臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

結社誌「かりん」11月号より(馬場欄より抜粋)

2016年12月14日 | 結社誌から
○ 仕事終へてせいせいと夜更けの水を飲むおや黄金虫が眠つてゐる (川崎)馬場あき子

 「妻は書きその腰の辺にわれ眠る妻夜遅くわれ朝早し」とは、馬場あき子先生のご夫君・岩田正氏の歌集『鴨の歌へる』所収の名作である。
 是を以て知るに、「眠つてゐる」のは「黄金虫」だけではなかろうかと存じます。


○ 枕辺に用意するもの安眠のためのリーゼは罠の餌のやう

 「リーゼ」とは「1978年に発売されたベンゾジアゼピン系抗不安薬」であるが、その効用としては「気分を落ちつかせる・緊張感や不安感の緩和・眠りやすくする」の三点が上げられ、「比較的に副作用が少ないので、高齢者向けの精神安定剤として精神内科の外来患者に処方される」とか。
 然しながら、「あまり頻繁かつ大量に服用すると〈眠気を催したり〉や〈体がふらつく〉などの副作用が出て来る場合もある」とか!
 そういう次第でありますから、馬場先生もその服用に際しては十二分にご注意ください。
 とまで申し上げてしまいましたが、この一首の「安眠のためのリーゼは罠の餌のやう」という叙述に着目してみれば、馬場あき子先生はどうやら「リーゼ」にも副作用がある事を、既にご存じであるらしい?


○ 大きい仕事二つ減らして遠白き秋なり兎を飼はんと思ふ

 「大きい仕事二つ減らして」から後の安心感と脱力感が「遠白き秋なり」という感覚を齎したのであり、それは欠落感をも伴ったものであったが故に、それを充足する為に馬場先生は「兎を飼はんと思ふ」に至ったのでありましょう。
 馬場先生に申し上げますが、先生は短歌結社「歌林の会」という、物凄く巨大で獰猛な猛獣を飼って居られるのではありませんか!
 結社誌「かりん」は、馬場先生が面倒を見なければ誰が面倒見てくれるんですか!
 

○ 馬や鹿の生肉を食む男らよ血の匂ひあらん近づきがたし
○ 生肉は胃に入りていかに溶けゆくやからだしだいに重たくなれり

 上掲の二首は、馬場先生が、去る九月二十四日に長野県塩尻市で行われた「第30回全国短歌フォーラムin塩尻」に選者の一人としてご臨席になられた時に詠まれた作品であろうと推察される。
 ならば、当日は、馬場先生と共に、選者として佐佐木幸綱先生、及び永田和宏先生がご同行なさったはずであり、また、司会者として穂村弘氏もご同行なさったはずでありますから、「フォーラム」終了後の晩餐会にも、食い意地の張った彼ら三人の獰猛な男性がいらしたはずである。
 従って、一首目作中の「馬や鹿の生肉を食む男ら」、即ち「血の匂ひ」がして、か弱い女性たる馬場あき子先生にとっては「近づきがた」い輩とは、歌人の佐佐木幸綱氏、及び、歌人の永田和宏氏、同じく歌人の穂村弘氏のお三方を指して言うのでありましょう。


○ イエス売つて銀得しユダの夜半の手を照らしたはずだ月の光は (横浜)高尾文子

 「イエス売つて銀得しユダ」という断定的な表現は、やや月並みな表現としての謗りを免れ得ませんが、その「ユダの夜半の手を照らしたはずだ月の光は」という推測的な表現は、敬虔なカトリック教徒である作者・高尾文子さんならではのロマンチックな表現として特筆するに値するものがある。


○ 月球が創られたのはいつ、どこで、だれに、芒の原で言問ふ

 八月十五夜の月、即ち「満月」は、「月球」と呼ぶに相応しい真ん丸な月である。
 「芒の原」に立ち尽くしていて、その「月球」を眺めながら、キリスト者にしてロマンチストたる作者・高尾文子さんは、「(この)月球が創られたのはいつ、どこで、だれに(よって創られたのか)」と、誰にとも無く「言問ふ」のでありましょう。
 熟慮してみれば、「言問ふ」とは、求婚の意である。
 ならば、本作の作者・高尾文子は、彼の「月球」に住まいせる神聖なる何者かに「言問ふ」のでありましょう。


○ 熟田津に船出せむ夜のおほきみの流離を知るやけふの満月

 「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」とは、今更説明するまでも無く、万葉集中第一の女流歌人・額田王の名作である。
 『日本書紀』の記載するところに拠ると、「額田王は鏡王の娘で大海人皇子(後の天武天皇)に嫁し十市皇女を生む」とあるが、『万葉集』〈巻一〉の収録歌「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王作)と、「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子作)との二首が、「(天智)天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王と元の夫の大海人皇子との間で交わされた相聞歌である」という説に従えば、彼の万葉の美女歌人・額田王こそは、二人の男性の胸から胸へと「流離」して止まない多情多恨の女性であろうと思われる。
 本作は、「『けふの満月』を眺めていると、万葉の昔に、額田王が『熟田津に船出せむ』として待ちこがれていた月の出を偲ばせ、尚且つ、『熟田津に船出』から後の額田王の人生の『流離』の跡が、私には偲ばれるのであるが、『けふの満月』よ、お前にもその事が偲ばれるのであろうか」と、作者の高尾文子さんが、「あまりにも美しい『けふの満月』に語り掛けている」といった内容の一首であり、一首の眼目は、四句目中の一語「流離」に在る。


○ このひともこのひとも歌をうすめゆく夏の木は悔しいから濃くなる (つくばみらい)米川千嘉子

 そうです。
 米川千嘉子さんが仰せになられ、ご危惧なさっているが如く、昨今の歌壇には(もしかしたら、歌林の会の会員の中にも)「歌をうすめゆく」だけが取り得の短歌を平気で詠む歌人(歌人ちゃん)が「このひともこのひとも」と、指を折って数え上げなければならないほどにも、わんさかわんさかと出没しているのである。
 こうした歌壇の現状を鑑みますれば、つくばみらい市の米川千嘉子さんのご邸宅のお庭の「夏の木」は、あまりにも「悔しいから」日増しに「濃くなる」のかも知れません。


○ 女物の傘ではすでにまにあはず蝙蝠ぬつとひろげ駆け出す
 
 本作の作者の米川千嘉子さんは、昨今、やや運動不足気味なのか、ささやかな肥満体になりかかって居られるのでありましょうか?
 だとしたら、「女物の傘ではすでにまにあはず蝙蝠ぬつとひろげ駆け出す」のも道理と言うものでありましょう。
 著名な女性歌人と言えども、還暦間近になれば、自らをカリカチュアライズして短歌の題材にすることもあるのであり、本作などはその一例でありましょう。
 

○ パルスオキシメーターの電池終はりたり入れ替へ可能はあはれのひとつ (群馬)渡辺松男
 

 本作の作者・渡辺松男さんは病気療養中であり、四六時中、件の「パルスオキシメーター」なる医療器具に自らの命を預けているのでありましょう。
 だとしたならば、本作は「ご自身の命を預けているものが、電池の入れ替えに因って作動したり作動しなくなったりする医療器具でしか無かったと知った時の、入院患者の愕然とした気持ちを詠んだ作品」でありましょう。
 ところで、件の「パルスオキシメーター」とは、「指先や耳などにセンサーを被せて、睡眠中の体内の酸素飽和度を計測する医療器具であり、病院などの医療機関に於いては、入院患者や麻酔手術を受けている患者が、睡眠時に無呼吸状態にあるか否かを診断する目的で使用する」という事である。


○ この家を出でずに終はる連日をあまり不幸とおもはず秋へ

 ご病気療養も長きに亙れば、その状態に置かれているのが自らの常体と思うようになり、ご自身がその状態に置かれている事を格別に「不幸」な事だ、と思わなくなるのでありましょう。

 
○ あ、いいぞお、走れ 甲子園のテレビの前の去年の父のこゑ (小金井)梅内美華子

 一首の眼目は、名詞「去年」に在り。
 去年の今頃はあんなにも元気であった父が、今は亡き人になってしまったのでありましょう。


○ 亡き人に加はりし父 灯籠の一つとなりて暗き水ゆく

 「亡き人に加はりし父」という上の回想句の後に「灯籠の一つとなりて暗き水ゆく」という嘱目句を付け加えて成り立っている一首である。 
 やや文意不明瞭ながら、末尾七音の「暗き水ゆく」が一首の眼目である。


○ ありの実やぶだうのにほふ秋となりもてあます洋なし型となる身を (東京)草田照子

  本作の作者・草田照子さんは昭和19(1944)年5月26日ご生誕でありますれば、既に後期高齢者と呼ばれる年齢に達して居られましょう。
 して、彼女は、お写真で拝見する限りに於いては、なかなかの美形かと存じますが、女性の体型も後期高齢者ともなりますると、或いは「洋なし型」の様相を呈するに至るのでありましょうか?


○ 行き交ひの旅人から本を没収し図書館を成せり古代アレクサンドリア (大和)松本典子

 本作に接するを得て、私はまた新たなる知識を得るに至りました。
 大和市にお住まいの松本典子さん、この度は真に有り難く存じ上げます。


○ 鹿ケ谷のフランス料理店に飲む赤葡萄酒(ブァン・ルージュ)くらくさざなみだてり (京都)中津昌子

 京都・東山の「鹿ケ谷」と言えば、彼の平家一門の全盛時に、藤原成親・西光・俊寛らの平家の政治に不満を抱く輩が集まり平氏打倒の謀議が行われた所である。
 その「鹿ケ谷のフランス料理店に飲む赤葡萄酒」が「くらくさざなみだてり」とは、穏やかならぬ出来事ではありませんか!


○ ベランダのわたしを恋した烏ゐてむかひの屋根に今日も見つめる (東京)石井照子

 本作も亦、前述の米川千嘉子さん作と同様に、自らをカリカチュアライズして詠んだ作品でありましょう。
 薹が立った女性歌人と言うものは、一首の傑作をものする為には、如何なる犠牲を払う事にも躊躇う事が無い、という事でありますが、という事になりますと、私たち男性はなかなかゆっくりもして居られません。


○ うっすらと悲哀のような雲が垂れ落蟬おおう静けさのあり (東京)鷲尾三枝子

 「雲が垂れ」ている様の直喩としての「うっすらと悲哀のような」という表現がなかなか宜しい。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。