LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

後ろめたさの壁

2015-03-18 02:40:22 | サイキックの眼

     
     

後ろめたさの壁
     
  
「後ろめたさ」と「後ろめたさ」
    
人との関わりの間には、後ろめたさから成り立つモノが多く在る。
その「後ろめたい」⇒「後ろめたさ…」を感じ抱き続けるそれは、何処から始まっているのか?。
     
相手に対し、噓がある。
自分の都合の良いコトだけをしようとする。

『どうせ誰だって自分の都合しか考えてないやろぅ?!
正直モンは損するだけ、嘘ついてナンボの世界やッ!つーの』
『そんなモンに後ろめたさなんか思ってたら生きていけんわぃ!』

じゃあ何故?「後ろめたい」の?

『正直モン?とやらが、堂々と生きてるからだろう!怒』

じゃあどうして?正直に生きられないのか?
堂々と出来ない理由とは何なのか?

『だから。それは・・後ろめたい気持ちがあるから…』
『でも、世の中そんなヤツばっかりだろう?!
だから、うまくいってるんじゃないのか?』
『「後ろめたさ」と「後ろめたさ」が肩寄せ合って生きてるんよ』

つまり

相手の後ろめたさを許してあげないと
自分の後ろめたさが成り立たないんだよ


『それが人間関係じゃないの?
それが世の中ってモンじゃないのか!!怒』

そして次に・・・。

悲しくて、誰にも言えないコトがある。
身勝手な自分が悪い・・?
でも!相手だって身勝手で悪いはずだ。
もし誰かに聞いてもらえたとしても、仕方のないことがいっぱいあって、自業自得だと言い返されるのがオチで・・
その「後ろめたさ」から
一歩も前に歩いて行けない
どうしてこんな後ろめたい罪悪感に苦しまなければならないのか?
仕方がなかったとはいえ、どうして私だけ責められなければならないのか?、みんなだって身勝手じゃないか!、どうして誰も許してくれないのか?、どうして誰も助けてくれないのか・・・。

それは
みんな自分の「後ろめたさ」を守るのに必死だからです。

例えば、子供嫌いのオトナは多い。
素直に笑い、正直に言いたいことを言う。
‘ イラッとくる ’
それは、その子供に「嘘と後ろめたさ」が無いからだ。

もっと深く俗っぽく言うと
特に日本人には「後ろめたさ」を押し付け、
「後ろめたさ」を共有させようとするところがあるように思う。
例えば戦争の時でも、「生き残って帰ってきた者は恥であり罪である」と言ってました。
「後ろめたく思え!!」ってコトなのでしょう。
なのに、敗戦してアメリカの方針に鞍替えしたノチの高度成長期も、「戦争と敗戦は日本の恥で、世界に対し後ろめたいモノだから、頑張って世界貢献を致しましょう!。ほらほら世界が認めてくれた!。いやいやまだまだ後ろめたい!、もっと金で埋め合わせしろキャンペーンだ!もっとボランティアを投入だ!!。
もうヘトヘトだべぇ。
え゛っ!?まだ「後ろめたい」の?。
も・・もっとクリーンな社会の・・じ・・実現を・・・・、ガクッ!疲。

身勝手なエゴ
本当は誰だって身勝手にやりたいワケではない。
我慢があるのだ
我慢を強いられる
我慢を強いられてきた、何か?があるのです。
その我慢の呪縛とも言うべき何か?が、人生を不自由にさせてきた。そうならざるを得なかった
不自由さが不自由さを生み続け、八方ふさがりになる。
そうすると、噓をついてでも生きていかなければならなくなる。
そうすると次には、噓が見つからないように、自分を守る為に・・更なる嘘が必要になるのです。

□□□□□□□□□□□□□□

我慢と⇒不自由さと⇒嘘と⇒更なる嘘と⇒その後ろめたさと⇒後ろめたさからくる我慢と⇒後ろめたさからくる我慢の不自由さと⇒後ろめたさからくる我慢の不自由さから必要になる嘘と⇒後ろめたさからくる我慢の不自由さから必要になる嘘を守る為の更なる嘘と・・・・・・・・・・

□□□□□□□□□□□□□□

原因不明?とされている病気や精神疾患などの本当の答えとなる原因の方程式は、これでしょう。
この連鎖?と言うか、雪ダルマ式に増えていく鎖とも言うべきか。
     
〔 我慢、不自由、噓、更なる嘘、後ろめたさ 〕

    これが、今回のテーマ
“ 後ろめたさの壁 ” です。

社会の人間関係、お金の流れ、閉塞感、鬱、病気、
希望が無い、不信感、様々な恐怖症、
…エトセトラ。
誰もが引っさげているこの壁が、互いに分厚いモノだから、お互いがみんなどうしようもないのです。
〔 我慢、不自由、噓、更なる嘘、後ろめたさ 〕
この“ 後ろめたさの壁 ”を守る為に、毎日が必死なんです。
その為に、働いて働いて稼いで稼いでも・・
この“ 後ろめたさの壁 ”を維持することにお金を費やし続けるんです。

嘘だとバレないように
後ろめたさを覚られてしまい指摘される前に
お金で、相手を封じるのです。

よくあることでしょうが、気付かない人は多い。
だがそれも、お金が無くなるとすべてがバレてしまい、破綻します。
だから更なる嘘が必要になるのです。
だから・・みんな生きてるのがイヤになるのです。

宗教が用いる「洗礼」もそうです。
産まれた時から罪があり、清めないとダメ。
これで解るとおり、産まれたスタート時から、もれなく「後ろめたさ」を持たされるのです。
子供から全員を「後ろめたさ協同組合員」にしなければ気が済まないのです。
何も悪いコトをしてない人でも、懺悔はしなければならないのです。
「懺悔しなさい」という人ほど何かしら罪深い後ろめたさがあるんでしょう。
宗教のコトをベースに考えると横道に反れるので、これ以上は触れないでおきます。

本当に頑張って得られたコトは、心の底から喜べて、大きな自信となって、世の中の怖さに対しても強く生きていけます。
しかし
“ 後ろめたさの壁 ”の塀の中では、何も身動きが取れず、自分ではどうすることも出来ないので、世の中の怖さに対し、更に恐怖が増すばかりになります。
高度成長期には、お金が溢れていたので、「後ろめたさ」なんて勲章みたいな扱いだったけど、これからの未来は・・そうは行かないでしょう。

親の建てた「後ろめたさの壁」が、子供を覆いかくし・・牢獄のようになっている。
出るに出れず・・塀の中が大変な事になっている。
嘘でも大儲けできた時代の高度成長期世代。
対して、自分の本当の実力で生きたいと願う子供。
親は、我が子を、「後ろめたさ協同組合員」にしたくて仕方がない。
だから金で我が子をズブズブにさせるのです。
なぜなら親世代も、社会に金でズブズブにされて生きてきた、生きて来れたから。
そしてズブズブのまま死んでいけるのでしょう。
そんな親の子供は、お金ズブズブ依存症にさせられてしまって、どうしようもない状態に・・・。

自分の後ろめたさから、他人や我が子を巻き込んでいく。
お金や・・何か魅力的なモノを使って巻き込んでいく。

では、その「後ろめたい気持ち」の発端とは何か?それは

『いけない事に対し、「いけない!」と言えなかったこと。』
『いけない事に対し、自分もそれをしてしまったこと。』

それを許してしまうと、他人や子供にも「いけないこと」を要求するようになるのです。
自分一人では恐いので、他者を巻き込むんです。
それがまた、「いけない事」と「後ろめたさ」を許し合い・・理解?し合うモノどうしが出合っていくのです。
この先は、雪だるま式の連鎖の始まりとなります。

『自分の本当の気持ち』
対して
『後ろめたさの壁』

「後ろめたさの壁」の塀の中から、「自分の本当の気持ち」を取り戻すには、相当の苦労が必要になるでしょう。
でも・・塀の中の息苦しさや、閉塞感、嘘に対する疲労感、
そしてどこまでも終わらない虚無感。

「後ろめたさの壁」と「後ろめたさの壁」が、互いにコミュニケーションをとる努力をしても、壁と壁のぶつかり合いに過ぎず。
先ず起こりえるのは、噓と嘘の暴きあいになる。
そしてそれは互いの不利益になる?ので、互いの「後ろめたさ」を称えあって終了する。
後ろめたさの相殺。
だから、相殺の平等。
不自由の平等?


自分の真実を持つコトは孤独です。
自分は良くても、「後ろめたさの壁」は、必ず子供に引き継がれます。
そうなると、どこまで行っても・・どこまで頑張っても、真実には届かず、真実とはほど遠い現実が待っている。

自分の中の真実は不変です。
変りようのないモノがあって、それが歪んでしまうコトが起こるので苦しくなるのです。
その歪みを受け入れて許してしまうから、後ろめたい気持ちに苛まれるのです。

つまり、自分を信じ続けること、それのみです。
変りようのない自分の真実が、成長したいのです。

でしょう?。


サイキックの眼  ヤマモト・コージ