臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(12月16日掲載・其のⅢ・決定版)

2013年12月20日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(東京都・山内健治)
〇  くつきりと富士が見えたら十二月

 「くつきりと富士が見えたら十二月」と断言するところが潔くて宜しい。
 とは言え、今日、十二月一九日の首都圏は、あいにく昨日来の雪模様であり、首をいくら長く伸ばしても、富士山はおろか、その手前の丹沢さえも見えません。
 つい先刻、猪瀬直樹氏の東京都知事辞任の記者会見の模様がテレビ放映されていたが、あの傲慢な猪瀬氏も、「世界遺産の富士山に恥ずかしい!」と言わんばかりに平身低頭して、弁明に是れ努めていた。
 彼の口から「私は少し傲慢になっていたのかも知れません」、「私は政治家としてアマチュアでした」などという殊勝なる言葉が零れて来るとは予想だにしなかったことであるが、彼が追われるようにして辞めた後、彼の跡を襲うプロの政治家は、自公の推す「元・スケート選手」であろうか?
 それとも、民主の推す「№2女史」であろうか?
 「くつきりと富士が見えたら十二月」などと景気のいいことを仰る、山内健治さんは、東京都の住民と言っても、土方歳三の生まれ在所・多摩の日野界隈にお住いなのかも知れません。
 〔返〕  くっきりと疑い晴れたら辞めぬはず猪瀬直樹はやっぱり臭い


(泉大津市・志賀道子)
〇  紅葉狩京の駅より始まりし

 大阪府泉大津市にお住いの方がわざわざ京都まで足を運び、「紅葉狩」をすると言えば、「高尾・清滝方面」か「嵐山・嵯峨野方面」に限られましょう。
 で、泉大津市から「高尾・清滝方面」に向う場合は、「泉大津駅から南海本線で新今宮駅、新今宮駅からJR大阪環状線で大阪駅、大阪駅からJR山陽本線で京都駅、京都駅からはバス便」ということになりましょう。
 また、「嵐山、嵯峨野方面」に向う場合は、「京都駅からJR山陰本線に乗車して嵯峨嵐山駅下車」ということになりましょう。
 掲句に、「紅葉狩京の駅より始まりし」とあるが、この場合の「紅葉狩」が「高尾・清滝方面」でのそれを指すのであれば、そのスタート地点となる「京の駅」は、「京都駅」を指すことになり、「嵐山、嵯峨野方面」でのそれを指すのであれば、「嵯峨嵐山駅」を指すことになりましょう。
 ところで、掲句に限らず、俳句や短歌を鑑賞する場合、鑑賞者としては、出来るだけ事柄が明確になるような作品であって欲しいと望むものである。
 然るに。掲句の作者・志賀道子さんは、生まれつき言葉数をケチるお人柄なのかも知れませんが、「紅葉狩京の駅より始まりし」としか仰らないのである。 
 「京の駅」と言っても、さまざまな駅が在るはずであるから、「紅葉狩」のスタート地点となる駅が「京都駅」ならば、「紅葉狩京都駅より始まりし」と、「嵯峨嵐山駅」ならば、「紅葉狩嵯峨の駅より始まりし」と、言葉をケチらずに具体的に仰って欲しいものである。
 その点に就いては、如何でありましょうか?
 冗談半分に、いろいろと書き連ねて来ましたが、要は「京の駅より始まりし」では、具体性に欠けるということである。
 〔返〕  紅葉狩り京都駅から始まって嵯峨野・落柿舎・大覚寺まで


(神戸市・岸田健)
〇  ぬばたまの今宵またたく冬の星

 「ぬばたまの」の「ぬばたま」とは、「ヒオウギの種子」を指して言うのであり、「ヒオウギの種子」の「黒さ」から想を発して、「ぬばたまの」が「黒・夜・夕・宵・髪」などに係る枕詞になり、更には、夜に関わるところから「月・夢」などに係る枕詞として使われるようにもなったのである。
 ところで、掲句の「ぬばたまの」は、それを受ける語が「今宵」及び「星」以外に見当たらないのであるが、万葉以後の和歌・短歌を検証してみても、「宵」や「星」に係る枕詞として「ぬばたまの」を用いた例歌が見られません。
 短歌に枕詞を用いる、ということは、「万葉以来の和歌の伝統を踏襲する保守的な立場に身を置く」という事であり、その遣り方は、前例に則って遣る事である。
 然るに、「宵」や「星」に係る枕詞として「ぬばたまの」を用いた前例は無いのである。
 したがって、掲句に於ける「ぬばたまの」は、枕詞と言うよりも、「暗さをイメージする語」として、ただ漫然として用いられたものと判断せざるを得ません。
 となると、掲句の実質的な意味を持つ部分は、「今宵またたく冬の星」だけとなりましょう。
 俳句作者は、わずか十七音で以って、自らの意図するするところを余すこと無く表現しなければなりません。
 わずか十七音という限られた音数の中の「ぬばたまの」という五音は、如何にも無駄事のようにも思われますが?
 〔返〕  「ぬばたま」は無駄玉ならむ言葉にて「今宵またたく冬の星」のみ


(豊中市・堀江信彦)
〇  暁闇の歩に初霜の音を踏む

 「暁闇の歩に初霜の音」を「踏む」のでは無く、「暁闇の歩に初霜」の霜柱を「音」を立てて踏んだのでありましょう。
 それをそうと承知して居ながらも、「暁闇の歩に初霜の音を踏む」とした、作者の心映えを汲み取らなければなりません。
 〔返〕  暁闇の歩に初霜の音を踏み黄泉路の旅のしるべと為さむ  


(西宮市・黒田國義)
〇  大日向緋のきもの映え七五三

 「大日向」に「緋のきもの」をお召しになって、えびす宮総本社・西宮神社の境内を映え映えとして闊歩なさって居られるのは、今年三歳になるご息女様では無くて、御年・三十三歳の奥様ではありませんか?
 だとしたら、誰の為の「七五三」であったのか、判別出来なくなってしまいましょう?
 〔返〕  七五三 附け下げ姿の愛しくて娘を見ずに妻の顔見き  


(浜田市・田中静龍)
〇  雪起し石見の海に居座れる

 青森、秋田、山形、新潟といった裏日本の県の住民にしてみれば、「『雪起し』が『石見の海』に居座ったままであってくれればいいのに!」と思っているのでありましょう。
 〔返〕  雪起し石見の海に居座るは出羽百姓の願ひなりけり
 <注> 「出羽百姓」は、「でわひゃくしょう」と訓むべからずして、「でわひゃくせい」と訓むべし。 即ち、「出羽百姓」とは、いにしえの出羽国(今の山形県・秋田県)の住民の総員を指して言う言葉である。


(東京都・田治紫)
〇  もてなしは利休の心炉を開く

 教科書どおり、型どおりの語句を並べ連ねただけの作品であり、面白くも可笑しくもありません。
 〔返〕  「お・も・て・な・し」徳洲会の五千万今はあだなり猪瀬氏辞任


(芦屋市・山岸正子)
〇  少しだけ遠回りして落葉ふむ

 「その心掛けや佳し!」としなければなりません。
 〔返〕  殊更に遠回りして歩まむか今日も息災クロとお散歩



(大阪市・友井正明)
〇  大綿の暮るる御陵をさ迷ひて

 「大綿」とは、綿虫の俗称であり、俳句に於いては冬の季語である。

    日に失せし大綿影に浮かみをり    稲畑汀子
    大綿のひとかたまりに通りけり    石脇みはる
    大綿の空に紛れし白さかな      稲畑廣太郎
    大綿の浮遊銅鏡より出しか      長田等
    大綿の指にふれたる身のしまり    武藤嘉子
    大綿に弱法師われ導かる       木村杏子
    大綿を吹き放ちたる水の上      小山森生
    軽々と風の大綿流さるる       稲畑汀子
    武蔵野に大綿舞へり波郷の忌     水原春郎
    大綿の罷りいでたる能舞台      立石萌木
    大綿のただの浮遊と思へざり     杉本美智江
    大綿の日のさす方へ消えゆきぬ    小山尚子
    大綿の遊行のごとき浮遊かな     中島知惠子
    大綿の綿引きずって飛んでをり    綿谷美那
    笙の音や大綿浮ける神の庭      長谷川通子
    大綿に濡れ紙いろの日暮来る     藤岡紫水
    鐘楼門入るに大綿ついてくる     杉本美智江
    大綿の綿あたためて大夕日      花岡豊香
    大綿の失せて無聊の顔となる     水谷芳子
    大綿の出入自在に詩仙の間      中島知恵子
    大綿の俄に急ぐ意志見たり      安達風越
    図書館を出で大綿にぶつからる    小島みつ代
    大綿のついて乗り込む特急車     品川鈴子
    大綿や病棟古りし神経科       西郷利子
    大綿の行方定めぬ行方かな      橋本之宏
    大綿の瓢々然と逢ひに来し      大橋敦子
    大綿のひとつが視野を遠ざかる    佐藤淑子
    大綿を部屋に獲へて運が憑く     泉田秋硯
    大綿の飛び来て髪に溺れけり     橋爪隆
    傾ける日を大綿の惜しみとぶ     吉年虹二
    ぶつかつて大綿ふつと消えにけり   高橋将夫
    何ならむ大綿すいと流れゆき     石垣幸子
    大綿の日暮のいろを負ひ来る     岡淑子
    大綿の湧いて離れぬ面ひとつ     小形さとる
    大綿やしまひつつ売る古本屋     竹内水穂
    大綿や筆禍流罪といふがあり     小形さとる
    大綿舞ふ老いの吹く息いなしつつ   北尾章郎
    大綿の回向の舞ひと思はずや     上山永晃
    大綿や引き際が頭を離れざる     田中貞雄
    大綿や燭ささげゆく行者堂      山田春生
    先導の大綿につき行きにけり     加藤みき
    大綿のただよふ暮色鍵をさす     宮川みね子
    大綿や魂どこに輪廻する       江島照美
 〔返〕  大綿のふわふわとして手応えを感じること無く過ぎ行く師走


(横浜市・橋本青草)
〇  落葉踏み絵タイル踏んで港町

 港町・横浜の「絵タイル」と言えば、「赤い靴」に「帆船」に「黒船」に「岡蒸気」に「外人さん」に「ランドマークタワー」に「シナ服を着たおさげ髪の女の子」に「キングの塔」に「クイーンの塔」に「ジャックの塔」に「馬車道」に「汽車道」と、いろいろ様々でありますが、私も旧宅のキッチンの壁面に、それらの瀟洒な「絵タイル」を貼り詰めて、三十年余り過ごした横浜を偲ぶよすがとしていたのでありましたが、現在は、その旧宅を泣く泣く人手に渡して、川崎市の住民として淋しく暮らしております。
 〔返〕  落葉踏み絵タイル踏んで汽車道を真っ直ぐ行けば赤煉瓦街


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