元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

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アジアカップ初制覇凱旋帰国ー塩尻大使閣下 JJC有志 祝賀会

2009年06月01日 16時29分24秒 | インドネシア代表ナショナルチーム(国際大会など)
第8回アジアカップを制覇し、インドネシアに帰国した野中総監督とインドネシア代表ナショナルチームのメンバー達。翌日は塩尻大使閣下のご配慮で、スナヤンにあるセンチューリーアウトレットホテルで優勝祝賀会が催された。


野中総監督のスポンサーチームである「野中監督を囲む会」のジャカルタ ジャパン クラブ(JJC)小室理事長、山崎副理事長、雨笠運動部長などの面々もご出席くださり、優勝祝賀会が盛大に行なわれました。




TV,新聞のメディアからのインタビューに答える野中総監督
{ツキとツキを引き込む強力な秩序があった。接戦をものにする精神的な充実さも備わった大会でした。選手、首脳陣、父母、連盟、全ての連携が乱れることなく「優勝するチーム」の理想的な姿だったと思う}


インドネシア代表ナショナルチームの各選手に話しを聞く塩尻大使閣下。そして試合中に歌っていた応援歌を披露する選手達。


副主将のサイフル選手のコメント
{全ての選手の士気が高く、先輩も後輩も、レギュラーの選手も控えの選手も垣根なく一丸となって戦った。インドネシア野球に歴史を創れたことに感激している}

主砲のアディー スサント選手のコメント
{初の国際大会制覇という歴史的瞬間に立ち会えたことを誇りに思う。メラプティ(国旗)とインドネシアラヤ国歌を聞いた時は涙した。大会中、不調な時があったが、野中監督から「負けて帰るのなら、ここで死ぬ方がましだ!」との言葉に奮闘し、死力を尽くそうと思った}





国家、連盟の予算の関係で「たった3週間」という短期間でチームを優勝に導いた野中総監督。実は、地元関係者からは「無謀な挑戦」と問われ続けていたのであった。

{監督、何でそこまで自分のリスクを負ってアジアカップに出場するのですか?3週間でどうやってチームを編成すると言うのですが?失敗したら監督として笑われるだけです}・・・と。

その度、野中総監督は{俺の頭の中には勝算がある}とだけ答え多くのコメントは控えた。

更に、この「無謀と呼ばれた挑戦」には、野中総監督にとっても、インドネシア代表ナショナルチームにとっても、2007年の東南アジア競技大会(アジアンSEAゲームス)で、あと1歩で果たせなかった「金メダル奪取」という「屈辱に対するリベンジ」をも含んでいた。

{何としてでもアジアにインドネシアの”力”を見せつけてやる!}という強いコメントを
野中総監督は身近な友人だけに話していたのだった。
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