込みをした。藁すぐりもした。目かいを作くる手伝ひもした。一つ作くった。
三時過ぎると雨は止んで日が温り出した。
夕方は特に寒い。
夜将軍沢の正三さんが使に来た。   以上

三月十七日 火曜 晴
支度をして待ってゐると根岸君が来た。
床堀りのこまわりである。植木山の熊さんと始めた。水があるので楽である。
十時休み迄に大変進んだ。足はぬれた。
親方はまだ来ない。根岸君と五目並べをした。昼食してゐる時に親方は来た。
昨日工事を休んで今日が会計であった。一人につき拾銭宛のね上げがあった。
休み前迄にこまわりも終った。会計を貳拾円八拾六銭もらった。
根岸の小澤與四郎方へ目かいを二つ持って行った。馬鈴薯の種を植ゑる手伝ひもした。父は喜作方にお客に行った。   以上

三月十八日 水曜 晴風
根岸茂雄君が来た。二人で行った。
六人こまわりで二人は上用をした。日は暉ってゐる。五目ならべをした。
昼食して水の中へは入った。連し*入れをした。
早く終って来た。風が強くなった。
十七年度入学生徒の新体検査**であった。   以上
[受信]吉澤三郎
*葉がらを束ねたものをつないで長くしたもの。
**身体検査。
松山中学講堂で比企郡翼賛壮年団結成式挙行。

三月十九日 木曜 晴
根岸茂雄君切り来なかった。今朝は早かった。基目*をした。今日は馬鹿に良好であった。神戸の清水ともした。三番して二番勝った。
早く始めた。根岸君と石かつぎをした。休みをした。しがらや葉がらかつぎをした。十時休みもした。金井菊次さんとしがらかきをした。今日は昨日と異って風がなく春らしい日であった。昼食して五目をした。
監トクが来た。人数は何時もより少い。父は鍛練馬々体品評会**があるので松山へ入った。午后二時より監視哨の解散式があった。
工事は三時休みが遅かった。
貳拾銭の増があった。   以上
[発信]金井仲次郎 吉澤三郎
*碁目。五目。
**比企畜連合会主催軍用保護馬品評会。

三月二十日 金曜 晴
教練学科召集日
教練の支度をして自転車で学校に行った。一番早かった。
何時もの様に集合した。権田指導員が基本体操の少し変った所を教へた。
それから村田指導員が銃剣術について教へた。三年以下が合同でリレーをした。自分は赤組で二等であった。酒の配給に行った。
午后初雁先生が学科をして二時間目に考査をした。修身公民の考査をした。八〇点であった。
家へ来て木引き手伝ひをした。   以上

三月二十一日 土曜 晴
本日鍛練馬競争
鍛練馬競争があるので支度をして電車にて松山に行った。隆次のぼうしを買った。貳圓八拾九銭。菅谷からは二頭しか出席してない。父も行った。第七競技までして昼となった。
父には弁当が出た。ぼたもちも持って行った。
大変小使いを使った。
競馬も早く終って家へ来た。風呂に火をもしつけた。
今夜、向徳寺にゲント会があったので観に行った。実に感心した写真であった。   以上

三月二十二日 日曜 晴
支度をして待ってゐると根岸の三君が来た。あまり早くなかった。新しく長澤、金井の二君が入った。玉川行きの県道の所からくゑ*をかついだ。
十時休みの時五目並べをした。
早く昼を喰った。中島の養子**が来て十圓置いて行った。
昼食してからくゑ打ちをした。
とても良くは入って十五本打って終りとした。日のある中にしまった。   以上
[受信]富岡丑三
*杭。
**関中組の婿。

三月二十三日 月曜 晴
工事の支度をして車に大麦ともち米を二斗つけて行った*。根岸二君**が後押しをして呉れた。とても暑かった。
今日は杭打ちのこまわりである。参拾本を拾貳人で始めた。始めの中は調子良くは入ったが杭の終り頃になると通りが悪い。
十時休み迄に拾本切り打たなかった。休みに五目並べをした。
半日に十五本打った。昨日の拾圓を皆で分けた七拾銭配当になった。
午後からは大部は入りが悪くなった。
日の没する時分に三十本打ち切った。三拾銭の増分があった。   以上
[発信]富岡丑蔵
[受信]兼子六平
*談:途中で鎌形の長島水車に寄ったのだろう。
**根岸貞次、根岸茂夫。
「内田君も敢闘 米英撃滅継走 米英撃滅伊勢神宮~東京二重橋間五〇〇キロの陸連主催、祈願継走は廿三日正午過ぎ東西両軍とも無事宮城前の決勝点に入り、午後五時から日本青年館で解団式をあげた。東軍に活躍した本県選手は内田講君である」(『東京日日新聞』埼玉版三月二十四日)

三月二十四日 火曜 曇
根岸君一人であった。植木山から又一人新しい者が行った。
今日も杭打ちである。人数も少い。大変休んだ。十時休み迄に九本位しか打てなかった。皆一生懸命と網を引いた。昼迄に拾参本打った。
吉野君より手紙が来た。
午后も杭打ちだ。休みには五目並べだ。空は曇ってゐて雨模様である。
三時休みをしてから杭のは入りが悪くなった。二本打ったがそれからは抜いて少しスッコを動かして四時、五時してゐる中に六時となってしまった。
今日は栽桑講習の日である。   以上
[受信]吉野廣一

三月二十五日 水曜 晴
根岸君が見えたので急そいで出て行った。未だ早かった。親方は遅くなって来た。
礫入れをした。終ってからもっこかつぎをした。
根岸君とかついだ。
今日は良い日で風がなく暖たかかった。
とてもだるっこかった*。
十時休みをしてからもだるっこかった。
午后少し遊んで廻った。(昼休みに)
午后は気持ちが良くなった。道ぶしんもした。三時休みの時に五目をした。勝った。
風が出て来て涼しくなった。
「金井廣吉方の御葬式」七十七才   以上
[発信]吉野廣一
[受信]清水小市
*だるい。

三月二十六日 木曜 晴
待って居ると根岸君が来た。一枚ぬいで行った。根岸茂雄君ともっこかつぎをした。半晴位であるがむし暑い。
十時休みがとても早かった。何時もより三〇分早く昼食をして一時間半休んだ。
午后も同じ仕事をした。工事仕事は面白い。
かわずの鳴き声が聞える。何となく春らしい気候である。水ものめる。
三時休みは面白かった。根岸貞次君は面白い人である。
日のある中に工事をしまった。
明日は青年学校の修了式である。いねのランドセルを買った。   以上

三月二十七日 金曜 晴風
青年学校卒業式並ビニ修了式
自転車で工事へ行った。根岸君も同じ乗物だ。一番早かった。今日半日でない連中かは石拾ろいに行った。九人で杭を七本打って休みとした。日は温たってゐるが風があって寒い近日希なる大風である。
今日は豊岡の陸軍航空士官学校卒業式に行幸仰出遊ばされた。十時休みをしてから飛行機が幾台も飛んだ。
もっこに砂利を入れた。早く昼となって家へ来た。支度をして山下君と学校に向かった。
数十分過ぎてから始まった。校長先生の祝辞があり助役さんの祝辞もあった。今度からは精勤賞の山形のキショウをつけるのである。岩澤安雄君*が答辞を読んだ。   以上
[受信]金井仲次郎
*岩澤康雄。

三月二十八日 土曜 晴
根岸君が来た。急いで支度をして行った。
上用のもっこかつぎである。入れ手をした。たまにもっこをかついだ。石拾の連が行ったので少い。
十時休みは短かった。
十二時となり昼食した。休みもみぢかい。
今日は国民学校の生徒の卒業式及び修了式である。隆次が兄弟中一番精積*が良かった。日のある中に終とした。
根岸藤田郎方へ籠屋。
*成績。

三月二十九日 日曜 曇小雨
今日は曇ってゐる。そしてどことなく寒い。着物を一枚よけいに着て行った。外で遊んでゐた。今朝は新聞配達であった。忍田喜三(きぞう)君が持って来た。早くくばり終はった。根岸君と一しょに工事に行った。
祖父さんは根岸の小澤啓助*方に籠作くりに行った。今日はこまわりであった。十二人で始めた。ぬけそうもない仕事である。十時休みをした。
昼になるのが早い様な気がする。午后忍田君が来た。一米ツボ数を減らした。
三時休み迄には終りそうだが雨が降り出して来た。でも終った。
早く家へ来らいた。五目をした。   以上
[豫記]今度召集日 四月十一日午后一時 学校手帳持参 身体考査等有
*小澤長介の父。

三月三十日 月曜 晴曇
根岸君が来たので行った。風はあるが昨日の様に曇ってはゐない。今日もこまわりである。
なんだか抜けそうもない。入れ手をした。ちょい休みをした。十時休みから中村君と交替した。
昼迄かついだ。金井一郎君とした。足が揃ってしまってうまく行かぬ。
午后もかついだ。天候が悪くなって来た。十三人でしたがぬけそうもない。だんだんとなまけて来た。
三時休みをしたが未だ半日以上もある様だ。上用と同じ位に終まった。一人と二〇銭増しであった。夕方おそくなった。   以上

三月三十一日 火曜 晴風
根岸君が見えたので急いで出て行った。親方が抜いて行った。あまり早くなかった。
十人でこまわりを受取った。今日は抜けそうである。どしどしと仕事を廻わした。三棒*へ二人で入れ手をした。なかなかはかどる。
十時休みをした。今日は強風である。橋の上などは困難である。
早く昼食をした。強い風である。大工も今日は行った。三時迄には終る目的である。
入れ手をした。汗が出るが風で消えてしまふ。三時迄に終り家へ来て麦の二番作切りの手伝ひをした。一枚終った。   以上
[受信]清水岩三
*談:もっこかつぎの一組を一棒という。


冨岡寅吉日記 昭和17年4月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月22日 | 冨岡寅吉日記

四月一日 水曜 晴
根岸茂雄君一人が早く来た。未だ早かった。根岸君と遊びに行った。今日もこまわりである。根岸忍田の二名は八合のこまわりをした。残りの六人で二合四石*を受取った。川島宗吉君もまじった。抜けそうである。
十時休み迄に大変の仕事が出来た。少し休んで始めた。
昼迄には半分以上も出来た。
昼休みは三〇分切り休まないで始めた。午后は日が輝いて暑くて汗が来た。
三時にならぬ中に終す予定である。
忍田と根岸の二君が幾もっこか手伝って呉れたので早く終った。石引き運ソウの馬を見たり草を呉れたりした。今日は会計日である。三時頃銭をもらった。
貳拾貳圓貳拾五銭也   以上
*二合四勺か。

四月二日 木曜 晴
今日は根岸の二名はゆっくりであった。家を出て駆足で工事場迄行った。大変精が切れてつかれたが大丈夫であった。こまわりではない。上用なのでとてもだるっこい。休み休みがたのしみである。
午后から人夫がへったので忙がしい。
始め中、金井一郎君ともっこかつぎをしてゐると昼となった。それから川島宗吉君ともっこをかついだ。
石かつぎや砂利かつぎをした。今日は午后一時より学校に翼賛選挙に関する話*があったので選挙権を有する人は皆出席した。
明日は高尾山へ行くのである。
夜はもちつぎをした。   以上
[豫記]明日高尾山へ行く予定也
[欄外]こみねきんちゃん[暗号]
*翼賛選挙講演会。この日は七郷村でも開催された。

四月三日 金曜 晴
四時頃起きて見ると曇ってゐて雨が降りそうであった。
高尾山へ行く支度をした。金井亀吉君が来て呉れた。根岸の連中と一しょに明覚まで行って八高線にて浅川に向かった。おごせ、毛呂、はんのうと幾つかの駅を過ぎて八王子市に着いた。中央線に乗りかえて浅川迄行った。(一円十銭)高尾山の登道はとても急である。
大見晴からは富士さんが良く見えた。昼にならぬ中に下りて多摩御リョウに御参拝して来た。
八王子市で活動を見た。四十四銭。帰には(一円十銭)汽車がとてもこんだ。
四時八王子市発で明覚に着いたのが五時半頃であった。今夜は常会である。   以上

四月四日 土曜 晴
いかにも春らしい気候となって来た。父はまきいねの三名は遠山の水車へお客に行った。支度をして守平とまき引きをした。九時に鍬とツブテマワシを持って田に行った。
今日はとてもむし暑くてだるっこく仕事がはかどらない。父も帰って来て田に行った。
昼休みに玉川一ト市の中田屋*へ配給の布と家で織ったのを持って行って頼んで来て田に行った。
午后は風が少し吹き出したので涼しく仕事もしよくなって来た。
小麦のつぶてぶちをした。三番作も少し切った。
日光の没してから帰って来た。山岸良之助君より便りがあった。   以上
[受信]山岸良之助
*仕立て業。鹿山商店。

四月五日 日曜 半曇
根岸茂夫君が駆けて来た。あまり早くない。今日は人夫は大勢でない。四人石拾ひに行ったので親方増し十人である。根岸君ともっこかつぎをした。始めの中は日が出そうであった。風はないが西と東はほこりの立った様にはっきりしてゐない。
暑くなったり、急に涼しくなったりした。曇り勝ちの天気である。十時休みをした。少ししか休まない。
昼休みには畠の方へ行った。休み休みはたのしみである。午后は土手の上でもっこかつぎをした。
むし暑い。三時頃夕立が出た。大した事はない。帰には大風となった。風は夜になっても休まない。
祖父さんは根岸へ籠屋   以上
[発信]根岸良之助
[欄外]こみねきんちゃん[暗号]

四月六日 月曜 曇風
小峯の所の工事場へ行く支度をして出かけたら根岸貞次君が自転車で来た。一しょに行った。早かった。今日は国民学校生徒の入学式並びに始業式である。
工事の人数は不連である。
根岸君と石かつぎをした。親方も入学式に行ったので未だ来ない。十一時過ぎてから帰って来て小峯*の子供が遊びに来た。面白い。
昼休みに自転車で小峯の方へ遊びに行った。今日は曇ってゐて風があってぬくとくない。
八高線が汽笛をならして通る。三時休みをしたらもう日もなくなり始めた。
五時少し過ぎて終りとなった。根岸君と一しょに帰って来た。   以上
*鎌形の地名。
大日本婦人会埼玉県支部が結成される。

四月七日 火曜 晴
起きて観ると秩父連山は白く雲である。今日は良い天気になりそうである。自転車で小峯のうらを廻って行った。未だ早かった。少し休んでゐると親方が来た。
杉田次郎君ともっこかつぎをした。朝の中は日本晴の様に曇り気はなく春の朝らしい気候であった。風も少しあるので涼しい。
十時休みをした。少し経つと半ケイ寺*の鐘が鳴るし玉川のお寺の鐘もなる。十一時四〇分に昼食を始めた。昼休みに鎌形の学校の方へ行って見た。
一日中次郎さんと石かつぎや砂利かつぎなどした。三時休みをした。小峯の子守り子が河原へ遊びへ来た。高等一年のおきんちゃんと二年のおせいちゃんと二人が何時も遊びにくる。帰りは自転車でのして来た。   以上
*鎌形の班渓寺。

四月八日 水曜 晴
早く支度をして自転車で小峯を廻って工事場へ行った。一番早かった。小峯の方を歩き廻はった。
親方は今日は来ない。杉田次郎君と石運びや砂利かつぎをした。静かな良い日である。八日で大詔奉戴日である。まだ始めなので学校は半日であった。おきんちゃんとおせいちゃんが子守りをしながら河原へ遊びに来た。
半日で一人の石張り職は帰った。
四人は今日も石拾ひである。金井一郎、々々亀吉、長澤平七君などである。半分は木曽ぞの様へ行った。
親方は居ないので休み休みが長い。父は夜、根木にしいたけをついだ。
一日中マンガかつぎをした。   以上

四月九日 木曜 晴
支度をして自転車を出して乗って行った。人数は不連である*。杉田次郎君ともっこかつぎをした。石も大変少くなった。
十時休みに杉田君の迎へが来た。
杉田君は十二時迄して帰ってしまった。午后は川島宗吉君ともっこかつぎをした。
石も大変少く小さくなった。少し曇り始めた。昼休みも早かった。昼寝も少し出来た。
三時休み前親方も来た。三時休みをした。
三〇分休んだ。又もっこかつぎをした。かたがとてもゐたくなって来た。日のある中に終りとした。五時三〇分頃終はった。終る時分、おきんちゃんと二人が遊びに来た。夕方玉川の一ト市へ使に行って来た。   以上
*人数が少ないこと。

四月十日 金曜 曇小雨
昭和十七年度青年学校入学式
曇ってゐてつゆが多い。朝の中少しまき割りをした。始めの中はあまりに上手に出来なかった。
祖父さんは村田礼助方へ籠作くりに行ってゐる。八時頃父と麦田の二番作切りに行った。とてもつゆがある。足がびっしょりになった。
十時半に田から帰って来て玉川一ト市の中田屋へサルマタを持ちに行った*。二つで五〇銭であった。急いで支度をして自転車にて学校に向かった。菅谷の家へ自転車を預けて置いた。時計屋で文字盤とサックを買った。二円二拾銭であった。
一時少し過ぎて始めた。新任の先生の招會**があった。下田先生の話。吉田校長先生の訓辞を話した。
級長は又自分である。今日より本科二年である。身体検査をした。去年よりずっとのびた。雨が降り出した。   以上
[豫記]入学式 青年学校召集日
*受取に行った。
**紹介。吉田久平校長。竹間小太教頭。権田正雄訓導。

四月十一日 土曜 晴風
合祀祭慰霊祭
早く起きてまき割りをした。午前十時より菅谷の忠魂ヒの庭で合祀祭が行なわれるので各学年の級長副級長は参加するのである。支度をして昨日かりて来た雨ガッパをなして自転車で忠魂社の方へ行った。杉田君、関根君等がリヤカーで机運びをして居た。其の手伝ひをした。
十時少し過ぎて始めた。鎌形の国民学校児童も来た。遊びにくる子がゐた。
正午近くなって終った。自転車でのして帰って来た。父と守と三人で桑園に肥入れをして土をかけた。
大変はかどった。   以上

四月十二日 日曜 曇風
支度をして自転車で行った。早かった。
今日は日曜日である。夕べは電燈が消え切りであった。忍田政二君ともっこかつぎをした。下の方からかついだ。今日は石ばりは終るだらう。
夕方までもっこかつぎをした。
とても風が強くなった。早く終った。   以上

四月十三日 月曜 晴
支度をして行った。もう新ちゃんは来て居た。
親方は早くの中は来なかった。忍田君と目つぶしの砂利かつぎをした。
十時休みを始めたら親方が来た。休み頃迄はあまり暑くなかった。蝶々は桜の花に何匹となくさまよってゐる。何となく春らしくなった。
昼になるのが待ち遠をしい。明日は大蔵の春ギドウ*で青年団は敬老会を催ほす。
午后はとても暑くなって来た。半天**をぬいだ。もっこをかつぐとかたにあたる。
休みをしてから学校から来たおきんちゃんと二人が遊びに来た。小林右一君が休みに遊びに来た。顔、手、足等やけどしたのだそうだ。とてもかわいそうである。一昨年の大宮の事が思ひ出される。   以上
*春祈祷。五穀豊饒を祈る。
**半纏。

四月十四日 火曜 晴
今日は四月十四日で大蔵神社の祭典である。
青年団の入団式と敬老会とが會催*されるのである。支度をして使に行って来た。
七時少し過ぎて向かふの方へ行った。ラッパの練習をした。九時頃始めた。支部長殿の開会の辞があり永井さん**の訓話もあった。老人代表として金井末吉さんが挨拶をした。
十一時半に閉会となった。昼食して自転車に乗り遊びに出かけた。菅谷へ行き鎌形の工事場の方へ行った。おきんちゃんがゐた。
和田橋を渡って植木山に出て三人で地蔵様へお参りして植木山の木曽ぞの橋の所へ三人で出て来た。今日は祭典である。
一日楽しく遊んだ。とても良かった。   以上
[豫記]祭典 青年団ノ入団式及び敬老会也
*開催。
**永井諦善。向徳寺住職。

四月十五日 水曜 晴
青年学校校長青年学校教諭長島先生*の告別式
父は松山へ鍛練馬の事で出席した。自分は徒歩で工事場へ行った。一番早かった。風が少しあって寒い。
昨日の廻文によると今日は校長先生長島先生の告別式があるので出席する事になってゐる。
忍田政治君ともっこかつぎをした。下の方よりしばかつぎであった。野村英雄、金井春二の二君が今日より工事に出て来た。
半日忍田君ともっこかつぎをして帰って来た。皆は青年学校を欠席した。午后一時と言ったが、二時近くなって校庭に集合した。
校長先生はえらい元気でお別れをした。
まき割りをした。父は五時頃帰家した。祖父さんは家で籠作くりをした。   以上
[豫記]青年学校召集日
*長島統司。

四月十六日 木曜 曇雨
工事会計拾七円拾五銭也
今日は徒歩で工事場へ行った。もう中島の敏しやんは来てゐた。
其の中に方々から来て人数も集まった。又一人山下廣雄君が新しく来た。今日はこまわりである。
人数が多いので二組に分かれた。忍田君、中村、小林、小林、金井、植木山の廣ちゃんと自分七人一組となった。
忍田君ともっこかつぎをした。金井君とも時分替はってかついだ。早く終へそうである。
だが自分の方の組はあまり真面目にしない。十時休みを四〇分した。
午后目標を取ってしまった。三時頃終った。雨が少し降り出して来た。九日半日であった。
金井精一さん*方で会計をした。
拾七円拾五銭也   以上
*金井精一郎。せいちゃん。

四月十七日 金曜 晴
今日は工事を休んで家の仕事である。朝の中まきまるきをした。とても風が強い。
田麦の作切りに出かけた。風が身にしみて寒さを感じる。始め上の田の大麦の三番作を切った。早く終り小麦に移った。風が強いので麦が寝てゐて切りづらい。
日光も曇って居て日があたらないのでなほ寒い。一枚終る事に小休みをした。
早く昼に上がって来た。三〇早かった。
午后は母も出て行った。大田の切りかけを終はし、新田に移った。
国民学校児童は松山の松林座(しょうりんざ)へ映画を見に行った。早く帰って来て茶をけを持って来た。
夕方田麦の三番作は早く終わった。馬糧の大麦を刈りに行った。工事の連中が帰って来た。   以上
[受信]富岡丑三

四月十八日 土曜 晴
青年学校召集日である。支度をして村田君の家へ行った。学校に行く途中根岸君が一しょに行った。
まだ早かった。八時に本科二年を集合させた。指導員殿に敬礼をして少し教練をした。
今日は松山の松林座へ映画を見に行くので急いで集合して自転車と電車とに分かれて松山に向かった。
焼に祈る*は実に感泣の至りであった。約二時間午后一時十九分下りにて帰って来た。二時頃昼食をした。其れからは樫の枝はさみを始めた。
第五分団は北の方をした。とても早く終った。空襲警報が発令された。東京、川口は爆撃されたそうである**。 空襲警報
夕方馬糧の麦を切った。   以上
[豫記]青年学校召集日
[受信]潮田正二
*暁に祈る。一九四〇(昭和十五)年松竹製作の映画。佐々木康監督。田中絹代出演。
**米空母発進のノースアメリカンB25十六機、京浜・名古屋・神戸などを初空襲。

四月十九日 日曜 晴
支度をして徒歩で工事場へ行った。もう高倉*来てゐた。今日は日曜日である。
親方は来ない。十一人でこまわりを受取った。なんだか早く終えそうもない。
皆も一生懸命にしない。自分は金井一郎君とかついだ。十時休みをした。たんとはか取らない。
昼食して休んでゐると空襲警報が発令されてサイレンと半鐘が鳴り出した。
少しして中村君は警防団の方へ寸時の間行って来た。こまわりは四時半頃終はった。
家へ来て畑の堀っ返へしを少しして大麦を刈りに行って来た。   以上
[発信]潮田正二
*談:植木山の高倉熊さん。親方の次くらいの地位。
古里兵執神社春季例祭。

四月二十日 月曜 曇雨
空は曇ってゐる。工事の支度をして行った。一番早かった。空は増々曇天となり出した。
今日は上用でやるのである。野村英雄君ともっこをかついだ。今日も親方は見えない。十五人、人夫は来た。
十時休みをした。
昼近くなって雨が少し降り出した。昼食頃は大雨になった。
昼を喰って帰る事にした。自分と根岸君は少し遅く迄居て小降りとなってから帰り始めた。
菅谷の屋根屋が来始めで半日で帰ってしまった。午后湯かいこみをしたり藁すぐりもした。
雨はだんだんと降りだし夜も続いて降った。
明日は天気になればよい。
屋根屋二人半日   以上

四月二十一日 火曜 曇一時晴
朝の中は曇ってゐた。すぐにも雨が降って来そうである。
みのを持参して出て行った。今朝は中島街道を通って行った。堀ノ内の連中と一しょに行った。
幾人か休んだ者もゐる。野村英雄君ともっこつぎを始めた。今日も親方は見えない。
十時休みをした。空模様もだんだんと良くなり出した。まだ野村君ももっこかつぎになれない。
昼食が終ると根岸君が自転車で来た。一時間休んで始めた。
根岸君ともっこかつぎを始めた。前棒をかついだ。
野村君の時は後棒をした。皆が真面目にしない。午后は皆一生懸命となった。
夕方警戒警報が発令された。まき割りをした。食油の配給があった。八合   以上

四月二十二日 水曜 晴
自転車行軍四月二十四日
支度をして自転に大麦を一俵をつけてころがして行った。親方は早く来た。そして早く始めた。金井春二君ともっこかつぎをした。
半分に分かれて自分等は上の橋でした。
朝から良い天気である。
十時休みをした。今日から野村宇平君が出始めた。
一日中もっこかつぎをしては、かたがいたい。
今日は屋根屋が来た。一日
祖父さんは籠屋
屋根屋二人一日
[豫記]行軍 日時四月二十四日 ◎雨天の節は二十七日 午前六時出発。 群馬県館林陸軍飛行場。

四月二十三日 木曜 晴
支度をしてかますを持って行って水車に置き工事場へ行った。高倉が来た。
今日は人夫が大変来た。小峯の裏通りを廻って来た。根岸貞次君ともっこかつぎをした。
風が少しあり良い天気だ。今日は屋根屋が三人来た。大変はかどった。
今日は工事を終はしたのが早くなかった。
家へ来て自転車を掃除した。
明日は青年学校の行軍である。
行き先 群馬県館林陸軍飛行場 六時出発 予定也
屋根屋三人一日

四月二十四日 金曜 晴
屋根屋三人
四時半に起きた。今日は待ちに待った青年学校の行軍である。早く支度をして村田君の家へ行った。
学校へ行ってもまだ早かった。六時半に出発をした。熊谷に出て忍町を通りアスファルトの道をのして行った。荒川の大橋を渡ったのが始めてである。
利根川に行ったら橋は修繕中で渡し舟にて通った。これも始めてである。此の処で時間がかゝった。
風も弱く良い天気である。館林陸軍飛行場に着いたのは正后であった。
高野(こうの)さん*より色々の話や説明を聞かせてもらった。予想外に飛行機は小さいものであった。
練習機に乗って見た。ラッカサンの説明もあった。
帰りにはもっと上へ出て利根川の橋を渡り帰った。校庭に着いたのが午后七時であった。   以上
[豫記]青年学校行軍
*高野重吉。整備兵。菅谷出身。

四月二十五日 土曜 晴
屋根屋三人 合計十二人終り、 一日二円三〇銭
昨日の行軍もたんとつかれなかった。今日の仕事には差しつかいなさそうだ。自転車で玉川一ト市の中田屋へズボンを持ちに行った。(六〇銭)
さんのう前畠の麦の止め作切りをした。終って十時休みをした。今日も屋根屋が来た。
昼迄に前畠の大麦の止め作を終はした。
午后は小麦の止め作切りである。シャツ等の配給がありシャツとパンツがあたった。
一枚終って三時休みをした。今日は屋根屋も終はりそうである。
大蔵の高等科の児童は向徳寺へ行き少年常会の会開*を天長節にするのである。
靖国神社の臨時大祭にて天皇皇后両陛下は御行幸啓なされた。   以上
[豫記]靖国神社臨時大祭
[受信]富岡二三郎
*開会。一九四二(昭和十七)年度より向徳寺住職永井諦善の指導により毎日曜少年団常会が開催された。

四月二十六日 日曜 晴
支度をして自転車にて工事場に行った。宗ちゃんは朝から怒ってゐる。
根岸貞次君ともっこかつぎをした。田の中より土をしがらをかいた上にかけるのである。
今日は親方は見えない。皆が昨日のぶに増して一生懸命しない。
十時休みをした。其れからはとても暑い。
昼休みは長かった。一時間と半位休んだ。親方は来ないらしい。
三時休みをするとずっと涼しくなった。
今日は早く終まった。   以上

四月二十七日 月曜 晴
支度をして居ると根岸君が来た。自転車であった。
建設青年の本を持って行った。今日は不連である二名は上へしば切りに行ってしまった。
金井一郎君ともっこかつぎをした。鎌形学校は今日遠足であった。岩殿だそうである。
十時休みをした。今日は親方も来た。休みも短い。後棒をかついだ。
昼をした。根岸君と川嶋*は半日で帰った。
一日中土かつぎをした。歐文社より商品として鉛筆一ダース来た。
祖父さんは家で籠屋であった。   以上
[受信]歐文社
*川嶋宗平。そうやん。
大蔵榛名講新籐嘉助他二名代参。

四月二十八日 火曜
支度をして歩きで工事場に向かった。一番早かった。鉄びんに水を入れて置いた。
今日は忍田君も来た。合計六人である。
土かつぎである。入れ手をした。
親方は遅かった。
十時休みをした。お茶をわかしたりした。
昼食をした。天気が少し悪くなり雨が少し降り出した。
でも仕事を始めた。芝はり等である。
三時休み過ぎで雨は大部けいき良く降り出した。五時頃終はした。
びしょぬれとなった。   以上
[受信]大久保高則

四月二十九日 水曜 曇
昨日の雨も今朝は止んで居た。支度をして村田君の家へ行った。大澤、内田の二君と学校に向かった。
一時間早かった。今日は馬の鍛練であるので権田指導員*は来られなかった。
九時少し過ぎて式が始まった。校長先生の祝辞があった。十時頃終って青少年団の入団式が続いてあった。十八日の活動見に行った銭を集めたり大日本青年農業巻一を買ったりした。
ズック靴も買った。急いで家へ来て昼食して工事場へ行った。今日は皆が午后からである。
新ちゃんともっこかつぎをした。砂利かつぎである。こまわりして早く終はった。
遠山水車で床上げを持って来た。   以上
[豫記]召集日
*権田稔。

四月三十日 木曜 半曇
今日は根岸君が入営する*ので支度をしたが送らずにしまった。工事場へ行って目籠を編み始めた。今日は衆議員の選挙**である。
野村宗平君ともっこかつぎをした。十時休み迄して昼迄後棒をした。
親方は少しおそく来た。昼も早い様な気がした。午后根岸貞次君も来た。
工事も明日終はす予定なのである。土かつぎをした。運送も二台来た。
芝はりもした。根ぐしさしもあった。
帰りは早く来て自転車で植木山の方へ行ったら小峯小林の二人が居た。
明日は児童の遠足である。   以上
*根岸茂夫。海軍志願。
**第二十一回衆議院議員選挙投票日(翼賛選挙)。


冨岡寅吉日記 昭和17年5月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月21日 | 冨岡寅吉日記

五月一日 金曜 晴
工事会計
国民学校児童の遠足である。守平は早く支度をして自転車へ籠をつけて置いた。
鎌形の長島一郎方へ籠を二つ持って行った。
今日は工事も終え仕事である。早く始めた。
野村宇平君ともっこかつぎをした。土運こびである。
四棒立ち三棒にへらして外の者は根ぐしさしをした。十時休みをした。
昼休みも短い。皆がどしどしした。
日光もあたらないので暑くない。
三時休みをしてから小屋をぼっこうしてしまった。
早く終りそうもない。
根ぐしをさした。   以上
[豫記] [不明]
七郷村更生記念日。

五月二日 土曜 晴
田中(たなか)藤坂の護岸工事仕事始め
今日から田中の藤坂へ工事が始まるのである。支度をして県道に出ると安ちゃんが来た。
新ちゃん家へ寄って道具を自転車つけて田中へ向かった。忍田君、金井君、野村君等とのして行った。
割合に早く行き着いた。其の中に親方も来て休んでから始めた。底こうをこわしてゐる中に牛が小屋の材料を持って来た。今日は日傘である。
材料を運んだ。石かつぎもした。今日は半日で帰って来て学校へ行った。第一時服部先生、二時間続けた。三時権田先生去年の復習である。
四時下田先生郷土読本を始めからした。とても良い文章である。
家へ来たのは六時近かった。一ト市の中田屋へ行き訓練服へ精勤賞の印をつけてもらった。
[豫記]召集日 学科召集日 忘れるな。

五月三日 日曜 雨曇
工事に行く支度をしてゐると安ちゃんと金井君が来た。祖父さんは朝作くりに植木山へ行って来た。一ト市の中田屋へコハデ*を置いて行った。
明覚村へは入ると雨が降り始めた。ガードの所まで行くと大雨となり家へ帰り出した。
大蔵へ来て親方に会った。雨も小降りとなったので又出だして行った。水筒を玉川一ト市の家へ頼んで置いた。今日はゆっくりと始めた。親方増五人である。
十時近くなって始めた。スッコではねた。午后は敏しやんともっこかつぎをした。小雨である。
夕方になって少し良くなった。普通位に終まって来た。
今日は肥料配合であり配給があった。   以上
祖父さんは毎日家で籠作くり。
[豫記]肥料配給 石灰窒素 一袋六貫匁 トーマス**二貫匁 完全約二十七貫匁
*こはぜ。足袋のつめ。
**トーマス燐肥。

五月四日 月曜 半晴
支度をして待ってゐると金井一郎君が見えた。天気は曇ってゐて一日持ちそうもない。箕野を持って行った。二人が一番早かった。すぐ親方も来て少し休んで始めた。
昨日より一人多い。金井君ともっこかつぎをした。
十時休み迄後棒をした。
昼迄前棒をした。なから十二時に昼食した。
水車の小母さんが茶をけを持って来て呉れた。
三時休みをして親方は帰ってしまった。
五時少し過ぎて終はりとした。
少し草刈りをした。   以上
[豫記]少年易老学難成一寸光陰不可軽

五月五日 火曜 晴
今朝は一人で自転車で行った。一番早かった。
其の中に根岸君と金井君とが来た。全部で七人である。二人でかつぐのを入れ手をした。
十時休みをした。良い天気である。半日で帰って来て農士学校金鶏(学院)神社の祭典なので見に行った。国民学校児童の角力もあり生徒の角力、勇士の武道等が会催*された。児童角力、川南、北に分かれて優勝旗の取りっこがあり南十一点、北十点で南の優勝となった。
早く帰って来て自転車で使に行って来た。
夕暮早く支度をして二本木座の劇を見に行った。忍田君と相った**。江戸屋虎五郎と題目は忘れたが二番劇は実に感心した。明晩に続くである。小峯と小林さんが居た。   以上
[豫記]未覚池塘春草夢階前梧葉己秋聲*** 終  優勝
*開催。
**会った。
***池塘春草夢。「少年易老学難成、一寸光陰不可軽、未覚池塘春草夢、階前梧葉己秋聲」(朱熹・偶成詩)

五月六日 水曜 晴
県道に出ると向かうから根岸君が来て一っしょに行った。親方*も清水も早く来た。七時半には始めた。朝は早く起きられない。
根岸君ともっこかつぎをした。前棒をした。昨日と人数は同じである。
十時休みをした。朝の中空襲警報が発令された。サイレンが鳴りひゞいた。
午后には金井君ともっこかつぎで後棒をした。
親方も一しょにした。
三時休み。
一日終る頃になって小雨が降り出した。
祖父さんは根岸へ。
*中島與一。

五月七日 木曜 雨
起きた時小雨が降ってゐた。工事の支度はしないで朝食してから藁すぐりをしてゐた。
金井一郎君が来たので急いで支度をして行った。雨も小降りとなった。番匠のガードの近くへ行ったら大雨となり大変ぬれた。
原場*の近く迄行った時も大雨であった。二人切りであった。親方も来たが仕事はしないで帰って来た。十時少し過ぎてゐた。
しまだ作くりを始めた。ねずみ取りの網の中に大きな奴がは入ってゐた。
しまだも一つ出来上がり二つ目を始めて置いてはがきを出しに行った。
昼休みに肥料の配給、魚類の配給があった。
祖父さんは根岸へ
[豫記]肥料配給 完全 反当 一貫百匁
*現場。

五月八日 金曜 小雨
今日も雨である。何もしないでゐた。つまらないので笛を作くったが良く鳴らない。
九時半頃魚、菓子の配給も持ちに行った。新藤武治方の魚も頼のまれた。魚十人で壹円拾七銭であった。もう昼に間近かくなった。
今日は大蔵は米無しデーである。夕べ言つぎが来た。お釈か様である。
昼食してから又笛作くりに取りかゝった。其の間に魚釣りに行って二匹釣った。
今度の笛は良く鳴る。学校生徒も帰って来た。
鎌形の子供が遊びに来た。
父は馬の運動に出た。自転車で遊んで廻はった。
明日は第七回召集日

五月九日 土曜 晴
四時半に起きて父と草刈りに行った。まだほきてはゐないが少しはあった。成澤君も来た。
早く出来て急いで家へ来て朝食をした。今日は青年学校の召集日である。村田君と行った。
少し早かった。朝礼を終はして基本体操をした。一年と同じ事をした。挙手の礼等をした。
ラッパ吹きに希望して見た。練習の時にはちっとも鳴らなかった。
午后学科で一時戸口先生、二時栗原先生*、去年の復習である。「富岡豊三郎さん**が帰還した。」
三時間目から実習で、西沢、武井、大野、鯨井、自分の五名は陸苗代作くりであった。美濃モチを一畝ばかりの所に播いた。外の者は開墾である。
夕方あまり早くなく家へ帰った。   以上
[豫記]召集日 学科 実習
*栗原喜一。一九四一(昭和十六)年三月~。
**金井豊作。一九三八(昭和十三)年十二月輜重兵第一聯隊現役入営。

五月十日 日曜 晴
待ってゐると安ちゃん*が来た。金井一郎君と三人で植木山を通りこすと別所**へ行く連中と一しょになり田中迄行った。五人切りであった。仕事を始めてゐると清水が来た。少し経って親方も来た。
金井君ともっこかつぎをした。前棒であった。
十時休みで親方は帰ってしまった。でも一生懸命にした。
昼休みには昼寝をして良くねむった。
午后も同じ仕事である。暑くなって来た。
シャツ一枚でも涼しくない。
夕方の終まひは少し早目にした。
田へ堆肥を一車持って行った。   以上
祖父さんは藤縄方へ
*野口安一。
**明覚村の地名。田中より都畿川の上流。

五月十一日 月曜 晴
今朝は野村君も見えた。四人で番匠迄行った時、忍田君が向かうから来た。
清水は早く来た。親方は来そうもない。
もっこかつぎの入れ手をした。十時休みで交替してかついだ。昼まで金井君が入れ手をした。
野村君とかついだ。金井君ともかついだ。
三時休みをしてから鉄線籠の中へ石をつめた。
昨日と同じ位にしまった。
祖父さんは家で籠作くり。   以上

五月十二日 火曜 半晴
今朝も安ちゃんが来た。四人で行った。もう二人は来て居た。親方は来ない。清水も気持が悪ひそうである。
忍田君ともっこかつぎをした。石かつぎである。籠に石を入れるのである。
十時休みをした。良く晴れてゐない。空模様はとても悪い。
午休みの時親方は来た。
祖父さんは家で籠作くりである。天気は良くない。
三時休みをして始めると雨が降り出した。清水は帰った。五時前自分も帰って来て支度をとり替えて学校へ行った。そしてラッパを少し吹いた。良く鳴って来た。
しばいはない   以上

五月十三日 水曜 晴
根岸君と安ちゃんが来た。金井君と野村君は来なかった。先へ出かけた。
誰も居なかった。杉田次郎君も今日から始めて上の帳場へ行った。
鉄線籠へ入つめ*である。清水さんが一番上手だ。始めの中はうまく行かない。
祖父さんは家で籠屋である。
親方は十時休みに来た。石つめの手許**をした。つめて見た。良くゆかない。
昼食をした。
午后も同じ事である。終まひは普通にしまって自転車でのして来た。
二十分位で来てしまった。今夜は劇はだめである。   以上
*石を詰める。
**石つめが次に使う石を出してやる仕事。

五月十四日 木曜 半晴
朝早く起きて馬の湯を湧かしたり色々した。
支度をしてゐると根岸君が来た。安ちゃんも来た。金井一郎君が見えたので出かけた。昨日より十五分ばかり遅かった。親方も清水さんも遅くきた。
杉田次郎君と石かつぎをした。朝の中は天気が悪い。十時休みの時に田黒の石ばり職が来た。
砂利かつぎもした。午前中
午后は石かつぎである。午休も一時間であった。
野村君は行かなかった。
三時休みをした。
夕方は昨日と同じに終まった。三〇分かゝらないで家へ来てしまった。
菅谷へ使に行って来たが用事はたらなかった。   以上

五月十五日 金曜 晴
牛方をするので早く支度をして行った。
林(りん)ちゃん*家へ行き車に油を呉れて牛を引き出して車をかけて工事場へ向かった。途中前車(ぜんしゃ)の右がはづれてしまった。石をつけて行った**。
親方の来るのはゆっくりであった。十時休み迄に七車ばかし引いた。
昼迄に四車往復した。休みに草刈りをした。二束まるった。良い天気である。
三時休み迄に大変引いた。それからはゑんりょして牛を引いた。ゆっくりである。
牛もつかれが出て来た。別所***へ行った牛は帰って来た。友達が来たものだから自分の牛も帰りたがった。これには困った。
明日は第八回召集日 教練 学科
*談:明覚村番匠の宮田さん。親方。
**石を積んで行った。
***明覚村の地名。

五月十六日 土曜 晴
召集日である。早く支度をして学校へ向かった。途中根岸貞次君と一しょに行った。早かった。ラッパの練習を少しした。上手に吹けない。
八時に集合した。本科二年は密集教練、行進間のヲリシキをした。一時間毎に休む。
昼少し前に村田指導員殿よりラッパの練習を受けた。正午には解散した。
菅谷の郵便局へ貯金を積みに行って来た。
午后二時より青年団員で開墾である。唐鍬を持って行ったが使道が少なかった。
新藤岩二君ともっこにないをした。とてもきれいに出来た。
家へ来たのは七時であった。   以上
[豫記]第二回実習作業 教練召集日 午后実習

五月十七日 日曜 曇
帰還軍人の三十三社参り
野村貴佑*、齋藤國平**、富岡豊作***、三名の礼参りである。六時半に神社に集合するのである。
自分達の組は村田福次さんを頭に外十名で北の方向に行くのである。先づ上唐子の氷川様へ、菅谷、千手堂。今日は馬の鍛練で菅谷神社の廻りの山に馬が居た。平沢へ行く道は悪い。志賀、杉山、広野、太郎丸。時間はまだ九時頃である。雨が降り出した。大した事はない。川島の鬼鎮神社へより月輪へ向かった。山道ばかりであった。終ったのは十時少し前であった。家へ来たが昨日の踏ざき****がゐたくて仕事にならぬ。父は守と肥ひきをした。
昼休みに寝て起きた。   以上
*四月三十日帰郷。一九三八(昭和十三)年十二月十日野砲兵第一聯隊現役。
**五月五日召集解除。一九三九(昭和十四)年九月一日近衛歩兵第一聯隊現役。
***五月十日帰還。一九三八(昭和十三)年十二月十日輜重兵第一聯隊現役。
****篠の切株を踏み抜くこと。

五月十八日 月曜 晴
今日も足がいたくて工事は駄目である。祖父さんにもろこし箒*の作くり方を教すわった。とてもかんたんである。祖父さんは三本作くり籠作くりに移った。
空は晴れてゐる。父は物置きより木の葉出しをしてゐる。
昼迄に七本作くった。午后壹本作くり合計(三、七、一)十一本出来た。其の中六本は呉れた。
祖父さんは菅谷の家へ使に行った。自分は自転車を借りて唐子の大高栄助さん家へ兎を売りに行った。五匹持って行ったが五円八十銭にしかならなかった。
木の葉出しの手伝ひをした。
夕方迄に全部出し終はり夜食してラッパ吹きの練習に行った。まだ良く吹ける様にならない。   以上
*もろこしの実をこき落とし、穂先を揃え、茎を束ねた手製箒。

五月十九日 火曜 雨
雨降りである。父は二籠草を刈った。朝食して祖父さんの手伝ひをした。否、籠屋の練習である。蚕籠のふちまきである。始めの中はうまく行かぬ。でも良くまける。
雨は止まずに降り続いてゐる。石屋の臣(たみ)さん*方のを三尺四尺拾枚。村田清治さんちのを十五枚まいた。これは二、五尺五尺である。
一日で巻き終はった。学校生徒も早く帰って来た。
今日位のふち巻きではまだまだ満足出来ぬ。
父はしまだ織りをした。   以上
*野口臣吉。

五月二十日 水曜 雨
今日も雨降りである。父は苗代見に行った。自分は藁すぐりを始めた。四くびりすぐってしまだ織りを始めた。
幾何も織れる。祖父さんは石屋の家の砂利箕を作くった。
休んだり何かをした。
昼食して父は松山へ指導員の出当金をもらひに行った。午后二時からである。
しまだ織りをしたり桑切りの手伝ひをした。学校へ遊びに行った。ラッパを少し吹いた。
帰って来てタバコ屋へ縄持ちに行った。三束である。
今夜も学校へ行くのである。   以上

五月二十一日 木曜 半晴
支度をして県道に行くと工事の連中が来た。今日は天気になりそうである。
もう親方は居た。将軍沢から利一(りいち)さん*が出た。
野村宇平君ともっこかつぎをした。砂利である。石かつぎもした。十時休みから石つめの石をかついだ。ゆっくりとした。牛車が二台で石運搬をした。利一さんはつめ手をした。上手である。
昼食も十二時であった。いつもよりおそい。
上天気にならづに曇り出してしまった。今朝方はとても涼しかったせいか昼間も涼しい。
三時休みをしてから雨が降りだしたが大した事はない。六時三十五分より農林技師黒川計氏の放送で「今年の肥料と甘藷の施肥**」についた事を筆記した。良くわからなかった。   以上
*金子利一。石つめ職人。
**午後六時三十五分から七時までの「農家の時間」。

五月二十二日 金曜 晴
田中の工事も終りに近づいて来た。今度の会計は二回目である。
石ばり屋も来た。手ぐりで石入れをした。
朝の中は良い天候である。祖父さんは籠屋に行った。山下仁三郎方へ
蚕のエン台出しである。
一日中手ぐりで石入れをした。
夜ラッパ練習に行ったが下田先生は来なかった。小澤君、岩澤君、吉野君等が来た。また上達しない。   以上

五月二十三日 土曜 晴
召集日なので支度をして行った。
まだ早かった。吉野大尉殿*が見えた。立派である。
校長先生が勅語を奉読した。昨日は御しんゑつ記念であった。吉野大尉殿の話もあった。
朝から注意された。
身体検査で身長と体重を見た。
今日から一週間ラッパをかりるのである。
時計をなをしたりバンドを取り替えた。
作入れの手伝ひをした。陸稲、ゴマ、木綿、落花生を播いた。   以上
[豫記]召集日
*吉野巌大尉。鎌形出身。

五月二十四日 日曜 晴
馬に呉れる湯を湧かした。ラッパをいぢくったりした。今日は工事に行った。石つめである。手ぐりで石いぢくりをした。
籠の中へつめた。
上の帳場から四人来た。
とてもはかどった。牛車は今日一台であった。
日傘であった。
夜ラッパ練習。   以上

五月二十五日 月曜 半晴
親方と一しょに行った。夕べはラッパを吹いた。まだ良く出来ぬ。
元吉(もときち)さんも来た。手ぐりで石入れをした。
石つめの手もともした。
今日つめ終す予定らしい。
今日は人数が増した。どしどしした。
夕方は昨日よりおそかった。祖父さんは家で籠屋をした。シャツを持って来た。
蚕も忙しくなった。   以上

五月二十六日 火曜 半晴
ラッパを吹いてゐると金井一郎君が来て三人で原場へ向かった。足の人は来てゐた。光ちゃんは魚釣りをしてゐた。忍田君ともっこかつぎをした。ノリに砂利を運こんだ。
今朝はとてもむし暑い。
体がだるっこく仕事に身しみない。
十時休みをした時、親方は来た。鉄線籠のはなへ石をかついだ。
昼食して一匹魚を取った。
三時休みには四匹取った。工事も今日で千秋落*らしい。
小屋を片づけて終りとなった。会計はもらわないで来た。
明日から家で一生懸命張切らふ。   以上
*千秋楽。

五月二十七日 水曜 晴
工事終 会計十一円
早く起きてラッパを少し吹いて草刈りに行った。唐子河原で刈った。大澤、内田君等も来た。
早く刈り終って家へ来た。田へ堆肥運こびである。
朝の中はとてもむし暑い。汗がどんどん出る。大田へ四車ばかり引いた。休んで新田の方へ移った。
六畝、三畝、七畝へと運こんだ。親方が会計を持って来て呉れた。籠を買って行った。まだ註文の品もある。草刈籠とかつぎ籠である。
昼休みに湯かいこみをした。いやに暑い。
夕方になって風が出て来て涼しくなった。
今日は国民学校児童の体育デーである。
大麦が大変うくしよけた*。   以上
*うっくしょける。折れる。

五月二十八日 木曜 晴
今朝もラッパを吹いて根岸の向かふ河原へ草刈りに行った。早く出来て朝食って遠山水車へ行く支度をした。自転車でのして行った。
せきの上からまきしょいである。日があたって暑い。始めの中はまきまるきをした。
それからしょった。多ノちゃんも助けて呉れた。早く終りそうである。
昼食して休んで始めた。午后はとてもだるっこい。三時休み迄に終はってまき割りをした。
道具が悪いかうでが悪いか良く割れない。
夜食して麺を持って自転車でのして来た。   以上

五月二十九日 金曜 晴
朝の中は涼しかった。草刈行き。
遠山水車行き。まき割り。晴天。ラッパ練習   以上

五月三十日 土曜 晴
朝起きるのがおっくうである。杉山の下の方へ草刈りに行った。祖父さんも出て同じ方向に行った。祖父さんに少しすけてもらって早く帰って来られた。
朝の中は涼しかったが好天気になりそうだ。蚕も庭休(にわやす)み*に昨日起きてだんだんと忙しくなり出した。マサ切(か)りをといだ。其の前に粉臼**の具合いの悪いのを見る手伝ひをした。
まき割りも手が痛い。裸でどしどし割った。昼休みに竹をもらって切った。四寸の竹一本切った。午后から助とう(***)が一人来て早く割り切れそうである。正三さんは馬で枝つけをした。
三時休みをした。五時頃になってしまった。
屋根屋の後しまつをする手伝ひをした。   以上
[豫記]遠山水車行き
*四眠のこと。
**挽き臼。
***助っ人。

五月三十一日 日曜 曇
遠山水車行き
新聞配達なので早く起きたが将軍沢の者が来ない。一時間余りも待って行た。鯨井重吉君である。自転車がパンクして遅くなってしまった。ゆっくりと新聞を配ばった。父と守平と祖父さんは草刈りに行った。 
今日も遠山水車行きである。曇ってゐる。正三さんと屋根屋の後片づけをして坂の下へまき割りに行った。かだぎの木なので割りづらい。
でも大変割れた。昼食は水車迄帰って喰った。午后も同じ事。
屋根屋の後片付。
籠を持って行った。   以上


冨岡寅吉日記 昭和17年6月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月20日 | 冨岡寅吉日記

六月一日 月曜 曇
遠山水車行き
祖父さんと杉山の向かふ河原*へ草刈りに行った。草も大変なくなった。一籠刈るのも時間がかゝる。
水車へ行くので急いで支度をして自転車でかますをつけて行った。岡本正三氏は居た。
坂の下でまき割りである。始めの中少し蚕の裏取りの手伝ひをした。
今日はまきわりも終りそうである。
十時休みにはお茶を入れなかった。大変割れた。昼休みに岩倉則実**の本を見た。
午后雨が少し降って騒がされた。
まき割りも早く終って風呂を水車より運んだ。予想外に軽い。
ほたるを一匹取った。   以上
*現冨岡進一宅前の河原。
**岩倉具視。

六月二日 火曜 晴
遠山水車行き
祖父さんと草刈りに出かけた。ひどい大風である。刈る草が皆飛んでしまったりしなびたりしてしまふ。
今日も遠山水車行きである。坂の下で昨日の後片づけである。桑木枯っこを割ったり棒切れを割った。
午前中は其の仕事に取り懸ってゐた。
みっちゃんにもっちゃん*は車へ麦刈りに行った。大麦である。午休みをして前の畠のけづりこみをした。陽はとても暑い。おつねさん**も来た。桑の中はやりにくい。
終ったので休んで外の畠へ行った。すぐ召集が来て車へ廻わされた。麦刈りである。四作しか刈らなかった。
終しまいにして蛍を数匹取って自転車へつるって来た。会計をもらった。   以上
*兼子みつともと。
**兼子正三郎妻。

六月三日 水曜 晴
天ずいの方へ草刈りに行った。草も少くなった。
祖父さんに助けてもらった。帰って来て桑切りに行った。父が手の指を鎌で切った。
二車切って甘藷苗を切って植ゑた。守平も手伝ひをした。
桑園のけづりこみをして休んだ。
午后も同じ事をした。
一日より向徳寺で保育が始まり今日等も子供は遊びに行った。
午頃より猫がゐなくなり夜になっても帰ってこない。
明日は金井元吉(もときち)君*の出征である。
午前五時半頃神社集合   以上
*金井浅次。金井仲次郎の兄。もっちゃん。千葉県津田沼町石井部隊応召。

六月四日 木曜 雨
金井元吉君の出征なので五時前に起きた。
顔を洗ふとじきに雨が降り出した。急いで桑切りの手伝ひをした。
一時間ばかり手伝ふとラッパが鳴った。神社へ行ったが幾人もゐない。おいおいと集合した。
雨も大部降って来た。区民代表、青年団員代表の祝辞があり、金井君が挨拶をした。
停車場迄行った。金井仲次君*も見えた。
帰って来て桑こしらゑをした。
一日中雨か降り続いた。蚕も大きくなった。
桑呉れをした。   以上
*金井仲次郎。兄の出征なので立川から帰郷した。

六月五日 金曜 晴
麦刈り始める。
月田橋の北方で草刈りをした。ほきてゐたので早く出来た。
苗代へ水見に行って来て前の畠へ桑切に行った。
三車ばかり切って運んだ。終ってから山王前の畠の大麦刈りに行った。露があるので刈り良いが寝てゐる所があるので上手(うま)くない。
午后も麦刈りで父と守と三人でした。三時休み頃終はった。玉川の一ト市へ使に行ったが用の品は出来てゐなかった。
祖父さんの割った竹であじろを組む*のも練習した。
夕方も桑切りに行った。夜はとても良い天気である。星は良く出た。   以上
*網代編み。同幅のヒゴを隙間なく斜めまたは縦、横に組む編み方でヒゴの組み方によって色々な図柄が編み出せる。

六月六日 土曜 半晴
作入れ 小豆、大豆、等
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。大部少くなった。夕べの模様は良かったが今日は曇天である。
露のある中あじろ組みをした。父や祖父は桑切りに行った。
九時頃より西原へ作く入れに行った。石灰原石粉(げんせきこ)を作の間へまいた。終ってからまね引き*をした。上手行かぬ。小豆と大豆播きである。
終って丁度昼である。午后も作入れであるが自分はあじろ組みをした。
暑いので背戸の日影で仕事をした。
竹がたりなくなり祖父さんに割ってもらって組んで出来上がった。風呂場の塀とした。
桑こしらへもした。蚕の成熟したのが見えだした。   以上
*鍬で種子をまくためにうすくすじを引く。

六月七日 日曜 曇午后雨
今日も曇天である。草刈りに行かないで蚕の桑呉れをした。終ってから朝めしで柴田藤五郎方へ蚕の上蔟の手伝ひに行った。
良くひきってゐて大きな虫であった。まぶし作くりである。曇ってゐて天気になりそうもない。
半日で家へ来た。家の蚕もひきり出した。
菅谷の駅前の叔母さんが来て手伝ひをして呉れた。
其の中に雨が降り出してしまった。
叔母さんは四時頃帰った。だいたいひきりは拾い切り、桑こしらへをして蚕に桑を施こした。
午后は雨が降り続いた。   以上
[豫記]蚕の上蔟始まる。

六月八日 月曜 晴
今日も蚕の上蔟である。
 雨降りである。祖父さんと父は草刈りに行った。自分は桑こしらえの手伝ひをした。桑呉れもした。其の中に雨も止んだ。今日も蚕の上蔟である。朝から座敷を片ぱじ拾いをした。
しまだや作くりをした。
午前中に大変拾いた。
午后少ししてゐると柴田きぬさんが昨日の仕事返へしに来て呉れた。
どしどしと拾いた。しまだやも忙がしい。
天気はとても良い天気となった。むしろも良くひる。
ひきりだけは皆拾いた。
まだ三えん台ばかりのこってゐる。   以上

六月九日 火曜 晴
蚕の上蔟半日
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。少しはほきてゐた。今日も少し蚕が上がった。柴田きぬさんが半日手伝ひに来て呉れた。
休み頃迄に終はった。
父と蚕砂*出しをした。山王前の畠へ持って行った。
午后一車で止めた。父は松山へ指導員の事について行った。
大麦の刈ったのを上げ始めたら雨が降り出し忙がしくあげた。
夕方馬小屋の肥出しをした。
下はひどい。   以上
*蚕沙。

六月十日 水曜 晴
時の紀念日
今朝も祖父さんと耕地へ草刈りに行った。とてもほきて居た。
前畠の大麦刈りである。倒れてゐるので刈りづらい。
朝から良い天気で気持ちがよい。
蚕も今日ですっかり片づいた。
桑も十貫位しか余らない。午休みに一ト市の中田屋へ腹がけと腕抜きを持ちに行った。今日は出来てゐた。一円九〇銭であった。
前畠の麦刈りが終るか終らぬ中に夕立が鳴り急いだので忙がしかったが雨と一しょに終った。
にはか雨と大風が少しの間ひどかった。
今夜も農家の時間のラヂヲ放送を聞きに行くのである*。村田指導員の家   以上
[受信]斉藤三郎
*午後八時から九時の番組。浪速節・次郎長伝「仁吉と長吉」広沢虎造、△農家の時間①「共に励む力」田宮猪吉、②「甘藷、馬鈴薯の虫害とその防除」農林技師上遠章。

六月十一日 木曜 晴
今日は新しい鎌を持って行ったがあまり良く切れぬ。日の高くなる迄刈ってゐた。
田麦刈りである。伝次郎さん家の田は刈りづらい。モチ田は刈り良かった。
少し風があって涼しく麦刈りには丁度よい。
昼休みに頭をしてもらった。
田麦も大麦だけは刈り終はった。一車運んだ。
五時過ぎて前畠の麦を背負で背負った。
田 全部終った。   以上
「五明の老人*死す。」
*筆者の祖母の姉。

六月十二日 金曜 晴
寝てゐる中に運造さんが来た。喜作さんが死にそうである。祖父さんはすぐ行った。父は玉川一ト市へ畑中さん*をむかいに行った。
自分は普通に起きて草刈りへ行った。とてもほきてゐる所があった。
ゐん居の家へ繭かきに行った。十時頃迄かいて終はった。方々から手伝ひが来た。
父と田麦上げをした。昼前一車運んだ。
午后三車二拾束づつ積んだ。
夕方早く終り上唐子へ兎を売りに行った帰りにに理髪をして来た。   以上
「朝一時頃富岡喜作さん**死す」
*玉川村玉川の医師畑中彦三。
**一八九五(明治二十七)年九月生まれ。

六月十三日 土曜 晴
少し寝過ぎてしまった。召集日である。午前四時開始だが時間がきてしまった。
でも間に合った。竹と甘藷苗を持って自転車で行った。
朝早起きをしたので気持が良い。草刈りの方がよいかも知れぬ。
七時迄に終はす予定だが半になってしまった。菓子の配給を受けて来た。一人前貳拾銭。
まきは一時間で暇をもらって来た。
今日は富岡喜作さんの御葬式である。祖母さんは五明の葬式へ行った。
下肥のかゑ出し等した。   以上
[豫記]特別召集日

六月十四日 日曜 小雨・曇
入梅となったので雨である。父と大崖のこっち河原で草を刈った。大変少くなった。雨は降ってゐる。
今日は繭かきである。繭は大きくもないが小さ過ぎもしない。玉繭と中繭はとても多い。どしどしとかいた。昼前の中に七貫〆ばかり抜いた。
雨も降ったり止んだりである。でも曇り切りでゐた。
一日に十八貫引抜いた。
夕方富岡作次さんが帰途中一寸と寄った。
ラッパ練習は未だしないが今夜から始める。   以上
[豫記]繭かき

六月十五日 月曜 晴
今日も繭かきである。隆次は熱があるの為学校を休んだ。
今朝は耕地で草を刈った。ほきてゐる所もあった。柴田藤五郎方よりあきちゃんとまんちゃんの二名が繭かきに来て呉れた。半晴と言った天候で雨もちらついた。午前中は雨も見えた。
午后父は馬糧の配給を持ちに行った。
一時間位かゝった。それで柴田藤五郎方の田かきに行った。
今日は繭もかき終りそうだ。
物置きの二階から籠を下ろした。   以上
[豫記]繭かき 柴田藤五郎方より二名手伝 一日 午后父と馬は柴田藤五郎方へ

六月十六日 火曜 晴
繭の毛羽取り
夕べ風があったので今朝は草が刈りづらい。
朝食して繭の毛羽取りに取り懸かった。
昨日はとても良い天気である。繭からうぢが出てゐるものもある。
昼休みに田のぶんづうを取って来た。
午后は少し気持ちが悪るくなってきて仕事がゆるむ。
三時休みをしてから休んで床に寝てしまった。
夕食も喰べずに朝まで通した。
明日は繭の出荷である。予定目標約参拾五貫である。   以上

六月十七日 水曜 晴
気持ちが悪い為おそくなってから起きた。今日は国民学校児童の害虫駆除である。
父と母は繭の出荷へ行った。三十六貫九百匁渡して二百二十一円もらって来た。
繭の出荷 参拾六貫九百匁 一貫匁に付き六円先渡し
先払総額 貳百貳拾壹円也

六月十八日 木曜 曇小雨
父は草刈りに行った。午后発動機で麦こきをしない。
父は松山へ教練の方の配給の服を持ちに行った。早く帰ってきた。カッパ抜きや麦刈りである。
今日も身体が少し不良である。
まきも一時間で暇をもらってきた。
喜作さんの一ト七日(ひとなのか*)である。祖母さんはお墓参りに行った。
 自分はお寺へ保育の粉**と申込み書を持って行った。
 四時頃より雨が降り出した。   以上
[豫記]むし暑い。
*初七日。
**小麦粉。

六月十九日 金曜 曇
祖父さんも草刈りへ行った。
今日は大麦の脱穀である。
約三時間半で終った。
柴田藤五郎方より二名
富岡理昌方より三名、健ちゃんも来た。
午后理昌方の麦の脱穀、三時間二〇分。
十七時頃家へ来た。
西の山へ大麦からを運んだ。   以上
[豫記]大麦の脱穀

六月二十日 土曜 曇
麦刈り
今朝も草刈りには行かない。昨日の夕方の模様では夕やけで青空であったが、今朝は薄曇りである。西原へ麦刈りに行った。大豆、小豆がひょろひょろと長くなってゐる。
昼迄に運び終った。昼休み仕事に祖父さんは田植えの酒の配給を受けに行った。
午后三人で前の方の畠へ行った。瓜が少し変な色になった。
落花生は不良好で生えてゐない。(十分の七)
今日は大変刈れた。ラッパ吹き。子供常会向徳寺にて   以上

六月二十一日 日曜 半晴
新聞配達だ。早く起きたが置く所にない。一時間位経って福島達三君が来た。今日は報知、一。日日、九。朝日、二十二部。である。
わり合に早く配り終はった。大麦を干物に出した。五拾数枚ほした。(八俵目定)
昨日刈りかけた畠の小麦刈りをした。とても刈り良い。十時頃終はった。
本陣畠へ移った。これも刈りよい。麦も普通の成績である。
午后三車。上り荷一車。今日は計五車。約百束。
夕方祖父さんは一ト市へ繭の乾燥を持ちに行った。大麦を俵へ入れるので唐箕であふった。八俵と少しである。   以上

六月二十二日 月曜 曇・小雨
草がほきてゐたので早く一籠刈れた。父と一しょに帰ってきた。
田の小麦刈りを始めて少し刈った時、雨が降ってきた。麦が少し若いので一車だけ刈って帰ってきてしまった。
西原の豆類のカッパ抜きに行った。とても抜きよい。
前の甘藷の切かけをした。少しして昼となった。昼休みに松山へ使に行った。「電池」を買ってきた。一円五〇銭。祖父さんの薬を買った。五〇銭。雨が少し降りだした。内田政治君*と一しょになった。上唐子迄話乍ら来た。
夕方雨となった。   以上
*同学年。ヂーゼル株式会社勤務。

六月二十三日 火曜 半曇
昨日の近所で草を刈った。早く帰ってこられた。昨日の甘藷畠の切かけをした。
草むしりをした。続いて桑園の堀返えしをした。土がやわらかくて仕事がやりよい。
前からだんだんと此方へして来た。
昼食してこんにゃくの草むしりをした。田へ麦刈りに出発した。一車運んで二車目には雨が降りだした。でも刈かけと一枚の田は終はった。ひばりの子が三匹田のカッパ*の中にゐる。
雨が降ってきたので桑園の掘返へしに行った。山王前を約半分程した。後少して堀返へしも終る。   以上
*麦の根株。

六月二十四日 水曜 雨後曇
起きると雨降りである。坊ノ上の道端で草刈りをした。大変多く刈れた。父は月田橋の方へ祖父さんは喜作方の籠屋に行った。
父は菅谷へ馬の蹄鉄に行った。自分は一人で小麦こきを始めた。
父は昼になっても帰ってこない。
十五時頃帰ってきた。鉄屋がゆっくりきたのである。
雨も止んで日光がさし出した。
小麦を種*だけ位こいて乾物(ほしもの)に出すばかりにして置いた。
馬小屋の肥出しをした。
油面の小さい桑園の堀返えしをした。   以上
*来年の播種用の種子。

六月二十五日 木曜 雨
昨夜はよい天気であった。今朝も草刈りに行った頃は良かったが帰ってくるやうになって曇天に化してしまった。
山王前の桑園へ堀返えしに行った。一昨日の雨で仕事がしよい。
終る頃雨が降り出した。十時頃田の馬耕に行った。
鼻取りをした。馬がとても良く仕事をする。大雨が幾分か続いた。体全体がぐしょぬれとなった。
午后も行った。
柴田藤五郎方の田も耕がやした。一枚だけ。
其の中は雨も止んでゐた。
今夜は常会也   以上終。

六月二十六日 金曜 雨
今朝も雨だ。父と根岸の土手で草を刈った。
五分位大風と大雨が来た。びしょぬれになった。朝食して前の物置きで小麦を足踏み機械で脱穀した。
十時休み迄に十八はしかこけない。二人で。
休んでから少し始めると長島甲子雄さんがきた。田かきを頼みに来た。
早午めしで早速支度をして馬にきん乗って行った。少し雨が降ってゐる。
田がうめた所なのでかきにくい。小峰。
雨は一日降り続いた。五時過ぎて終はった。
夜は良い天気である。明日からも梅雨が晴れるだらう。   以上

六月二十七日 土曜 晴
今朝は朝日やけであるがよい天気になりそうだ。
草もほきてゐて草る*のに早かった。
長島水車へ昨日の続きの田かきに行った。今日はほごれが良くない。
九時頃終って家へ来た。田の麦刈りに行った。二、三日の雨で大分色が黒くなった。
午后は一駄馬で運んだが短かくてだめだ。父と車で二拾ぱ位づつ運んだ。
百束位は運んだらう。
馬鹿に良い天気でもなかった。   以上
*刈る。

六月二十八日 日曜 晴
守と父と三人で根岸河原の下へ草刈りに行った。とてもほきてゐた。早く出来た。
乾物を出して大田へ麦刈りに行った。祖父さんは小川の歯ゐしゃへ行った。
大田も半日位で刈り切りそうだ。
昼前二車、午后三車弱で引き取り終はった。
三時頃遠山水車へ麺を持ちに行った。麺四拾本粉三貫匁を持って来た。
大麦を俵にしたり小麦の種も俵にした。大麦は約全部で十五俵らしい。
柴田藤五郎方へ母は半日、自分と父は六時頃より行った。
七時間かゝったそうだ。

六月二十九日 月曜 半晴
今朝も根岸向ふ河原へ行った。
大田へ馬耕に行った。三分の一位馬が鼻取りなしでした。三分の一は自分がしんどりをして守が鼻取りをした。
午后は新田を一反三畝耕った。
今夜はラヂヲ聴取りである。 浮塵子とその防除 湯浅啓温氏 柴田方できいた*。   以上
[豫記]六月二十九日 一頁ぐれた。
[この日の日記は六月三十日の頁に書かれている]
*午後八時から九時の番組。放送劇「海の見える家」大矢市次郎外、△農家の時間「浮塵子とその防除」湯浅啓温。

六月三十日 火曜 曇
今朝も三人で唐子河原へ草刈りに行った。
此の頃はとても草がほきてゐる。新田へ田の馬耕に行った。家のを四畝耕って藤ちゃん方の六畝の田へ行った。
終ったので昼とした。
午后は区民総手で大堀、小堀さらいである。馬は午后金井廣吉方へ耕ひに行った。約九畝終って藤(とう)ちゃん*の下の田を始めたそうだ。
堀さらいが終らぬ中に大雨となった。
祖父さんは理昌方へ鼻取り。
今日は三十日である。
紙一頁ぐれました。   以上
[この日の日記は六月二十九日の頁に書かれている。]
*柴田藤五郎。