臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今日の清水房雄鑑賞(其の6)

2010年11月15日 | 今日の短歌
○  どのベッドか嗚咽する如く読む聖書夜深くさめて吾の聞くゐる

 何処で何時、身に付けた<芸>なのかは忘れてしまったが、私も世間の例に見習って、「今日の清水房雄鑑賞」の稿を草するに当たって、それが短歌鑑賞の文の約束と言わんばかりに、毎回毎回、「『風谷』所収」などと言うことを、前置き的かつ形式的に書いてしまっているが、ふと立ち止まって考えてみると、清水房雄氏の第三歌集たるこの歌集のタイトル『風谷』が、何とその内容に相応しいタイトルであることかと思い、思わず嘆息してしまうのである。
 そのうちにブックオフの<105円棚>に並べられる運命に曝されているに違いない歌集の多くは、それをほんの思いつきで命名したと思しく、集中の一首、それもその歌集を上梓するに当たって、師匠格の風袋絡みの人物の覚え目出度き一首に出て来るだけで、その歌集に盛られているその他大勢の作品内容とも、歌集全体の主題(らしきものが在ればの話であるが?)とも何ら関わりの無いタイトルを、その表紙に、そのカバーに、その扉に、その奥付けに、でかでかと印刷しているのである。
 だが、私が、この五日間の「今日の清水房雄鑑賞」に採り上げさせていただいた六首、即ち「金持たせ帰ししあとに押黙りしばしありたる妻たちゆきぬ」、「酒屋の角まがれば雨あとの路地くらき押上三丁目君すでに亡き家」、「いつ逢ひても威勢よかりし頃の君先生をかこみわれら若かりき」、「救急車に横たへられ寒きしばしの間いたく遊離せしこと思ひゐき」、「この世代の斯かる団結の意味するもの怖れて思ふときも過ぎたり」、「金ですむ事も多いと言ひしのみ向きあひてゐて暑きまひるを」及び、今日採り上げる「東京警察病院四首」のいずれもが、それらを納めた歌集のタイトル『風谷』に相応しい内容なのである。
 救急車に乗せられて身体の底からぞくぞくと湧き上がって来る寒さを堪えながら、当面している事態から遊離している事を考えている作者。
 同士と頼み、ライバルとも思ってきた年下の歌人たちに裏切られ、自分は身動きもならない状態に置かれていたことを思って悩み、それでも、この頃はやっとその苦しい束縛状態から解放されたかな、などと甘いことを思っている作者。
 誰とも名を言えない人物からの無心を断り切れずに、なけなしの金を与えてしまい、最愛の妻からだんまりを決め込まれてしまった作者及び、だんまりを決め込んだ結果、気の弱い夫を心理的に追い込んでしまった妻。
 そして首尾よく金をせしめた招かれざる来客。
 自分は女房子供に泣いてせがまれても、そんなことは決して出来ないのに、「この世の中の事は金で済む場合もあるさ」などと嘯いて言う教育者と、例によって、そうしたご亭主の態度に不満を感じながらも、相変わらず一言も発しない細君。
 清水房雄氏の苦心の作品を掴まえて、年下の後輩でありながら、「君の短歌はつぎはぎだらけ」だなどと威張って言った友を懐かしみ、その友がかって住んでいた東京の下町中の下町<押上三丁目>の酒屋の角を曲がった所に在り、雨の後には蛞蝓だらけになってしまう路地裏の家を思い起す清水房雄氏と、その口の悪い年下の友の<小宮欽明君>とその<小宮欽治君>がかつて住んでいた湿っぽい家。
 これらの歌に登場する人も事も物も何もかもが、「風谷」の世界に住む者であり、「風谷」の中の出来事であり物である。
 これら六首の中で唯一例外的なのは、「いつ逢ひても威勢よかりし頃の君先生をかこみわれら若かりき」という作品に登場する三人の人物なのであるが、彼ら三人とて、その周りには、轟々と音を立てて寒い風が吹いていたのでありましょう。
 要するに、彼らの生きていた時代そのものが「風谷」の世界なのである。
 前置きがやたらに長くなってしまったが、そろそろ本題に戻そう。
 ここに亦、「風谷」の住人とも言うべき二人の人物が登場する。
 その住人とは、言うまでも無く、深夜の「東京警察病院」の「ベット」で「嗚咽する如く」「聖書」を「読む」患者と、自分も同じ立場にありながら、その「嗚咽する如く」「読む」「聖書」を「さめて」「聞きゐる」作者の二人である。
 「東京警察病院」とは、まさか、何か犯罪を犯したと疑わしき人物ばかりを収容する、二重ロック付きの特殊な病院では無いだろう。
 恐らくは、警察関係者の互助会か福利厚生団体が経営する病院であり、ごく善良な警察関係職員や、場合によっては、評者や作者のようなごく善良な一般市民も治療を受けに訪れたり、入院することが出来たりする病院に違いない。
 だが、この四首連作が「東京警察病院」という言葉で統括されていたりすると、そこに登場する人物の全てが、真夜中に暗いベッドの上で「嗚咽する如く」「聖書」を「読む」迷える子羊的な人物も、それに耳を傾ける教育者兼歌人も、「泣くごとき声の北京語」で自分の「病状」を「電話」で「告げいるらしき」謎の人物も、「個室にうつされてゆく」に当たって、療養の友の「ひとりひとりにあいさつ」をしている「老いびと」も、登場する者の全てが、何か残忍な犯罪を犯して、その罰として、地獄の入り口の三途の河原で不毛の<石積み>をさせられている人物のように思われてならないのである。
 またまた、脱線してしまったが、この一首について述べると、四句目の「夜深くさめて」という表現が要注意である。
 「嗚咽する如く読む聖書」は、本作の作者たる「吾」が、単に痛みに堪えきれずに「夜深く」目覚めて聴いているだけのことであったならば、この作品の下の句は、おそらくは「夜深く覚めて吾の聞くゐる」であったに違いない。
 それがそうならずに、「夜深くさめて吾の聞くゐる」となったのは、「嗚咽する如く」「聖書」を読んでいる人物と同じ立場にある作者には、「人の弱みに付け込んで、イエス・キリストの廻し者の奴らは、可哀想な迷える子羊を騙しおって」といった穏やかならぬ気持ちが在ったのかも知れません。
 もう少し駄弁を弄しますが、私はかつて<横浜警友病院>という警察関係の総合病院で健康診断を受診したことがある。
 その時は、私は必ずしも<教員不適格者>とか<犯罪者>としてその病院に連れて行かれたのでは無く、私の雇い主の神奈川県教育委員会からの指示によって、私以外の大勢の善良かつ良識ある先生方と一緒に、<横浜警友病院>で健診を受診したのでありましたが、実を申し上げますと、その時の私には、心中穏やかならぬものが在ったことを、此処に包み隠さず報告させていただきます。
  〔返〕 祈るとも恨むとも無く呟ける聖書読む声深夜に響く   鳥羽省三


○  泣くごとき声の北京語病状を告げゐるらしき長き電話に

 ここにも「風谷」からの冷たい風が轟々と音を立てて吹いているのである。
 あの「北京語」は、本当は、産業スバイや麻薬取引の暗号なのでは無いかしら、などとも思ったりしてしまいます。
 私も亦、深夜の院内の公衆電話で、あと幾許も無い自分の命や病状について、細々とした声で告げていた声を聞いたことが何回かありました。
  〔返〕 入り婿で<おべこ>の名ある彼がせし真夜の病舎のケータイの声   鳥羽省三
 作中の「おべこ」とは、<知ったか振りをする者>を蔑視して言う東北方言である。 彼の博識振りに嫉妬心を抱き、彼が某家の「入り婿」であることを密かに軽蔑していた周囲の者から「おべこ」という在り難く無いあだ名を奉られていたS氏は、私のかつての知人でありましたが、私が郷里の病院に入院していた時期に、彼も三回目の癌摘出手術とかで入院中で、彼が真夜中に病廊の片隅で何処かに電話をしている声を耳にしたことが何回かありました。
 私が退院した後間も無く、彼はあの世に旅立ちましたが、あの時の彼の切々たるケータイの話し声は今でもまだ、私の耳底にこびり着いているような気がします。
 その後、たまたま聴いたところに拠ると、彼はその病気とそれが原因の失業ゆえに、婚家の家付き娘の奥さんとの仲が必ずしもすっきりと行っていなかったとのことでした。
 されば、彼があの入院中の、あの真夜中に掛けていたケータイ電話の話し相手は、いったい何処の何方だったのでありましょうか?


○  西の窓におこる讃美歌八月の十五日今日は日曜日にて

 本作が詠まれたのは、昭和四十六年の真夏と思われる。
 あれから二十六年後の暑い夏の盛りに、あの日のことを、本作の作者は、「西の窓に」突如「おこる讃美歌」によってまざまざと思い知らされたのである。
 詠い出しの「西の窓に」という表現は、真夏の西日の暑さを思わせると同時に、突如「讃美歌」が起こるに相応しい環境としての<西方>を意味するものでありましょうか?
 それはそれとして、その「讃美歌」に耳を傾けている作者は戦争体験者であるから、その「讃美歌」の歌い声を耳にすると同時に、彼の心はあの「八月の十五日」の世界に運ばれて行ってしまい、自分がやはり「風谷」の住人であることを意識せざるを得なかったのでありましょう。
  〔返〕 ナースらも唄っているか讃美歌を聖母の如き淡き胸して   鳥羽省三 


○  個室にうつされてゆく老いびとが一人一人にあいさつしたり
 病状が好転して「個室にうつされてゆく」などということは先ず在り得ない。
 入院患者が相部屋から個室に移されて行く場合は、その人が大金持ちであるとか、身辺を警護しなければならない大物政治家であるなどの特殊な場合を除いては、手術後で特殊な加療を要する場合とか、もはや手の施しようが無いほどに病状が悪化している場合などでありましょう。
 したがって、その「老いびと」は自分の残り少ない命を知って、今生の別れのつもりで、それまでの病床仲間の「一人一人にあいさつ」しているのでありましょう。
 「あいさつ」をする「老いびと」とそれを受ける同室の患者仲間。
 そして彼ら患者に同じ立場でその様を熟視している作者の心の中には、一様に「風谷」からの激しく冷たい風が轟々と吹き荒れているのでありましょう。
  〔返〕 握りたる力の弱き掌に残り少なき命感じる   鳥羽省三


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。