「紫波」地名発祥の神社
国道4号線近く、紫波運動公園近くにこの神社があります。
延暦二十三年(804)、坂上田村麻呂が東北の守護神として武神である経津主之大神(ふつぬしのおおかみ)と武甕槌之大神(たけみかづちのおおかみ)を勧請したことがはじまりと云われています。
平安時代の文献「延喜式」にこの神社が記載されています。
「延喜式」の中でも日本最北に位置する神社です。
拝殿の正面の向拝の木鼻や蟇股など技巧を凝らした彫刻が施されています。
前九年の戦いにおいては、源義家による堂宇建立がなされ、その後、奥州藤原氏の時代には、藤原氏の支族である樋爪太郎俊衡、樋爪五郎季衡らの崇敬を受けたことが伝えられています。
室町時代には、足利氏の支族斯波氏の崇敬を受け、戦国時代は斯波氏を討った南部氏の庇護を受けています。
南部重直は志賀理和氣神社に「南部一の宮」の称号を献じ、江戸時代藩主の利視が「御社は とまれかくまれ 志賀理和氣 我が十郡の 国のみをさき」と詠じ、北は八戸から、南は和賀の境まで信仰を集めました。
この神社には、町名である「紫波」や「赤石」などの地名の由来となった霊石「赤石」を祀っています。
室町時代、当時の領主斯波孫三郎詮直が神社の背後を流れる北上川で遊覧している際に、川底にある赤い大石に気付きました。
その石の赤さをうつし、北上川の波が紫色に輝く様に感動し、
「けふよりは 紫波と名づけん この川の 石にうつ波 むらさきに似て」と詠じて以来、この地を「紫波」と定めたと云われています。
この他にも境内には稲荷神社や天満宮など様々な堂宇を見ることができます。
(2013年11月撮影)
【志賀理和氣神社(赤石神社)MAP】
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