ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングや訪問カウンセリングなどをやっています。

成田善弘・氏原寛編『共感と解釈-続・臨床の現場から』1999・人文書院-「共感と解釈」を学ぶ

2024年06月05日 | 心理療法に学ぶ

 2020年7月のブログです

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 成田善弘さんと氏原寛さん編集の『共感と解釈-続・臨床の現場から』(1999・人文書院)を再読しました。

 先日、ご紹介をした同じ編者による『転移/逆転移-臨床の現場から』(1997・人文書院)の続編です。

 執筆者も前著と同じ方々が、今度は、共感と解釈、という心理療法の基本に挑みます。

 しかしながら、前著と同じく、こちらもなかなか難しい本で、じーじなどはまだこちらも拾い読みの状態です。

 とりあえず、今回、印象に残ったことを一つ、二つ。

 まずは、松木邦裕さんの論文「言葉を超えないこと-共感から解釈へ」。

 松木さんはご自身の面接を提示され、そこでセラピストが考えていることをとてもていねいに正直に描写されます。

 それだけでも勉強になりますが、まるで自分も面接を一緒に進めているかのような気分になって、自分も考えさせられます。

 そして、誠実に努力しつつも、言葉の限界を示すことを指摘され、理解の限界を示す、という言葉がとても印象的でした。

 次は、やはり、藤山直樹さんの論文「共感-不可能な可能性」。

 藤山さんは、共感は目指すものではなく、面接での理解の結果として得られるもの、という大切な視点を論じられています。

 そして、共感を目指すような余裕のなさの危険性を指摘され、そうではなくて、ウィニコットさんのいうような「ふたりでいてひとりになること」やビオンさんの「もの想い」などの大切さについて説明されます。

 「遊ぶこと」の大切さをはじめとして、面接におけるウィニコットさんやビオンさんの考え方の大切さを再認識させられて、とても勉強になりました。

 さらに、深く学んでいこうと思いました。     (2020.7 記)

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 2024年初夏の追記です

 松木さんの論文の感想を再度、読んでいると、ウィニコットさんの、解釈は治療者の限界を示すもの、という言葉を連想しました。

 治療者は万能ではなく、心理療法は患者さんと治療者が二人で進めていくもの、ということを改めて考えます。     (2024.6 記)

 

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山本周五郎『樅ノ木は残った』(上・中・下)2003・新潮文庫-男の生き方と哀しみを描く

2024年06月05日 | 小説を読む

 2020年初夏のブログです

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 山本周五郎さんの『樅ノ木は残った』上・中・下(2003・新潮文庫)を久しぶりに読みました。

 この本を初めて読んだのは学生時代、ドラマが印象に残っていて読んだのですが(吉永小百合さんがよかったですね)、ものすごく感動をしたことを覚えています。

 どれくらい感動したかというと、その後しばらくは周五郎さんの小説ばかりを読んだほどで、『赤ひげ』など、そのうちのいくつかは今も愛読書です。

 この『樅ノ木は残った』と立原正秋さんの『冬の旅』が学生時代以来のじーじの大切な本で、少しおおげさに言うと、この2冊でじーじの生き方が決まったのかもしれな、とも思います。

 それくらい大切な本、改めて読んでみて、色あせることなく、やっぱり感動をさせてくれました。

 じーじがいうのもなんですが、周五郎さんの日本語のうまさが秀逸で、気持ちよく、しかし、生きることの哀しみや苦しさを味わいながら読みました。

 あらすじはあえて書きませんが、幕府の伊達藩分割の陰謀を阻止しようと、悪名を負ってまでも動く一家老の男としての生きざま、その壮絶で、孤独で、哀しい生き方は、やはり感動します。

 こんな小説を授業中に先生に隠れて読んでいたのですから(先生がた、ごめんなさい)、世の中の流行や出世、お金などに背を向けて生きることになったのかもしれませんね。

 でも、そういう人生に悔いはありませんし、そんな人生に導いてくれた周五郎さんと立原さんには感謝です。

 今後も頑固なじーじとしてしぶとく生きていこうと思います。     (2020.6 記)

 

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