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-サイキックの眼-

サイキックの眼から視た「死角」

2014-11-09 10:36:57 | サイキックの眼

     

サイキックの眼から視た「死角」


どのような意味合いから「死角」を・・死のかど(角)と言うようにしたのだろう。

でもそれはとっても的を射ているなぁと思う。
そもそも僕にとっては「死角」というコトを言葉にすることは無かった。
それは、「死角」が常に露わとなって視えている状態だったからだ。
これが理解できるようになるまで大変な日々と人生をを過ごしてきた。
なにせ普通に過ごすことであっても…毎日が恐怖の連続だったのです。
僕が今こうやって、このコトを綴っているのも、やっとの思いでこの恐怖を乗り越えてきたからであります。
世間一般でいうところの不安症?みたいなモンでは納まらないレベル。
その恐怖感と不安感はどんなふうに思ってきたかといいますと、
「みんなどうして平気で生きていけるのだろう?」
と、幼くモノゴコロがあったときからずっと疑問を抱いてきた。
     
疑問との葛藤だけの毎日でした。

「みんなどうして平気で生きていけるのだろう?」
といいますのは、今となって言えるのですが、
「みんな上辺のことしか見えてない、上辺のことしか感じないんだ。」
でもその上辺の事で一般社会がすべて成り立っていて、僕の視てとれている深い?広範囲は誰も知らない領域であって・・・。でも僕の眼の中では明らかに存在しているのであって。
そのギャップと向き合い・明確にし・独学で学び・乗り越えるまでに相当な時間と労力と精神力を費やしてきた。

ちなみに、幽霊が見える?見えない?とかの領域は、まだ浅い方であります。

みんな自分の都合の良いコトでしか物事を判断しません。
都合の良いことしかしませんし。
なにかしら、都合の良いところしか見ない。

見ないんじゃなくて、それが普通であって。
ですが、次の言い方もまたフツウと言えます。

自分に都合の悪いコト、都合の悪いトコロは見ない。

これが僕の思うところの本当の「死角」です。
(厳密に言うと、それは「死角」のほんの一部ですが。)

自分にとって都合の悪いところは見ない。
自分にとって都合の良いところだけ見ようとする。
これが「死角」の発生する原理のひとつでしょう。

簡単に言い直してみれば、見て見ぬフリの積み重ねが「死角」となって放置されるワケです。

もちろん・・死角とは、構造上で立ち位置から肉眼では見えない範囲の場所の事をさすと言うのは解ります。

見えにくい範囲=死角
見て見ぬフリ=死角

よくニュースにあがってくる事故や事件の内容で、
それは本当に見えにくかったのか?
或いは、わかっていたことなのに対処せず放置したままだったのか?
と議論にいたっていることがよくあります。

つまり
Ⓐ 人智をもっても見えにくい範囲=自然死角
Ⓑ 見て見ぬフリ=人工的死角
のように、「死角」でも2とうりある。

Ⓐ 人間が手をつけない及びにくい自然の法則の中にある「死角」となる場所
Ⓑ 人間が造った上の人工的「死角」

Ⓐ は、本来「死角」などありません。
「死角」と言っているのは、人間の立ち位置から見ているだけです。
例えば、太陽の周りを地球が回っています。
半年前は、太陽の裏の向こうの軌道上に居たわけです。
地球から太陽の裏の向こう側は、いつも見えない。
なので、私達から見た太陽の裏側の空間域は常に「死角」です。
誰か地球の軌道上の反対側に衛星カメラを設置してくれないかなぁ~と思ったりします。もしかすると・・その太陽の向こう側の「死角?」にはもう一つの地球?がグルグル周っているかも知れない・・と、よく想像してしまいます。笑

広範囲の宇宙はイヤがうえでも廻っています。
廻って廻って廻り続けて、上下左右も超越したサイクルをもって、死角などは存在しないと思います。

Ⓑは、人が考え造ったモノから出来た「死角」です。
自分の建てたモノや設計図はなんとか把握して・・「死角」になるようなトコロは無かったとしても。また誰かがその隣に建物を建てて、街の設計図が変わってきたら、もう解らなくなってくるでしょう。
「人の想い」や「人生の設計図」に『死角』など最初は存在しません。
子供らの純粋な絵で、「死角」を絵描く子はいないでしょう?。
自分の思いを「ありのまま」に絵描きます。


僕のカウンセリングの一例

親子問題のご依頼で幼いお子さん同行でお越しになる方もおられます。
子育てで精神不安定なお母さん(依頼者)と、その情況に必死な気持ちがみてとれる状態の幼いお子さん。
カウンセリング中、お母さんは不安定な理由を理解し、苦しさと納得とで泣き続けられている。そしてその傍らで真剣な眼差しで、お母さんの泣いている顔の絵を描いているのです。
その幼き子からすれば、我慢続きでストレスを子供に向けず・・素直に泣いているお母さんが欲しかったのです。
(カウンセリングでは、苦しい時に素直に泣けない理由を明らかにする作業をします。)
なぜ・・お母さんに素直に泣いて欲しいか?というと、この子も精一杯に泣きたいからです。

つまり
『泣きたい気持ち』
この感情と動向事態が、「死角」になっているのです。
つまり
涙を流して泣いているお母さんの絵を描いた・・・、その絵は心の「死角」をカタチに絵描いたモノなんです。

『泣きたい苦しい気持ち』
このお母さんも子供の頃・・母親に無視されてきた経験がありました。
見て見ぬフリです。
なので、こんどは自分が子育てをする番になって・・「泣くに泣けない抑圧感情恐怖症」になってパニック状態になってしまっていたわけです。
母親から泣くコトを許されなかったので、我が子供の泣くコトが許せなくなってしまったわけです。

もしもこの依頼者女性の実の母親に、例えばこの事の要因を問い詰めたとしたら?
「そんなことない、知りません!」と、きっとそう言うでしょう。
もちろん・・・それ以上責任を問いあうものではありません。泣

ですが、これが『死角』の発生する瞬間です。

子供さんの描いた、お母さんの涙する似顔絵。
これが心と現実の『死角』の証拠絵です。

「死角」は、見て見ぬフリの積み重ねから発生するモノなんです。

それは道路交通事故などに用いる「死角」にも言えるし、
あらゆる人工的事故の要因に、見て見ぬフリから出来てしまう「死角」がある。


サイキックの眼から視た「死角」

僕はそんな「死角」が出来上がっていく様が怖くて怖くて仕方が無かった。
なにもかもがホッタラカシの世の中で、将来いつかそこに目を向けなければいけなくなることになるのに、どうしてヤリッ放しで知らんプリしてみんな生きていけるのだろう?。
僕は毎日こんなコトを見つめながら・・恐怖に苦しみながらの子供だった。
学校で与えられる勉強も出来やしませんでした!笑。
成績は、いつもクラスで後ろから2番目でした。苦泣笑
ちなみに、いちばん後ろの成績の子は・・登校出来なかった子だったので、実質は僕が最下位みたいなモンでした。恥笑

今となっては、今現在、毎日、見て見ぬフリから生まれ出た恐怖の結果が露わになっているのを目にします。
そしてまた、未来におこるであろうコトの恐怖におののく毎日であります。

「死角」というモノは、人間が造っている副産物なのです。
全てのモノや出来事には裏があるのです。
いわゆる相対性理論。
宇宙のすべてはコレで成り立っているのです。
なので、宇宙に『隙間』と呼べるモノは存在していません。
すべては、なんらかの『根拠』を踏まえているモノであり、意味根拠不明なモノは宇宙に存在していないのです。
すべては、なんらかのモノと相対しているのです。

そして本来、人間が持つ「死角」にだって、なんらかの固有名称が存在していた筈なんです。
そしてその「死角」にだって、相対(あいたい)するナニか?と、元々は繋がり関係しあっていた筈なんです。

「死角」にも、本当はなんらかの『根拠』があったのです。

『根拠』となる、なんらかの想いがあって、我々は生きています。
それを無視し、見て見ぬフリをし続けたならば、それを「死角」と呼ぶようになるのです。


サイキックの眼  ヤマモト・コージ