臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の「朝日歌壇」から(11月21日掲載分・其のⅠ)北方四島以南、本日早朝、特出し堂々大公開!

2016年12月01日 | 今週の朝日歌壇から
 「歌人の稲葉京子さんがご逝去」との記事が今朝の朝日新聞の第三十八面に掲載されていました。
 稲葉京子さんと言えば、彼女の第一歌集である『ガラスの檻』所収の「街は今日なにをかなしむ眼球なき眼窩のやうな窓々を開き」、「いとしめば人形作りが魂を入れざりし春のひなを買ひ来ぬ」などのメルヘン的、叙情的な作品は、不肖・私などには、詠もうとしても詠めるものではありません。
 こうした彼女の作品が、昨今の若手の歌人(実質的には、歌人ちゃん)から、「リアルじゃない」、「オカルト的」、「通俗的」といった批判が為されているとのことであり、ここ数年間の彼女の存在は、中部短歌会顧問の実力派歌人とは名ばかりで、歌壇的には殆ど逼塞状態に置かれて居りました。
 しかしながら、あのような叙情的かつ韻律の整った作品は、昨今の歌人ちゃんどもには、逆立ちをしても詠めるはずはありません。
 謂れのない非難を浴びながらも、その存在価値が薄れがちな短歌結社「中部短歌会」の土台を支えて来た、彼女のご努力には深く敬意を表したく、この度のご逝去に当たっては、衷心より哀悼の意を表する次第であります。


[永田和宏選]
○ ほなまたな言うてた奴の訃報来るほなどうしたらええんや俺は (大阪市)石田貴澄

 「ほな放っときな!」とも言うてられまへんから、ご仏前の一万円でも包んで、仏様を拝みにお出掛けになられたら如何でありましょうか!
 永田和宏先生よ!もの珍しさにだまくらかされて、こんな作品を首席に選んだ、あなた様の気持ちの程が私には知れませんぞ!


○ 初めての選挙で知ったこと一つ投票用紙はえんぴつで書く (富山市)松田梨子

  満十八歳になり、初めて投票所に足を運んだ者としての新鮮な発見を詠んだ佳作である。
 この作品をして、佳作と呼びたくないような偏窟者の鑑賞者が仮にでも居たとしたら、彼は、前掲の石田貴澄作とこの作品とを比較してみるべきである。
 大阪弁でごまかした以外には、何の取り柄もないのが前掲の石田貴澄作であり、それと比較すると、この作品には、初めて選挙権を得た十八歳の少女としての極めて新鮮な眼差しが感じられるではありませんか!
 一首の表現の中に、新鮮な発見と感動が満ち満ちているではありませんか!
 高校生や中学生の筆箱(これも死語同然?)から鉛筆が追放されてから二十年あまりになる今日、「えんぴつ」なる筆記用具に出会うのは選挙の投票所ぐらいのものでありましょうか?
 私が現役の高校教師の頃、期末試験が行われている教室でシャープペンシルを指先でくるくると廻しながら思案にくれている生徒が、よく見掛けられたものでありましたが、そんな奴らに向かって私は、「お前、試験会場でシャペンのサーカスなんかやらかしていると、碌なことにならないぞ!こないだ見た、駿台予備校の広報の記事に拠ると、模擬試験の会場で、お前らみたいにシャーペンサーカスをやらかしている受験生の89%以上は、第一志望校に受からないそうだ!」なんて揶揄ったものですが、最近の高校生の筆記具は相変わらずシャープペンシルでありましょうか?


○ 今日の母はとっても正常な母でした私を太った娘と笑う (佐世保市)近藤福代

 作中の「正常(な)」に「まとも(な)」とのルビ有り。
 変則的な「ルビ」に寄り掛かった作品は、それだけでまともな作品とは言えません。
 それは、内容がどうこうと言う問題とは別のレベルの問題でありましょう!
 それにしても、「太った娘と笑う」には、笑わせられてしまいました!
 [反歌] 正常な母が生んだる正常な私の体重120瓩


○ 妻に詫び猫には媚びて生きて行く私の中に私がいない (三郷市)木村義熙

 自らを戯画化して見せた作品ではありましょうが、昨今は、この作品にも見られるような、「私の中に私がいない」男性ばっかりで、我が国のこれから先が大いに懸念されます。
 今朝見た、朝日新聞の第一面の記事に拠ると、〈駆けつけ警護〉とやらの任務を帯びて南スーダンに派遣された我が国の陸上自衛隊員の先発隊一行が、首都のジュバに到着したそうですが、彼らは、今でこそベレー帽紛いの帽子を被って澄ました顔で居られましょうが、その裡、ニッチもサッチも行かない立場に追い込まれまること必定でありましょう。
 同記事に拠ると、今回派遣された先発隊は、青森、宮城、岩手、秋田各県の部隊から選抜された精鋭ばかりなのだそうですが、彼らも亦、三郷市にお住まいの木村義熙さんとは違った意味での「私の中に私がいない」男性なのかも知れません。
 [反歌] 国雄護との栄えある名前戴きて前線ジュバに派遣されたり


○ 帰りきて雨傘ほすとき日本の雨にもう一度右手を濡らす (アメリカ)ソーラー泰子

 「日本の雨にもう一度右手を濡らす」とは、あまりにも大袈裟な言い方ではありませんか!
 なにッ、「日本の雨」には、放射性物質が大量に混じっているから濡らしたくなかった、とでも言いたかったんですか! 
 [反歌] 帰国してタラップ降りるその時はトランプの札シャッフルしてみな


○ 古書店の本と本との隙間から出入りをする一匹の猫 (長崎市)牧野弘志

 奥村晃作氏流の「ただごと歌」と言うにも値しない凡作である!
 「『古書店の本と本との隙間から出入りをする一匹の猫』が居たから、それでどうした」って言いたくもなりますよ!
 [反歌] トランプタワーの最上階に向かってどーんと打ち込め大砲一発


○ フエリーニの「道」のラストをやうやくに諾ひ得しはつまゆきてのち (大阪市)末永純三

 フェデリコ・フェリーニ監督作品のイタリア映画「道」のラストシーンでは、「旅芸人のザンパノが海岸にやって来て、かつての自分の相棒であった頭が弱く素直な心の少女・ジェルソミーナの死を知り、絶望的な孤独感に打ちのめされ、ひとり嗚咽を漏らす」光景が描かれていた。
 本作の作者の末永純三さんは、件の「道」のヒーローの旅芸人のザンパノと同様な粗暴な男性であり、かつては、「この映画のラストシーンに見られるような光景が、自らの人生で展開されるはずがない」と思っていたのでありましたが、それが、自らの「つまゆきてのち」になって初めて、このラストシーンを「やうやくに諾ひ得」たのでありましょう。
 だとしたら、本作の作者・末永純三さんは、あまりにも頭が悪く、想像力に欠けた粗暴な男性と言わざるを得なく、斯く申す私には、今は亡き彼の奥様のことが可哀想に思われてなりません。
 一首目の作者の石田貴澄さんと言い、本作の作者の末永純三さんと言い、大阪の男性は、えてしてそうしたものなのでありましょうか?


○ 一人では戦えないんだ戦争は指揮する奴が捨て駒を操る (白井市)毘舎利道弘

 「『指揮する奴』=米軍、『捨て駒』=我が国の自衛隊」という、公式的な「反米、反戦」意識に基づいて詠まれた作品でありましょうか?
 だとしても、いささか文意不明瞭な謗りは免れません。


○ 十万年後その日本語が判るのか核廃棄物を残された人に (福岡市)渡邉健治

 「その日本語が判るのか」の「その」が何を指しているのか?
 単なる音数合わせで用いられているのか?
 それとも、強意の意味で用いられているのか?