臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(11月14日掲載・其のⅠ)

2010年11月16日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○ 猿二頭わっさわっさと木を揺らす廃屋なればそれさえうれし  (飯田市) 草田礼子

 佐佐木幸綱選の五席にも選ばれているこの佳作を、選者・馬場あき子氏が二句目の「わっさわっさと」という擬態語の珍しさに惹かれて一席に推した、と私は思いたく無い。
 「わっさわっさと」という擬態語自体はそれほど珍しくは無く、馬場あき子氏がこの作品を推した理由はもっと別のところに在るのだと私は思っているのである。
 「猿二頭わっさわっさと木を揺らす」といった光景は、人間側から見れば、今は「廃屋」となっている家の住人が社会条件や自然条件との戦いに敗れてその場を逃げ去り、その後に人間よりも野性的で逞しい猿どもが現れ、それを戒めたり邪魔したりする者がいない事を<これ幸い>とばかりに、思う存分暴れ回っている無惨な光景であり、作者・草田礼子さんは、その無惨さを十分に解っていらっしゃるのでありましょう。
 しかしながら、作者は、自分の住む周辺の村々が過疎地と化し、若い人が次第に居なくなり、やがては取り残されたようにして其処に細々と暮して居た高齢者の方々も死に絶えてしまい、かつての人間の住居が「廃屋」と化してしまった過程の一部始終を見て来ていらっしゃるから、「猿二頭」が「廃屋」の庭の「木」を「わっさわっさと」「揺らす」風景、「それさえ」もこの場合は「うれし」とお感じになられたのでありましょう。
 そして、選者・馬場あき子氏も亦、本作をお詠みになった草田礼子さんの、そうした微妙な心の動きを見通す事が出来たのでありましょう。
  〔返〕 重機にてがっさがっさと屋根壊す廃屋なれど見るに耐えない   鳥羽省三
 女々しくも再三述べるようではあるが、私たち夫婦は、退職金のほとんどを叩いて建てた田舎の家を、たった八年間住んだだけで、涙さえ流れ出ないような捨て値で人手に渡して来た。
 しかし一時は、その涙金さえも出す人が現れずに、その家ごと所属地の市役所に物納してしまおうとさえ思ったほどであり、それが叶わなかった場合は、原野に還して犬猫や鼬狸などの遊び場になってしまうのかな、などと思ったりもしたのである。
 そんな私にとって、この作品は頗る共感の湧く作品である。
 世間では、「退職後の田舎暮らしの楽しみ方」などという呑気なタイトルの本が売られているが、田舎暮らしの現実は、都会暮らしに慣れた人間を寄せ付けない程に厳しいのである。
 ここ数週間はそういうことも無くなったが、つい先日までは、妻の親友の一人が、その持ち前の無類の親切心から、かつての我が家の顛末について電話して来て、「昨日、あなたの家の前を通ったら葡萄棚が壊されていて、その跡地を二台分の車庫にでもする気なのかしら、コンクリートの基礎工事が行われているみたいだった」とか、「昨日あなたの家の駐車スペースに小型トラックが止まっていて、その荷台には、何に使うのかは知んないけど、木材が積まれていた。二階の上がり口の広間を子供用の小部屋にでも改造するのかしら?」とかという、ホットなニュースを齎して下さって、未だに諦めのつかない私をやきもきさせて下さいました。
 その親切な女性のお名前は<Y・R>さん。
 <Y・R>さん、やきもきさせて下さって本当に有り難うございます。
 離れて住んでみるまでも無く、あなたの無類の人の良さと親切心は、この不人情の権化のような鳥羽省三にも十二分に解ります。
 でも、あなたからのその電話に接する度に、この鳥羽省三は、「ああ、私たちの夢の跡を、田舎の猿どもが、寄ってたかって<わっさわっさと>やってやがるなあ」と、密かに思ったものでした。 
 <Y・R>さん、御地はそろそろ雪模様でしょう。
 お宅の玄関前に、市の除雪車がドカ雪を置いて行ったりはしませんか。
 私の家内が、あなたに内緒で<抱き帰り渓谷>と名付けていた、あの狭い部屋の襖の締め具合が悪くなったりしてはいませんか。
 川崎に単身赴任中のご子息さまから、何かお便りがありますか。
 今年のハタハタのブリコは大きかったですか。
 そのうちに何も持たないで、私たちの新居にお出掛け下さい。
 お出掛けの節は、不肖私からの切なるお願いですから、何卒、お手料理のご披露はご無用に願います。
 それでは、お風邪など召されませんように。
  〔返〕 独り身で夕べ退かした雪の山今朝見てみればまた積もり居つ   鳥羽省三

 
○ 「MRI」異常はあらずわが脳に帽子かぶせて海を見に行く  (尾道市) 山口芳子

 作者の山口芳子さんとしては、「わが脳に帽子かぶせて」という三、四句の特異さを大いに評価して貰いたいところでありましょうか?
 だが、評者としては、其処に格別な目新しさを感じることも出来ず、かえってわざとらしい小細工感じるだけであり、その後の「海を見に行く」という平凡な表現に安らぎと救いを覚えるのである。
  〔返〕 尾道の坂は険しく帽子では脳を守れずメット被れり   鳥羽省三


○ 日当たりて柿はたわわに風ありてトランペツトの花はぶらぶら  (熊谷市) 内野 修

 猛暑の街・熊谷に秋風が吹き、柔らかい「日」が当たる中を、「柿」の実が枝も「たわわに」実り、「トランペットの花」が「ぶらぶら」と垂れ下がっているのでありましょう。
 真っ赤な「柿」の実も、「トランペットの花」も、<今年の夏の熱さにやられた疲れ>を休める為なのか、みんなみんな下を向いて「ぶらぶら」しているのである。
  〔返〕 熊谷に証城寺の無きが惜しまるるたんたん狸もぶらぶら出来ぬ   鳥羽省三
 馬場あき子氏の選評に「童画性がいい」とあり、一見ふざけ過ぎとも思われるこの返歌は、その選評に応えようとして、一所懸命に熟慮して詠んだ作品でありますから、何卒、ご容赦下さい。


○ 疲れての旅のおわりの大垣に芭蕉に代わり酒少し飲む  (八王子市) 相原法則

 「大垣」は「おくのほそ道」の結びの地であり、「駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊行父子、其外したしき人々日夜とぶらいて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたわる」とその感激を述べ、それに続いて、「旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の迂宮おがまんと、又舟にのりて、蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と、旅日記を結んでいる。
 「大垣」には十五日間滞在し、地元の俳人たちと俳莚を重ねた後、また新たな目的地・伊勢に向けて出立した。
 「大垣」の酒と言えば、五明酒類醸造の<柿正宗>と三輪酒造の<白川郷>、そして宮脇酒造の<磯波>など、いずれも地酒の域を出ない小規模な酒蔵である。
  〔返〕 みちのくの旅の結びの大垣の菊の膾は少し酸っぱい   鳥羽省三   
 返歌中の「菊の膾」と松尾芭蕉との関わりについては、諸家のご研究成果をご覧下さい。


○ 芋の葉に蜂が来ている芋の葉の芋虫ねらう蜂が来ている  (館林市) 阿部芳夫

 ど素人の私などから見ると、「芋の葉」及び「蜂が来ている」の繰り返しが勿体無いとも思われ、煩わしいとも思われるのだが、阿部芳夫さんというベテラン歌人がこれを佳しとしてご投稿なさり、馬場あき子という超ベテラン選者がこれを傑作として入選作の一首としてお選びになられたのであるから、それはそれで宜しいのでありましょう。
 しかし、短歌歴の浅い者が、語句の重複する、このような作品を傑作だと信じて投稿するような場合は、先ず考えられません。
 思うに、阿部芳夫さんクラスのベテラン歌人ともなれば、「私が佳しとして投稿した短歌は、即傑作なのだ。誰が何と言おうとも、私が熟慮して選んだ表現は、その短歌にいちばん相応しく優れた表現なのだ」といったお気持ちなのでありましょうか?
 と、すると、短歌とは底の知れない文芸様式である。
  〔返〕 パチンコ屋にYが来ているパチンコ屋で小遣い稼ぐとYが来ている   鳥羽省三
      パチンコ屋にYが行かないパチンコ屋の開店日なのにYが行かない     々
 そんな事もありましょうな。
 なお、返歌中の人物「Y」とは、決して私の親戚縁者ではありません。


○ ピッカピカに光ってるひいばあちゃんの新米今日は私がとぐよ   (富山市) 松田わこ

 <米をとぐ>ことを<お米を洗う>などと言う馬鹿ママが居るのだが、<出来過ぎ姉妹>の妹さんともなれば、さすがにそんな馬鹿なことは言わずに、「ひいばあちゃんの新米今日は私がとぐよ」と言う。
 かほど然様に、富山市の<松田家>の教育は行き届いているのである。
  〔返〕 象印の炊飯ジャーも揃えたし後は田舎の新米待つだけ   鳥羽省三
 返歌中の「新米待つだけ」の「待つだけ」は、<松田家>との掛詞である。


○ PTAのママとろう下ですれちがう私のママじゃないママみたい  (富山市) 松田梨子

 高野公彦選にも採られている佳作ではありますが、私が糞真面目なだけが取り得の評者であったならば、「作中の『ママ』に告ぐ。子供たちは見ていないようで、やはり見ているものです。今日の午後、お出掛け先の学校の『ろう下』でご長女の梨子さんとばったり出会ってしまった時の『ママ』は、梨子さんの『ママじゃないママみたい』で『PTAのママ』みたいでありましたよ」などと評してお仕舞いにするところでありましょう。
 だが、私は見てくれ通りの人間でありますから、一言だけご注意申し上げます。
 PTA役員のお仕事を自分の「ママ」が引き受けていらっしゃるという現実は、小学生のお子様にとっては、積極的かつ知性的な「ママ」で誇らしい、という一面もありますが、でしゃばりで恥しらずの「ママ」で恥ずかしい、という一面も必ずあるものです。
 どうぞ、その点をお忘れになりませんように。
 そして亦、何よりもご家庭のお始末を専一に。
  〔返〕 PTAのパパと廊下ですれ違う失業中のパパが会長   鳥羽省三


○ 藻屑蟹捕る地獄籠瀬に漬ける四万十川の秋は寂しく  (四万十市) 島村宣暢

 <四万十川専門桂冠歌人>という称号を奉りたくなるような、島村宣暢さんの昨今のご活躍ぶりでございます。
 島村宣暢さんには、かくして、故郷・「四万十川」の源流から黒潮洗う太平洋に注ぐまでの風景と風俗をお詠みいただきたい。
 さすれば、近い将来、『島村宣暢作の短歌による四万十川風俗絵巻』といったタイトルの書物が現出するに違いありません。
 島村宣暢さんを措いて、他にその役目を果たせる人間はこの日本に存在しません。
 何卒宜しく。
 この作品に接した当初、「四万十川の秋は寂しく」という下の句を、私は、何か取って付けたような感じで受け取っていたのである。
 だが、よくよく考えてみると、この下の句は「藻屑蟹捕る地獄籠瀬に漬ける」という上の句と呼応して、上の句の中でも特に「地獄籠瀬に漬ける」という語句と呼応して、ただ単に「四万十川の秋」という季節の「寂しさ」を表わすだけでは無く、「藻屑蟹」というぼろぼろで哀れな「蟹」を捕らえたら最後死んでも出られないようにする仕掛けの、「地獄籠」なる非情の「籠」を「瀬に漬ける」ことを生業として生きなければならない川漁師を初めとした、四万十川畔に生きる人々全体の人生の寂しさを表わしているものと解釈するに至ったのである。
  〔返〕 違反車をとっ掴まえるを生業にする警官の暮らし侘しき   鳥羽省三
 <ネズミ捕り>にはよくやられますからね。
 「北東北のある県に往くと、<他県ナンバー>の自動車は、スピードの低速如何に関わらず必ず掴まえてやると、その機会を虎視眈々と狙っている警察官が居る」と、私の知人のMさんが仰って居られました。
 Mさん、その後、<ネズミ捕り>の被害に遭われましたか?
 貴方も私と同じように、還暦を過ぎましたから、無茶はやらないで下さい。
 そろそろ、佐賀蜜柑の最盛期ですね。
 お身体と奥様をご大切に。


○ 牛小屋の牛一斉に吼え出して主の運ぶ新藁を待つ  (前橋市) 兵藤宇亮

 「新藁」は、香しくて柔らかくて、いかにも美味しそうですからね。
 この作中の「牛」の気持ちは、本当に「新藁」を手に持って、その香りを嗅いでみた者で無ければ解りません。
  〔返〕 一頭が吼えれば牛みな吼え出して牛小屋たちまち猛猛と鳴る   鳥羽省三


○ ばりばりと毟るがごとく草を食む老いたる馬に秋静かなり  (岡山市) 奥西健次郎

 辺りの静寂と程よく調和して、「老いたる馬」の「毟るがごとく草を食む」音だけが聞こえるのである
  〔返〕 ばりばりと毟るが如き音のして<あねこ床屋>に額剃られる   鳥羽省三
 返歌中の「あねこ床屋」とは、北東北地方の田舎で、<中年以下の女性の経営する床屋>を指して言う言葉である。
 同じ女性の経営する床屋でも、還暦に達した女性の経営する床屋は、<ばばこ床屋>と軽蔑して言って、ほとんど客が寄り付かないのである。
 <あねこ床屋>の中でも特に、若くて亭主に生き別れか死に別れをした女性理髪師の経営する<あねこ床屋>の人気は異常に高く、その種の床屋に限って腕前が最悪で、彼女らは碌々研ぎもしない剃刀で恐れ気も無く、男客の額や顎などを剃るのである。
 しかしながら、今どき、わざわざ三千円以上もの料金を支払って<あねこ床屋>に出入りしている者の多くは、<あわよくば>との果敢ない望みを抱いているのであるから、例え彼の顎や額から血がだくだくと流れ出るようなことがあっても、彼の血は<あねこ床屋>の唇で一舐めして貰えばたちまち止まり、其処には何の問題も生じないのである。
  〔返〕 今頃はあねこ床屋で居眠りか母の生家の助平婿は   鳥羽省三    


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