臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

古雑誌を読む(角川「短歌」1016年11月号)

2016年12月16日 | 古雑誌を読む
 「大学短歌会が行く!山梨学生短歌会」より


○ 一昨日の雪は春まで残るから知らないふりができると思う  入江結比

 作者の入江結比さんは、東京の渋谷界隈を歩いていると、世の男性の全てが振り向くような美貌の女子大生であろうと拝察されます。
 その彼女は、とある晩秋の一日に、「在籍している大学の敷地内の人影も無い某所に青春の形見の血塗れのランジェリーを埋めたのでありましたが、その夕方から雪が降ったので、『一昨日の雪は春まで残るから知らないふりができると思う」と、その二日後の黄昏時に思っているのかも知れませんし、また、「埋めたのはランジェリーでは無くて、片思いの恋人への手紙であるが、『一昨日の雪は春まで残るから知らないふりができると思う』」と、その二日後の早朝に思っているのかも知れません。
 斯くして、美貌の女子大生らしからぬ作者・入江結比さんの手管に依って、私たち本作の読者は、あれこれとあらぬ妄想に耽る事を強いられ、いつの間にか一首の世界にどっぷりと浸かってしまうのでありましょう。
 青春の真っ只中に身を置いて、時に喜び、時に哀しんでいるに違いない、作者のロマンティズムが十二分に発揮された傑作である。
 「知らないふりができると思う」の対象を明示していない点が魅力の一首である。
 

○ 何にでも終わりはあった清泉に花をひたして濡れる墓守   池川貴基

 今どき「墓守」を題材にした抒情歌を詠むとは、本作の作者・池川貴基さんこそは、大正浪漫の挿絵の奥から突如として現代社会に闖入した歌詠みでありましょう。
 歌い出しの二句「何にでも終わりはあった」とは、作中人物の「墓守」の口からふと漏れ出た遣る瀬無い感慨であると同時に、作者・池川貴基さんご本人のそれでもありましょう。
 と言う事は、作中の「墓守」は、本作の作者の池川貴基さんご本人であり、作者の池川貴基さんは、「清泉に花をひたして濡れる墓守」の如くにも、実り少ないご自身の青春を省みて、涙して居られるのでありましょう。
 就きましては、本作の作者・池川貴基さんに、この際、私から一言申し上げますが、池川貴基さんよ、貴方はこんなにもご立派な短歌をお詠みになられるのですから、決して、決して捨てたものではありません。
 貴方の周りには、素敵な素敵な女性が沢山居られます。
 貴方がお世話なさって居られる、山梨学生短歌会所属の入江結比さんだって、本山まりのさんだって、寺本百花さんだって、とてもとても素敵で素敵な女性なんですよ。
 そんなそんな素敵な女性たちに囲まれて居ての貴方の青春こそは、私たち後期高齢者にとっては、どんなに手を伸ばしても永久に届かない素晴らしい青春なんです。


○ 夜半くらき書庫に数多の息がありあなたは本になりつつ眠る 本山まりの

 本作の作者の本山まりのさんは、齢いまだうら若い文学少女である。
 彼女が文学少女である所以は、彼女が今日訪れた大学図書館の書庫に儚い夢を馳せている事に依っても説明されるのである。
 斯くして、齢いまだうら若い文学少女の本山まりのさんは、とある小説の頁を捲りつつも次の如き思いに浸るのである。
 即ち、「この小説は、今、斯くして私の情熱ほとばしる指によって捲られているのであるが、いずれ夜になると、この大学図書館の書庫深く蔵われるに違いない。とすると、この小説の作者であるあなたは、書庫の奥に蔵われている一冊の本となって、数多の本たちと共に、夜半に息づくに違いない」と。


○ 水滴がまだらな影をおとす膝終点のないバスがあるなら   寺本百花

 「終点のないバスがあるなら」という、作者・寺本百花さんの青春の願望を込めた下の句の表現は月並みであるが、「水滴がまだらな影をおとす膝」という、場面設定をした上の句がなかなか宜しい。
 作者の寺本百花さんは、校舎の裏の物陰に隠れて、彼から別れ話を語り掛けられているのでありましょうか?
 だとしたら、お腹の中に既に彼の子を宿している寺本百花さんにとっては、その別れ話には到底同意出来るはずはありません。
 彼女の履いたパンストには、校舎の屋根から滑り落ちる「水滴」の「影」が「まだら」状に映るのであるが、その影は、彼女の目から落ちる涙の「影」なのかも知れません。
 斯くして、本作の作者の寺本百花さんは、「『終点のないバスがあるなら』ば、彼といつまでも一緒に乗って居られるのに!」などとの、遣る瀬無い思いに浸るのである。

結社誌「かりん」11月号より(岩田欄より抜粋)

2016年12月15日 | 結社誌から
○ ケアセンターの老女おしやべり老女むつちやくちや・傍若無人・唯我独尊 (川崎)岩田正

 岩田先生のお気持ちの程は、かく申す私にも、よく解ります。
 なにしろ、件の「老女」たちの多くは、お金持ちのくせして暇を持て余しているのですから、「ケアセンター」での「おしゃべり」が、人生最後の唯一の楽しみなのですからね。
 しかも、その「おしゃべり」の内容ったら、孫自慢のご亭主自慢と相場が決まっていますからね!


○ 小さな墓地購ひたりし後子のあらぬ二人の時間深まるごとし (市川)日高堯子

 そういう事ってよくありますよ!
 私・鳥羽省三の場合は、男子二人の子持ちではありますが、「小さな墓地購ひたりし後」の「(夫婦)二人の時間」は、それ以前とは比較にならない程にも「深ま」りました。


○ 書き掛けの手紙が二通それぞれに微妙にちがふ余白が残る (千葉)川野里子

 「二通それぞれに微妙にちがふ余白が残る」とありますが、「それぞれの余白」には、どんな違いがあったのか、評者の私としては是が非でも知りたいものである。


○ 七月のレッドドラゴンかくまでも甘きものとは思ひもよらず (台湾)日置俊次

 本作の作者の日置俊次さんは、只今、台湾に滞在中である。
 彼は「七月のレッドドラゴン」を食して「かくまでも甘きものとは思ひもよらず」などと能天気な事を仰っているのであるが、私に言わせれば、彼が「かくまでも甘きものとは思ひもよらず」と言って食したものが「七月のレッドドラゴン」だから良かったものの、それがまかり間違って豊満を以て知られる台湾娘だったりしたら、一体全体、どうなったでありましょうか?


○ 強さとはすさまじさだとひまわりの畢り見上げてきみ通院す (横浜)池谷しげみ

 大地にでんと根を張って夏の日を浴びて咲き、秋ともなれば沢山の実をならせる「ひまわり」は、見る者に「すさまじさ」をかんじさせるほどにも強い植物である。
 その「ひまわりの畢り」を「見上げて」、作中の「きみ」なる存在は「通院す」るのでありましょうが、彼が通院しなければならないのは、既に末期状態に達している癌細胞の故でありましょうか?


○ 「人見絹枝以来」といふ声流れ来てモノクロ画面の太ももの見ゆ (沖縄)松村由利子

 「人見絹枝」選手が陸上競技の女子・800米で銀メダルを獲得したのは、1928年に行われたアムステルダムオリンピックに於いてであった。
 それから64年後の1992年に行われた、バロセロナオリンピックに於いて、有森裕子選手は女子マラソンで銀メダルを獲得して、「人見絹枝以来」の快事として騒がれた。
 従って、「『人見絹枝以来』といふ声流れ来てモノクロ画面の太ももの見ゆ」という、本作中の「太もも」の持ち主は、あの有森裕子選手でありましょう。  

結社誌「かりん」11月号より(馬場欄より抜粋)

2016年12月14日 | 結社誌から
○ 仕事終へてせいせいと夜更けの水を飲むおや黄金虫が眠つてゐる (川崎)馬場あき子

 「妻は書きその腰の辺にわれ眠る妻夜遅くわれ朝早し」とは、馬場あき子先生のご夫君・岩田正氏の歌集『鴨の歌へる』所収の名作である。
 是を以て知るに、「眠つてゐる」のは「黄金虫」だけではなかろうかと存じます。


○ 枕辺に用意するもの安眠のためのリーゼは罠の餌のやう

 「リーゼ」とは「1978年に発売されたベンゾジアゼピン系抗不安薬」であるが、その効用としては「気分を落ちつかせる・緊張感や不安感の緩和・眠りやすくする」の三点が上げられ、「比較的に副作用が少ないので、高齢者向けの精神安定剤として精神内科の外来患者に処方される」とか。
 然しながら、「あまり頻繁かつ大量に服用すると〈眠気を催したり〉や〈体がふらつく〉などの副作用が出て来る場合もある」とか!
 そういう次第でありますから、馬場先生もその服用に際しては十二分にご注意ください。
 とまで申し上げてしまいましたが、この一首の「安眠のためのリーゼは罠の餌のやう」という叙述に着目してみれば、馬場あき子先生はどうやら「リーゼ」にも副作用がある事を、既にご存じであるらしい?


○ 大きい仕事二つ減らして遠白き秋なり兎を飼はんと思ふ

 「大きい仕事二つ減らして」から後の安心感と脱力感が「遠白き秋なり」という感覚を齎したのであり、それは欠落感をも伴ったものであったが故に、それを充足する為に馬場先生は「兎を飼はんと思ふ」に至ったのでありましょう。
 馬場先生に申し上げますが、先生は短歌結社「歌林の会」という、物凄く巨大で獰猛な猛獣を飼って居られるのではありませんか!
 結社誌「かりん」は、馬場先生が面倒を見なければ誰が面倒見てくれるんですか!
 

○ 馬や鹿の生肉を食む男らよ血の匂ひあらん近づきがたし
○ 生肉は胃に入りていかに溶けゆくやからだしだいに重たくなれり

 上掲の二首は、馬場先生が、去る九月二十四日に長野県塩尻市で行われた「第30回全国短歌フォーラムin塩尻」に選者の一人としてご臨席になられた時に詠まれた作品であろうと推察される。
 ならば、当日は、馬場先生と共に、選者として佐佐木幸綱先生、及び永田和宏先生がご同行なさったはずであり、また、司会者として穂村弘氏もご同行なさったはずでありますから、「フォーラム」終了後の晩餐会にも、食い意地の張った彼ら三人の獰猛な男性がいらしたはずである。
 従って、一首目作中の「馬や鹿の生肉を食む男ら」、即ち「血の匂ひ」がして、か弱い女性たる馬場あき子先生にとっては「近づきがた」い輩とは、歌人の佐佐木幸綱氏、及び、歌人の永田和宏氏、同じく歌人の穂村弘氏のお三方を指して言うのでありましょう。


○ イエス売つて銀得しユダの夜半の手を照らしたはずだ月の光は (横浜)高尾文子

 「イエス売つて銀得しユダ」という断定的な表現は、やや月並みな表現としての謗りを免れ得ませんが、その「ユダの夜半の手を照らしたはずだ月の光は」という推測的な表現は、敬虔なカトリック教徒である作者・高尾文子さんならではのロマンチックな表現として特筆するに値するものがある。


○ 月球が創られたのはいつ、どこで、だれに、芒の原で言問ふ

 八月十五夜の月、即ち「満月」は、「月球」と呼ぶに相応しい真ん丸な月である。
 「芒の原」に立ち尽くしていて、その「月球」を眺めながら、キリスト者にしてロマンチストたる作者・高尾文子さんは、「(この)月球が創られたのはいつ、どこで、だれに(よって創られたのか)」と、誰にとも無く「言問ふ」のでありましょう。
 熟慮してみれば、「言問ふ」とは、求婚の意である。
 ならば、本作の作者・高尾文子は、彼の「月球」に住まいせる神聖なる何者かに「言問ふ」のでありましょう。


○ 熟田津に船出せむ夜のおほきみの流離を知るやけふの満月

 「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」とは、今更説明するまでも無く、万葉集中第一の女流歌人・額田王の名作である。
 『日本書紀』の記載するところに拠ると、「額田王は鏡王の娘で大海人皇子(後の天武天皇)に嫁し十市皇女を生む」とあるが、『万葉集』〈巻一〉の収録歌「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王作)と、「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子作)との二首が、「(天智)天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王と元の夫の大海人皇子との間で交わされた相聞歌である」という説に従えば、彼の万葉の美女歌人・額田王こそは、二人の男性の胸から胸へと「流離」して止まない多情多恨の女性であろうと思われる。
 本作は、「『けふの満月』を眺めていると、万葉の昔に、額田王が『熟田津に船出せむ』として待ちこがれていた月の出を偲ばせ、尚且つ、『熟田津に船出』から後の額田王の人生の『流離』の跡が、私には偲ばれるのであるが、『けふの満月』よ、お前にもその事が偲ばれるのであろうか」と、作者の高尾文子さんが、「あまりにも美しい『けふの満月』に語り掛けている」といった内容の一首であり、一首の眼目は、四句目中の一語「流離」に在る。


○ このひともこのひとも歌をうすめゆく夏の木は悔しいから濃くなる (つくばみらい)米川千嘉子

 そうです。
 米川千嘉子さんが仰せになられ、ご危惧なさっているが如く、昨今の歌壇には(もしかしたら、歌林の会の会員の中にも)「歌をうすめゆく」だけが取り得の短歌を平気で詠む歌人(歌人ちゃん)が「このひともこのひとも」と、指を折って数え上げなければならないほどにも、わんさかわんさかと出没しているのである。
 こうした歌壇の現状を鑑みますれば、つくばみらい市の米川千嘉子さんのご邸宅のお庭の「夏の木」は、あまりにも「悔しいから」日増しに「濃くなる」のかも知れません。


○ 女物の傘ではすでにまにあはず蝙蝠ぬつとひろげ駆け出す
 
 本作の作者の米川千嘉子さんは、昨今、やや運動不足気味なのか、ささやかな肥満体になりかかって居られるのでありましょうか?
 だとしたら、「女物の傘ではすでにまにあはず蝙蝠ぬつとひろげ駆け出す」のも道理と言うものでありましょう。
 著名な女性歌人と言えども、還暦間近になれば、自らをカリカチュアライズして短歌の題材にすることもあるのであり、本作などはその一例でありましょう。
 

○ パルスオキシメーターの電池終はりたり入れ替へ可能はあはれのひとつ (群馬)渡辺松男
 

 本作の作者・渡辺松男さんは病気療養中であり、四六時中、件の「パルスオキシメーター」なる医療器具に自らの命を預けているのでありましょう。
 だとしたならば、本作は「ご自身の命を預けているものが、電池の入れ替えに因って作動したり作動しなくなったりする医療器具でしか無かったと知った時の、入院患者の愕然とした気持ちを詠んだ作品」でありましょう。
 ところで、件の「パルスオキシメーター」とは、「指先や耳などにセンサーを被せて、睡眠中の体内の酸素飽和度を計測する医療器具であり、病院などの医療機関に於いては、入院患者や麻酔手術を受けている患者が、睡眠時に無呼吸状態にあるか否かを診断する目的で使用する」という事である。


○ この家を出でずに終はる連日をあまり不幸とおもはず秋へ

 ご病気療養も長きに亙れば、その状態に置かれているのが自らの常体と思うようになり、ご自身がその状態に置かれている事を格別に「不幸」な事だ、と思わなくなるのでありましょう。

 
○ あ、いいぞお、走れ 甲子園のテレビの前の去年の父のこゑ (小金井)梅内美華子

 一首の眼目は、名詞「去年」に在り。
 去年の今頃はあんなにも元気であった父が、今は亡き人になってしまったのでありましょう。


○ 亡き人に加はりし父 灯籠の一つとなりて暗き水ゆく

 「亡き人に加はりし父」という上の回想句の後に「灯籠の一つとなりて暗き水ゆく」という嘱目句を付け加えて成り立っている一首である。 
 やや文意不明瞭ながら、末尾七音の「暗き水ゆく」が一首の眼目である。


○ ありの実やぶだうのにほふ秋となりもてあます洋なし型となる身を (東京)草田照子

  本作の作者・草田照子さんは昭和19(1944)年5月26日ご生誕でありますれば、既に後期高齢者と呼ばれる年齢に達して居られましょう。
 して、彼女は、お写真で拝見する限りに於いては、なかなかの美形かと存じますが、女性の体型も後期高齢者ともなりますると、或いは「洋なし型」の様相を呈するに至るのでありましょうか?


○ 行き交ひの旅人から本を没収し図書館を成せり古代アレクサンドリア (大和)松本典子

 本作に接するを得て、私はまた新たなる知識を得るに至りました。
 大和市にお住まいの松本典子さん、この度は真に有り難く存じ上げます。


○ 鹿ケ谷のフランス料理店に飲む赤葡萄酒(ブァン・ルージュ)くらくさざなみだてり (京都)中津昌子

 京都・東山の「鹿ケ谷」と言えば、彼の平家一門の全盛時に、藤原成親・西光・俊寛らの平家の政治に不満を抱く輩が集まり平氏打倒の謀議が行われた所である。
 その「鹿ケ谷のフランス料理店に飲む赤葡萄酒」が「くらくさざなみだてり」とは、穏やかならぬ出来事ではありませんか!


○ ベランダのわたしを恋した烏ゐてむかひの屋根に今日も見つめる (東京)石井照子

 本作も亦、前述の米川千嘉子さん作と同様に、自らをカリカチュアライズして詠んだ作品でありましょう。
 薹が立った女性歌人と言うものは、一首の傑作をものする為には、如何なる犠牲を払う事にも躊躇う事が無い、という事でありますが、という事になりますと、私たち男性はなかなかゆっくりもして居られません。


○ うっすらと悲哀のような雲が垂れ落蟬おおう静けさのあり (東京)鷲尾三枝子

 「雲が垂れ」ている様の直喩としての「うっすらと悲哀のような」という表現がなかなか宜しい。

結社誌「かりん」11月号より(かりん集より抜粋)

2016年12月13日 | 結社誌から
○ 人間のうろこのような山奥の棚田に秋のひざしのそよぐ (横浜)中山洋祐

 「山奥の棚田に」の「山奥の」は不要とも思われるが、「棚田」を「人間のうろこのような」と直喩表現した時は、「山奥の棚田に」と「山奥の」が在った方が宜しいかとも思われる。


○ ホテルに変わった小学校を見下して一本杉を越える満月

 少子化社会の我が国に於いては、人口減や市町村合併などに伴って住民の血税を費やして建てられた小学校や中学校の校舎が不要となり、その転用などが社会問題化している。
 本作の場合は、かつての「小学校」が「ホテル」されているとのことであるが、それは、過疎地の小学校と言うよりも観光地の場合でありましょう。
 その「ホテルに変わった小学校を見下し」て、今しも「満月」が村の「一本杉を越え」ようとしているのである。
 地元住民の感慨や如何?


○ ゆきすぎる海岸線を見るために、今、やわらかく捩じられた首 (名古屋)辻聡之
 
 結社誌「かりん」の次代を背負って立つ辻聡之さんは、愛車を飛ばして渥美半島一周のドライブにお出掛けになられたのでありましょうか?
 であるならば、「ゆきすぎる海岸線を見るために、今、やわらかく捩じられた首」の「首」のオーナーは、この度、お付き合いを初めたばかりの若き女性歌人でありましょう。

 
○ だれもみな頼りない首その上で笑ったり恋したり死んだり
 
 さすがは結社内受賞歌人の辻聡之さんである。
 件の彼女が「ゆきすぎる海岸線を見るために」「首」を「捩じ」曲げた時に、彼女の一瞬の動作を「やわらかく」と感じはしたが、直ぐ様、彼女及び彼女の「首」を見つめる視線が鋭く客観的なものになり、冷淡にも「だれもみな頼りない首その上で笑ったり恋したり死んだり」と詠むに至ったのである。
 歌人としての面目ここに在り、とでも言うべき作品である。


○ 水鳥も魚も食べず空っぽの胃袋のまま川は流れる (京都)大竹明日香

 言われてみればその通りで、「川」はいつでも砂利や泥や芥を飲み込む「胃袋」なのである。
 然るに、とある日のとある時刻の件の「川」に「水鳥」が浮かび「魚」が泳いでいたのであるが、それを見てとった作者は、「あの『川』は『胃袋』のくせして『水鳥も魚も食べず』に『空っぽ』のままで流れている」と洒落のめしたのである。
 洒落のめすこと、即ち、文学的修辞である。


○ 給与明細の数字もこもこ増えるかもベーキングパウダー振りかけおけば

 本作も亦、京都市にお住まいの歌人・大竹明日香さん一流の文学的修辞からなる一首である。
 「ベーキングパウダー振りかけ」れば、「給与明細の数字」が「もこもこ増える」のならば、私も川崎信用金庫の私名義の預金通帳に「ベーキングパウダー振りかけ」たいものである。
 それにしても「もこもこ増えるかも」とは、よく言ったものである。
 
○ コミークス巻頭カラーへ戻り来れば戦争前夜ののどかな酒場

 やや文意不明瞭な作品であるが、それを因って、この一首の深みが増すという側面もありますから、そこの辺りがこの一首の魅力なのかも知れません。


○ 執着とはアヲハタジャムの瓶の糊一箇所離れぬラベルのことか (横浜)長谷川典子

 ふとした発見・気付きが魅力の一首である。
 それにしても、「執着とはアヲハタジャムの瓶の糊一箇所離れぬラベルのことか」とは、良くぞ気付きたり!良くぞ言ったり!よくぞ詠んだり!
 そうです。然りです。
 私・鳥羽省三の場合は、「執着とはアシナガバチに刺されたっきり、いつまでもひかない頬ペタの腫れのことか」と思われます。


○ 再稼働再生支援再構築「再」付す言葉が虚しく増える (松山)吉岡健児

 全く以て「『再』付す言葉」とは「虚し」いものですね!



○ 色褪せたアグネス・ラムのポスターが未だ壁にある実家の部屋の

 我が国・日本で最初のグラビアアイドルと大活躍した「アグネス・ラム」さん。
 あのスリーサイズ〈B:90〉〈W:55〉〈H:92cm〉のナイスバデーの「アグネス・ラム」さんも今や五十七歳。
 寄る年波には勝てずに、あの〈ナイスバデー〉も今や沈没寸前とか?


○ 遮光せし薄暗がりにもの言はずわれを見据ゑる人体模型は

 「人体模型」が「われを見据ゑ」てものを言ったとしたら、浅草の奥山に小屋掛けして大儲けが出来るのではありませんか?


○ 夜の更けに帰りゆく道こおろぎの声を贅とし闇にやすらう (伊豆)船本惠美

 「こおろぎの声を贅」として聴くくらいが、私たち庶民にとっての身分相応というものでありましょうか?


○ 帰りたくないのであろう なかなかに灯ろうとせぬ流燈の火は (広島)岩本幸久

 「なかなかに灯ろうとせぬ流燈の火」を見て、「(ご先祖様たちも)帰りたくないのであろう」と思ったのは、最高最大のご先祖供養というものでありましょう。 


○ 黙し聴く 今そばにいる亡き父と車山山頂にうなる風音 (鴻巣)江川美恵子

 「亡き父」が「今そばにいる」との感覚が宜しい!


○ 夜空にも干支にも姿なけれども猫の気配は我家に残る (つくば)小野雅敏

 「夜空」とは星座。
 「干支」に「猫」の「姿」が無いのは、商(殷)代の中国で暦を作った者の責任として追求しなければなりません。
 また、星座に〈猫座〉が無いのは、古代ギリシャの王宮の守衛たちの責任として、これも亦、多いに追求する必要があろうかと存じます。
 それはともかくとして、つくば市にお住まいの小野雅敏さんのお宅では、今は亡き飼い猫・タマの「気配」が、今も尚、残っているのでありましょうか。


○ 猛暑日の陽を背負いたる大けやき樹液循環激しかるべし

 「猛暑日の陽を背負いたる大けやき」を目にして、「樹液循環激しかるべし」と思ったのは、さすがの小野雅敏さんです。
 なにしろ、彼っと来たら、三年前に死んだ飼い猫・タマの気配を未だに感じているくらいなんですから!


○ 藤村は末期の花袋に「死ぬのはどういう気持ちかね」と聞きたり (横浜)金井省二

 私も何かの本で読んだことがありますが、あの島崎藤村なら、それ位のことは仕出かしかねません。
○ 植木屋が上部(うえ)を切るしかないと言う我に見立てて愛でたる犬黄楊

 「我に見立てて愛でたる犬黄楊」の「上部」を鋸で切られてしまったら、横浜市にお住まいの金井省二さんは、気が狂ってしまうのではないかしら!
 

○ ハイジャンプ一度でいいからしてみたいタカアシガニは脚折りたたむ(相模原)羽嶋聡子

 「タカアシガニ」が「脚」を「折りたたむ」のは、「ハイジャンプ」する為なのでありましょうか?
 私は、魚介類の生態に就いての知識がまるっきりありませんから、何方か教えて下さいませ!


○ 兵児鮎の逆立ち泳ぎを見ておれば今の自分でいいかと思う

 『goo辞書』は、件の「兵児鮎」に就いて、「ヨウジウオ目ヘコアユ科の海水魚。全長約15センチ。体は細長くて著しく側扁する。体の後端はとげ状の突起になり、背びれが腹側に回って尾びれに接する。口は管状に長く、プランクトンを吸い込む。本州中部以南に産し、海底近くで、逆立ち姿勢をとる。」との解説を為している。
 それはともかくとして、私・鳥羽省三の場合は、「兵児鮎の逆立ち泳ぎ」に限らず、何を見ても「今の自分でいいかと思う」のであります。 


今週の「朝日歌壇」から(11月28日掲載・そのⅡ)本日特出し大公開!乞う、ご期待!

2016年12月12日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○ 半惚けと言われて老女涙ぐむ惚けても心は活きて感じて (佐伯市)稗田昌範

 自分では「まだまだ若い奴らに迷惑掛けたりする自分ではないぞ!」と意気込んでいる「老女」が、息子や孫などの同居家族に「半惚け」と「言われて」必死に抵抗したり「涙ぐ」んだりする場面は、高齢者社会と言われる我が国に於いては、四六時中展開されているのである。


○ ジャパニーズの名刺を常に持つゆえにふるさと人よりももっと日本人 (アメリカ)中條喜美子
 私たち、日本国内に居住している日本人が日本人としての自覚も誇りも持てなくなった今日に於いても、アメリカ合衆国などの海外に滞在する日本人の方々の多くは、未だに日本人としての自覚を持ち、誇りを感じているのであり、本作の作者も亦、その一人なのでありましょう。
 それにしても「ジャパニーズの名刺を常に持つ」とは、何か末恐ろしいような気持ちにもなります。


○ 外出は眉だけ描いてマスクして女半分捨てて爽快 (延岡市)片伯部りつ子

 厚化粧した女性が、有権者の信託を受けて東京都知事に選ばれる昨今に於いては、「外出は眉だけ描いてマスクして女半分捨てて爽快」などと威張る女性が現れてもそれほど不思議ではありませんし、その分だけ、この短歌の希少価値や短歌表現としての新奇さは減少するのでありましょう。
 自慢して言う訳ではありませんが、私・鳥羽省三の前半生は、女性遍歴の上に女性遍歴を自乗したようなものでありました。
 そうした私の前半生の実体験に照らし合わせて申し上げますと、女性とは何処から見ても紛れも無い女性なのです。
 ベッドの上に転がしてみても、泥足で稲田の中に踏み込ませてみても、女性なのです。
 例え頭髪をお寺の坊さん並みに刈り上げられても、例え十三文の革靴を履かせられても、例え二つの乳房を切断されても、いつもいつも何処までも女性以外の何者でもありません。
 それなのにも関わらず、「眉だけ描いてマスクして」「外出」する事が、何故に「女」の「半分」を「捨て」た事になるのでありましょうか?
 また、そうする事で片伯部りつ子さんは、どうして「爽快」な気分になれるのでありましょうか?
 女性っていう種族は、そんなにも薄っぺらな存在なのでありましょうか?
 男性である私には、延岡市にお住まいの片伯部りつ子さんのそうしたお気持ちが、どうしてもどうしても理解出来ません。
 (なんちゃったりして、揶揄いたくもなったりする作品である。)
 

○ 名付ければ読書マラソン一年に文庫百冊読了達成 (立川市)植原 仁

 一年に文庫本を百冊読むなんてことは、いとも容易いことではありませんか!
 それなのにも関わらず「名付ければ読書マラソン」とは、馬鹿も休み休み言いなさいよ!
 [反歌] 名付くれば通勤読書一年に文庫百冊読破容易い


○ フォルダーの中のフォルダー開きゆくマトリョーシカを並べるように (奈良市)山添聖子

 従兄の訪露土産に貰った我が家の「マトリョーシカ」は、最も大きな「マトリョーシカ」の胴体を真っ二つに割ると、その中からそれよりも少し小さい「マトリョーシカ」が出て来て、その「マトリョーシカ」の胴体を更に真っ二つに割ると、その中からそれよりも少し小さい「マトリョーシカ」が更に出て来て、その「マトリョーシカ」の胴体を更に更に真っ二つに割ると、その中からそれよりも少し小さい「マトリョーシカ」が更に更に出て来て、………………斯くして大小併せて十一個の極彩色の単体から成り立つている「マトリョーシカ」なのでありますが、とすると、奈良市にお住まいの山ぞえ葵さんのお母様の山添聖子さんのPCの「フォルダー」の中にも、小さい方から順番に合計十個の「フォルダー」が入っているのでありましょうか。
 御作の出来栄えがなかなか宜しいものですから、つい、うっかり、嫉妬心の赴くままに余計な事を言ってしまいました。


○ 核反対に反対をするその国は日本でないやうな日本 (東京都)上田国博

 「核反対に反対をするその国」も亦、この地球上で唯一の被爆国たる私たちの「日本」なのです。
 変な日本!
 欲張りな日本!
 沖縄を犠牲にして恥じない日本!
 ちっぽけなくせしてどでかい借金を背負っている日本!
 地震大国日本!
 自信過剰な日本!
 それでいて和魂洋才などという俗信に拘っている日本!
 それでいてアジアの国々の人々を馬鹿にしている日本!
 それだから隣国との関係が必ずしも良好でない日本!
 首都圏ばかりに人と金が集まる日本!
 四度目のオリンピークをやらかそうとしている日本!
 伯父三人と従兄五人を戦争で死なせた日本!
 間も無く八十三歳になろうとしている天皇陛下を象徴として戴く日本!
 それでも尚且つ僕の祖国の日本!
 それだから僕が住んでいる他ない日本!
 ポンポン僕らの日本ポン!


○ 味噌汁に莢豌豆の香を載せて台車が近づく朝の獄廊 (ひたちなか市)十亀弘史

 獄舎の拘束されている作者が、朝食を食べられる時間になるのを今か今かと待ち焦がれている様子が彷彿とされる傑作である。
 然しながら、よくよく考えてみると、収監されていながら莢豌豆の香のする味噌汁を食べられるとは、何と贅沢なことではありませんか?
 「こんな事だったら、私も刑務所に入ってみたいわ!」なんちゃったりしてね!
 冗談です。
 冗談です。
 読者の皆様、何卒、本気にしないで下さいませ!


○ キリンから突然変異したというセイタカアワダチ草は繁殖す (神奈川県)九螺ささら

 「セイタカアワダチ草」が「キリンから突然変異した」というのは、この植物が〈キク科アキノキリンソウ属の多年草〉である事からヒントを得た単なる冗談に過ぎません。
 故に、その冗談の部分をカットすると、本作の内容は「セイタカアワダチ草は繁殖す」という事だけになるのである。
 が、それでは、選者の高野公彦氏が斯かる冗談をまともに受けてこの作品を入選作にしたことになり、氏の選歌力が疑われる場面になりましょう。
 要するに、本作がリアリティのある佳作か冗談半分に作った凡作か、という判断の基準は、「セイタカアワダチ草」が「キリンから突然変異した」という作者の冗談が、私たち読者にリアリティを感じさせる否かの一事に掛かっているのである。


○ 便利さは歩きスマホに見るごとく人の人たる所以揺るがす (横浜市)島巡陽一

 何が「人の人たる所以」を「揺るがす」のでありましょうか?
 横浜市にお住まいの島巡陽一さんは、「『便利さ』に紛らわされて『歩きスマホ』なんちゅう変な事をやらかしている事は『人の人たる所以揺るがす』事になる」と仰りたいのでありましょうか!
 もしも、そうであるならば、斯く申す、私・鳥羽省三も全く同感です。


○ 雪が降る手と手つないだ帰り道二人感じる零度のぬくもり (東久留米市)森山のぞみ

 摂氏にしろ華氏にしろ「零度、一度、二度…………百度…………千度」という言い方は絶対的関係からの言い方であるが、「冷たい、寒い、温い、暑い」という言い方は相対的な関係からの言い方である。
 そして、「ぬくもり」という語は、相対的な言い方に依る体感温度の「温い」を名詞化した語であるから、「雪が降る」「帰り道」に「つないだ」「手と手」の所有者たる両者の関係が温い関係にあれば、いくら「雪が降る」摂氏「零度」の「帰り道」を歩いていたとしても「ぬくもり」が感じられるのである。
 だからと言っても、人間と人間の関係は、いつもいつも「ぬくもり」が感じられるような単純なものではありませんから、東京都東久留米市にお住まいの森山のぞみさんは、そこのところをよくご理解なさった上で彼とお付き合いなさって下さい。
 それにしても、たかが中学生如きガキが「ぬくもり」だの「いじめ」だのって、その生意気なことよ!

日暦(12月10日)

2016年12月10日 | 我が歌ども
○ アナコンダの飼育係は誰の役 鶏さんは活き餌の役

○ アナコンダ動物保護法で指定され飼育するには許可が要ります

○ この冬を降らねばならぬ雪が降りマツコデラックス向き傘あらぬ

○ 今の世になにゆへ屋根に鬼瓦 金縁入れ歯の嬶持つ兄よ

○ 今の世になにゆへ屋根に鬼瓦 梲あがらずじまひの兄が 

日暦(12月9日)

2016年12月09日 | 我が歌ども
○ 骨壷を頭に被った大蛸が首都東京に襲来するぞ
  
○ 一本のマッチの燃ゆる束の間を吾は覗けりうら若き闇

○ パン屑が散るちるミチル風に散る青い鳥には未だ逢へない

○ 泥脚を引き摺りながら狗が行く脱北者には還る国なし

日暦(12月8日)

2016年12月08日 | 我が歌ども
   「天童の家」の姫林檎讃歌六首

○ これは亦よく色付きつ姫りんご!鳥の餌食にならぬが不思議!

○ 姫りんご〈アルプス乙女〉と名付けたり!尻の穴まで色気づきたり!

○ 赤くのみ色気づいても鳥は来ず!まして男は唾さへ吐かず!

○ 誰か言ふアルプス乙女はみめ良きと?一字違へばアルブス乙女!

○ 「腐るのか、アルプス乙女?」「鳥も来ず男寄らねば腐るほか無し!」

○ 小粒でもお汁満タン姫ご寮!しやぶれば最期ご亭が持たぬ!

今週の「朝日歌壇」から(11月28日掲載・そのⅢ)本日、特出し大公開!乞う、ご期待!

2016年12月07日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]
○ 象徴でいらして欲しい肩の荷をおろして欲しい気持ち半々 (前橋市)荻原葉月

 選評に「天皇陛下に対して多くの国民がこのような思いを持っているのだろう」とありますが、選者の永田和宏氏は歌会始儀の詠進歌の選者をなさって居られますから、「このような思い」以上の「思い」を天皇陛下に捧げなければなりません。


○ この母を選んで生まれて来たのなら優しい母でなくてごめんね (東京都)内藤麻夕子

 やれ「勉強しろ!」、それ「偏差値が下がったではないか!」、これ「スマホゲームばっかりやってるとノーテンパーになるぞ!」などと、我が子を叱っているばかりの我が身を時には反省なさるのでありましょうか?


○ とてもいい笑顔で頷かれたので何も伝わってないとわかった (名古屋市)茶田さわ香

 もっと詳しく説明すると、「この頃、お祖母ちゃんは斑ら呆けになってしまったの!今朝なんかね、あまりのことに孫娘の私が『おばあちゃん、いくら年寄りだからっても、自分のお尻の始末ぐらいは自分でしなけりゃダメじゃないの!みんな迷惑してんのよ!』って言ったら、お祖母ちゃんったら、とてもいい笑顔で頷かれたの!だから私は、私の話がお祖母ちゃんには何も伝わってないと分かったわ!」といったところになりましょうか?
 文句無しの傑作!
 今週の入選歌中第一の傑作でありましょう!


○ エントリーシート正解なんてありはしない最後のピースは未来の自分 (姫路市)出羽しのぶ

 PCに「エントリーシート」と入力し、検索ボタンをポンと押せばたちどころに「就活、エントリーシートの書き方」、「これで万全、内定を貰えるエントリーシートの書き方」などと謳ったホームページが幾つも現れる今日である。
 本作の作者の出羽しのぶさんは、「エントリーシートの書き方に正解なんてはありはしない!最後のピースは未来の自分!」とまで、自信たっぷりに仰って居られます!
 ところで、出羽しのぶさんご本人は、肝心要の内定を幾つ貰ったのでありましょうか?


○ 琴浦の町を訪ねて道聞けばブルーシートの乗るなり屋根に (鳥取市)山本憲二郎

 鳥取県琴浦町と言えば、去る2016年10月21日に鳥取県中部地方を襲った大地震の被災地である。
 「琴浦の町を訪ねて道聞けばブルーシートの乗るなり屋根に」といった光景は、地震見舞いなどの用件で同地方を訪れた方々がよく目にする光景でありましょう。
 なお、同町のホームページに、「琴浦町総合体育館 地震被害状況について」と題して、次のような記事が記載されていましたので、それをそのまま、下記の通り引用・転載させていただきました。
 10月21日に発生しました鳥取県中部地震では、琴浦町総合体育館でも被害を受けました。
アリーナの天井が落ちたため、ご利用を予定されていた皆様には、大変ご迷惑をお掛けしております。
 国からの調査員の方にも現場を見て頂き、一日でも早い復旧に向けて動いております。
 使用可能時期がまだ未定ですが、今年度内の復旧は難しいと思われます。
 今後の修繕計画等が出ましたら、また情報を流したいと思います。
 皆様には、大変ご不便をお掛けしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。
 ※なお、トレーニングルーム・武道室・会議室は通常通りご利用できます。
 【問合せ先】琴浦町総合体育館 電話0858-52-2047FAX0858-52-2037
 また、同じホームページに「商工業関係】鳥取中部地震被害対策の制度について」と題して、次のような記事が記載されていましたので、それをもそのまま、下記の通り引用・転載させていただきました。
  2016年10月31日
 鳥取中部地震によって被害を受けられた町内商工業者の皆さんに対する支援施策をご紹介します。
 こうした各種制度のほか、保険金請求などの際には被災証明が必要となる場合があります。
 被災証明は役場本庁舎で申請を受け付けています。
申請について詳しくは「り災(被災)証明の申請受付について」のページでご確認ください。
  ○鳥取県版経営革新総合支援補助金<復旧・復興型>(県内中小企業者向け)
   対象 施設、設備等の原状回復のため、新設・改修・整備を行う中小企業者
   補助率 2/3
   詳細については鳥取県ホームページでご確認ください。
   問い合わせ先 鳥取県商工労働部企業支援課
        TEL(0857)26-7242
 ○災害等緊急対策資金貸付(県内中小企業者向け)
   対象 施設、設備等の破損や売り上げ減少などの被害を受けた中小企業者
   利率 1.43%(当初5年間は無利息)
   詳細については鳥取県ホームページでご確認ください。
   問い合わせ先 鳥取県商工労働部企業支援課
        TEL(0857)26-7453 
 ○復興支援のための利子補給制度(県内中堅・大企業向け)
   対象 施設、設備等の破損や売り上げ減少などの被害を受けた中堅企業・大企業
   補助対象 復旧のための融資を受けた場合、最長5年間の利子相当額(上限1.43%まで)
   詳細については鳥取県ホームページでご確認ください。
   問い合わせ先 鳥取県商工労働部企業支援課 
        TEL(0857)26-7453
 ○県税の減免
   事業用資産に損害を受けた方や住宅、家財などに損害を受けた方に対する減免措置
   問い合わせ先 鳥取県中部県税事務所
        TEL(0858)23-3109
 

○ コントラバスと抱き合ふやうに改札を出づる少女や日曜の朝 (東京都)水谷実穂

 「少女」とありますから、身長が150センチメートル前後、体重が40キログラム前後の、いかにもか弱そうな身体をした幼い娘さんでありましょう。 
 そのか弱い娘さんが、あろうことか、あの大きな図体の「コントラバスと抱き合ふやうに」して、「日曜の朝」の私鉄駅の「改札」口から出て来たのでありましょう。
 事ほど左様に、大都会・東京の中流サラリーマン家庭に於ける音楽教育は熱狂的とも思われるほど盛んに行われているのである。
 いくらお金を掛けたって、みんなみんなN響に入れる訳はありませんからね!
 いくら熱心に稽古に励んだって、コントラバスの場合はソリストになれる訳はありませんからね!
 そんなことを考えると、その少女のことが可哀想にもなりますね!


○ 朝開けて夜閉めるカバン屋はいつもいつでも閉店セール (下野市)石田信二

 それも道理です!
 毎朝、店を開ける時は開店で、毎夕、店を閉める時は閉店ですからね!
 否、順序が逆ですから、「開店セール」としなければなりませんかも?


○ 一人欠け二人三人四人欠け遊び仲間に酒飲み仲間 (相模原市)大日向博

 「遊び仲間に酒飲み仲間、どんどん欠けて行くが宜しい」との場面でありましょうか?
 まさかね!


○ 草を引く軍手の中に緩くなりし指輪が回る夫なき余生 (岐阜県)棚橋久子

 朝日歌壇の読者の皆様方がご承知の通りのご高齢にも関わらず、本作の作者の棚橋久子さんが、未だにお庭の草引きを為さって居られるとは!
 「お気の毒に!」と申し上げれば宜しいのでしょうか!
 「お元気で何よりです!」と申し上げれば宜しいのでしょうか!
 でも、棚橋久子さんぐらいのご高齢になられますと、指だってそれ相当にスマートなりますからね!  

今週の「朝日歌壇」から(11月28日掲載・そのⅠ)本日特出し大公開!乞う、ご期待!

2016年12月06日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○ 草を食む鹿の首すじしなやかに秋の陽射しは滑り落ちけり (奈良市)山添聖子

 一首の意は「春日野で『草を食む鹿の首すじ』が『しなやか』であるが故に、その鹿の首筋を射す『秋の陽射し』は『しなやかに』『首すじ』から『滑り落ち』てしまった」と、いったところでありましょう。
 三句目の副詞「しなやかに」が、「草を食む鹿の首すじ」という上の句と「秋の陽射しは滑り落ちけり」という下の句とを「しなやかに」繋ぐ役割を果たしている。
 また、言外の意として、小春日和の温かさが感じられる佳作である。
 他の作品を措いて、本作を首席入選作品となさった馬場あき子先生の選歌眼の健在振りにも、私たち本作の鑑賞者は留意するべきでありましょう。


○ 漆胡瓶つぶさに見んと単眼鏡のぞけば瞠る貌迫りくる (浜松市)松井 恵

 「『迫りくる』ところの『瞠る貌』」とは、「正倉院御物の『漆胡瓶』を『つぶさに見んと』して『単眼鏡』を覗いていらっしゃる作者ご自身の『貌』」でありましょうか?
 馬場あき子先生の選評に「正倉院御物の漆胡瓶の美と底力のある深さに魅了された。これも下句に迫力がある」とありますが、私・鳥羽省三も亦、全く同感であります。


○ 診療所の庭に小菊の咲きいでて富岡製糸に女工哀史なし (蓮田市)斎藤哲哉

 本作の作者・斎藤哲哉さんがお住まいの蓮田市と言えば、その昔、私が上野発、奥羽本線の学割付き九百八十円の片道切符をポケットに入れて帰省する時の途中経過駅の一つであり、件の片道切符の券面には、今となっては記憶の彼方にさってしまったもう一つの駅の名称と共に、「蓮田経由」と、墨黒々と印刷されていたものでありました。
 そうした次第で、その頃の私(二十歳前後の私)は、旅行鞄にアメ横で買ったバナナを一房詰めた私を乗せて上野駅を発車した急行津軽が、埼玉県の大宮駅を通過すると、「間も無くこの列車は蓮田駅を通過するに違いない」と予め見当を付けていて、「蓮田とは、一体全体、どんな町だろう。私の知らない蓮田の町に住んでいる人々はどんな顔をしているのだろうか。どんな仕事をして暮らしているのだろうか」などと、さまざまなる妄想に耽りつつも、急行津軽号が件の駅を通過する瞬間を今か今かと待ち構えて居たものでありました。
 それから四十年余り過ぎた頃になって、私はよんどころない事情に因って、一年間だけ埼玉県の川口市に住んで居りましたが、その時期の、とある秋の一日に、かつての私があらぬ妄想に耽った町である、埼玉県蓮田市を訪れましたが、〈何の事は無い、私の青春の夢の埼玉県蓮田市とは、首都・東京の衛星都市とは名ばかりで、畑の中に建坪二十坪足らずの安手の二階建て住宅が立ち並ぶ、ただの田舎町〉に過ぎませんでした。
 そもそも、埼玉県には「市」を名乗る田舎町が多過ぎはしませんか?
 さいたま市・川口市・川越市・熊谷市・春日部市・所沢市・上尾市ぐらいならまだしも、それ以下の、飯能市・秩父市・狭山市・羽生市・鴻巣市・深谷市・蕨市・戸田市・草加市・入間市・朝霞市・志木市・和光市・新座市・久喜市・桶川市・北本市・八潮市・富士見市・三郷市・蓮田市・坂戸市・幸手市・鶴ヶ島市・吉川市・ふじみ野市・日高市・白岡市などの類は、広大なる武蔵野の一郭に鍬入れをして切り開き、建坪二十坪足らずの二階建て住宅を立て並べただけの事であり、その彼方から有機肥料の匂いがほのぼのと漂って来る、ただの田舎町ではありませんか?
 妄想の赴くままに、つい、うっかり、大恩ある埼玉県の事を悪し様に言ってしまいましたが、よくよく考えてみると、動物でも植物でも、モノは何でも、体温の感じる所にしがみついて離れないと言うではありませんか。
 一例を上げて説明すれば、敗戦直後の私たち日本人の身体に棲み付いて離れなかった蚤や虱の類が然り、春の野山を散策しているといつの間にか衣服に喰っ付いて離れない〈ゐのこづち〉の類も然りでありましょう。
 そう言う次第でありますから、本作の作者の斎藤哲哉さんよ、貴殿がお住まいになって居られる埼玉県の悪口を立て並べた私の犯した罪をお許し賜りたくお願い申し上げます。
 閑話休題。
 ところで、本作の作者の斎藤哲哉さんは、本作の下の句に於いて「富岡製糸に女工哀史なし」と仰って居られますが、それは、〈件の富岡製糸場の世界遺産登録にご努力なさった人々を中心とした、同施設の関係者や研究者諸氏が、〈同施設をあまりにも神聖視し、その永久保存及び早急なる世界遺産登録を願うあまりに、いつの間にか喧伝し、独り歩きしてしまった都市伝説〉の類かと私は存じている次第でありますが、その点に就いての世の識者の方々のご識見を拝聴したいと、私は、かねてより深く念願している次第であります。
 それともう一点、上の句に「診療所の庭に小菊の咲きいでて」とあり、下の句に「富岡製糸に女工哀史なし」とありますが、一見しただけでは、この一首の上の句と下の句との関わりが判然としません。
 或いは、世界遺産に登録された富岡製糸場の施設内に、糸繰り女工さんたちの健康管理の為に設置された「診療所」が在り、その「庭」に、過ぎし日の女工さんのか弱くも可愛らしい姿を彷彿とさせる「小菊」が咲いている、と、作者は言いたいのでありましょうか?
 それとも、上の句中の「小菊」と下の句中の「富岡製糸」とは何らの関わりもないが、我が家の「庭」に咲いている「小菊」を目にするにつけても、作者は「この度、世界遺産に登録された『富岡製糸に女工哀史』が無かったことが偲ばれる」と言うだけのことでありましょうか?
 文意が曖昧な事に因って一首の趣が深まる場合がありますが、本作の場合は、必ずしもそのケースとは言えません。


○ 何ごとも自ら決める権利なき獄中に居て内なる自由 (ひたちなか市)十亀弘史

 本作の作者の十亀弘史さんは、それ相当の悪事を為してこその「何ごとも自ら決める権利なき獄中」生活を為さって居られる訳でありますから、とり立ててその事を弁明して言う必要はありません。
 だが、それにも関わらず、それを殊更に一首の中で述べた挙句に、「そうした私にも、例えば、短歌を詠んで朝日歌壇に投稿する自由や、朝日歌壇に掲載された自作の短歌を目にして満足する自由が在り、そうした自由は、私にとっての獄窓の中の自由であり、私の心の中の自由でもある」と作者は述べて居られるのでありますが、人間、欲を言っていたらきりがありませんから、そうした「内なる自由」を思う存分に活かされて、優れた短歌を沢山お詠みになられ、一日も早く収監を解かれるようにお努め下さい。


○ 代掻きを馬鍬でしてたホーさんがトラクター買う水牛売りて (所沢市)若山 巌

 作中の語「ホーさん」及び「水牛」から推してみると、この歌の題材となっているのは、我が国以外の米作地帯の出来事であろうと推察されます。
 作者の若山巌さんに問いますが、作中の「ホーさん」の現住地は、ベトナムでありましょうか、それとも、タイでありましょうか、或いは、インドネシアでありましょうか、ミャンマーでありましょうか?
 まさか、台湾ではありませんよね!


○ 鰤の子のフクラギ・ガンドまだ海で泳ぎたい目を光らせ並ぶ (石川県)瀧上裕幸

 富山県や石川県などでは、出世魚である「鰤」を、その成長の段階を追って、「ツバイソ → コズクラ → フクラギ → ガンド → ブリ」と呼んでいるそうである。
 で、あるならば、「フクラギ」及び「ガンド」の段階は、「鰤の子」が、出世魚としての最高段階である「ブリ」になる一歩手前の段階であり、それくらいの大きさになると、街の魚屋さんの屋台に載せられて売り捌かれて行くのを待っているのでありましょう。
 その「『鰤の子のフクラギ・ガンド』たちが『まだ海で泳ぎたい目を光らせ』て、街の魚屋さんの屋台に『並ぶ』」とは、私たち人間にしろ、鰤などの魚類にしろ、生きるという事は何とも哀れなことではありませんか!

 
○ 真っ白のマフラーでくるむ霜月の朝は空っぽ静かに始まる (芦屋市)室 文子

 ただでさえも冷え切っているが故に「霜月の朝」は「空っぽ」なのでありますが、その「霜月の朝」に、自らの身体を「真っ白のマフラーでくるむ」と、更に空白感がブラスされるのでありましょう。
 そんな「空っぽの朝」、否、「朝の空っぽ」が「静かに始まる」時空間を、本作の作者の室文子さんはお母さんと一緒に、芦屋市の台所を預かる大原市場にでも買い出しにお出掛けになられるのでありましょうか?


○ マイインコくいしんぼうで困るけど私のつかれも食べてくれるの (東久留米市)辻 夏妃

 「マイインコ」と来たもんだ!
 こう言う言い方が許されるところに、今の日本人の増上慢がもろに嗅ぎ取られるのである。
 私はかつて、〈元カノ〉に「マイインポ」と言われた事がありましたが、その女性とはすったもんだの挙句に喧嘩別れをしてしまいました。
 人間に対してにしろ、小鳥に対してにしろ、女性が誰かを「マイインコ」だとか「マイインポ」だとか、「マイ」付きで呼んだ場合、呼ばれた当事者は自分がさも件の女性から愛されているかの如くに錯覚しがちでありますが、女性が何かを「マイ」付き呼ばわりする場合は、必ずその女性の所有欲や支配欲がもろに発揮された時ですから、私たちオス族はよくよく注意しなければなりません。


○ 迷い亀押さえつけても尚もがく外来種は強し魚も草も (加古川市)境田正義

 「外来種」がいかに強いかは、前述の如く、西洋タンポポと日本蒲公英との繁殖振りを比較して見れば、一目瞭然でありましょう。
 また、人間界の出来事を例に取ってみても、マラソンにしても大相撲にしても、全て外来種に蹂躙されている始末ではありませんか!
 ところで、ミシシッピアカミミガメやカミツキガメやアカミミガメなどの外来種の亀は、押さえつけようとしてもなかなか押さえ付けられません。
 まかり間違って噛み付かれたら最期、指の五、六本ぐらいはたちまち喰い千切られてしまいますから、用心の上に用心を重ねて事に当たらなければなりません。
 要するに、公園の池などで外来種の亀を目にしたら、即刻最寄りの保健所に電話連絡しろっていう事ですよ!
 

○ 人よりも牛の頭数多き村穂芒揺らし霰降りくる (前橋市)荻原葉月

 「人よりも牛の頭数多き村」にさえも、神の恵は公平に分配されるものであり、晩秋ともなれば「穂芒」を「揺らし」て「霰」が「降りくる」のでありましょう。
 「穂芒揺らし霰降りくる」とは、「人よりも牛の頭数多き村」の住民の一人としての実感の込もった表現でありましょう。 


[佐佐木幸綱選]
○ 十日夜遥かに望む雁渡し関東平野稲架連なれり (朝霞市)青垣 進

 呼んで字の如く、一目瞭然の景色を題材にした作品であり、文意も極めて明瞭でありますから、これ以上の解説を無用と存じますが、私は、かつて柳田邦雄門下の民俗学者・大島建彦先生の膝下に居た者でありますから、以下の如く、本作中の語、「十日夜」及び「雁渡し」に就いて、気の赴くままに解説させていただきます。
 冒頭の名詞「十日夜」は「とおかんや」と訓み、旧暦の10月10日に、主として東日本で行われる収穫祭の事を言います。
 この夜は、稲の収穫を祝って餅を食したり、稲刈り後の藁を束ねて藁鉄砲を作り地面を叩きながら唱え事をして地の神を励ます行事が行われる、とのことでありますが、藁鉄砲で地面を叩くのは、農作物に悪戯をする土龍を追い払う為だ、とのことであります。
 昔は、この日には田の神様が里を離れ山に帰るとされ、稲刈りはこの日まで終わらせなければならないと考えられていた、とのことであります。
 また、「十日夜」に行う民俗行事には、地域に依ってさまざまに異なった特色があります。
 例えば、山国の長野県では、案山子を田の神様に見立ててお供え物をする「案山子上げ」が行われ、武蔵野のど真ん中に当たる東京都田無市では「大根の年取り」が行われる、とのことであります。
 田無市の民俗行事の「大根の年取り」は、大根畑にぼた餅を埋めて大根の豊作祈願をするのでありますが、同じ東京都内でも、他の地域の「大根の年取り」では、大根畑に入るのを逆に避ける風習があったそうです。
 私の故郷では、「お大黒様」と言って、黒豆の膾に、黒豆の煮付けに、黒豆入りの味噌汁といった、黒豆尽くしの食べ物を食べる行事が在ったように記憶しておりますが、この行事も亦、地方版の「十日夜」であったと、今になって思い出されます。
 事の序でに、更に敷衍して説明すれば、西日本では、十月の亥の日に同じような収穫祭が行われた、とのことです。
 この行事は、一般的に「亥の子」と呼ばれていますが、元来は、中国から伝来した風習で、豊作を祈願して餅を食する、と言うことであります。
 次に、「雁渡し」とは、「大陸から雁が列を連ねて渡って来る、初秋の頃に吹く北風」の事であり、「青北(あおぎた)」とも呼ばれ、俳句の秋の季語としても用いられて居ります。
 尚、当代人気の女性歌手・水森かおりの曲に「雁渡し」という、叙情性たっぷりの名曲が在る事は、先刻から皆様ご存知の事と拝察し、此処にあらためてその歌詞を引用するような野暮な事は、決して決して致しません。


○ 戦争は戦争の顔してこぬと雪崩の予感に眠りは浅し (鎌倉市)小島陽子

 鎌倉は三方が山に囲まれた地形でありますから、「雪崩」と言うよりも、住宅地への土砂崩れの怖れ無しとしません。
 それにしても、たかが「雪崩」や〈土砂崩れ〉の如きの災害を「戦争」に例えるとは、如何に〈鎌倉夫人〉と言えども、いささか大袈裟過ぎはしませんか?


○ 空港の騒音下に七観音と六地蔵の塔ひっそりと泣く (成田市)神郡一成

 「空港の騒音下」に鎮座ましますれば、「ひっそりと泣く」「七観音と六地蔵の塔」の泣き声は、滅多矢鱈に私たち庶民の耳に届くことはありません。


○ 離婚前夫婦でドライブ2ショット記念に撮りぬ秋の高野山 (大阪市)浜口真智佳

 能天気な事をおっしゃて居られますが、短歌の鑑賞者の私にだって選ぶ権利はありますから、私は、この一首を見なかったことにしてスルーパスする事にさせていただきます。


○ 通帳を処分診察券も処分亡くなった名が失くなってゆく (大和市)林 有美

 大和市にお住まいの林有美さん及び、その兄弟姉妹の方々は、遺言状の記載に従って、ご両親に当たる方がお亡くなりになった後で、亡くなった方名義の銀行預金額の全てを下ろした後の空っぽの預金通帳を処分し、元々何の役にもたたない病院の診察券を処分したのでありましょうが、それを掴まえて「亡くなった名が失くなってゆく」などと短歌に詠むとは、〈人間の業ここに見たか!〉とも言うべき業突張りでありましょう。
 言われて見れば確かに「亡くなった名が失くなってゆく」のでありましょうが、それが確かな事実であればこそ、人間は死人になりたく無いものである。


○ 夜の庭の主は狸偶さかに昼に出て来て落柿を食べる (日立市)鰐淵仁子
 
 俳聖・松尾芭蕉の高弟・向井去来は、儒医向井元升の二男として肥前国に生を受け、上京して堂上家に仕え武芸に優れていたが、二十七歳にして武士の身分を捨て隠士となり、貞享3(1686)年、三十五歳時に京都・嵯峨野に「落柿舎」と名付けるささやかな庵を構えて風雅の道に勤しんだと云う。
 落柿舎には、師・松男芭蕉も両三度に亙って訪れ、俳文『嵯峨日記』は落柿舎滞在時に執筆したとされている。
 向井去来は、彼と共に「蕉門十哲」の一人に数えられる野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集『猿蓑』を編纂して名を上げ、師・芭蕉をして「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」と云わしめたのであるが、次に引用する「落柿舎記」は、向井去来が別邸・落柿舎を営むに当たって草した記念碑的な俳文である。

   『落柿舎記』 向井去来

 嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持來らず、代がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥が志にもはぢよ、若鳶烏にとられなば、天の帝のめぐみにももれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより商人の來り、立木にかい求めむと、一貫文さし出し悦びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ聲、よすがら落もやまず。明れば商人の見舞來たり、梢つくづくと打詠め、我むかふ髮の比より、白髮生るまで、此事を業とし侍れど、かくばかり落ぬる柿を見ず。きのふの價、かへしくれたびてむやと佗。いと便なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友どちの許へ消息送るとて、みづから落柿舎の去來と書はじめけり。
    柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山

 上掲・鰐淵仁子さん作の一首の鑑賞の道導として、向井去来の「落柿舎記」を上記の通り引用したのでありますが、本ブログの愛読者の方々は、その趣旨を十分にご理解なさった事でありましょう。
 元禄の昔の俳人・向井去来は、売却約定済みの柿の実が一夜の風に因って「ころころと」落下したが故に、銭・一貫文を儲け損なったのであるが、本作の作者・鰐淵仁子さんは、虎の子の柿の実を狸に食われたが故に上掲の佳作一首をものして、朝日歌壇の佐佐木幸綱選の入選作という栄誉を獲得なさったのである。


○ 猪が我が物顔に庭を掘る嗚呼!チューリップ嗚呼!ユリの花 (兵庫県)高垣裕子

 これまで度々に亙って記して参りましたので、当ブログの愛読者の方々に於かれましては、先刻よりご承知の事と拝察されますが、斯く申す、私・鳥羽省三は、今を去ること十六年前、神奈川県での国語教師暮しから足を洗って、北東北の田舎町に一戸の庵を営み隠棲したのでありましたが、その折り、風雅の嗜みの真似でもしようとして、カサブランカなどの百合の類やチューリップやサンダーソニアといった花の球根を代金・数十万円を費やして取り寄せ、庭一面に植えたのでありました。
 然るに、それらの花の球根の大方は、その翌年の冬に群を成して我が家の庭に襲来する鼠族に食べられてしまいました。
 思うに、彼ら鼠族は、我が庵に接して建てられていた、ある米穀販売業者の倉庫の地下にでも巣食っていたものと推察されます。
 そういう次第で、私には、兵庫県にお住まいの高垣裕子さんのお気持ちの程は極めてよく解ります。


○ 霜月に冬は突然やってきてアンソロジーを私に返す (東京都府中市)船越理絵

 「アンソロジー」とは、「詩撰集・詩歌撰集・詞華集」。
 本作の作者・船越理絵さんにとっての秋という季節は、彼女を夢の世界に誘い、夢想させる季節であったのであるが、それなのにも関わらず、未だ秋真っ只中の「霜月に冬」が「突然やってきて」ロマンチストの彼女を現実の世界に引き戻したのである。
 という次第で、作中の下の句の「アンソロジーを私に返す」とは、「私を現実の世界に引き戻す」といった意味なのかも知れません。


○ 晩秋のわが家を幾度もノックする啄木鳥のいてほうきふるわれ (アメリカ)西岡徳江

 「ほうきふる」とは、あまりに酷過ぎます。
 アメリカ合衆国のメリーランド州にお住まいの西岡徳江さんは、まるで魔法使いのお婆さんみたいな仕草をして啄木鳥を追っ払っていらっしゃるんですね!


○ 誰とでも繋がる世界その中で誰にも言えずつぶやく言葉 (東久留米市)森山のぞみ

 「つぶやく」とは、「小声でひとりごとを言うこと」であるが、それは必ずしも、この「世界」の「誰」とも繋がりたくないという話者の意志の現れとは限りません。
 現に、私・鳥羽省三などは、夜、ベッドに入ってからも、トイレの中で薀蓄を垂れている時でも、横断歩道で青信号になるのを待っている時でも、いつもいつも何かを呟いているのであるが、それは誰かと繋がりたいという、彼の意志を現れなのである。
 そもそも、「誰とでも繋がる世界」という能天気な断定自体が間違っているのである。




今週の「朝日歌壇」から(11月21日掲載分・其のⅣ)

2016年12月05日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○ 病床でピアニストだった人が弾く調べは音のないポロネーズ (松原市)久木山恵

 より解り易く言えば「ピアニストだった人が病床で弾く調べは音のないポロネーズ」という言葉の運びとなるのでありましょう。
 要するに、連用修飾語として「弾く」に掛かって行く「病床で」を、短歌としてのリズムの関係の上から歌い出しの五音として置いてしまったのである。
 私・鳥羽省三としては、前述の如く「ピアニストだった人が病床で弾く調べは音のないポロネーズ」とすれば、句割れや句跨りを伴った新しいリズムの短歌となり、しかも原作よりは内容が解り易くなりますから、原作に勝るとも劣らない短歌が生まれたはずである、と思うのである。
 たまには〈五七五七七〉の伝統的リズムから解放された短歌を詠んでみるのも必要なことでありましょう。


○ 十余年家族の尻を支ヘ居てはつか歪めり我が家の便座 (川崎)谷藤勇吉

 「待ちに待った期待の新人歌人登場!」という場面でありましょうか。
 今週の朝日歌壇の高野公彦選の二席入選を果たした、川崎市にお住まいの谷藤勇吉さんは、六十年前の過去から、朝日歌壇の入選作品の鑑賞及び論評に当たっている私・鳥羽省三にとっては、全く未知の存在であるが、それにしても、谷藤勇吉さんとは、かなり薹が立ち、かなり捻くれたご性格の歌詠みである。
 なにしろ詠むも詠んだり、この作品の内容は、「過去十年余りも、我が家の家族の汚いお尻を支えて居たが故に、我が家のトイレの便座は少しばかりその形が歪んでいる」という、真に尾籠かつ不衛生極まりない内容でありますから!
 作者の谷藤勇吉さんは、「我が家の便座」が「はつか歪めり」とまでは仰って居られますが、件の「便座」は、ただ単に僅かに歪んでいるばかりでは無くて、それ相当に黄ばみかかってもいるはずであるが、それを知りつつも、そこまでは言わないところが、期待の新人歌詠みの節度というものでありましょうか?
 

○ ランニングコストが安いと原発の廃炉に掛かる金は無視して (甲府市)内藤克人

 「ランニングコスト」とは、「企業などに於いて設備や建物を維持するために必要となるコスト」のことを言うのであり、これを、東京電力や中部電力・関西電力といった原子力発電所を持つ、大手電力会社を例に上げて説明すれば、例えば、「福島第一原子力発電所の発電設備が出来上がり、これが稼動されるようになってから廃止をされるようになるまでの期間にかかるコスト」が、彼ら・電力会社の幹部や原子力発電を推進しようとしている我が国の政府の言う「ランニングコスト」なのである。
 従って、当然の事ながら、その原子力発電所が、何かの都合で使われなくなった場合の、施設・設備の撤去に要する費用や、その施設設備が齎した環境被害への賠償金や見舞金、施設廃棄後の〈核汚染物質〉の処理に要する費用などは、一切含まれていないのである。


○ ビッグイシュー掲げる人を知らぬげに過ぎゆく人に紛れるわたし (高槻市)福原よし子

 作中の「ビッグイシュー」とは、「ホームレスの社会復帰に貢献することを目指すとする企業」の名称であり、また「イギリスを発祥に世界で販売されるストリート新聞」のことであるが、その日本版が、我が国に於いても去る2003年9月に創刊されて、一冊、三百五十円で、大都会の盛り場や駅前などの人通りの多い場所で販売されるようになりました。
 本作の作者の福原よし子さんは、その「ビッグイシュー」の社会的な意義を知りつつも、それを頭上に「掲げ」て販売しようとしている「人」を「知らぬげに過ぎゆく人」に「紛れ」て、何がしかの罪の意識に苛まれつつも、その盛り場を通り過ぎたのでありましょう。
 余人はいざ知らず、こと作者ご自身に限って言えば、大阪府高槻市にお住まいの福原よし子は、「ビッグイシュー」の存在の社会的な意義も、その日本版を盛り場で販売している人々がどんな人々であるかを十分に知っていただけに、その時、その場で自らが行った行為が、いかにも恥ずかしい行為のように思われてならなかったのでありましょう。


○ 富士登山戻った子らがたくましくその日を境にお母さんと呼ぶ (東京都)村田晴美

 それはそれは、真に有り難い「富士登山」でありましたことよ!


○ 近道の路地に迷へば聞こえくる京西陣の機織りの音 (瑞穂市)渡部芳郎

 言いたい事は、要するに「京都・西陣の路地を迷いながら歩いていたら機織りの音が聞こえて来る」ということでありましょう。
 然るに、本作の作者は、「その西陣の路地が自分が目的地に行くに当たっての近道であること」、更には「機織りの音と言えば、それは西陣ならでは音である」というと言うご自身の思いをも付け加えたが故に一首の表現が混雑を極め、文意不明瞭の作品になってしまったのである。
 短歌一首に使える文字数は、平仮名書きにしてもわずか三十一字である。
 従って、その中に盛り込める伝達内容は、自ずから限定されたものになりましょう。
 然るに、本作の作者・渡部芳郎は欲張って、あれもこれもと整理すること無く詰め込んだが故に、こうした文意不明瞭な作品を詠んでしまったのでありましょう。
 

○ 増えに増えし西洋タンポポ憎まねど日本蒲公英探して施肥す (岐阜県)棚橋久子

 「帰化植物である『西洋タンポポ』に逞しい繁殖力に圧倒されて、『日本蒲公英』はそのうちに絶滅してしまうであろう」などとマスコミが大袈裟に報道するようになったのは、私たち日本人の多くが、敗戦の混乱から立ち直って三度三度の食事に不自由しなくなった頃かと思われます。
 それ以来、件の「西洋タンポポ」とやらは、学童たちからも憎まれ、目の敵にされて来たのであるが、よくよく考えてみると、昭和十五年生まれの私の少年時代から、私たち日本人の目の前に咲いているタンポポの殆どは「西洋タンポポ」だったのである。
 〈弱肉強食〉とはよく言ったもので、生活力の強い者が生活力の弱い者を打倒して勢力を拡張して行くことは、動物にしろ、植物にしろ、自然の流れであり、人間さえもその例外ではありません。
 とは言うものの、数多くの人間の中には、そうした自然の摂理に逆らい、ある特定の生物に「絶滅危惧種」などという美名を奉り、その絶滅を防ごうなどと言い出す者がいるのであり、現代社会に於いては、自然の摂理に逆行しているとも思われる、彼らのそうした行為が、人間の為すべき倫理道徳に適った行為として推奨されているのである。
 と言うことになりますと、本作の作者・棚橋久子さんが現在行っている、「日本蒲公英」を「探して施肥す」るといった行為は、現代社会に於いては格別に新聞紙上で告白して、他人に謝罪しなければならないような行為ではなく、むしろ他人に語って誇るべき善行なのかも知れません。
 然しながら、「日本蒲公英」を「探して施肥す」るというような行為は、私・鳥羽省三には、やはり、この宇宙の全てを統べる神様が私たち人間に与えた摂理から遠く離れた越権的な行為のように思われてならないのである。
 日本狼や獺が我が国の自然界から消えてしまったのも、それが神の摂理というものであれば致し方がありません。
 ラン科植物が我が国の自然界から消えてしまおうとしているのも、それが神の摂理というものであれば、私たち人間とても、何とも致し方がありません。

今週の「朝日歌壇」から(11月21日掲載分・其のⅢ)北方四島以南、本日堂々特出し大公開!乞う、ご期待!

2016年12月04日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]
○ 秋なれば本の栞にこと欠かず橅、柿、桜、檀、鎌柄 (長野県)千葉俊彦

 「橅、柿、桜」までは、何となくイメージすることが出来ますが、「檀、鎌柄」ともなれば、その葉や花の形は勿論のこと、その木自体さえも見たことがありませんので、その葉が果たして「本の栞」としての役割を果たせるかどうか判りません。
 [反歌] 霙、淡雪降り頻り十一月二十四日外出出来ず


○ 誰が決めし木斛目白に黐は鵯山雀に蘞柿は椋鳥 (逗子市)織立敏博

 第十六歌集『ほろほろとろとろ』所収の「目白来て鵯がきて鶫来て椋きたれども母はいまさず」は、佐佐木幸綱氏がお詠みなった、ご慈母・佐佐木由幾氏のご逝去に際しての追悼歌でありますが、この一首に登場する鳥類は、掲出の一首に詠まれている通り、目白が木斛に、鵯は黐の木に、椋鳥は柿の木にと、それぞれ規則正しく止ったと思われますが、鶫だけが何の木に止まったのか判りません。
 [反歌] 鶫来て柿の実を喰ふ椋鳥は己が縄張り侵略されつ


○ 図書室は金の光に包まれてキノコ図鑑を探す放課後 (仙台市)赤松みなみ

 「放課後」の「図書室」に射し入る〈夕日の陽射し〉を「金の光」と述べられたのでありましょうが、「金の光に包まれてキノコ図鑑を探す」という叙述から想像されるのは、〈金色キノコ〉などの毒茸の類でありましょう。
 [反歌] 毒茸は金の光を放ち居り司書の去りにし真夜中の書庫


○ 未熟さに泣いてぽっかりあく穴に詰め込んでいる夕焼けの色 (吹田市)小林そらの

 「夕焼けの色」が射すのは、〈薩摩芋畑の穴〉ならぬ「未熟さに泣いてぽっかりあく」人間の心の「穴」であったのでしょうか?
 [反歌] どの穴に詰め込んだのか夕焼けの色は縹か琉金の尾か


○ 猪の姿続けて三日見る住処なくした人を偲ばす (久留米市)塩山雅之

 「猪」が出没するのは、主として中部以西の西日本であったのですが、私が昨日得た故郷便りに拠ると、その「猪」が、近年は山形と県境を接する秋田県の山岳地帯にも出没しているとのことであり、地元住民は戦々恐々としているとのことであります。 
 でも、この一件で以て、秋田県民を笑いものにしてはいけませんよ!
 今どき、熊に食われて死ぬような正直者は秋田県民ぐらいのものでありましょう。


○ 大根を蕪菁葉蜂に遣られては蒔き直したり今年三度目 (徳島県)一宮一郎

 「蕪菁葉蜂」の訓みは「かぶらはばち」、「昆虫綱膜翅(まくし)目ハバチ科に属する昆虫。原種は広くヨーロッパから朝鮮半島まで分布する。体長約7mmで、頭と胸部の後半が黒く、ほかは橙黄色で、羽は暗色を帯びる。幼虫の食草はアブラナ科の植物で、ダイコン、カブなどに被害が出ることがある。幼虫は2cm近くになり、黒いビロード状のイモムシで、ナノクロムシと呼ばれる。年5、6回発生し、土中に繭をつくり、その中で前蛹体(ぜんようたい)で越冬する。アブラナ科の野菜には本種と同属のニホンカブラハバチとセグロカブラハバチがつき、前者は春秋の2回発生、後者は5、6回発生する。」と、奥谷禎一氏は「日本大百科全書」に記している。
 徳島県にお住まいの一宮一郎さんの大根畑が、件の害虫「蕪菁葉蜂に遣られて」、一年に「三度」も「蒔き直し」をしなければならなかったのは、私・鳥羽省三としては「真にお気の毒様」としか申し上げようがありません。
 折りも折り、大消費地の首都圏内各地のスーパーや八百屋では、大根が物凄い高値を呼んでいますから、蒔き直した大根を正月前にご出荷なさって、気持ちにゆとりのある新年をお迎え下さい。


○ 草取りでゐのこづちだらけの我の横ゐのこづちだらけの猫通る (延岡市)片伯部りつ子

 「ゐのこづち(いのこずち・牛膝)」は「ふしだか・こまのひざ」とも呼ばれ、「ヒユ科の多年草。平地によく見られる雑草。茎は四角形で節が太い。小さな実には刺があって動物や人の衣服に付着し、払っても取れ難い。牛膝(ごしつ)は漢名。根は生薬として用いられる。」とか。
 また、俳句の秋の季語としても用いられ、「ゐのこづち野武士の貌の猫帰る」は、俳誌「京鹿子」所属の平佐和子さんの詠んだ名吟でありますが、この俳句でも、延岡市にお住まいの片伯部りつ子の短歌でも、「ゐのこづち」と猫との取合せが見られるのは、引っ付き虫の植物「ゐのこづち」が、毛むくじゃらの猫の身体にくっ付き易いからでありましょう。


○ まえのはがさんぼんぬけたよわらったらかぼちゃのおばけのくちになったよ (奈良市)山ぞえ葵

 それはそれは、お気の毒様でした。
 それはそれとして、さる十月三十一日のハロウィーンを前にして、我が家では昨年の失敗に懲りて、明治製菓のチョコスナック・「きのこの山」や「たけのこの里」などを大人買いして、悪魔に扮装した子供たちの訪れを待っていたのでありましたが、周到に準備していた今年に限って、子供たちの訪れは無く、私も家内も愕然として思いに囚われた次第でありました。
 そこで、その解決策として、その翌日に、私と家内は、自宅と徒歩十五分の距離に在る、家内の実妹宅を訪れ、手土産代わりにそれらのお菓子を手渡したのでありましたが、その翌日の昼の留守中に、あろうことか、飼い犬のクロがチョコスナックの殆どを食べてしまったとのこと。
 昔から「犬にチョコレートを食べさせることは、人間にマリフアナを吸わせることも同然だ」との話がありますから、私と私の連れ合いとは、「私たちの不注意が飼い犬クロの死に繋がるのではないか?」と心配していたのでありましたが、あれから二十日以上過ぎた今日まで、クロが死んだという話は聞きません。

今週の「朝日歌壇」から(11月21日掲載分・其のⅡ)

2016年12月03日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○ 薩摩なる峡の陶房ゆらゆらと壺立ち上がり柿の実熟るる (霧島市)久野茂樹

 「陶房」の背景として枝もたわわに実を付けた「柿」の木が生えている光景は、日本全国各地の陶磁器生産地で見られる光景であるだけに、「薩摩なる峡の陶房」と「柿の実熟るる」との取合せはやや平凡である。
 然しながら、足踏み式の轆轤から粘土の「壺」が生き物のようにして立ち上がる光景の描写としての「ゆらゆらと壺立ち上がり」という表現は、その場の雰囲気をよく掴まえているのでなかなか宜しいと思われます。
 [反歌] ゆらゆらと登り窯の火ゆらめいて秋たけなはの丹波立杭
 

○ 山林に自由は存れど家近き山除染せず帰還るに難しと (福島市)青木崇郎

 国木田独歩作の新体詩「山林に自由存す」は、私たち日本国民のよく知るところであるが、本作は、その詩の一部を取り込んで、被災地・福島の県民としての望郷の念を詠んだ歌である。
 然しながら、殊更に「帰還(る)」と漢字書きして、それを「かえ(る)」と読ませようとする表現には、かなりの無理がありましょう。
 何事にも限度というものがあり、特殊なフリガナに寄り掛かった短歌には「秀作・佳作・傑作」と呼べるような作品が無い、と本作の作者及び選者の永田和宏氏は知るべきである。
   山林に自由存す
   われ此の句を吟じて血のわくを覚ゆ
   嗚呼山林に自由存す
   いかなればわれ山林をみすてし
   あくがれて虚栄の途にのぼりしより
   十年の月日塵のうちに過ぎぬ
   ふりさけ見れば自由の風は
   すでに雲山千里の外にある心地す
   眦を決して天外を望めば
   をちかたの高峯の雪の朝日影
   嗚呼山林に自由存す
   われ此の句を吟じて血のわくを覚ゆ   国木田独歩作「山林に自由存す」
 [反歌] 木も土も核物質に汚染され夜の森公園花見客無し


○ 『禮記』手に五十を艾と板書する生徒らを背にしばし佇む (朝霞市)青垣 進

 「艾」の字は「よもぎ」と訓読するのであり、人間も五十歳ともなれば「髪が艾 (よもぎ) のように色あせて白くなる」ことから、「五十歳」という年齢を指して「艾」と言ったり「艾年」と言ったり「艾老」と言ったりするのである。
 ところで、廿一世紀も四半分を過ぎた現在に於いては、「五十歳」という年齢はこれからという年齢である。
 私は、七十代の半ばに達して居りますが、「昔の年齢は今の年齢の七掛け」と言いますから、私は、今まさしく「艾老」でありましょう。
 本作の作者の青垣進さんも亦、昔式の言い方で言えば、既に「艾年」に達しているので、「『禮記』手に五十を艾と板書」しながら「生徒らを背にしばし佇」んだのでありましょう。
 つらつらと思うに、人間誰しもいつまでも若く在りたいものです。
 [反歌] 『禮記』四十九篇、前漢の戴聖の著せし経書ならんか?


○ それぞれが離れた施設でニコニコと認知の母と認知の娘 (兵庫県)高垣裕子

 「認知の母」は、年齢が年齢ですから「致し方無し」としなければなりませんが、「認知の娘」とは、これは亦どうしたことでありましょうか?
 [反歌] 我の我足らざる所以を認知せざれば認知症なり


○ 唯一の被爆国なり発議して賛成すべきを「反対」と言う (名古屋市)諏訪兼位

 国連総会第1委員会〈軍縮についての委員会〉は、去る十月二十七日、「核兵器禁止条約」制定交渉開始を定めた決議案を賛成多数で採択した。
 この決議案は、核兵器の所有を国際的に非合法化することが目的で、核兵器非保有国のメキシコやオーストリアなどが主導して発議されたものであり、国際社会の法的枠組みの中で核兵器を全面的に使用禁止にすることを目指すものであり、延べ五十五カ国以上が共同提案し、年内に総会本会議で採択され、正式な決議となる見通しである。
 然るに、日頃から「核廃絶」を訴えている、我が国・日本は反対に回った。
 世界で唯一の被爆国でありながら核兵器禁止の条約案に反対するのは何故だろうか。


○ 母国語の辞典は二冊日本語の辞典は五冊我は歌詠む (大阪市)金 忠亀

 「日本語の辞典」を「五冊」も持っていれば、短歌を詠んだり読んだりする場合の基礎資料としては十分でありましょう。
 それはともかくとして、たったそれだけの事を述べただけのこの一首が、馬場あき子選の六席に選ばれたのは、如何なる理由があってのことでありましょうか?
 もしかしたら、選者の馬場あき子先生は、この一首の出来栄えはともかくとして、作者の〈金忠亀さんの気概を良し〉として選ばれたのかも知れません。
 [反歌] 日本語の辞書幾冊を所持しても詠めない者には詠めない短歌


○ 妙義嶺の麓に青き煙立つこんにゃく畑仕舞う晩秋 (安中市)鬼形輝雄

 「妙義嶺の麓」に「立つ」「青き煙」は、「こんにゃく」の製造工程と何らかの関わりがあるのでしょうか?
 それとも、畑仕舞いの為に焚いた火の色がたまたま青かっただけのことでありましょうか?
 そのいずれにしろ、「妙義嶺の麓」の「こんにゃく畑」から立ち上る「青き煙」は、ものみな枯れる「晩秋」の物悲しさを演出する小道具である。


○ 祭礼の幟にあらず黒に緋の「鹿に注意」北国の秋 (北海道)斉藤洋子

 お祭り好きの作者は、「黒に緋の『鹿に注意』」の立看板を、村の鎮守の「祭礼の幟」と見間違えたのでありましたが、やがて、それと気付き愕然としたのでありましょうか?


○ 奥利根の水源の森姥百合の種子飛び散れり鹿飛び跳ねて (熊谷市)内野 修

 「奥利根の水源の森」で、「鹿」が「飛び跳ね」たが為に、「姥百合の種子」が四方八方に「飛び散」る結果となったのである。
 「姥百合の種子」のみならず、植物一般の「種子」というものは、斯くして「飛び散」り、種族保存を為すのでありましょうか!

結社誌「かりん」10月号より(作品ⅠB欄抜粋)

2016年12月02日 | 結社誌から
○ 熊谷守一の猫の形に猫眠る形はかくも単純にして (広島)正藤陽子

 「熊谷守一の猫の形に猫眠る」とは、目前の光景であり、「猫眠る形はかくも単純にして」とは、目前の光景から得られた認識であるが、「猫」にしろ人間にしろ、生き物が「眠る形はかくも単純」なのである。
 こうした「単純」な「形」は「眠る形」のみならず、ありとあらゆる生き物の生きる「形」にも通じるのでありましょう。
 いろいろと示唆するところが多い作品であり、結社誌「かりん」10月号の「作品ⅠB欄」中の傑作中の傑作である。 
 広島市にお住まいの「かりん」会員の正藤陽子さんの作品には、これからも注視して行かなければなりません。


○ 「困っていることはありませんか」と見回りの隊員は孫のような若者 (阿蘇)中川 実

 本作の作者・中川実さんは熊本県阿蘇市にお住まいとのこと。
 阿蘇市と言えば、過日発生した熊本地震の被災地である。
 作中の「見回りの隊員」とは、日本全国から被災地救援の為に駆けつけたボランティアの若者の一人でありましょうか?
 作者の中川実さんは、その「見回りの隊員」を「孫のような若者」と仰って居られますが、そのように仰る時の中川実さんのお気持ちの程や如何?


○ 投票にゆく妻と吾常日頃かくあるごとく和みつつ行く (船橋)和木英哲

 「投票にゆく妻と吾」とは、「常日頃かくあるごとく和みつつ行く」とのことでありましょうが、「『常日頃』の作者と作者の奥様との間には厚い鉄のカーテンが結い廻されて、冷たい戦争が行われているのでありましょうか」といった、この作品に対する私の〈読み〉は、あまりにも偏った深読みでありましょうか?


○ 原爆忌 敗戦記念日 吾の生れし八月垣根をヤブカラシ覆う (川崎)広沢攸子

 広島長崎の「原爆忌」と我が国の「敗戦記念日」が重なる「八月」に、本作の作者の広沢攸子さんは、この世に生を享けたのでありましょうが、その「八月」に広沢攸子のご自宅の「垣根をヤブカラシ」が「覆う」とは如何なる凶事の前兆でありましょうか?
 それとも、これは彼女が今年の〈マージャンボ宝くじ〉の七億円の当選者となる前兆でありましょうか?


○ めうがの子採らんともぐる青藪にからだ透かしてつるむ舞舞 (佐渡)佐山加寿子

 佐渡市にお住まいの佐山加寿子さんが、佐渡見物に訪れる歌仲間にご馳走しようとして、お吸い物の具にする「めうがの子」を「採らんと」して「青藪」に「もぐる」と、「からだ」を「透かしてつるむ舞舞」が目についたとの内容の一首でありましょう。
 それにしても、件の「舞舞」どもは、真に以て運が宜しくありません。
 何故ならば、歌人なる人種は、目についたところ手当たり次第に短歌の題材として取り上げ、結社誌などを通じて日本中に喧伝してしまうような徒輩なのだからである。
 自らの性行為を短歌の題材にされてしまった、件の「舞舞」の前途に幸あらんことを祈る!
 

○ 肉付きが智恵子像のようだけど片胸たりない我の裸身は (青森)柴崎宏子

 「肉付きが智恵子像のようだけど」との自己認識は己惚れであり、「(肉付きが智恵子像のようだけど)片胸たりない我の裸身は」とは、あまりにも悲惨で厳しい現実的な自己認識でありましょう。
 しかしながら、人間の価値、なかんずく女性の価値は、「片胸たりない」云々で決められるような、単純なものではありません。
 青森市にお住まいの柴崎宏子さんよ、これからは「我の裸身」に「片胸」が「たりない」をことを励みとして、詠歌にご努力なさって下さい。
 とは申せ、私は何も、貴女に〈己が身体の欠陥を不幸と感じ、被害者意識丸出しの短歌を詠みなさい〉などと申し上げている訳ではありません。
  

○ 大癋見小癋見のごと朝なさな髭ととのへて祖父にあふ (川崎)塩野頼秀

 作中の「祖父」とは、今は亡き人でありましょうか?
 だとしたら、本作の作者の塩野頼秀さんは、いかにも厳しそうなそのご氏名に相応しい威厳を保持するべく、「朝なさな」、「大癋見小癋見のごと」く、殊更に「髭」を「ととのへて」、仏壇の前に膝まづくのでありましょう。
 私・鳥羽省三は、真に不可思議なるご縁で以て、本作の作者の塩野頼秀さんのご美髭を拝し奉ったことがありますが、それだけに、件のご美髭のオーナーの歌詠み・塩野頼秀さんが、ご自慢のご美髭に殊更に櫛をお入れになられて、「朝なさな」、ご自宅の仏壇の前に膝まづいて居られるとは、何ともまあ、滑稽極まりない図柄であり、〈能面の大癋見とは、その時、その場の彼のお姿に似せて、能面打ちの某が精魂込めてお打ちになられたのでありましょうか〉などと、思われてならないのであります。
 歌詠み塩野頼秀さんの畢生の傑作かと拝し奉り候。


○ 草野より出でし蝸牛は勝興寺の「越中国廰跡」の碑を這ひにじる (埼玉)江平幸子

 「草野より出でし蝸牛」が、あろうことか、恐れ多くも、阿弥陀如来をご本尊として奉る、富山県高岡市の古刹「勝興寺」の「『越中国廰跡』の碑を這ひにじる」有様に取材した一首であるが、本作を鑑賞する際に忘れてならないのは、件の健気な「蝸牛」に注がれる、本作の作者・江平幸子さんの、恰も阿弥陀如来の如き優しい眼差しである。
 私・鳥羽省三は、この一首に接して、思わず「やれ打つな蠅が手をする足をする」という小林一茶の名吟を口遊んでしまいました。