[特選一席]
○ 川土手に食い込むように積まれたる煉瓦よここに鉄橋ありき (豊中市) 原 拓
個人的な思いに拘って書いているのでありますが、私は子供の頃から、「鉄橋」という言葉を聞けば、それは取りも直さず、“鉄道線路上の河川に架けられた鉄の橋”を意味するものである、と思っていたのである。
したがって、本作中の「鉄橋」もその類だと思い、本作の作者・原拓のお住いの辺りに廃線となった鉄道路線が在り、それに伴って、その路線上の川に架かっていた「鉄橋」が壊されたのだ、とばかり思っていたのである。
しかし乍ら、一般的に世間では、木で作られた橋を“木橋”と呼び、コンクリートで作られた橋を“コンクリート橋”と呼んでいるから、本作に詠まれている「鉄橋」は、必ずしも鉄道線路上の河川の上に架けられた「鉄橋」を指して言うのではないかも知れません。
そうした私個人の思いはさて措き、本作の作者・原拓さんは、今しも、ある川の「土手に食い込むように積まれ」ている「煉瓦」に向かって、「其処の川土手に食い込むようにして積まれている、お前たち煉瓦どもよ!お前たちは、原始の昔から、其処にそうして、川土手に食い込むようにして毅然として積まれているように思っているのかも知れないが、それは、お前たちの思い上がりから来る身勝手な錯覚というものである!私は、何でも知っているのだぞ!その私の記憶からすると、お前たちが其処にそうして其処に積まれたのは、そんなに昔のことではないんだぞ!お前たちがそうして澄まして積まれているその場所には、つい最近まで、お前たちよりは格段に立派な鉄橋が在ったのだぞ!私はなんでも知っているんだぞ!私はお前たちの秘密だって知っているんだぞ!」と呼び掛けているのでありましょう。
したがって、本作は、あの“だんじり”で有名な、大阪府豊中市にお住いの一人の男性・原拓さんが、ご自身の過去の記憶を語った作品であると同時に、より大袈裟に申せば、とある瞬間に、彼・原拓さんの胸中に萌した“狂気の想い”とそれを原因とする“怒りの気持ち”を述べた作品とも申せましょう。
〔返〕 取り澄まし土手を占めてる煉瓦ども!貴様の天下も永くは無いぞ! 鳥羽省三
[同二席]
○ 人は積み猪は崩して石垣のだんだんばたけにいのちをつなぐ (新上五島町) 田中光子
「人」は、山の斜面に「石垣」を積んで「だんだんばたけ」を作って「いのち」を繋ぎ、「猪」は、その「石垣」を崩して「いのち」を繋いでいるのである。
「いのちをつなぐ」という行為の、何と哀れで空しいことよ。
昨年、私が、朝日歌壇に特選一席として掲載された本作の作者の作品についての鑑賞文を当ブログ上に掲載したところ、その記事について、“長崎県民代表”と称する正体不明の人物が云々したことがあり、その“長崎県民代表”の他愛ない云々についても、別の正体不明の人物が他愛なく云々したことがありました。
彼らも亦、山の斜面に「石垣」を築いたり、その「石垣」を崩したりするような儚い行為に現を抜かしているような存在なのかも知れません。
〔返〕 現れよ!長崎県民代表よ!侠気の極みの云々をせよ! 鳥羽省三
現れよ!長崎県民代表よ!狂気の極みの云々をせよ!
[同三席]
○ 積み上げた雑草の山に雨が降りいずれの草も葉先上向く (横浜市) 菅野 等
「いずれの草も葉先上向く」と、本作の作者・菅野等さんの観察の細かさが感じられる佳作である。
思うに、刈られて、束ねられて、「積み上げ」られた「雑草」どもも、儚き“いのちを繋ぐ”営みをしているのでありましょう。
私事で大変恐縮に存じ上げますが、昨・十月十日は同じ川崎市内に居住する長男一家に於いて、次女の七五三の祝い事があり、私どもにも招待の電話がありましたが、生憎なことに、私も妻も、ここ数日、健康を損ねておりましたので欠席の運びとなりました。
次男も亦、私たち以上に体調不良とのことで欠席した様子でありました。
そういう訳で、今朝の私は、「日本中の何処に於いても儚くて空しい“命の営み”が行われている」ことを、しみじみと感じて居ります。
〔返〕 横浜で長崎県で川崎で飽く無く果敢無き命の営み 鳥羽省三
○ 川土手に食い込むように積まれたる煉瓦よここに鉄橋ありき (豊中市) 原 拓
個人的な思いに拘って書いているのでありますが、私は子供の頃から、「鉄橋」という言葉を聞けば、それは取りも直さず、“鉄道線路上の河川に架けられた鉄の橋”を意味するものである、と思っていたのである。
したがって、本作中の「鉄橋」もその類だと思い、本作の作者・原拓のお住いの辺りに廃線となった鉄道路線が在り、それに伴って、その路線上の川に架かっていた「鉄橋」が壊されたのだ、とばかり思っていたのである。
しかし乍ら、一般的に世間では、木で作られた橋を“木橋”と呼び、コンクリートで作られた橋を“コンクリート橋”と呼んでいるから、本作に詠まれている「鉄橋」は、必ずしも鉄道線路上の河川の上に架けられた「鉄橋」を指して言うのではないかも知れません。
そうした私個人の思いはさて措き、本作の作者・原拓さんは、今しも、ある川の「土手に食い込むように積まれ」ている「煉瓦」に向かって、「其処の川土手に食い込むようにして積まれている、お前たち煉瓦どもよ!お前たちは、原始の昔から、其処にそうして、川土手に食い込むようにして毅然として積まれているように思っているのかも知れないが、それは、お前たちの思い上がりから来る身勝手な錯覚というものである!私は、何でも知っているのだぞ!その私の記憶からすると、お前たちが其処にそうして其処に積まれたのは、そんなに昔のことではないんだぞ!お前たちがそうして澄まして積まれているその場所には、つい最近まで、お前たちよりは格段に立派な鉄橋が在ったのだぞ!私はなんでも知っているんだぞ!私はお前たちの秘密だって知っているんだぞ!」と呼び掛けているのでありましょう。
したがって、本作は、あの“だんじり”で有名な、大阪府豊中市にお住いの一人の男性・原拓さんが、ご自身の過去の記憶を語った作品であると同時に、より大袈裟に申せば、とある瞬間に、彼・原拓さんの胸中に萌した“狂気の想い”とそれを原因とする“怒りの気持ち”を述べた作品とも申せましょう。
〔返〕 取り澄まし土手を占めてる煉瓦ども!貴様の天下も永くは無いぞ! 鳥羽省三
[同二席]
○ 人は積み猪は崩して石垣のだんだんばたけにいのちをつなぐ (新上五島町) 田中光子
「人」は、山の斜面に「石垣」を積んで「だんだんばたけ」を作って「いのち」を繋ぎ、「猪」は、その「石垣」を崩して「いのち」を繋いでいるのである。
「いのちをつなぐ」という行為の、何と哀れで空しいことよ。
昨年、私が、朝日歌壇に特選一席として掲載された本作の作者の作品についての鑑賞文を当ブログ上に掲載したところ、その記事について、“長崎県民代表”と称する正体不明の人物が云々したことがあり、その“長崎県民代表”の他愛ない云々についても、別の正体不明の人物が他愛なく云々したことがありました。
彼らも亦、山の斜面に「石垣」を築いたり、その「石垣」を崩したりするような儚い行為に現を抜かしているような存在なのかも知れません。
〔返〕 現れよ!長崎県民代表よ!侠気の極みの云々をせよ! 鳥羽省三
現れよ!長崎県民代表よ!狂気の極みの云々をせよ!
[同三席]
○ 積み上げた雑草の山に雨が降りいずれの草も葉先上向く (横浜市) 菅野 等
「いずれの草も葉先上向く」と、本作の作者・菅野等さんの観察の細かさが感じられる佳作である。
思うに、刈られて、束ねられて、「積み上げ」られた「雑草」どもも、儚き“いのちを繋ぐ”営みをしているのでありましょう。
私事で大変恐縮に存じ上げますが、昨・十月十日は同じ川崎市内に居住する長男一家に於いて、次女の七五三の祝い事があり、私どもにも招待の電話がありましたが、生憎なことに、私も妻も、ここ数日、健康を損ねておりましたので欠席の運びとなりました。
次男も亦、私たち以上に体調不良とのことで欠席した様子でありました。
そういう訳で、今朝の私は、「日本中の何処に於いても儚くて空しい“命の営み”が行われている」ことを、しみじみと感じて居ります。
〔返〕 横浜で長崎県で川崎で飽く無く果敢無き命の営み 鳥羽省三