臆病なビーズ刺繍

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 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ

2016年10月24日 | 今日の短歌
○  うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ  斎藤茂吉(『小園』より)

 『小園』は、昭和二十四年に岩波書店から刊行された斉藤茂吉の第十五歌集であり、昭和十八年年頭(茂吉・61歳)から、同二十一年一月(同・64歳)に疎開先金瓶村を去り、更なる疎開先である大石田町に赴くまでの期間の作品・782首(初版)が収められていて、昭和二十四年八月に刊行された『白き山』と共に茂吉短歌の頂点を成すと言われている名歌集である。
 掲出の一首は、その裡でも尤も巷間に流布されている作品であり、『白き山』所収の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」などと共に、斎藤茂吉の代表作品とされている名作短歌である。
 この時期に彼・斉藤茂吉が詠んだ作品が如何に充実していたかを証明する手立てとして、今、『小園』所収の彼の名作の中の数首を列挙してみると、以下の通りである。
  かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌をみづから洗ふ
  このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
  穴ごもるけだもののごとわが入りし臥處にてものを言ふこともなし
  くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ夕ぐれ
  沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
  あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり

 掲出の短歌「うつせみの〜」は「残世」と題して詠まれた連作中の一首であり、その時期(昭和20年)の作者・茂吉は、実妹・なほの嫁ぎ先である山形県金瓶村の旧家・斎藤十右衛門家の蔵座敷に居住していて終戦の日を迎えたのであるが、出征地から帰還するはずの家主・斎藤十右衛門の子息たちにその蔵座敷を明け渡さざるを得ない立場に立たされていて、文字通り「身の置き所なき」状態に置かれていたのである。
 作中の「息息」は、辞書的には「呼吸」と同じ意味であるが、本作に於いては「うつせみのわが息息を」で以て、「(行く所も住む所もなく、その上に生命力が衰えて)、細々と息を吐いている私を」といった意味に解釈されましょう。
 「息息」は「そくそく」と読むのであるが、同音の語としてこの一首の解釈の参考にしなければならないのは、形容動詞「則即(と)」である。
 形容動詞「則即と」は、「則即と悲しみが募って来た」などという例に見られる通り、「悲しみいたむさま・身にしみていたましく感じるさま」を表す語であるが、掲出の斎藤茂吉作中の「息息」は、この「則即」と同音であるが故に、作者の斎藤茂吉は、自作中の「息息」にも、「則即(と)」の意味を含めて掲出の一首を詠んだに違いありません。
 ならば、掲出の一首は「私は戦災で東京の家を失い、歌壇での地位も失い、現在、故郷・金瓶村の義弟・斎藤十右衛門の土蔵に逼塞しているのであるが、この肩身の狭い蔵座敷住まいからも間も無く追い出されようとしているのであり、しかも、現在の私は老齢であるが故にいつ死ぬかも知れない身の上である。斯くして、則即として息を吐いているだけの私の哀れな命を見つめているものは、この土蔵の窓に上って鉄格子にしがみついている蟷螂一匹だけである」といった風に解釈されましょうか。

 [反歌] 散る散らぬ紅葉に任せ吾のみは道の奥にて息息と生く  鳥羽省三
      山脈の深さ覚ゆる写し絵に命託して息息の呼吸(いき)

 上掲・二首の反歌は、本来は、山形県天童市にご在住の風流人兼カメラマンの今野幸生氏の写真ブログ「天童の家」所収の昨日の記事「蔵王紅葉6」に取材して詠ませていただいたものでありますが、本日・朝、その今野氏ご当人より、我がブログ宛てに「息息(そくそく)と/息息の呼吸(いき)/同じ意味でしょうか、違う意味なのでしょうか、教えてください」のいうコメントが入りましたので、この機会に、私の拙い作品にも登場する語「息息」の取材源となった斎藤茂吉作の紹介・解説かたがた、拙作中「息息と生く」及び「息息の呼吸(いき)」の解説をも兼ねて掲載させていただいた次第である。
 拙作、一首目中の「息息と生く」は、私としては「ハアハアと哀れな息継ぎをしながらも、やっとこさ私は命を繋いでいる」といった意味で、二首目中の「息息の呼吸」の方は、「哀れなことに、私はハアハアとやっとこさ呼吸をしながら(も生きている)」といった意味で使っているである。
 当然の事ながら、「ハアハアと哀れな息継ぎをしながらもやっとこさ命を繋いでい」たり、「哀れなことに、ハアハアとやっとこさ呼吸をしながらも生きている」存在は、作者の私・鳥羽省三であり、天童市の今野幸生氏では、決して、決してありませんから、何卒、宜しくご理解賜りたくお願い申し上げます。
 事の序でに述べさせていただきますと、今次、第二次世界大戦中に、歌人・斎藤茂吉は「国こぞる大き力によこしまに相むかふものぞ打ちてし止まん」「『大東亜戦争』といふ日本語のひびき大きなるこの語感聴け」といったような数々の戦争詠を詠み、軍部に協力し迎合していた事は、人も知る事実であるが、こうした彼の戦時中の言行が、いざ敗戦の運びとなるや、一転して非難されることになり、昭和二十一年一月発行の雑誌『人民短歌』第二号に掲載された小田切秀雄の「歌の条件」や、同年五月発行の「展望」五月号に掲載された臼井吉見の「短歌への訣別」などの評論文で以て槍玉に挙げられたことは、戦後に発行された斎藤茂吉の歌集「小園」や「白き山」に盛られた斎藤茂吉作の短歌にも大きな影響を与えたものと推測される。
 ならば、掲出の一首「うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ」に見られる語「息息」にも、その影響が見られるものと判断され、この時期の歌人・斉藤茂吉が「息息」として暮らさなければならなかったのは、単に、斎藤十右衛門家の蔵座敷から追い立てを食らって宿無しになる事に対する心配だけでは無く、老いさらばえての健康事情に加えて、戦後復興せんとしていた歌壇での位置を失ってしまう事に対しての心配なども挙げられましょう。
 斯くして、斎藤茂吉の傑作中の傑作たる「うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ」中の一語「息息」は、さまざまなる意味が含められ重なり合った意味深な一語である。








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